木骨クルマの時代とその製作工場
先の戦争(大平洋戦争)の前後は、日本は軍需優先で、それまで細々とではあるが作っていた乗用車の開発生産は事実上禁じられ、軍用トラックの生産を行っていた。このことは、米国でも同様で、既にT型フォード以来、モーターリゼーションで大衆に乗用車が普及し出していたのだが、大戦中はGM、フォード、クライスラーなどの大工場では、トラックか航空機もしくは戦車などの増産に追いまくられた様だ。その工業力たるや、日本は到底及ぶべくもなく、終戦直後で総計4千機ほど作られたB29だが、ボーイング社だけで、僅か数年でこの数を作れる訳もなく、デトロイトの各車両メーカー工場で、各パーツを作り、最終的にシアトルのボーイング工場でアッセンブリー化して量産したのだと想像する。
大戦中、B29は広島長崎に原爆を落とす以前に、1944年後半期から1945年前半期まで、日本の軍需工場を中心に猛烈な爆弾投下を繰り返した。しかも、1945年3月頃には、軍需工場とか軍事基地でない、東京の住宅街を狙っての夜間爆撃を行った。最悪の被害は、一晩だけで死者10万名を超えたと、ものの本で知る。広島および長崎の原爆投下も、広島には呉の海軍基地だとか工廠が、長崎には三菱長崎造船所があるのだが、それを目標にはしてはいない。彼らの思考は、それまで空襲の被害を受けていない都市が、どのように新兵器原爆で破壊されるかという事例研究の様な意識が強くあったのではないだろうか。
さて、戦後ゼロから立ち直った日本の工業生産だが、即乗用車の生産が立ち上がった訳ではない。始めの内は、軍用トラックを民間用に低コスト化し商品化していた様だ。あと、戦中に航空機を作っていた工場などでは、アルミ板などから鍋、釜から2輪スクーターの販売を開始した。多くの開発途上国で、幾らか過去に見た、4輪より圧倒的に2輪車が多いという日本のモーターリゼイション創世記のことだ。
その後、2輪から3輪へと後部荷台を広くして積載量を増した貨物車が作られる様になり、4輪トラックと共に貨物車から日本自動車工業は復活し始めた。
そして、1950年に始まった朝鮮戦争では、日本は米軍の補給基地となったのだが、朝鮮の悲劇は日本に極めて大きな特需としての恵みを与えたのだ。その象徴ともいえるのが1957年に竣工した東京タワーだろう。このタワーは全鋼製だが、その鉄は、朝鮮戦争でスクラップ化した米軍戦車の鉄を熔解して再利用したものと聞く。
この東京タワーの竣工とほぼ同時期頃から、日本の乗用車生産も軌道に乗り始め、1960年以降、乗用車生産と販売はうなぎ登りとなり、日本のモーターリゼイションが立ち上がった。
ところで、ここから本論となるのだが、1950年代頃より1960年代前半まで、日本の自動車生産はトラック中心であり、現在ではほぼ乗用車専業となっているトヨタ、ニッサンですら、日野、いずず、ふそう、UDトラックなどの貨物専業メーカーと同様に大型トラックまで、自車ブランドとして作っていた時代があった。この時代のトラックだが、新車メーカーでは、写真の様な状態までしかメーカーでは作らず、それを各地の傘下ディーラーへ卸していた。その移動だが、自走なのだが、この運転台がない状態で、シート代わりに木製みかん箱を利用したりして、当時は全国の国道での未舗装路が多かったのだが、陸送運転手はゴーグルとタオルを巻いて自走陸送する姿を幼い頃見た覚えが微かにある。
ディーラーへ納品された新車トラックは、客筋の注文に応じて、架装メーカーたる、○○車体とか○○ボデーというような大きめの架装業者に発注するのだが、これが現在にも続く自動車板金塗装事業者のルーツとなる姿だった。ただし、各架装業者の従業員数は現在の自動車板金塗装業より業容は大きく、正確ではないかもしれないが、従業員数50名前後だったと想像される。
