岸田首相も大誤算…「GDP=国の豊かさ」という前時代の妄想がもたらす深刻すぎる「弊害」
4/24(水) 7:04配信 現代ビジネス
「終わりのない成長を目指し続ける資本主義体制はもう限界ではないか」
そんな思いを世界中の人々が抱えるなか、現実問題として地球温暖化が「資本主義など唯一永続可能な経済体制足りえない」ことを残酷なまでに示している。しかしその一方で、現状を追認するでも諦観を示すでもなく、夢物語でない現実に即したビジョンを示せる論者はいまだに現れない。
本連載では「新自由主義の権化」に経済学を学び、20年以上経済のリアルを追いかけてきた記者が、海外の著名なパイオニアたちと共に資本主義の「教義」を問い直した『世界の賢人と語る「資本主義の先」』(井手壮平著)より抜粋して、「現実的な方策」をお届けする。
『世界の賢人と語る「資本主義の先」』連載第4回
『GDPはもう古い…日本がG7で提案した「新しい経済指標」のメディアが報道しない「革新的すぎる」中身』より続く
経済成長という目標は正しいのか
岸田文雄首相は2023年10月第212回臨時国会の所信表明演説で、「経済、経済、経済」と3度繰り返し、経済重視の姿勢を強調した。ここで念頭にあったのは、国内総生産(GDP)の増加だったと考えて間違いないだろう。憲政史上最長を記録した安倍政権ではより直接的に「名目GDP600兆円」という目標を掲げたこともあった。
もちろん、国民に必要な食料が行き渡らないような最貧国の場合は、経済成長は必要だ。だが、必要なものはすべて国内にあり、あとはそれをどう分配するかだけという日本においても経済成長こそが、政権が最優先で実現すべき課題だととらえられ、その「成長」は、GDPという戦時中に作られた問題だらけの指標でしか事実上、測ることができない。それは言うならば、古くて不正確な海図を頼りに、間違った目的地を目指して航海するようなものではないだろうか。
脱成長という考え方に対する反論としては、量の拡大をやめて質の向上を図ればいいではないかというものがある。
理屈の上では、量を増やさずに質を高めることによって、計算上のGDPを増やす、つまり経済成長を達成することも、ある程度は可能だろう。たとえば、食べる量を増やさなくても、すべての食材を有機栽培や自然農法で作られた高価なものに変えたほうが、GDP拡大には寄与する。
また、そのほうが環境にとってより望ましいのは間違いない。あるいは洋服でも、遠い外国の工場で劣悪な労働環境のもとで作られ、数回着たら飽きて捨ててしまうようなファストファッションではなく、地元の職人が環境に配慮して生産された素材で作ったものを皆が選ぶようになれば、量の拡大による大量生産・大量廃棄なしにGDPを上げることができるという考え方もある。
GDPに「オルタナティブ」はない
だが、量の拡大から質の向上への転換は、皆がそれを志向すれば今より多少はましかもしれないが、それが本質的な解決策になることはない。
それだけでこれまで量的拡大がもたらしてきたような経済成長を達成できるとは考えにくく、何より、財やサービスを提供する企業からすれば、量も質も追うのが最も合理的だからである。少しでも差別化して付加価値を高めた上で、同じ差別化の力で過去の商品を短期間で見劣りさせ、少しでも高い頻度で買い換えるように消費者を誘導するというのは、スマホから自動車まで、あらゆる商品カテゴリーで起きていることである。
最近、欧州を中心に盛り上がりつつある「脱成長」の考え方は、何も新しいものではない。
環境問題との関連で近年、再評価の気運が高まる19世紀英国の経済学者ジョン・スチュアート・ミルは産業革命の当初から、拡大も縮小もしない「定常状態(stationary state)」を提唱していた。だが、そうした考え方が主流になることは資本主義社会ではこれまで一度もなかった。経済成長を至上の目標として追わなくなってしまったら、金融業から製造業に至るまで、儲ける機会が大幅に減ってしまうからである。
新しい豊かさの尺度探しは緒に就いたばかりであり、GDPが一国の経済的パフォーマンスのほぼ唯一の指標として参照され続ける状況に当面変わりはないだろう。
より現実的には、GDPが何か別の指標に置き換えられるというよりは、人々が「豊かさ=GDP」という価値観を改め、政治にも優先順位の変更を求めたとき初めて、GDPはだんだんとその重要性を失い、別の指標がより重視されるようになっていくのだろう。
『「日本は格差社会」は大間違い…多くの日本人が「格差が広がっている」と錯覚している納得の理由
