私の思いと技術的覚え書き

歴史小説、映画、乗り物系全般、事故の分析好きのエンジニアの放言ブログです。

廻船が行き交う時代

2011-01-28 | 沼津そして伊豆周辺
 江戸時代は商業がそれなりに発達し、蝦夷(北海道)を除き我が国の沿岸を、多数の廻船が行き交う時代だったそうです。米や各地の特産物を満載した廻船が、海岸線に沿って風を頼りに帆走していたのでしょう。
 特に、東海道と平行する大阪と江戸の間は、多数の廻船が行き交っていたことでしょう。しかし、当時の和船は、外洋の荒海を航行する能力はなく、紀伊半島とか浜松から御前崎を通り伊豆半島の先端辺りなど、外洋の海流と接近する地域では、一旦嵐に巻き込まれてしまえば、難破してしまうことも度々あったのでしょう。この辺りの話しは、ジョン万次郎とかその他、当時の世界に旅立った者の数少ない事例ですが、吉村昭氏の各小説で興味深く知ることができます。
 さて、当時は廻船を保有して商いを行う廻船問屋(廻漕問屋)が各地に存在した様です。それは、今では、地方のひなびた漁港みないな地でもあったことの様です。写真は沼津市戸田(へだ)の小さな漁港ですが、往時は複数の廻船問屋がり廻船も優に50隻を超えていた様です。
 この戸田ですが、江戸時代にペリーの圧力により下田が開港し、しばらくしてから安政の大地震というのが起こります。その際、来港中だったロシアのディアナ号というのが被災し、修理のためこの戸田へ回送しようと向かいますが、折からの暴風に遭遇し富士市沖合に沈没した事件があったそうです。そして、多くの日本漁民に救助された艦長以下乗組員は陸路戸田へ到着し、戸田の船大工と共に、小型の洋式帆船「ヘダ号」を完成させ帰国したのだといいます。その後、洋式帆船のノウハウを会得した船大工達は各地に散り、以後の洋式船製造の一翼を担ったと伝えられます。



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