《宮﨑駿監督は怒り狂って書籍を引きちぎった》映画「ナウシカ2」を“危機の時代”が求めている
4/8(月) 6:12配信 文春オンライン
サブカル評論家として知られる朝日新聞記者の太田啓之氏が断言! 「世間がジブリに対して『ナウシカ2』を求めている」と言えるのは何故か――。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/1a/5ad59934c646ced2cfb40444a9391d3b.jpg)
映画「風の谷のナウシカ」が公開40周年を迎えた3月11日、宮﨑駿監督の最新作「君たちはどう生きるか」がアカデミー賞長編アニメーション映画賞を受賞した。受賞直後の記者会見で、「ナウシカっていうのはもう1回なにかやる可能性がありそうですか」と問われたスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーは 「ナウシカをもう一度、その続きをやる気があるのかって……その機は逸しましたね」 と話した。
その一方で、鈴木氏は「君たちはどう生きるか」の受賞理由として、「要するに『時代性』っていうことですよね」「映画の基本は『なんで今のこの時代にこの作品が必要なのか』それをちゃんと考えるところ」とも発言している。この発言に引きつけて言えば「ナウシカ漫画版の映像化=ナウシカ2ほど時代性があり、世間がジブリに対して求めている企画は他にはない」と私自身は考えており、宮﨑監督と鈴木プロデューサーに対してもそう訴えたい気持ちでいっぱいだ。
なぜ、時代は「ナウシカ2」を求めていると言えるのか。それを明らかにするために、まずは公開中の映画「デューン 砂の惑星PART2」と「ナウシカ」との結びつき、対比から話を始めたい。
「デューン」の原作小説は1965年刊。ひとつの異世界をまるごと新たに創造し、「人間にとって政治とは? 宗教とは?」という壮大なテーマに迫ろうとした。エコロジー(生態学)を初めて本格的に扱ったフィクションとしても知られ、SF史の中でも「古典中の古典」に挙げられる。原作小説に衝撃を受け、高校時代には巻末の膨大な用語集を暗記するほど読み込んだ私にとって、莫大な予算と人手を投じて原作の世界観の完璧な再現に挑んだ今回の映画は「ハリウッドとドゥニ・ヴィルヌーブ監督には足を向けて寝られない」と思わせるほどの極上のギフトだった。
しかしながら、公開2週目に突入したばかりの映画館では空席が目立った。全米・世界での大ヒットに対して、日本での公開第1週の興行収入ランキングは5位。この落差が生じた理由は明らかだ。外来の支配者による圧政に苦しむ人々の前に、救世主が現れる物語――。そう、この作品には「聖書の再話」という面があるのだ。
主人公ポールが数々の奇跡を行い、人々の熱狂的な支持を集めて崇拝されていく様は否が応でもイエス・キリストを連想させる。しかし、この作品における救世主はイエスのように神が遣わした存在ではなく、「ベネ・ゲセリット」という秘密結社が数千年にもわたり主人公らの属する血統を操作し、いつかは救世主が現れるという「預言」を砂漠の民の間にあらかじめ広げておくことによって生まれた「仕組まれたメシア」なのだ。ポールは自らがそうした存在に過ぎないことを熟知しており、必死にその運命を拒絶しようとするが、結局は周囲の期待に抗しきれず、「救世主」の役割を自ら演じることを決意する。その行く末には、自らの信者たちが引き起こす「宗教戦争」によって死屍累々の世界が現出することを知りながら――。つまり、この物語自体がキリスト教の辿った歴史の強烈なパロディであり、キリスト教文化圏で生きる人々の魂を理屈抜きで揺さぶるモチーフにあふれている。
宮﨑駿が1982年に漫画「風の谷のナウシカ」の、イメージの源泉の一つとしたのが「デューン」だったことは以前から指摘されてきた。アニメーション研究家・叶精二氏の著書「宮崎駿全書」によれば、「ナウシカ」の初期案である「ロルフ」「風使いの娘ヤラ」の舞台は一貫して砂漠でイメージボードには、ガスマスクをかぶり砂漠を往く剣士、砂漠を走る巨大な芋虫「サンドオーム」などが描かれており、「明らかに(「デューン」の)影響が見て取れる」としている。毒ガスを吐く菌類の森=腐海という過酷な自然の中で、大国間の抗争に翻弄されつつ生きる民衆の間で語り継がれてきた「青き衣の者」「白い翼の鳥の人」という伝承。そして戦乱の最中、その伝承を体現するかのように登場してきた少女ナウシカ――。生命にあふれた腐海と不毛な砂漠という対比はあるが、「ナウシカ」の物語構造には「デューン」と重なるところが多い。
