私の思いと技術的覚え書き

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我が国洋式帆船発祥の地・戸田

2019-11-02 | 沼津そして伊豆周辺
 沼津市の北端には戸田(へだ)という江戸時代に栄えた港町があります。江戸時代の往時には5軒の廻船問屋があり、当時の物流の中心であった廻船(千石船とか呼ばれた)の和船の陸伝いの交易に伴う風待ち港として栄えたということです。

 当時の和船は、遠洋へ出て長い航海をするという思想がなく、帆を順風に受けて進むという単なる帆掛け船であったということです。ですから、陸に沿って風待ち頼みで帆走し、風向きが悪くなると、直ちに近くの港に入って、風の変わるのを待つという港頼みの航海だった様です。ですから、伊豆半島の周辺は、幾つもの風待ち港があり、風待ちしたり、嵐が来ると非難したりを繰り返していたのでしょう。

 さて、時は1854年(幕末10年前・安政元年)下田港を訪れていたロシア軍艦ディアナ号(2000トン級木造帆船)は、同年11月4日の午前9時頃に発生した安政東海地震による津波で損壊したと云います。同艦の修繕は、地震と津波で混乱する下田では不可能となったのでしょう、戸田港へ回送して修繕を行うことになったそうです。しかし、その回送中に戸田沖で強い嵐に遭遇し、富士市田子の浦沖合へ流され、近隣の日本漁民達の必死の努力の甲斐もなく沈没するに至ったのだそうです。しかし、約500名の乗員は、漁民の救助で助けられ、幕府の誘導で陸路戸田へ向かい、約半年を過ごしたといいます。そして、この間に戸田の入江の一角で80トンほどの小型洋式帆船(スクナー・後にヘダ号と命名)がロシア人技術者の指揮の元、多数の日本人船大工の協力で、三ヶ月ほどの期間で作られたといいます。

 ここで、およそ船のことには素人ですが、ものの本やNet情報によれば、外洋運行が困難な和船と洋式帆船には、以下の様な大きな3つの違いがあることが知れます。

①船体構造の大きな違い
 和船も洋式船も当時は木造ですが、その船体構造に大きな違いがあったようです。すなわち、板材を組み合わせて作り、適当な間隔で、横の梁(クルマで云うところのクロスメンバー)を入れたのが和船です。一方、太い木材で、竜骨と呼ばれる縦の縦貫材と、そこに組み合わせた同じく太く強度がある肋木(ろくぼく)と呼ばれるフレームを交差させて、船体の基本強度を生み出しています。この構造が、外洋での強い嵐でも破壊されない強度を生み出していることはもちろん、帆を上げるマストの設置強度の強さも生み出せる訳です。

②上部甲板の水密構造
 和船は、荷の積み込みを容易にするため、基本的にオープンデッキで、強い波を受けると容易に浸水してしまいます。それに対し、洋式帆船では例え小型で船体全体が波に飲み込まれる様な大波を受けても、上部甲板の水密構造が取られており、浸水を僅かに留める様に構造が工夫されています。

③帆の構造の違い
 先にも記していますが和船は単なる帆掛け船で、風上にはほとんど進むことはできません。それに対し洋式帆船では、飛行機の翼の原理と同様に、帆の膨らみにより、その左右を通る流速の差により揚力を生み出すことで、風上に対し左右45度の角度で進行することができます。この左右45度のジクザク運行により、風上方向への運行を可能にし、帆走領域を大幅に拡大しているのです。

 ヘダ号完成と共に、ディアナ号船長のプチャーチン一行はロシアに帰国したといいます。もちろん500名全員が小型のヘダ号に乗れる訳もなく、多くは残留して後のロシアの大型船による迎えを待つことのなるのですが・・・。しかし、洋式帆船の製造を監督した7名の日本人船大工の棟梁は船の製造記録を細大漏らさず記録したという。そして、ヘダ号に続いて6隻の同型艦を次々に作り出し幕府に納入したと云います。そして、その棟梁と弟子達は全国に散り、国内各地で洋式帆船が普及していったと云うことです。

追記
 ここに掲載した写真は、港を遠望した写真以外、総て「戸田造船郷土資料博物館」で撮影したものです。同博物館では、現在【戸田造船郷土資料博物館開館50周年記念企画展/「プチャーチンが結んだ絆 ~日露友好の165年~」】令和元年6月28日~令和2年1月31日が展示中です。








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