昨日は比較的近郊の地となる三島市にある『龍沢寺』(りゅうたくじ、龍澤寺とも記す)を訪ねてみました。毎年の昨日(11月23日)は、同寺の寺宝が一般公開される日なのだからです。
初めて訪れた同寺ですが、こんな近郊に、ここまで大きな伽藍(僧が集まり住んで、仏道を修行する場所)を持ち、禅僧が修業するという名刹(名高い寺)があることを、最近まで知りもしませんでした。
同寺の境内に入ると、山門には江戸時代の漆喰職人として名を馳せた入江長八(伊豆の長八)の漆喰細工を施した作品が迎えてくれます。
年に一度のご開帳となる寺宝は、主に書や絵なのですが、正直云ってこれらを見る見識は、今の私にはありません。それでも、絵の中には、昔の寺での教育や、死というものを表したと想像される場面が描かれたりしており、色々と考えさせてくれます。
この名刹は、何も寺宝を見ずとも、境内の山門や鐘突堂や本堂を眺めるだけでも、見所は盛り沢山と思います。季節を変えて、また訪問したい名刹と感じつつ、帰宅したのでした。
追記
参道を下りながら同寺の墓園をちょっと覗いて見 たのが、掲載写真の風景です、墓石が総て円球形のちょっと変わった風景でした。
追記2 2019/8/16
wiki記述の当寺の歴史によれば、次の様に記してある。
龍沢寺の実質的な開山は白隠慧鶴(沼津原の白隠禅師)である。宝暦10年(1760年)、白隠の高弟東嶺円慈によって現在地に伽藍が創建された。
明治時代、星定元志が再興するが、その後は荒れ寺となっていた。大正4年(1915年)、山本玄峰が廃寺同然の龍沢寺に入り、修行道場として復興した。山本のもとには著名人が多く参禅し、第二次世界大戦末期の首相であった鈴木貫太郎に無条件降伏を進言したのも山本であった。山本の後は、中川宋淵、鈴木宗忠、中川球童、後藤榮山が住職を務めている。
また、戦後、小説家で高名な割腹自裁事件を起こした「三島由紀夫」も、同寺へ出入りするなど関わりがあった様です。また、真偽は確か見てもいませんが、三島氏(本名:平岡家)の墓所が、当寺にあるといううわさもあります。
初めて訪れた同寺ですが、こんな近郊に、ここまで大きな伽藍(僧が集まり住んで、仏道を修行する場所)を持ち、禅僧が修業するという名刹(名高い寺)があることを、最近まで知りもしませんでした。
同寺の境内に入ると、山門には江戸時代の漆喰職人として名を馳せた入江長八(伊豆の長八)の漆喰細工を施した作品が迎えてくれます。
年に一度のご開帳となる寺宝は、主に書や絵なのですが、正直云ってこれらを見る見識は、今の私にはありません。それでも、絵の中には、昔の寺での教育や、死というものを表したと想像される場面が描かれたりしており、色々と考えさせてくれます。
この名刹は、何も寺宝を見ずとも、境内の山門や鐘突堂や本堂を眺めるだけでも、見所は盛り沢山と思います。季節を変えて、また訪問したい名刹と感じつつ、帰宅したのでした。
追記
参道を下りながら同寺の墓園をちょっと覗いて見 たのが、掲載写真の風景です、墓石が総て円球形のちょっと変わった風景でした。
追記2 2019/8/16
wiki記述の当寺の歴史によれば、次の様に記してある。
龍沢寺の実質的な開山は白隠慧鶴(沼津原の白隠禅師)である。宝暦10年(1760年)、白隠の高弟東嶺円慈によって現在地に伽藍が創建された。
明治時代、星定元志が再興するが、その後は荒れ寺となっていた。大正4年(1915年)、山本玄峰が廃寺同然の龍沢寺に入り、修行道場として復興した。山本のもとには著名人が多く参禅し、第二次世界大戦末期の首相であった鈴木貫太郎に無条件降伏を進言したのも山本であった。山本の後は、中川宋淵、鈴木宗忠、中川球童、後藤榮山が住職を務めている。
また、戦後、小説家で高名な割腹自裁事件を起こした「三島由紀夫」も、同寺へ出入りするなど関わりがあった様です。また、真偽は確か見てもいませんが、三島氏(本名:平岡家)の墓所が、当寺にあるといううわさもあります。