宮﨑アニメには「ルパン三世 カリオストロの城」「魔女の宅急便」「ハウルの動く城」などの原作付き作品が多く、「君たちはどう生きるか」も、物語の骨格はアイルランド人作家のファンタジー「失われたものたちの本」からの影響が濃い。宮﨑駿の創造性は、作品自体を無から造り上げることにあるのではなく、自らが影響を受けて土台とした作品から旅立ち、まったく異なる境地へとたどり着くまでの長い長い道のりと、その到達点の高みによってこそ測られるべきものなのだ。
では、「デューン」を出発点と見なした時に明らかになる映画版と漫画版、それぞれの「ナウシカ」の到達点はどのようなものなのか。
高畑勲は「30点」と酷評
宮﨑駿は1982年から漫画「風の谷のナウシカ」の連載を始めたが、翌年にはそれを中断して映画版の制作に入り、ちょうど40年前の1984年3月に公開にこぎ着けた。当時、プロデューサーを務めた高畑勲監督は「こういう映画があたらなくては、どんな映画があたるのか」とエンターテインメントとしての映画版の出来栄えを絶賛しつつも、「宮さんの友人としてのぼく自身の評価は、三十点」と酷評した。その理由として高畑は「ぼくとしては『巨大産業文明の崩壊後千年という未来から現代を照らし返してもらいたい』と思っていたんですが、映画はかならずしもそういうふうになったとは言えない」としている。
高畑の言葉はやや抽象的だが、「デューン」と映画版「ナウシカ」を比較すればその意味は明らかだ。当時のキャッチコピー「少女の愛が世界を救う」が示すように、映画版「ナウシカ」は、自然を愛する少女が生まれ持った正体不明の不思議な力で自然との調和を取り戻し、風の谷の人々を救うという救世主譚以上のものではない。
「デューン」が「聖書」という人類の歴史に最も影響を与えてきた物語を相対化し、救世主譚自体の脱構築を目指したことに思いを致せば、映画版「ナウシカ」は出発点の「デューン」よりもむしろ後退している。確かに「王蟲」や「腐海」の描写は単調な砂漠と比べて圧倒的に豊かだが、その物語的な役割は「自然の環境浄化力の強調」という域にとどまっており、巨大な「砂蟲(サンドウォーム)」を頂点とする惑星単位の生態系の緻密な設定・描写がある「デューン」に比べて特に秀でているわけではない。
単なるエンターテインメントに留まらない「現実世界を相対化するための新たな視点」を求める受け手にとっては、映画版「ナウシカ」は物足りない作品と言わざるを得ないのだ。宮﨑監督は当時、高畑の評価が掲載された書籍を怒り狂って引きちぎったというが、激情の奥底には「作品の弱点を的確に突かれた」という苦い思いがあったのではないか。
宮﨑監督が「映画を作っている時は、もう連載を続けられないだろうと思っていた」という心境から一転して、映画版の公開から間を置かずに漫画版の連載を再開したのは、高畑からの手荒い「叱咤激励」が功を奏した面もあったに違いない。
その後も10年間にわたって描き継がれた漫画版「ナウシカ」は終盤、驚くべき勢いで映画版とは隔絶した天空の高みへと駆け上がっていく。映画版で、自然の偉大さと自己治癒力の象徴となっていた腐海は、実は「滅び去った文明が、自ら汚染した環境を浄化するために創造した人工の生態系」だったことが明らかになる。ナウシカたち現生人類も汚染された環境の中で生きられるよう遺伝子レベルから手を加えられた存在であり、浄化された環境の中では血潮を噴きだして死んでしまうのだ。スタジオジブリの鈴木敏夫氏が「映画を見て感動した人への裏切りでは」と抗議したほどの衝撃の展開だ。
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本記事の全文は「 文藝春秋 電子版 」に掲載されいています。
「文藝春秋 電子版」で読む「ナウシカ」
・ なぜナウシカは「生ける人工知能」を否定したのか《そなたが光なら光など要らぬ》
・ 《語り残した事は多い》宮﨑駿が漫画版「ナウシカ」に描いた“最後の1コマ”の真意とは?
