私の思いと技術的覚え書き

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ものごとの判断

2022-05-12 | 問題提起
ものごとの判断
 これは拙人が損保所属の調査員時代というより、ディーラーサービスマンだった時だから、本人としてはあまり変わってはいないつもりのことだが、ものごとに対する判断の思考の根源を記しつつ振り返ってみたい。

 ディラーサービスマンの時代もそうであったのだが、なるべく顧客が訴える情報をできるだけ聞く様に努めてきた。ただし、フロントマンとか人づてに、現象を聞きその不具合の修理を行う場合もあったが、そういう場合は納車時に、こういう訳で今回のトラブルは起きており、こういう処置を取りましたから直りましたと説明する訳だ。このこと自体は、現在も基本は変わっちゃいないと思えるのだが、そこには形骸化した不具合の聴取とか同じく部品取替しましたという言葉に代表される、原理原則を判っていない、それがプロかという形骸化が進んでいる様に思う。

 保険会社に業務は移行したが、どうも保険会社の教育は、以下に妥当性のある見積を作るかという視点で貫かれていた様に思う。これは必ずしも間違いだと認識して来ていた訳ではないが、仮にその妥当性ある見積というものが100人の調査担当者が存在し、それらが作る見積が極めて近時値に収束するを持って達成するのかと云えば違うだろうと思わずにはいられなかった。

 保険調査員をやっていれば、生じた損害について、保険約款で規定される見れる損害、除外される損害とか、そもそも賠償保険であれば法律上負担の義務負う(民法709条)とか、車両保険とかの財産上保険では、様々な細かい規定もあるが、「急激(突発的)、偶然(たまたま)、外来(外なる要因)」という三要素が欠かせない。従って、接する保険契約者だとか入庫工場(多くの場合保険契約者の視点に立つ)、保険代理店などに対して、その損害を指して「家では見れない」という同一職種の自社および他社の者のことを間接的に聞いたりする場合があるが、まるで言葉足らずの端的に云えば例レベル発言だと断じて来た。

 もし、これが、自ら指揮する部隊における下位担当者だとしたら、懇々とその間違いを説明し、そういう云い方を改めさせずには済まさなかっただろう。なお、自ら全国の自社調査員に対し、研修とか各種文書で通達しる一時期もあったが、その様な中で、調査員が行う見積とか判断は、相手の承諾を受けて初めて有効化するものであって、有効化する以前の思考は、謙虚であって相手の意見に耳を傾け、説明を求められたら、十分な説明を尽くさねばならないと繰り返して来たのだが・・・。

 今、損保を去って10年を越えるが、世の動きは大義名分は清廉潔白、公明正大で、大切なのは透明化と説明責任のまっとうですと政治家とか企業アピールには記されているが、何と空しい言葉だろうか。

 下記に過去記事として「家では認められない」ということをだいぶ以前に記しているが、この言葉を吐く調査員には、自らの判断が欠落し、企業本社の判断だけで述べているおよそデモクラシー気風がないことが伺えると思える。それなら、明らかに社会的に非難を浴びることを命じられて、これが会社の判断ですからと云えるのかと聞きたくなる。世にはブラック企業とか、情報の格差を利用して、このレベルまで認めることを一般人は知らないから、「家では認められない」と蹴っているとすると、公正とか公平な損害調査とはおよそかけ離れてくる訳だが・・・。

家では認められないという話の本質
2016-02-05 | 車と乗り物、販売・整備・板金・保険
https://blog.goo.ne.jp/wiseman410/e/4eaa6b36a7ecde2248172447778d2a05


#保険会社は営利企業だが #社会的使命として公平・公平を強く求められる


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