ここでの作業は、ディーラーからの発注に応じて諸内容を変えるのだろうが、基本はまず運転台を作ることだ。そして、後部の荷台(リヤボデー)を作るのだが、当時はバン型はなく、ほとんど平ボデーのみで、バン型にしたい需要の場合はホロ型となったと思う。また、ローリー、バルク車、クレーン車、消防車など、それぞれ特殊な用途車では、それぞれ専業社に依頼するのは、今でも同様だろう。
ここで、記すのは現在の自動車板金塗装工場の原型が、この時代に育まれているというところだ。この辺りはあまり書籍化されてる資料も少ないのだが、私自身が昔こういう○○ボデーで修業して独立したという多くの自動車板金塗装業者の年配の経営者達から口伝で伝え聞く話しだ。
○○ボデーの所内での作業は分業化されている。主な係と業務内容を以下に列記したい。また、記述は運転台だけを前提にするが、リヤボデーも木骨、板金、塗装と同様の分業体制だ。なお、現在は床板だけに木質系素材が残るが、その他はアルミ引き抜き材がほとんどとなる。
➀木骨係 俗に当時は自動車大工と云われた方達で、運転台の各枠となる部分をノコギリ、のみ、カンナ、などで成型組み立て結合する。結合はホゾ組みもあったと思うが、宮大工が行う様な凝ったホゾ組みはなかったであろう。ドアなどは、外枠を作り、前ピラーとの間はヒンジを木ネジで立て付ける。
②板金係 平板後半を使用し、それを成型したりして形を作る。道具としてはハンマー、ドリー、木臼、定盤、ローラー、カッター、ガス溶接機程度。注:ローラーとはルーフ部の様にお椀型になった極面を成型する時使用する工具で、2つの金属ローラー間で加工する鋼板を挟み、鋼板の両端をそれぞれ別人間の手で掴み前後にしごくことで、R曲げ加工を行う。
③塗装係 車体の外板および内板を塗装する。往時の塗料はラッカー(NCラッカー)、パテも厚塗り出来るものはなく、オイルパテという乾きが遅く薄くしか盛れないものを利用。なお、パテ作業もしくはハンダ盛り成型は板金係の行う作業。
④シート係 シートおよび左右ドアの内張などを工作して作る。当時の商用車では、ビニールレザーと工業用ミシンでの縫製だろう。
⑤電気係 テールライトそのものは車両メーカー供給品なのかパーツメーカー入手なのか判らないが、装着しつつ電気配線を行う。
ちなみに、我が沼津市には昔の資料とか口伝で加藤車体というボデー製造業が存在した。後刻、駿東郡清水町へ移転、その後車名をパブコと変更し神奈川県海老名市に移転している。ここの出身だとか、家から塗装作業に場内中として数名入れてるという、損保調査員になってから板金塗装業から話しを時々聞いたものだ。
これとはまったく別だが、二輪車は日本の往時は100社を超えたある一時があったらしいが、板金塗装業の中で、僅か1社のことだが名称失念の二輪メーカーの燃料タンクの製造を請け負っていたことがあるという。この100社の二輪メーカーだが、俗に3台メーカーと揶揄された3台しか作らなかった様な超小規模なものも入れてだ。その点で、静岡県は西部中心だが、ホンダ、ヤマハ、スズキとカワサキ以外の現在の二輪大手3社の創業地であるし、東部でも沼津市に昌和製作所とか、三島に名称不明の事業所工場があった様だ。昌和は後年ヤマハに吸収消滅した。
この往時の各地にあった○○車体とか○○ボデーだが、ここに勤めていた従業員がスピンアウトして、モーターリゼーション以降の事故で損壊した自動車の修理を担う板金塗装工場になった事例は往時は多かったはずだ。そして、往時、板金係、塗装係と分業していた流れから、地域性もあるのかもしれないが、板金業と塗装業に独立分業していた時代もあったのだが、現在はほぼ板金塗装業として自社内でまかなえる体制が極普通のことになった。ただし、その自社工場の中では、板金担当と塗装担当に分業しているところは、この業種の作業特性を表していると思える。
【貨物車から乗用車作りに変わって保有台数を伸ばした別記事】
【書評】ぽんこつ(阿川弘之著)・自動車保有数と事故死者の推移
2023-02-19 | 論評、書評、映画評など
https://blog.goo.ne.jp/wiseman410/e/02bf1c79c352438c191cda0d6d902bf1
