私の思いと技術的覚え書き

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丹那トンネル慰霊碑のこと

2020-09-24 | 沼津そして伊豆周辺
 丹那トンネルとは、熱海と函南間の箱根山山塊を貫くトンネルで、在来線東海道本線用と新幹線用(新丹那トンネル)の2本が存在する。

 新旧どちらの丹那トンネルも、長さは約8km弱の長さを持つが、新丹那は旧丹那の50m程北側かつ、その路盤も数メートル高い位置に掘られているという。この理由だが、旧丹那トンネルは、工期7年で着工されたのだが、出水、落盤など難工事が続出し足かけ16年を経て完成したというものだ。この工事期間中の殉職者67名、重傷者600名以上という、現在であれば社会的な大問題になりかねない様な、大きな犠牲の上で完成したトンネルなのだ。なお、トンネル内からの流水は現在でも、ある程度の量が継続しており、熱海の海に導いていることを聞く。

 このトンネル掘削中の大量出水などで、工事が難航した訳だが、工事期間中に生じた北伊豆地震(1930年(昭和5年)11月26日早朝に発生)という大地震により、トンネル先端の切り端で、丹那断層というのが大きく動いていることが知られている。大規模ダムを造ると近隣で地震が生じるとか、CCCSという地中にCO2ガスを注入する施設を稼働させたら大地震が生じたなどと、地震との因果関係を疑う声は高いが、政府もしくは大企業に近い学者は否定し続けている。素人考えかもしれないが、トンネル開削で出水で近くの内部応力に変化を生じ、そもそも応力を受けていた断層が動くのを早めたということのなのかもしれない。そもそも、この地の断層は、日本列島本体は、フォッサマグナを境にして、北側を北米プレートが、南側をユーラシアプレートに別れているが、その境界付近に伊豆半島を際北端とするフィリピン海プレートが年に数センチという速度で北上しつつ押し続けているのだ。旧丹那トンネル完成から既に80年を超えるが、未だ北伊豆地震を越える巨大地震は生じてはいないが、何時起こらないとも限らないし、自然の脅威の前には人間の力など、小さなものでしかないのだと感じざるを得ない。

 さて、旧丹那トンネルは、難工事で多大の殉職者を出したこともあり、その慰霊碑が熱海側構口(トンネルポータル上部)と函南側構口近くのそれぞれに作られ祭られているので写真を紹介してみたい。

写真1~7 熱海側構口付近
写真8~13 函南側構口付近













余話
 新丹那トンネルは新幹線開業(昭和39年10月)に備えて作られたトンネルだが、実は建設開始は戦中となる昭和16年8月に開始されている。これは、現新幹線以前に戦前からあった弾丸列車計画がスタートしていたからなのだ。しかし。戦況悪化で昭和18年に工事は中断されていたのだ。それが、戦後の急速な復興で東京オリンピックに間に合わせるべく、昭和34年に再度工事が再開された約4年の工期で新幹線開業に間に合わせたということだ。
 ところで、静岡県田方郡函南町には「新幹線」という地名(字名で通常の地図には掲載されない)が存在するという。これは戦後の新幹線計画からの地名でなく、戦前の弾丸列車計画時代に新丹那トンネルの工事を行うための従業員宿舎が置かれた場所だという。工事終了後、従業員宿舎は撤去されたが、のちに同地に住宅団地が作られ「新幹線」という地区が生まれた。その後の同地区の住居表示実施によって「函南町上沢字新幹線」となっている。現在も同地区には新幹線公民館や「幹線上」、「幹線下」という名称のバス停が存在しているとも云う。

※参考過去記事
丹那トンネルのこと 2015-09-12
https://blog.goo.ne.jp/wiseman410/e/a239490252e842c52f7a3ccaa323adf9


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