熱海市伊豆山に興亜観音という観音像があることは、知る方は少ないのかもしれない。ここには、先の大戦で戦犯とされた7名の遺骨が祭られているという。しかし、東京九段にある靖国神社のことは、多くの方が知っているだろう。
この地は、熱海市伊豆山の街より若干湯河原寄り、国道135号から極細い道を山手に入った場所にある。あまりにも入口が狭いので、あっという間に通り過ぎてしまうのだが、小さめの興亜観音前という看板と、路線バス「興亜観音前」のバス停がある。導入路があまりに狭く、しかも急坂になっているのが見えるので、クルマで入るのをためらうが入ると、舗装はされているが簡易舗装でデコボコが大きく道も狭いので速度を上げられないせいもあるが、ローギヤでやっと登れるという様な急坂だ。なんとか駐車場らしきところまで進入し、クルマを止めて参道を徒歩で上り始める。参道は舗装はされているが、急坂を緩和するための左右につづら折れになっているが、それでも結構急坂なのだ。入口に、「コロナ病変のために参拝を中止しています」と記してあり、ダメなら戻ろうと登り始めたのだが、ちょうど下ってきた2人の男性に出くわし「参拝できますか?」と質すと、「マスクだけ付けてれば問題ないですよ」とのことで、安堵しつつ登坂を続ける。クルマを止めた場所から、15分くらいで、ややかすれた金色の興亜観音像と初見参となった。沙汰にここから、50mほど登ったところに。割れて補修した跡がある「七士之碑」と「大東亜戦争殉国刑死一〇六八柱供養碑」というのが並んである。さらに50mほど登った最頂部に興亜観音堂がある。
最頂部の堂近くや観音像近くは、非常に遠望が効き、熱海の街や、直ぐ眼下となる伊豆山付近を通る東海道本線の線路がよく見える。参道を登る途中で、真横を写した写真で立木が垂直だとして、土地の傾斜具合は45~60度前後はある超傾斜地だと判るだろう。
先週末(9/19)に安倍前首相が靖国神社に7年ぶりに参拝したと報じられていたが、何故首相の内に参拝できないのか、中・韓政府などの非難を避けるためと云われているが、その非難の多くは先の戦犯とされる7名も含め、先の戦争の多くの戦犯者が合祀されているからだという訳だが・・・。
そもそも、この戦犯者というのは、その主体が先の戦争後に開かれた戦争犯罪人を裁いたとされる東京裁判によってA、B、Cとそれぞれの罪で有罪にされた者を指すという。それぞれの区分は以下の通りだという。つまり、ABCは、罪の種別を示すもので、罪の深さを示すものではない。
A級 平和に対する罪(戦争の計画、指令、遂行、共同謀議などの罪)
B級 通常の戦争犯罪(戦時国際法に記された諸行為・例化学、細菌兵器の使用など)
C級 人道に対する罪(軍人以外の一般を対象に行われた大量殺人など非人道行為)
なお、このABCなる種別は、先の戦争が終結後に区分されたもので、特にA級は戦争終結後に追加され、東京裁判では、主にこのA級を断罪することを目的としていた。ということで、通常の裁判では、事後法は無効というのが一般概念だが、幾ら先勝国が敗戦国を裁くという裁判として公平性は到底不可能だろうが、理由付けとしての意味だけのものだろう。
興亜観音は先の東京裁判で絞首刑とされた7名の内の一人、松井石根大将が昭和15年に建立したものだという。松井大将は、今でも中国では主張されている南京虐殺事件(昭和12年12月)の首謀者として東京裁判で裁かれたのだが、A級の嫌疑は否定されB級として絞首刑になっている。
松井が南京攻略戦の主導者として、特段の虐殺などはなくその目的を完遂したが、何かと中国寄りの思想を持つと時の軍令部の判断で更迭され昭和13年3月に帰国し軍籍を離れた。帰国しての松井は、熱海市伊豆山に自費で興亜観音を建立し、その近くに庵に建てて住み、毎朝に観音経をあげていたという。