』へ続く 井手 壮平
4/24(水) 7:04配信 現代ビジネス
「終わりのない成長を目指し続ける資本主義体制はもう限界ではないか」
そんな思いを世界中の人々が抱えるなか、現実問題として地球温暖化が「資本主義など唯一永続可能な経済体制足りえない」ことを残酷なまでに示している。しかしその一方で、現状を追認するでも諦観を示すでもなく、夢物語でない現実に即したビジョンを示せる論者はいまだに現れない。
本連載では「新自由主義の権化」に経済学を学び、20年以上経済のリアルを追いかけてきた記者が、海外の著名なパイオニアたちと共に資本主義の「教義」を問い直した『世界の賢人と語る「資本主義の先」』(井手壮平著)より抜粋して、「現実的な方策」をお届けする。
『世界の賢人と語る「資本主義の先」』連載第4回
『GDPはもう古い…日本がG7で提案した「新しい経済指標」のメディアが報道しない「革新的すぎる」中身』より続く
経済成長という目標は正しいのか
岸田文雄首相は2023年10月第212回臨時国会の所信表明演説で、「経済、経済、経済」と3度繰り返し、経済重視の姿勢を強調した。ここで念頭にあったのは、国内総生産(GDP)の増加だったと考えて間違いないだろう。憲政史上最長を記録した安倍政権ではより直接的に「名目GDP600兆円」という目標を掲げたこともあった。
もちろん、国民に必要な食料が行き渡らないような最貧国の場合は、経済成長は必要だ。だが、必要なものはすべて国内にあり、あとはそれをどう分配するかだけという日本においても経済成長こそが、政権が最優先で実現すべき課題だととらえられ、その「成長」は、GDPという戦時中に作られた問題だらけの指標でしか事実上、測ることができない。それは言うならば、古くて不正確な海図を頼りに、間違った目的地を目指して航海するようなものではないだろうか。
脱成長という考え方に対する反論としては、量の拡大をやめて質の向上を図ればいいではないかというものがある。
理屈の上では、量を増やさずに質を高めることによって、計算上のGDPを増やす、つまり経済成長を達成することも、ある程度は可能だろう。たとえば、食べる量を増やさなくても、すべての食材を有機栽培や自然農法で作られた高価なものに変えたほうが、GDP拡大には寄与する。
また、そのほうが環境にとってより望ましいのは間違いない。あるいは洋服でも、遠い外国の工場で劣悪な労働環境のもとで作られ、数回着たら飽きて捨ててしまうようなファストファッションではなく、地元の職人が環境に配慮して生産された素材で作ったものを皆が選ぶようになれば、量の拡大による大量生産・大量廃棄なしにGDPを上げることができるという考え方もある。
GDPに「オルタナティブ」はない
だが、量の拡大から質の向上への転換は、皆がそれを志向すれば今より多少はましかもしれないが、それが本質的な解決策になることはない。
それだけでこれまで量的拡大がもたらしてきたような経済成長を達成できるとは考えにくく、何より、財やサービスを提供する企業からすれば、量も質も追うのが最も合理的だからである。少しでも差別化して付加価値を高めた上で、同じ差別化の力で過去の商品を短期間で見劣りさせ、少しでも高い頻度で買い換えるように消費者を誘導するというのは、スマホから自動車まで、あらゆる商品カテゴリーで起きていることである。
最近、欧州を中心に盛り上がりつつある「脱成長」の考え方は、何も新しいものではない。
環境問題との関連で近年、再評価の気運が高まる19世紀英国の経済学者ジョン・スチュアート・ミルは産業革命の当初から、拡大も縮小もしない「定常状態(stationary state)」を提唱していた。だが、そうした考え方が主流になることは資本主義社会ではこれまで一度もなかった。経済成長を至上の目標として追わなくなってしまったら、金融業から製造業に至るまで、儲ける機会が大幅に減ってしまうからである。
新しい豊かさの尺度探しは緒に就いたばかりであり、GDPが一国の経済的パフォーマンスのほぼ唯一の指標として参照され続ける状況に当面変わりはないだろう。
より現実的には、GDPが何か別の指標に置き換えられるというよりは、人々が「豊かさ=GDP」という価値観を改め、政治にも優先順位の変更を求めたとき初めて、GDPはだんだんとその重要性を失い、別の指標がより重視されるようになっていくのだろう。
『「日本は格差社会」は大間違い…多くの日本人が「格差が広がっている」と錯覚している納得の理由
』へ続く 井手 壮平