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【書評】マン・マシンの昭和伝説 上下(前間孝則著)

2022-10-27 | 論評、書評、映画評など
【書評】マン・マシンの昭和伝説 上下(前間孝則著)
 この本は、月に2、3回は訪れる図書館で見つけ借り出した、上下巻それぞれ500ページ程度とかなりぶ厚い本だ。その内容は、先の戦争から昭和末期に掛けて、航空技術者達が自動車開発に如何に関わったかをテーマとしている。

 そもそも、航空機と自動車というのは、非常に関連性があり、これは日本だけのことではなく、ドイツではBMWなど元来航空機エンジン屋だった。同社のエンブレムは、青白に十文字に塗り分けられた円形エンブレムだが、これは空飛ぶプロペラをモチーフとしている。

 また、航空機と自動車の関連だが、そもそも最初に航空機に採用されて、その思想、機構、アイデアが自動車に移行して云ったと云うことだろう。と云うのも、航空機の場合、軍用兵器としてコスト度外視で性能を追求したり、民間機でも自動車に比べれば遙かに生産数は少なく、単価が高額でコスト制限が緩いということがあるのだろう。

 この本で知る、航空機から自動車屋になった技術者は数多いが代表となるのは以下の3名だ。

➀中川良一
 1913年4月27日-1998年7月30日(85没)、東京帝国大学・工学部卒で中島飛行機に勤務、20台前半で栄エンジンの改良設計に携わりその後、誉エンジンの基本設計を担う。戦後は旧中島系列の富士精密工業(のちのプリンス自動車工業)にて、自動車技術者としての第二の人生を開始し、特に「エンジン屋」として、プリンス技術部門を統括していく事となる。プリンスと日産の合併後後も、技術部門を統括する立場として、日産最終は副社長に至る。

②長谷川龍雄
 1916年2月8日-2008年4月29日(95没)、東京帝大・航空学科卒で、立川飛行機に勤務、キ94という高々度戦闘機の開発を進めるが観戦することなく敗戦。その後トヨタ自動車に勤務。初代トヨエースの主査から始まり、その後パブリカ、S800、初代カローラ、初代セリカ・カリーナなどの開発主査を歴任。トヨタ最終は専務取締役。 

③中村良夫
 1918年9月8日-1994年12月3日(76没)、東京帝国大学工学部航空学科(原動機專修)卒で中島飛行機勤務。戦後、日本内燃機製造(後の東急くろがね工業、現・日産工機)に転職。その後1958年3月にホンダに勤務した。ホンダでは同社初の4輪車となるS500やT360といった市販車の開発の指揮を執る一方、同社初のF1チームの監督となり、1964年よりスタートしたホンダのF1参戦の責任者となる。その後、ホンダの欧州駐在員となるが、これはF1活動他において本田宗一郎とあまりにも激しく対立したため、日本にこのまま居て、ホンダを去らねばならないのを危惧した上位職の配慮によると云う。帰国後は同社常務を経て、1977年に特別顧問に退く。その後も、F1などのモータースポーツに関する批評活動も展開し、数多くの著書を残した。三栄書房の自動車雑誌『モーターファン』にコラム連載を持ち、1994年に死去するまで連載を続けた。この中村のモーターファン掲載の「クルマよ こんにちは」は、ずいぶん感心を保ちつつ読んだものだ。


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