先の戦争(大平洋戦争)の前後は、日本は軍需優先で、それまで細々とではあるが作っていた乗用車の開発生産は事実上禁じられ、軍用トラックの生産を行っていた。このことは、米国でも同様で、既にT型フォード以来、モーターリゼーションで大衆に乗用車が普及し出していたのだが、大戦中はGM、フォード、クライスラーなどの大工場では、トラックか航空機もしくは戦車などの増産に追いまくられた様だ。その工業力たるや、日本は到底及ぶべくもなく、終戦直後で総計4千機ほど作られたB29だが、ボーイング社だけで、僅か数年でこの数を作れる訳もなく、デトロイトの各車両メーカー工場で、各パーツを作り、最終的にシアトルのボーイング工場でアッセンブリー化して量産したのだと想像する。
大戦中、B29は広島長崎に原爆を落とす以前に、1944年後半期から1945年前半期まで、日本の軍需工場を中心に猛烈な爆弾投下を繰り返した。しかも、1945年3月頃には、軍需工場とか軍事基地でない、東京の住宅街を狙っての夜間爆撃を行った。最悪の被害は、一晩だけで死者10万名を超えたと、ものの本で知る。広島および長崎の原爆投下も、広島には呉の海軍基地だとか工廠が、長崎には三菱長崎造船所があるのだが、それを目標にはしてはいない。彼らの思考は、それまで空襲の被害を受けていない都市が、どのように新兵器原爆で破壊されるかという事例研究の様な意識が強くあったのではないだろうか。
さて、戦後ゼロから立ち直った日本の工業生産だが、即乗用車の生産が立ち上がった訳ではない。始めの内は、軍用トラックを民間用に低コスト化し商品化していた様だ。あと、戦中に航空機を作っていた工場などでは、アルミ板などから鍋、釜から2輪スクーターの販売を開始した。多くの開発途上国で、幾らか過去に見た、4輪より圧倒的に2輪車が多いという日本のモーターリゼイション創世記のことだ。
その後、2輪から3輪へと後部荷台を広くして積載量を増した貨物車が作られる様になり、4輪トラックと共に貨物車から日本自動車工業は復活し始めた。
そして、1950年に始まった朝鮮戦争では、日本は米軍の補給基地となったのだが、朝鮮の悲劇は日本に極めて大きな特需としての恵みを与えたのだ。その象徴ともいえるのが1957年に竣工した東京タワーだろう。このタワーは全鋼製だが、その鉄は、朝鮮戦争でスクラップ化した米軍戦車の鉄を熔解して再利用したものと聞く。
この東京タワーの竣工とほぼ同時期頃から、日本の乗用車生産も軌道に乗り始め、1960年以降、乗用車生産と販売はうなぎ登りとなり、日本のモーターリゼイションが立ち上がった。
ところで、ここから本論となるのだが、1950年代頃より1960年代前半まで、日本の自動車生産はトラック中心であり、現在ではほぼ乗用車専業となっているトヨタ、ニッサンですら、日野、いずず、ふそう、UDトラックなどの貨物専業メーカーと同様に大型トラックまで、自車ブランドとして作っていた時代があった。この時代のトラックだが、新車メーカーでは、写真の様な状態までしかメーカーでは作らず、それを各地の傘下ディーラーへ卸していた。その移動だが、自走なのだが、この運転台がない状態で、シート代わりに木製みかん箱を利用したりして、当時は全国の国道での未舗装路が多かったのだが、陸送運転手はゴーグルとタオルを巻いて自走陸送する姿を幼い頃見た覚えが微かにある。
ディーラーへ納品された新車トラックは、客筋の注文に応じて、架装メーカーたる、○○車体とか○○ボデーというような大きめの架装業者に発注するのだが、これが現在にも続く自動車板金塗装事業者のルーツとなる姿だった。ただし、各架装業者の従業員数は現在の自動車板金塗装業より業容は大きく、正確ではないかもしれないが、従業員数50名前後だったと想像される。
ここでの作業は、ディーラーからの発注に応じて諸内容を変えるのだろうが、基本はまず運転台を作ることだ。そして、後部の荷台(リヤボデー)を作るのだが、当時はバン型はなく、ほとんど平ボデーのみで、バン型にしたい需要の場合はホロ型となったと思う。また、ローリー、バルク車、クレーン車、消防車など、それぞれ特殊な用途車では、それぞれ専業社に依頼するのは、今でも同様だろう。
