クルマと触れあって来た半世紀を振り返って
筆者は半世紀(50年)というとちょっとオーバーだが、四捨五入すると半世紀に及び、クルマと触れあって来た。そんな中思うところを書き留めてみたい。
この半世紀のクルマの歴史を振り返ると、3つの区分ができると思える。以下の3つだ。
①最初期は排出ガス対策(ガソリン)が行われる昭和53年からしばらく昭和50年代後半までの期間。
②それ以降の昭和60年代から平成10年代位までの、クルマの基本機能たる「走る、曲がる、止まる」の基本機能の熟成と衝突安全(パッシブ&アクティブセーフティ)を高めた期間。
③平成20年以降の、やたらクルマの原価低減に製造者が注力し、付加価値としてアクティブセーフティを追求する現代に至る時代。
と、この様に個人的には3区分に分けて考えているのだが、正直、クルマを操縦して楽しみ、その気落ち良さとしてのクルマを愛せた時代は、②までの期間だろうと思える。また、クルマを走る道具でなく、機械構造物とて評価した場合にも、その性能だとか、信頼耐久性、完成されたメカニズムの美しささとう点でも、②の期間の末期が頂点であったと思える。
極論だが③以降のクルマに魅力は持てないし、感心は薄れてしまった。つまり、コンピューターで設計し、そのデータを使ってクルマを作り、その評価もおおむね台上テストでコンピューターの統計処理上の話しとして数値的な評価を行う。現在でもテストドライバーは居るだろうが、その数は相対的に圧縮され、しかもその発言力は封殺されてしまったと云える。
このことは、過去記事で何度も記して来たが、近日生じたトヨタディーラーにおける検査の不正という多数ディーラーが処分を受けた件がある。この自動車検査員とは、国家から自動車検査の業を国家に成り代わって執行すべき者だが、今回の事件で行政処分として検査院解任という罰をうけた。この数数はカウントしていないが20名を超えるものと想定できるが、その20名全員が、悪意を持ちいいかげんな検査をしたくてしたとは到底思えない。そこには、企業としての検査員という制度への、軽視だとか、その発言力を恣意的に低下させるべき施策が行われていたとみるべきだと個人的には結論付けているのだ。
③の現在に至るクルマの話しに戻るが、やたらコンピューターを利用して、その設計、製造、評価、また完成車の制御もコンピューターを利用するのは時代の流れでもあるし、止むおえない部分もあるだろう。しかし、コスト低減を意識するあまり、ろくな評価もそこそこに、市場に出し、不具合が起きたら、コンピューターのソフトのバクでしたという理由付けだけで、対応しているのが現在のリコールの多くの事例で見られるが、果たして本当だろうかと疑いの目を持って眺めている。つまり、市販前の念入りなテスト評価を行っていれば、発見できた不具合も多いだろうし、そのリコールの本質は、ソフトウェアの問題じゃなく、ハードウェアが本質としては原因で、本来ハードウェアを設計し直さねばならないのを、ソフトウェアで制御を変えて誤魔化していると見える事案も垣間見えてしまう。
それと、自動車メーカーは、販売した車両について、なるべく安価なものとしなければならないが、これは資本主義の論理で、自然に達成できるが、一部メーカーは、ブランド化という差別戦略で、プラットフォームは同一で、若干の上っ面の装備を増やしたデラックスバージョンを別ブランドとして作り、さもまったく違う品質で高級だというイメージを祭り上げ、製造権がを遙かに超えるプライスを付けて暴利を貪る商売を始めている。極論だが、これは一種の詐欺商法に近いものがあるとすら感じている。そういうクルマを庶民は替えないが、富裕層はさも自慢そうに乗り回して喜んでいるのだから、その教養のなさが透けて見えると感じている。
もう一つ最後になるが付言しておきたいが、あまりに製造原価を追求するあまり、アフターの維持費を軽んじている思いがしてしょうがないという思いがする。つまり事例として規制歯、従来単品の個別部品の供給があったものを、ユニット部品として総合コスト優先で一体化し過ぎるあまり、従来なら単品部品の安価な部品交換だけで修理ができたものが、高価なユニット部品を替えないと修理ができないという問題だ。もっと、具体例として記せば、フラッシャを点滅させるフラッシャーリレーというのは、従来は独立した部品があったが、現在ではヒューズブロックの中の基板に装着された基板実装リレーになっているクルマが多い。従来だと部品代5千円程度で済んだものが、現代では4、5万円の部品代を要するのだ。
