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江戸の関所

2023-07-02 | コラム
江戸の関所
 我が住まい地は沼津市だが、江戸時代の東海道だが概ね現在の国道1号線に相当するが、国道1号も現在バイパス化なされているが、旧国道と呼ばれる現代では県道が相当するのだろう。

 この表題の「江戸の関所物語」という小冊子(文庫サイズ220ページほど)をザラッと見て、新たに知る話しを書き留めてみたい。

 関所と聞くと、我が住まい地より比較的近く江戸時代の歴史小説にも、時々出てくる箱根の関所を思い出すが、往時江戸幕府は全国53の関所を設けていたと記されている。この関所だが、江戸以前から時の権力者がその権力中心部を中心に置かれ、関賃(通行量)を徴収していたらしい。しかし、それも、織田信長はこれを廃止し、天下を受け継いだ秀吉もそれを引き継いでいたと云う。しかし、徳川は江戸に幕府を開くと共に、新たに先の53カ所の関所を設けた。

 この江戸の関所は、関賃を取ることはなかったが、これはいわゆる首都防衛のためで、関所の大きな役目は、出女と入鉄砲を取り締まった。この入鉄砲とは、江戸に鉄砲が入るのを規制すると即判る話しだが、出女とは江戸から外へ出る女という意味だが、何故これを取り締まったのだろうか。

 これは、江戸時代に参勤交代制という各地方の大名が1年江戸で過ごし、幕府の仕事をし、その翌年地元へ帰って各大名地を治めるという、これも徳川一流の国を治める手法なのだ。この場合に、大名の妻や子女は江戸留めということで、女は一種の人質としての定めを受けていた訳だ。そこで、この出女を取り締まると云う関の役目が出てきたと云う。

 箱根関所と離れるが、現在の浜松市の東海道「新井」という場所も重要関所として存在したが、浜松から名古屋方面に通行するルートとして、東海道ともう一つ「姫街道」というのが現在でも残されている。この場合、姫街道には関所がなく、女でも問題ないところから、姫街道と称したと思われる。

 また、箱根関所に戻るが、地図上はこの箱根関からさほど離れていない、仙石原、矢倉沢、谷ケ村、河村という4カ所に補助関所が設けられていた様だ。この理由だが、俗に鎌倉往還とか鎌倉街道と呼ばれる道が過去からあって、それは沼津もしくは三島から御殿場を経由して小山町のJR足柄駅の脇を通って、金時山の山裾を通って小田原方面に抜けるルートがあった。このルードは江戸時代にも生きていて、それなりに利用されていた様だ。これら、箱根の関所を含め補助4関所は小田原藩の業務として行われていたという。

 つまり関所役人とかその家来は小田原藩の者達だが、そこに箱根関所だけは「人見女」という役を行っていた女性が2名いたと云う。これは小田原藩の女でなく、関所近くの村の女で、代々その役を世襲して行わせていたという。この役目だが、出女規制で絶体女は通さないということではないが、正式の通行手形があれば通行を許可される。ただし、問題は男装したりして関所通過を図る者を、この人見女により検査におよぶ場合もあったという話しだ。

 しかし、現代の様に車とか鉄道が移動手段となれば、道路や鉄道でルートは限られるが、箱根山だけでも広い範囲があり、もっといえば現在の東海道本線とか新幹線のルートが小田原と三島間を結んでいるが、この熱海周りのルートを移動すれば関所は通らずに済む。ただし、当時のことだから、見知らぬよそ者が居るとなると近所の百姓や漁師が発見すると、それなりに番所へ届け出て、尋問を受けることになったのかもしれない。


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