このところ、敗戦後29年を経て1974年に日本に戻ったという小野田寛郎(ひろお)氏(2014年91才で死去)のことに今更ながら感心を持ち、2冊ほど自著を読んでみたり、Netで関係動画を見たりして過ごしてみた。ここで改めて感じるのは、この方は改めて凄い生き様を突き通した人物だったと感嘆すのだ。
ここで、小野田氏のルバング島への着任から投降までに至る30年程の歴史概略を記して見る。小野田氏は敗戦前年となる1944年(昭和19年)9月に陸軍中野学校二股分校(浜松)に入校し、主に遊撃戦(ゲリラ戦)の教育を受ける。同年12月、残置諜者および遊撃戦指揮の任務を与えられフィリピンに派遣、同月31日フィリピン・ルバング島に着任した。そして、1945年(昭和20年)、2月28日の米軍の上陸や米艦艇の艦砲射撃により日本兵はほとんど撃滅されるが、小野田氏と少数は山間部に逃げ込んだ。その後8月15日の終戦の天皇の玉音放送も小野田氏に届くことはなく、未だ戦いは続いている、もしくは敗戦になったのだが米国傀儡政権下のことであると信じ、戦後の何度も繰り返された捜索や呼びかけにも応じなかったとされる。これら推移の中で、敗戦後5年程経た中で部下が一名投降することにより、小野田氏以下3名が隠れ潜んでいることが日本政府にも判り、小野田氏の実兄まで捜索隊に加わり呼びかけたが、小野田氏はこれは米国の傀儡政権がやらせていることだと信じ、投降することはなかったのだと記している。
最終的に投降の切っ掛けを作ったのは、冒険家を自称する鈴木紀夫氏が一人小野田氏の捜索に参加し、山中でテントを張り居たところへ、小野田氏から接触が行われ、結果として小野田氏から上官の命令が下命されれば出頭を了承するとの確約の報と、この際に鈴木氏と小野田氏が写った写真(1・セルフタイマーだろう)によりもたらされた。速やかに、かつての上官に当たる方がルバングを訪れ、かつての山下陸軍大将名の「尚武集団作戦命令」(任務解除)と口達による参謀部別班命令により「総ての作戦命令は解除さる」が伝達され、小野田氏の正式出頭が適ったのだった。フィリピン派遣後29年目の出来事となった。
この小野田氏の出頭当時(51才)の写真(2)を今眺めても、鋭いまなざしとおよそ卑などという言葉が皆無の武士の顔貌と眺める。そんな小野田氏も帰国し、様々な権力者やマスゴミの餌食の中で、自分の居場所がなかったと記している。そんなことから、帰国後1年で、ブラジルに入植する決心を固めたのだと記している。その後10余年、ブラジル入植事業の牧場経営にも一定成功してから、小野田氏と日本との交流が再び生み出されて行く。それは、小野田氏に云わせれば、現代日本の青少年犯罪の多発などを嘆き、それには子供の教育が大事だという思いから出発した小野田自然塾などの活動を始めたのだった。その後、講演活動なども続けつつ、91にて永眠となった。(晩年期の小野田氏・写真3)
今回読んだのは「生きる」PHP出版文庫(写真4)で、非常に平易だが今の日本の風潮を憂う愚人としては、響く文章が続く。そんな中でも、特に目に付いた学校での虐めの問題の下りだ。(写真5)これは校内だけのものではない、パワハラと呼ばれる職場での問題も目に付くし、愚人も何度か見てきた。そんな愚人がこの小野田氏の文章を見て、誠に恥ずかしい思いを持つ。それは「幾ら助けてあげたいと思っても、実行に移さなければ単なる野次馬と変わらない。実行するためには力と決心がいる。」という下りだろうか・・・。
ここで、小野田氏のルバング島への着任から投降までに至る30年程の歴史概略を記して見る。小野田氏は敗戦前年となる1944年(昭和19年)9月に陸軍中野学校二股分校(浜松)に入校し、主に遊撃戦(ゲリラ戦)の教育を受ける。同年12月、残置諜者および遊撃戦指揮の任務を与えられフィリピンに派遣、同月31日フィリピン・ルバング島に着任した。そして、1945年(昭和20年)、2月28日の米軍の上陸や米艦艇の艦砲射撃により日本兵はほとんど撃滅されるが、小野田氏と少数は山間部に逃げ込んだ。その後8月15日の終戦の天皇の玉音放送も小野田氏に届くことはなく、未だ戦いは続いている、もしくは敗戦になったのだが米国傀儡政権下のことであると信じ、戦後の何度も繰り返された捜索や呼びかけにも応じなかったとされる。これら推移の中で、敗戦後5年程経た中で部下が一名投降することにより、小野田氏以下3名が隠れ潜んでいることが日本政府にも判り、小野田氏の実兄まで捜索隊に加わり呼びかけたが、小野田氏はこれは米国の傀儡政権がやらせていることだと信じ、投降することはなかったのだと記している。
最終的に投降の切っ掛けを作ったのは、冒険家を自称する鈴木紀夫氏が一人小野田氏の捜索に参加し、山中でテントを張り居たところへ、小野田氏から接触が行われ、結果として小野田氏から上官の命令が下命されれば出頭を了承するとの確約の報と、この際に鈴木氏と小野田氏が写った写真(1・セルフタイマーだろう)によりもたらされた。速やかに、かつての上官に当たる方がルバングを訪れ、かつての山下陸軍大将名の「尚武集団作戦命令」(任務解除)と口達による参謀部別班命令により「総ての作戦命令は解除さる」が伝達され、小野田氏の正式出頭が適ったのだった。フィリピン派遣後29年目の出来事となった。
この小野田氏の出頭当時(51才)の写真(2)を今眺めても、鋭いまなざしとおよそ卑などという言葉が皆無の武士の顔貌と眺める。そんな小野田氏も帰国し、様々な権力者やマスゴミの餌食の中で、自分の居場所がなかったと記している。そんなことから、帰国後1年で、ブラジルに入植する決心を固めたのだと記している。その後10余年、ブラジル入植事業の牧場経営にも一定成功してから、小野田氏と日本との交流が再び生み出されて行く。それは、小野田氏に云わせれば、現代日本の青少年犯罪の多発などを嘆き、それには子供の教育が大事だという思いから出発した小野田自然塾などの活動を始めたのだった。その後、講演活動なども続けつつ、91にて永眠となった。(晩年期の小野田氏・写真3)
今回読んだのは「生きる」PHP出版文庫(写真4)で、非常に平易だが今の日本の風潮を憂う愚人としては、響く文章が続く。そんな中でも、特に目に付いた学校での虐めの問題の下りだ。(写真5)これは校内だけのものではない、パワハラと呼ばれる職場での問題も目に付くし、愚人も何度か見てきた。そんな愚人がこの小野田氏の文章を見て、誠に恥ずかしい思いを持つ。それは「幾ら助けてあげたいと思っても、実行に移さなければ単なる野次馬と変わらない。実行するためには力と決心がいる。」という下りだろうか・・・。