私の思いと技術的覚え書き

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学者および専門家の倫理崩壊

2020-05-30 | コラム
 ここでは、私見たる思いとして、この20年くらい思い続けて来た内容として書き留めてみたい。

 昨今は世の様々な分野で腐敗とか腐食という現象が目立つ訳だが、その一つとして最上位の知識層として学者と呼ばれる者がいる。その代表的な職位としては、大学教授だとか博士号を所持する論評人なども含んでのものとなるのだろう。さらに、世には学者とまでは呼ばれぬが、業に応じた専門家とか専門職というのがある。官僚機構でも、ゼネラリストの一般官僚に対し、技官という専門職があったり、そもそもその職自体が専門性が高い、具体例としては検察管とか裁判官なども含まれるだろう。クルマメーカーを例にすれば、全般の経営判断を行なったり営業を担うゼネラリスト集団に対し、個別車両の設計、開発、実験とか、次世代以降の長期展望を見据えた先端技術の研究を行う専門集団がいるのだろう。ここでは、一般的な学者と呼ばれる者もしくは学者をベースとした論評人、官僚機構の技官や極めて専門性が高い官僚構成員、民間会社における専門職を前提として、思うところを書き留めてみたい。

 今年は年初から天変地異にも匹敵する武漢肺炎という病気が勃発し、病変自体は一定の収束方向への道筋は見えて来た様だが、2ヶ月以上経済が大幅に停止した影響は、今後さらに拡大しつつ広がっていくのだろう。そこで、今次病変でも、様々な医学関係の学者だとか経済学者だとか経済評論家なる者の意見が世の道筋に大きな影響を与えたと思える。

 以下は相当な私見を含むことを承知願う。
 まず、経済評論屋(軽蔑としての屋)共の発言だが、もちろん信じられる妥当なことを述べる極一部もいるが、8割方はデタラメか、何らかのバイアスもしくは忖度を含んでの発言と感じ続けている。それと、経団連とかそれなり大企業経営者で世のオピニオンという立場の者は、世を正しい方向に導くために論じなければならないという宿命を持つと信じるが、黙して語らないという不作為をなす者が多いことも気に掛かるところだ。逆にIT系経営者のSなどは、東北震災でもそうだったが、積極的に発言するが、それは自らの儲けが見え隠れする軽蔑すべき人種だの代表例だろう。

 さて、今次病変の緊急事態とその解除に大きな影響を与えた政府諮問委員たる医学者だが、北海道大学の西浦某なる教授だが、対策しなければ85万もの重篤者、42万もの死亡者がでるなどと述べたと伝わっている。現実の死亡者は500名に留まり、しかも、それが彼らの云う8割自粛の結果かと考えてみれば極めて疑問だろう。まあ、西浦某の発言は政府の正式な場で発言したものでなく、あくまで私見で述べたと伝わるが、その様な立場に所属すると世間一般に認知される者が、一般大衆へ向け発する言動の不適格さを感じるところだ。少なくとも、医学を研究している若き受講生には、この様な倫理知らずの学者の教育を受けぬことを強く希望したい。

 なお、類似の問題として、2011年3月11日の東北震災と東電福島原発大崩壊事故に絡んで思い出す名前が「大橋弘忠」(当時東大教授[定年退職済み])がいる。此奴は2012年2月の学会向けWebで「プルトニウムは水に溶けず、従って飲んでも排出されるだけ」とか記したとされ、「それならお前が飲んで見ろ」などと強い非難を浴びた。同人は、その後21012年10月に原子力規制委員会の委員に就任したという。極最近の原子力規制委員会のWebで大橋某の名はないが、現委員5名の内、4名が東大卒関連である。

 この様な学者と政治家もしくは官僚との関係は、軍事における指揮官と参謀との関係に置き換えることができる。また、現在の官僚(それ自体が参謀的だ)という立場は、自らの作戦追行を補強する者として、諮問委員などの学者人選を恣意的に行う。しかし、今でも歴史に愚劣とか暴走した参謀として名を残す迷参謀として「辻政信」とか「服部卓四郎」の名が伝えられている。従って我々は、過去の歴史から偉人の名を学ぶが、それと共に西浦某とか大橋某の愚人の名も忘れてはならぬと思う次第だ。

 さらに、そのアカデミックな地位は低いのだろうが、世の多くの業に専門家と云われる者がいる、かくいう拙人も人生の半分以上を、末端ではあるものの専門家としての業を意識して過ごして来た一人だ。そんな中、近年起こって世間を騒がせてきた問題の根本原因には、専門家に要求される倫理の逸脱に帰する問題にあるのだろうと感じ続けて来た。

 それは、神鋼のデータ改竄、マンションの耐震偽装、三菱ふそうおよび三菱自のリコール隠しなどなど、ちょっと思い出すだけで次々に出てくる。これら、世間を騒がせる事件には、科学技術の未熟など、その時点で想定になかったという事案もあるだろう。しかし、ここで上げているのは、そういう想定できなかったという問題ではない。想定できなかったと宣う最も酷い事例は、東電福島原発の大崩壊事故だろう。裁判でも想定できなかったというデタラメが通っている訳だが、地震の耐震強度も津波の危険性も指摘されていながら、そもそも原子炉の制御不能(ブラックアウト)という状態は有り得ないとして除外され、対策を進めていた訳だから話しにならない。誰だって、原子炉がブラックアウトに陥れば極めて危険なことは判るが、彼らの論理は他の手当を二重三重に行っており、ブラックアウトは起こり得ないという理由だけで、その現実が起こること自体を除外して来た訳で、それを前提とすると原子力発電という事業が成立しなくなるからだろう。つまり、周辺住民の命より、金が総てという論理に他ならないだろう。つまるところは、専門家とは、自らの業の研鑽し高次に使命を達成することが求められる訳だが、そのことが会社の規則云々でなく、個々人が社会正義に照らして正しいとの信念を保持してかが大前提とあるだろう。そこには、金の話しは関係ない。このことを忘れた、専門家が世を騒がせているのが、現代の姿と嘆く次第だ。


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