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人物探求:中島知久平 その1

2022-11-10 | コラム
人物探求:中島知久平その1
 当初書評として記すつもりであったが、中島知久平氏のことを知ろうと2冊の本をサラッと読んだが、書評としてまとめるより人物探求として私が感心を持つところの物作り技術者という面でどのような方だったのかを書き記してみたい。

 さて、中島知久平という名を聞いて、ああそれは、戦前戦中の中島飛行機の創業者だなと判る方は、その地元群馬太田市以外では少ないのではなかろうか。私自身も知久平氏の名前を最近意識する様になった。ただし、中島飛行機という企業が存在し、それが現在のスバルとか旧プリンス自動車、すなわちニッサンのDNAの中に含まれることは意識し続けて来た。

 最盛期の中島飛行機の企業業容だが、その工場数およそ100あまり、従業員数26万名という云うから、それは凄いものだろう。ただし。この工場数とか従業員数の多さも、戦局の悪化に伴い米軍のB29による当初は軍需関連工場への爆撃が始まり(それは後年年の無差別爆撃に変化した)、工場を分社かしつつ疎開させて増えたという側面があるのだろうと想像できる。

 中島飛行機の本社工場は、現在のスバル本社のある太田市だが、その後主に航空機用エンジン工場として、東京工場他幾つかの工場を追加していった様だ。そして、さらに増産および疎開要員も含めて、半田工場(愛知)、浜松工場、三島工場など他を追加して云った様だ。

 この内、先に述べたが太田市近郊の工場群は富士重工→現スバルに引き継がれ、東京工場は、富士精密→プリンス自動車→日産と引き継がれ、日産の経営困難でルノーの資本導入でのカルロスゴーンのリバイバルプランで閉鎖となった。半田工場は現在は輸送機工場というあまり一般人には知名度が低い企業になってるが、ここはいわゆるB to Bの三菱、スバル、川重、日本車輌、新明和のサプライヤー企業であり航空機用機体の一部を作る企業の様だ。浜松工場は、現在THKリズムという企業となっているが、主に自動車用サスペンションやステアリングなどの鍛造部品を作り車両メーカーに納めるサプライヤー企業だ。

 ちなみにこれを読んで下さっている方に問いたいが、自動車の足回りやステアリング系で鍛造部品というと具体的に何を指すのか思い浮かぶだろうか。私もこの記述を記すにあたり、中島知久平の表す著述だけでなく、さまざまNet探索を繰り返し今更認識を新たにしたのだが、足回りとしては昨今サスペンションアームでアルミ製のものは増えたが、鋼製は除きアルミ製のものはまず鍛造と考えて良いだろう。また、ステアリングおよび足回りにも関わるがフロントナックルスピンドルとか、タイロッドバーとかボールジョイントの心棒(ぐりぐり)は、ほぼ鍛造製の様だ。なお、THKリズムでは製作してないが、アルミホイールも大型車用とかBBSを筆頭に高性能ホイールはほぼ間違いなく鍛造製となる。また参考と知識増加のために、溶接はウェルディング、ロウ接はブレージング、鍛造はフォージング(Forging)が英文読みでアルコアの大型車用アルミホイールなど、ホイールサイズとリム幅の刻印と合わせ"F"の文字も入っていることに気づかされる。

 三島工場(静岡県)だが、私の住む沼津市のとなり町なので昔から意識して来たが、ここは現在は国立遺伝学研究所という施設になっている。なお、戦時中は沼津市駅北側には海軍工廠という大きな施設があり、程近くに幾つかの郡関係の工場があったこともあり、東京や川崎ほどではないが、空襲の被害を受けている。この点で、三島市は郊外に先の中島飛行機工場とか陸軍部隊もあったのだが、空襲の被害はほとんど受けていない。そんなこともあり、三島の街中を車で走るや歩行すると、ハッと見すえるほどの旧建築が残されていて嬉しくなる。さらに付け足すが、この三島工場の分工場というべき工場が沼津と三島を隔てる黄瀬川という川を隔てる沼津側の岸沿いにあり、20年近く前まで富士ロビンという産業用小型エンジンを作っていた。その後、大工道具などを作るマキタになったが、それもいつの間にか撤収され現在は更地となっている。

 ということで、肝心の人物像に至らず、工場業容までで「その1」として今回は終えたい。以後、その2で記す予定としたい。


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