この興亜観音に松井ら7名の遺骨が埋葬されることになった経緯は以下の通りだという。東京裁判判決後昭和23年12月23日(明仁当時皇太子の誕生日)、松井ら7名の処刑が行われた。遺体は横浜・久保山火葬場にて荼毘に付された。遺骨は、米軍の以降で遺族などに一切渡される配慮なく処理されたという。(後の偶像化を排除したかったのだろう。)ところが、なんとしても遺骨を後の世に残そうと三文字正平弁護士たちの努力により、7名分の混じった遺骨を手に入れ、興亜観音堂の住職に隠し預かってもらうことになったという。その後、昭和34年4月、吉田茂元首相揮毫による「七士之碑」が建立され、遺骨はこの下に納骨されたという。さらに、昭和35年、愛知県三ヶ根山頂に「殉国七士廟」が建立されるが、この興亜観音の遺骨を分骨して納骨した者だという。
なお、興亜観音の「七士之碑」と並んで、「大東亜戦争殉国刑死一〇六八柱供養碑」というのも納骨同年に建立
されているが、これはBC級戦犯の刑死者901柱、収容中に病死・自決・事故死・死因不明等で亡くなったABC級戦犯160柱を合わせた1,068柱の供養碑であり、さながら小さな靖国神社とも喩えられるとある。
その後の事件として記しておきたいこととして、「七士之碑爆破事件」というのが1971年(昭和46年)12月にあったという。過激派東アジア反日武装戦線(丸の内の三菱重工ビル爆破事件などを起こした極左暴力組織)が七士之碑、大東亜戦争殉国刑死一〇六八柱供養碑、興亜観音像の爆破を試みた。七士之碑は破壊されたが、導火線がショートしたため大東亜戦争殉国刑死一〇六八柱供養碑と興亜観音像は破壊を免れた。なお、七士之碑はその後有志の支援により修復されている。ということで、現在の「七士之碑」が明らかに3つ割れて繋いである痕跡は、この事件によるものだと知るのだ。
最後に、信念たる私見を記すが、およそ国の命運を掛けて戦った軍人を祭ることは、何処の国だろうが同様だろうと思える。米国ワシントンにあるアーリントン墓地は有名だが、ここには軍人30万の墓地で、彼のケネディの墓地もある。ここに代々の大統領以下多くの政治家、各国元首が額ずくのを誰も否定する者はいないだろう。政教分離が何たらとか云うが、神社は日本の天皇と深い関係があり、神話時代からの日本の歴史語る際に避けて通ることはできないものだろう。それを、たかが近代に創立し日本最大の信徒数という創*学会辺りの新興宗教と一緒にしてもらっちゃたまらんなぁというのが思いだ。だから、歴代の内閣総理大臣は参拝を避けたり、あえて終戦記念日を避けて、隠れる様にコソコソと参拝するのはあまりに滑稽だろう。
この地は、熱海市伊豆山の街より若干湯河原寄り、国道135号から極細い道を山手に入った場所にある。あまりにも入口が狭いので、あっという間に通り過ぎてしまうのだが、小さめの興亜観音前という看板と、路線バス「興亜観音前」のバス停がある。導入路があまりに狭く、しかも急坂になっているのが見えるので、クルマで入るのをためらうが入ると、舗装はされているが簡易舗装でデコボコが大きく道も狭いので速度を上げられないせいもあるが、ローギヤでやっと登れるという様な急坂だ。なんとか駐車場らしきところまで進入し、クルマを止めて参道を徒歩で上り始める。参道は舗装はされているが、急坂を緩和するための左右につづら折れになっているが、それでも結構急坂なのだ。入口に、「コロナ病変のために参拝を中止しています」と記してあり、ダメなら戻ろうと登り始めたのだが、ちょうど下ってきた2人の男性に出くわし「参拝できますか?」と質すと、「マスクだけ付けてれば問題ないですよ」とのことで、安堵しつつ登坂を続ける。クルマを止めた場所から、15分くらいで、ややかすれた金色の興亜観音像と初見参となった。沙汰にここから、50mほど登ったところに。割れて補修した跡がある「七士之碑」と「大東亜戦争殉国刑死一〇六八柱供養碑」というのが並んである。さらに50mほど登った最頂部に興亜観音堂がある。
最頂部の堂近くや観音像近くは、非常に遠望が効き、熱海の街や、直ぐ眼下となる伊豆山付近を通る東海道本線の線路がよく見える。参道を登る途中で、真横を写した写真で立木が垂直だとして、土地の傾斜具合は45~60度前後はある超傾斜地だと判るだろう。
先週末(9/19)に安倍前首相が靖国神社に7年ぶりに参拝したと報じられていたが、何故首相の内に参拝できないのか、中・韓政府などの非難を避けるためと云われているが、その非難の多くは先の戦犯とされる7名も含め、先の戦争の多くの戦犯者が合祀されているからだという訳だが・・・。