・ 《2万4千字フルテキスト版》小泉悠×高橋杉雄×太田啓之 実はアニオタの3人が熱く語ったパトレイバー、ナウシカ、エヴァ、ガンダム
・ 《巨石が統べる異世界の正体》映画「君たちはどう生きるか」の謎を解く
4/8(月) 6:12配信 文春オンライン
サブカル評論家として知られる朝日新聞記者の太田啓之氏が断言! 「世間がジブリに対して『ナウシカ2』を求めている」と言えるのは何故か――。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/1a/5ad59934c646ced2cfb40444a9391d3b.jpg)
映画「風の谷のナウシカ」が公開40周年を迎えた3月11日、宮﨑駿監督の最新作「君たちはどう生きるか」がアカデミー賞長編アニメーション映画賞を受賞した。受賞直後の記者会見で、「ナウシカっていうのはもう1回なにかやる可能性がありそうですか」と問われたスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーは 「ナウシカをもう一度、その続きをやる気があるのかって……その機は逸しましたね」 と話した。
その一方で、鈴木氏は「君たちはどう生きるか」の受賞理由として、「要するに『時代性』っていうことですよね」「映画の基本は『なんで今のこの時代にこの作品が必要なのか』それをちゃんと考えるところ」とも発言している。この発言に引きつけて言えば「ナウシカ漫画版の映像化=ナウシカ2ほど時代性があり、世間がジブリに対して求めている企画は他にはない」と私自身は考えており、宮﨑監督と鈴木プロデューサーに対してもそう訴えたい気持ちでいっぱいだ。
なぜ、時代は「ナウシカ2」を求めていると言えるのか。それを明らかにするために、まずは公開中の映画「デューン 砂の惑星PART2」と「ナウシカ」との結びつき、対比から話を始めたい。
「デューン」の原作小説は1965年刊。ひとつの異世界をまるごと新たに創造し、「人間にとって政治とは? 宗教とは?」という壮大なテーマに迫ろうとした。エコロジー(生態学)を初めて本格的に扱ったフィクションとしても知られ、SF史の中でも「古典中の古典」に挙げられる。原作小説に衝撃を受け、高校時代には巻末の膨大な用語集を暗記するほど読み込んだ私にとって、莫大な予算と人手を投じて原作の世界観の完璧な再現に挑んだ今回の映画は「ハリウッドとドゥニ・ヴィルヌーブ監督には足を向けて寝られない」と思わせるほどの極上のギフトだった。
しかしながら、公開2週目に突入したばかりの映画館では空席が目立った。全米・世界での大ヒットに対して、日本での公開第1週の興行収入ランキングは5位。この落差が生じた理由は明らかだ。外来の支配者による圧政に苦しむ人々の前に、救世主が現れる物語――。そう、この作品には「聖書の再話」という面があるのだ。
主人公ポールが数々の奇跡を行い、人々の熱狂的な支持を集めて崇拝されていく様は否が応でもイエス・キリストを連想させる。しかし、この作品における救世主はイエスのように神が遣わした存在ではなく、「ベネ・ゲセリット」という秘密結社が数千年にもわたり主人公らの属する血統を操作し、いつかは救世主が現れるという「預言」を砂漠の民の間にあらかじめ広げておくことによって生まれた「仕組まれたメシア」なのだ。ポールは自らがそうした存在に過ぎないことを熟知しており、必死にその運命を拒絶しようとするが、結局は周囲の期待に抗しきれず、「救世主」の役割を自ら演じることを決意する。その行く末には、自らの信者たちが引き起こす「宗教戦争」によって死屍累々の世界が現出することを知りながら――。つまり、この物語自体がキリスト教の辿った歴史の強烈なパロディであり、キリスト教文化圏で生きる人々の魂を理屈抜きで揺さぶるモチーフにあふれている。
宮﨑駿が1982年に漫画「風の谷のナウシカ」の、イメージの源泉の一つとしたのが「デューン」だったことは以前から指摘されてきた。アニメーション研究家・叶精二氏の著書「宮崎駿全書」によれば、「ナウシカ」の初期案である「ロルフ」「風使いの娘ヤラ」の舞台は一貫して砂漠でイメージボードには、ガスマスクをかぶり砂漠を往く剣士、砂漠を走る巨大な芋虫「サンドオーム」などが描かれており、「明らかに(「デューン」の)影響が見て取れる」としている。毒ガスを吐く菌類の森=腐海という過酷な自然の中で、大国間の抗争に翻弄されつつ生きる民衆の間で語り継がれてきた「青き衣の者」「白い翼の鳥の人」という伝承。そして戦乱の最中、その伝承を体現するかのように登場してきた少女ナウシカ――。生命にあふれた腐海と不毛な砂漠という対比はあるが、「ナウシカ」の物語構造には「デューン」と重なるところが多い。