筆者は半世紀(50年)というとちょっとオーバーだが、四捨五入すると半世紀に及び、クルマと触れあって来た。そんな中思うところを書き留めてみたい。
この半世紀のクルマの歴史を振り返ると、3つの区分ができると思える。以下の3つだ。
①最初期は排出ガス対策(ガソリン)が行われる昭和53年からしばらく昭和50年代後半までの期間。
②それ以降の昭和60年代から平成10年代位までの、クルマの基本機能たる「走る、曲がる、止まる」の基本機能の熟成と衝突安全(パッシブ&アクティブセーフティ)を高めた期間。
③平成20年以降の、やたらクルマの原価低減に製造者が注力し、付加価値としてアクティブセーフティを追求する現代に至る時代。
と、この様に個人的には3区分に分けて考えているのだが、正直、クルマを操縦して楽しみ、その気落ち良さとしてのクルマを愛せた時代は、②までの期間だろうと思える。また、クルマを走る道具でなく、機械構造物とて評価した場合にも、その性能だとか、信頼耐久性、完成されたメカニズムの美しささとう点でも、②の期間の末期が頂点であったと思える。
極論だが③以降のクルマに魅力は持てないし、感心は薄れてしまった。つまり、コンピューターで設計し、そのデータを使ってクルマを作り、その評価もおおむね台上テストでコンピューターの統計処理上の話しとして数値的な評価を行う。現在でもテストドライバーは居るだろうが、その数は相対的に圧縮され、しかもその発言力は封殺されてしまったと云える。
このことは、過去記事で何度も記して来たが、近日生じたトヨタディーラーにおける検査の不正という多数ディーラーが処分を受けた件がある。この自動車検査員とは、国家から自動車検査の業を国家に成り代わって執行すべき者だが、今回の事件で行政処分として検査院解任という罰をうけた。この数数はカウントしていないが20名を超えるものと想定できるが、その20名全員が、悪意を持ちいいかげんな検査をしたくてしたとは到底思えない。そこには、企業としての検査員という制度への、軽視だとか、その発言力を恣意的に低下させるべき施策が行われていたとみるべきだと個人的には結論付けているのだ。
③の現在に至るクルマの話しに戻るが、やたらコンピューターを利用して、その設計、製造、評価、また完成車の制御もコンピューターを利用するのは時代の流れでもあるし、止むおえない部分もあるだろう。しかし、コスト低減を意識するあまり、ろくな評価もそこそこに、市場に出し、不具合が起きたら、コンピューターのソフトのバクでしたという理由付けだけで、対応しているのが現在のリコールの多くの事例で見られるが、果たして本当だろうかと疑いの目を持って眺めている。つまり、市販前の念入りなテスト評価を行っていれば、発見できた不具合も多いだろうし、そのリコールの本質は、ソフトウェアの問題じゃなく、ハードウェアが本質としては原因で、本来ハードウェアを設計し直さねばならないのを、ソフトウェアで制御を変えて誤魔化していると見える事案も垣間見えてしまう。
それと、自動車メーカーは、販売した車両について、なるべく安価なものとしなければならないが、これは資本主義の論理で、自然に達成できるが、一部メーカーは、ブランド化という差別戦略で、プラットフォームは同一で、若干の上っ面の装備を増やしたデラックスバージョンを別ブランドとして作り、さもまったく違う品質で高級だというイメージを祭り上げ、製造権がを遙かに超えるプライスを付けて暴利を貪る商売を始めている。極論だが、これは一種の詐欺商法に近いものがあるとすら感じている。そういうクルマを庶民は替えないが、富裕層はさも自慢そうに乗り回して喜んでいるのだから、その教養のなさが透けて見えると感じている。
もう一つ最後になるが付言しておきたいが、あまりに製造原価を追求するあまり、アフターの維持費を軽んじている思いがしてしょうがないという思いがする。つまり事例として規制歯、従来単品の個別部品の供給があったものを、ユニット部品として総合コスト優先で一体化し過ぎるあまり、従来なら単品部品の安価な部品交換だけで修理ができたものが、高価なユニット部品を替えないと修理ができないという問題だ。もっと、具体例として記せば、フラッシャを点滅させるフラッシャーリレーというのは、従来は独立した部品があったが、現在ではヒューズブロックの中の基板に装着された基板実装リレーになっているクルマが多い。従来だと部品代5千円程度で済んだものが、現代では4、5万円の部品代を要するのだ。