ここで、記すのは現在の自動車板金塗装工場の原型が、この時代に育まれているというところだ。この辺りはあまり書籍化されてる資料も少ないのだが、私自身が昔こういう○○ボデーで修業して独立したという多くの自動車板金塗装業者の年配の経営者達から口伝で伝え聞く話しだ。
○○ボデーの所内での作業は分業化されている。主な係と業務内容を以下に列記したい。また、記述は運転台だけを前提にするが、リヤボデーも木骨、板金、塗装と同様の分業体制だ。なお、現在は床板だけに木質系素材が残るが、その他はアルミ引き抜き材がほとんどとなる。
➀木骨係 俗に当時は自動車大工と云われた方達で、運転台の各枠となる部分をノコギリ、のみ、カンナ、などで成型組み立て結合する。結合はホゾ組みもあったと思うが、宮大工が行う様な凝ったホゾ組みはなかったであろう。ドアなどは、外枠を作り、前ピラーとの間はヒンジを木ネジで立て付ける。
②板金係 平板後半を使用し、それを成型したりして形を作る。道具としてはハンマー、ドリー、木臼、定盤、ローラー、カッター、ガス溶接機程度。注:ローラーとはルーフ部の様にお椀型になった極面を成型する時使用する工具で、2つの金属ローラー間で加工する鋼板を挟み、鋼板の両端をそれぞれ別人間の手で掴み前後にしごくことで、R曲げ加工を行う。
③塗装係 車体の外板および内板を塗装する。往時の塗料はラッカー(NCラッカー)、パテも厚塗り出来るものはなく、オイルパテという乾きが遅く薄くしか盛れないものを利用。なお、パテ作業もしくはハンダ盛り成型は板金係の行う作業。
④シート係 シートおよび左右ドアの内張などを工作して作る。当時の商用車では、ビニールレザーと工業用ミシンでの縫製だろう。
⑤電気係 テールライトそのものは車両メーカー供給品なのかパーツメーカー入手なのか判らないが、装着しつつ電気配線を行う。
ちなみに、我が沼津市には昔の資料とか口伝で加藤車体というボデー製造業が存在した。後刻、駿東郡清水町へ移転、その後車名をパブコと変更し神奈川県海老名市に移転している。ここの出身だとか、家から塗装作業に場内中として数名入れてるという、損保調査員になってから板金塗装業から話しを時々聞いたものだ。
これとはまったく別だが、二輪車は日本の往時は100社を超えたある一時があったらしいが、板金塗装業の中で、僅か1社のことだが名称失念の二輪メーカーの燃料タンクの製造を請け負っていたことがあるという。この100社の二輪メーカーだが、俗に3台メーカーと揶揄された3台しか作らなかった様な超小規模なものも入れてだ。その点で、静岡県は西部中心だが、ホンダ、ヤマハ、スズキとカワサキ以外の現在の二輪大手3社の創業地であるし、東部でも沼津市に昌和製作所とか、三島に名称不明の事業所工場があった様だ。昌和は後年ヤマハに吸収消滅した。
この往時の各地にあった○○車体とか○○ボデーだが、ここに勤めていた従業員がスピンアウトして、モーターリゼーション以降の事故で損壊した自動車の修理を担う板金塗装工場になった事例は往時は多かったはずだ。そして、往時、板金係、塗装係と分業していた流れから、地域性もあるのかもしれないが、板金業と塗装業に独立分業していた時代もあったのだが、現在はほぼ板金塗装業として自社内でまかなえる体制が極普通のことになった。ただし、その自社工場の中では、板金担当と塗装担当に分業しているところは、この業種の作業特性を表していると思える。
【貨物車から乗用車作りに変わって保有台数を伸ばした別記事】
【書評】ぽんこつ(阿川弘之著)・自動車保有数と事故死者の推移
2023-02-19 | 論評、書評、映画評など
https://blog.goo.ne.jp/wiseman410/e/02bf1c79c352438c191cda0d6d902bf1