宮﨑アニメには「ルパン三世 カリオストロの城」「魔女の宅急便」「ハウルの動く城」などの原作付き作品が多く、「君たちはどう生きるか」も、物語の骨格はアイルランド人作家のファンタジー「失われたものたちの本」からの影響が濃い。宮﨑駿の創造性は、作品自体を無から造り上げることにあるのではなく、自らが影響を受けて土台とした作品から旅立ち、まったく異なる境地へとたどり着くまでの長い長い道のりと、その到達点の高みによってこそ測られるべきものなのだ。
では、「デューン」を出発点と見なした時に明らかになる映画版と漫画版、それぞれの「ナウシカ」の到達点はどのようなものなのか。
高畑勲は「30点」と酷評
宮﨑駿は1982年から漫画「風の谷のナウシカ」の連載を始めたが、翌年にはそれを中断して映画版の制作に入り、ちょうど40年前の1984年3月に公開にこぎ着けた。当時、プロデューサーを務めた高畑勲監督は「こういう映画があたらなくては、どんな映画があたるのか」とエンターテインメントとしての映画版の出来栄えを絶賛しつつも、「宮さんの友人としてのぼく自身の評価は、三十点」と酷評した。その理由として高畑は「ぼくとしては『巨大産業文明の崩壊後千年という未来から現代を照らし返してもらいたい』と思っていたんですが、映画はかならずしもそういうふうになったとは言えない」としている。
高畑の言葉はやや抽象的だが、「デューン」と映画版「ナウシカ」を比較すればその意味は明らかだ。当時のキャッチコピー「少女の愛が世界を救う」が示すように、映画版「ナウシカ」は、自然を愛する少女が生まれ持った正体不明の不思議な力で自然との調和を取り戻し、風の谷の人々を救うという救世主譚以上のものではない。
「デューン」が「聖書」という人類の歴史に最も影響を与えてきた物語を相対化し、救世主譚自体の脱構築を目指したことに思いを致せば、映画版「ナウシカ」は出発点の「デューン」よりもむしろ後退している。確かに「王蟲」や「腐海」の描写は単調な砂漠と比べて圧倒的に豊かだが、その物語的な役割は「自然の環境浄化力の強調」という域にとどまっており、巨大な「砂蟲(サンドウォーム)」を頂点とする惑星単位の生態系の緻密な設定・描写がある「デューン」に比べて特に秀でているわけではない。
単なるエンターテインメントに留まらない「現実世界を相対化するための新たな視点」を求める受け手にとっては、映画版「ナウシカ」は物足りない作品と言わざるを得ないのだ。宮﨑監督は当時、高畑の評価が掲載された書籍を怒り狂って引きちぎったというが、激情の奥底には「作品の弱点を的確に突かれた」という苦い思いがあったのではないか。
宮﨑監督が「映画を作っている時は、もう連載を続けられないだろうと思っていた」という心境から一転して、映画版の公開から間を置かずに漫画版の連載を再開したのは、高畑からの手荒い「叱咤激励」が功を奏した面もあったに違いない。
その後も10年間にわたって描き継がれた漫画版「ナウシカ」は終盤、驚くべき勢いで映画版とは隔絶した天空の高みへと駆け上がっていく。映画版で、自然の偉大さと自己治癒力の象徴となっていた腐海は、実は「滅び去った文明が、自ら汚染した環境を浄化するために創造した人工の生態系」だったことが明らかになる。ナウシカたち現生人類も汚染された環境の中で生きられるよう遺伝子レベルから手を加えられた存在であり、浄化された環境の中では血潮を噴きだして死んでしまうのだ。スタジオジブリの鈴木敏夫氏が「映画を見て感動した人への裏切りでは」と抗議したほどの衝撃の展開だ。
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本記事の全文は「 文藝春秋 電子版 」に掲載されいています。
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