今回は、ちょっと世の業務活動を広く俯瞰して、極一部の反社会的活動を除外すれば、世にある業務活動は役立つものだという、考えてみれば極当たり前のことを書き留めてみたい。
世には様々な業務としての活動がある。私が過去関わって来た、整備士家業だとか保険事故調査員としての活動も、ただ単に存在し、企業としての収益を上げ、その株主だとか経営者、従業員の生活を支えるだけの給与を得るだけの活動であるなら、それに関わりのない者は社会的活動としては認めないだろう。
なんでこの様な、当たり前のことを記すかと云えば、過去触れたって来た方々の中に、自己職種の過剰な卑下というような発現を聞くからなのだ。この様な発言を吐く者のことを、単なるグチというか哀愁の一つとして聞けば、同意できる部分もあるのですが、心底本気でそれらのことを繰り返す者には、たまにいいや考え方を変えてみてはと講釈を垂れる場面もある。
例えば、修理工場などが、「俺たちは油虫だ。世の最下層さ」に類する言葉を聞いたら、「それは違うと思う。確かに油にまみれて体も汚れない大手企業より給与も低いかもしれませんが、あなたがクルマを直してありがたがってる人がいるじゃないですか」と。
損害調査員の中にも、大先輩の中で「俺達は事故処理というどぶさらいさ」みたいな言葉を聞くことが何度かあった。これに対する私の反論は「私はねどぶさらいしているつもりは毛頭ありません。私達が苦労して解決することで、契約者も安心するし、例え100%でないにしても被害者も納得して戴いている訳でしょう。私達の活動がなければ、誰がそれをやってくれるんですか」と。
つまるところ、特に最近は特にの様だが、企業経営者は処理数を求めがちで、従業員に余裕を与えなさ過ぎる様にも思える。それに対して、黙々と処理に励む振りをする従業員が増えたという感も持っている。しかし、組織の中で、ある程度上手に立ち回ることを全否定はしないが、過剰に狡して(とまで云えなくても手抜きして)立ち回り上へのアピールは欠かさない者を見抜けない上が増えたと云う感はある。この辺りが、時代が変わったと感じるところでもある。
しかし、何れにしても個々人は組織の奴隷ではない。命じられたことに従うことは止むないこととは云え、それが社会的正義(世に役立っているか)に適っているかを個々人が考えつつ、活動して行くことが真っ当なことと信じている。
世には様々な業務としての活動がある。私が過去関わって来た、整備士家業だとか保険事故調査員としての活動も、ただ単に存在し、企業としての収益を上げ、その株主だとか経営者、従業員の生活を支えるだけの給与を得るだけの活動であるなら、それに関わりのない者は社会的活動としては認めないだろう。
なんでこの様な、当たり前のことを記すかと云えば、過去触れたって来た方々の中に、自己職種の過剰な卑下というような発現を聞くからなのだ。この様な発言を吐く者のことを、単なるグチというか哀愁の一つとして聞けば、同意できる部分もあるのですが、心底本気でそれらのことを繰り返す者には、たまにいいや考え方を変えてみてはと講釈を垂れる場面もある。
例えば、修理工場などが、「俺たちは油虫だ。世の最下層さ」に類する言葉を聞いたら、「それは違うと思う。確かに油にまみれて体も汚れない大手企業より給与も低いかもしれませんが、あなたがクルマを直してありがたがってる人がいるじゃないですか」と。
損害調査員の中にも、大先輩の中で「俺達は事故処理というどぶさらいさ」みたいな言葉を聞くことが何度かあった。これに対する私の反論は「私はねどぶさらいしているつもりは毛頭ありません。私達が苦労して解決することで、契約者も安心するし、例え100%でないにしても被害者も納得して戴いている訳でしょう。私達の活動がなければ、誰がそれをやってくれるんですか」と。
つまるところ、特に最近は特にの様だが、企業経営者は処理数を求めがちで、従業員に余裕を与えなさ過ぎる様にも思える。それに対して、黙々と処理に励む振りをする従業員が増えたという感も持っている。しかし、組織の中で、ある程度上手に立ち回ることを全否定はしないが、過剰に狡して(とまで云えなくても手抜きして)立ち回り上へのアピールは欠かさない者を見抜けない上が増えたと云う感はある。この辺りが、時代が変わったと感じるところでもある。
しかし、何れにしても個々人は組織の奴隷ではない。命じられたことに従うことは止むないこととは云え、それが社会的正義(世に役立っているか)に適っているかを個々人が考えつつ、活動して行くことが真っ当なことと信じている。