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【書評】武士道と日本型能力主義

2021-05-15 | コラム
 この本は、260年余も続いた江戸時代の武士たる宮仕え者が、多くの現代人が想像する一方的な封建社会でなく、場合によっては、上役や主君の言葉に諫言(かんげん:いさめる言葉)したり、それでも聞き入られない場合は主君押込(更迭し座敷牢などに入れる)ということが、全国あまたの藩であったということが記されている。

 これらの事象を知る時、比較的近年の驚愕すべき2つの事件を思い浮かべた。
 1つは、東北大震災(2011/3/11)の揺れと大津波により生じたとされる、東電・福島第一原発の巨大事故のことで、未だすべての収束が見えない巨額損失が生じ続けている件だ。同原発の1~4号機までが、何故全電源喪失に至ったのか? 一時電源の送電塔の倒壊に対する二系統の給電は何故なされなかったのか? 一時電源喪失時の非常用電源設備は、何故地下に設置されたままで建設から40年を経ても、高所に移転がなされなかったのか?

 そして、もう一つは2015/9/18・米国で発覚したVWディーゼル排気ガス不正問題の件だ。この件は、米国内のVWディーゼル対象車全数の買取金や制裁金、そして米国外のささやかなリコールで濁して収束されたが、その負担額は2兆円を超えるとも伝えられる。民事的な賠償や行政罰としての制裁金は収束したが、いわゆる詐欺罪に等しい行為としての刑事罰については東電福島原発と同様に企業幹部が起訴したが、どうやら追求しきれぬ様相も同様だ。しかし、これだけの巨大企業が、かくも破廉恥な行為をしでかすことになったのに、暴走を止める人材が居なかったのか? と訝(いぶか)るばかりだ。

 また、従来の多くのイメージでは、幕府官僚(菅史)の役職は、世襲の禄高(ろくだか)のクラスに応じ、ほとんど動かないものと思いがちだが、足高制というものが取り入れられたという。つまり、能力はあるが、禄高が少なく適する要職に就けない場合、在職中のみ、役職に応じた禄高の不足分を役料として幕府なり個別藩が補う制度だ。これにより、世襲による人材の固定可が招くこと必置となるだろう組織の衰退を補っていた。こんなことを知ると、現代の国会議員とかの中で散見される二代目、三代目などの、議員が半ば家業化しているんじゃなかろうかという疑念も湧いてくる。

 著者は、バブル崩壊後の多くの企業等で給与から除外されてしまった年功序列制のことを、年功というその業を続けることによる功の部分を、欧米型の個人主義一辺倒のグローバルスタンダードに沿わないという理由で否定したのだが疑問を感じる主旨での論を述べている。

 また、そもそも論となるが、現在取り入られている「内部通報制度」だが、否定する訳ではないが、何かスッキリ感がないとも記している。想像するに、裏からチクルだとか、旧来の武士道で尊ばれたという正々堂々という精神とは乖離しているといいたいのだろうが同感を思うところだ。


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