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ルポルタージュ・損害調査員 その19【資料偏重に陥るな】

2022-07-07 | コラム
ルポルタージュ・損害調査員 その19【資料偏重に陥るな】
 このことは、10数年前現役調査員だった時代から、廻りの後輩から先輩を見廻しても、損害車両が特殊なクルマとか物件など、様は指数や工数、果てはパーツリストなど資料のない損害を調査したくないという気風が感じられたものだ。つまり、国産車ならいいけど、大型トラックだとか、その荷台架装部分とかバスとか少量生産輸入車とかできれば立会調査したくないという気風と云った様子が感じられたものだが、おそらく今でも変わらないのだろうと想像している。

 私は、そういうクルマも物件も調査が生じると、正直これは良いと行く前からわくわくするという思いを持っていたが、あまりそいういう者は少なかった様に思える。

 そもそも、そういう資料のないクルマの立会調査をいやがる神経とはどういうところから生じているのかと考えると、何も資料がないので、何を云われても反論できないとか云うところかなと想像する。ところが、私にして見れば、滅多に見れない未知のものに触れ合えるという好奇心がまず先に立つ。資料がないとして、指数が工数がと云う問題もあるのだろうが、ぶっちゃけ云えば当方もないが、多少相手にあろうが、決まったものがない中で値段を決めるという自由度がこれがまた良い。判らないことや疑問に思うことは聞けば良いし、そこで納得できる返事を受ければ、そういうものかと勉強できると云う心理だ。

 もっとぶっちゃけて云えば、資料がないのは彼我のこと。こちらもないが、相手も対したものはないと云う考え方だ。そこでなにがしか相手に資料があったとすれば、その資料を見て妥当性があるならこちらの資料に加算できる余地もあろうという思考だ。

 そんな思考で、そういう数少ない未知のものに避ける神経とは、何てもったいないと思うしかない。そんな立会を好んでして来たのだが、こういう中の業社のすべてとは云えないが、中には思慮深い方も多く、こと自分の案件については客観性は不足しがちになるが、利害関係のない評価となると案外客観的な意見が聞ける、一種の情報源となるものだ。つまり、そういう案件が別に生じた時の、意見聴取者としての価値を重んじ、以後の付き合いを絶やさない様にして来て現在に至っている。

 もうちょっと具体例を記してみれば、スーパーカーとしてフェラーリの案件があったとする。フェラーリも年代別に変化して来ているので、最新型と90年代以前のモデルではかなり設計思想が異なるが、おそらく90年代以前のモデルでは日本で一番多く手掛けて来た自動車板金業は町田にあるA板金だろう。現在でも時々話す付き合いを維持して来ているが、今まで数々の案件で、この場合だったらこう直すねとか、副次的にこういう問題が生じるとか、一時は日本の正規輸入車の納車前整備までを手掛けていたので、人的繋がりも広く深い。こういうことは、大型バストラの特装車だとか、クレーン車でも同様のスペシャリストが居て、そういう方々との積極的な交流を大事にしてきたという思いだ。


#ルポルタージュ・損害調査員 #資料がない少量生産車の調査ほど面白いものはない


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