三島から南方向の伊豆半島一円は、江戸時代まで伊豆国と呼ばれた地方でした。そして、この伊豆国を統治したのは、「江川太郎左衛門」を代々襲名する代官だったのです。この代官屋敷は、韮山(にらやま)(現:伊豆の国市韮山)に文化遺産として遺されています。
この代々の「江川太郎左衛門」の中でも有名 なのが、第6代当主の「江川英龍」(ひでたつ)で、担庵(たんなん)とも呼ばれる人物です。
英龍の生きた時代は正に幕末の頃、黒船来港等の事件が続き、国防が注目されていた時代でした。そんな中、英龍は、時の幕府の要請により、江戸(東京)湾の台場の建設の指揮を執っています。なお、この時実際の人夫として現場を受け持ったのが、韮山と三島の中間位の場所となる大場(だいば)に住む、通称「大場の親分」(本名:森久治郎)と呼ばれた人物であった様です。同時代の似た様な有名人に「清水の次郎長」が居ましたが、若干の関わりもあった様子です。
この他、英龍は韮山に反射炉という一種の溶鉱炉を作り、大砲の鋳造を行っています。何処まで実用的な大砲が出来たのかは判りませんが、レンガ作りの反射炉自体は、現在でも文化遺産として遺されています。
以上の様に、英龍は江戸から離れた伊豆の地にあっても、先進的な気風を持っていたことが伺われます。しかし、英龍は幕末を待たず、僅か53才で病死した様です。
現在の韮山は、正直云って田舎というべき場所です。しかし、江戸時代までは、伊豆国の中心であり、政治、行政、文化の中心地であったのです。