そもそも、この戦犯者というのは、その主体が先の戦争後に開かれた戦争犯罪人を裁いたとされる東京裁判によってA、B、Cとそれぞれの罪で有罪にされた者を指すという。それぞれの区分は以下の通りだという。つまり、ABCは、罪の種別を示すもので、罪の深さを示すものではない。
A級 平和に対する罪(戦争の計画、指令、遂行、共同謀議などの罪)
B級 通常の戦争犯罪(戦時国際法に記された諸行為・例化学、細菌兵器の使用など)
C級 人道に対する罪(軍人以外の一般を対象に行われた大量殺人など非人道行為)
なお、このABCなる種別は、先の戦争が終結後に区分されたもので、特にA級は戦争終結後に追加され、東京裁判では、主にこのA級を断罪することを目的としていた。ということで、通常の裁判では、事後法は無効というのが一般概念だが、幾ら先勝国が敗戦国を裁くという裁判として公平性は到底不可能だろうが、理由付けとしての意味だけのものだろう。
興亜観音は先の東京裁判で絞首刑とされた7名の内の一人、松井石根大将が昭和15年に建立したものだという。松井大将は、今でも中国では主張されている南京虐殺事件(昭和12年12月)の首謀者として東京裁判で裁かれたのだが、A級の嫌疑は否定されB級として絞首刑になっている。
松井が南京攻略戦の主導者として、特段の虐殺などはなくその目的を完遂したが、何かと中国寄りの思想を持つと時の軍令部の判断で更迭され昭和13年3月に帰国し軍籍を離れた。帰国しての松井は、熱海市伊豆山に自費で興亜観音を建立し、その近くに庵に建てて住み、毎朝に観音経をあげていたという。
この興亜観音に松井ら7名の遺骨が埋葬されることになった経緯は以下の通りだという。東京裁判判決後昭和23年12月23日(明仁当時皇太子の誕生日)、松井ら7名の処刑が行われた。遺体は横浜・久保山火葬場にて荼毘に付された。遺骨は、米軍の以降で遺族などに一切渡される配慮なく処理されたという。(後の偶像化を排除したかったのだろう。)ところが、なんとしても遺骨を後の世に残そうと三文字正平弁護士たちの努力により、7名分の混じった遺骨を手に入れ、興亜観音堂の住職に隠し預かってもらうことになったという。その後、昭和34年4月、吉田茂元首相揮毫による「七士之碑」が建立され、遺骨はこの下に納骨されたという。さらに、昭和35年、愛知県三ヶ根山頂に「殉国七士廟」が建立されるが、この興亜観音の遺骨を分骨して納骨した者だという。
なお、興亜観音の「七士之碑」と並んで、「大東亜戦争殉国刑死一〇六八柱供養碑」というのも納骨同年に建立
されているが、これはBC級戦犯の刑死者901柱、収容中に病死・自決・事故死・死因不明等で亡くなったABC級戦犯160柱を合わせた1,068柱の供養碑であり、さながら小さな靖国神社とも喩えられるとある。
その後の事件として記しておきたいこととして、「七士之碑爆破事件」というのが1971年(昭和46年)12月にあったという。過激派東アジア反日武装戦線(丸の内の三菱重工ビル爆破事件などを起こした極左暴力組織)が七士之碑、大東亜戦争殉国刑死一〇六八柱供養碑、興亜観音像の爆破を試みた。七士之碑は破壊されたが、導火線がショートしたため大東亜戦争殉国刑死一〇六八柱供養碑と興亜観音像は破壊を免れた。なお、七士之碑はその後有志の支援により修復されている。ということで、現在の「七士之碑」が明らかに3つ割れて繋いである痕跡は、この事件によるものだと知るのだ。
最後に、信念たる私見を記すが、およそ国の命運を掛けて戦った軍人を祭ることは、何処の国だろうが同様だろうと思える。米国ワシントンにあるアーリントン墓地は有名だが、ここには軍人30万の墓地で、彼のケネディの墓地もある。ここに代々の大統領以下多くの政治家、各国元首が額ずくのを誰も否定する者はいないだろう。政教分離が何たらとか云うが、神社は日本の天皇と深い関係があり、神話時代からの日本の歴史語る際に避けて通ることはできないものだろう。それを、たかが近代に創立し日本最大の信徒数という創*学会辺りの新興宗教と一緒にしてもらっちゃたまらんなぁというのが思いだ。だから、歴代の内閣総理大臣は参拝を避けたり、あえて終戦記念日を避けて、隠れる様にコソコソと参拝するのはあまりに滑稽だろう。