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自研センター小史 その1

2023-06-26 | コラム
自研センター小史 その1
 ここでは、本の表題が「自研センターのあゆみ -20年小史-」という本の内容を中心に、何回かのシリーズに分けて、その内容からしれる自研センターおよび損害保険会社の主に物損関係の査定のことなどを記してみたい。

 この「自研センターのあゆみ」は表紙カバーと奥付を添付するが、1994年3月に発行された文庫サイズ本で総ページ数300弱というものだ。内容としては、副題に20年小史と記してあることから想像ができるが、自研センター設立までの経緯(歴史)だとか、当本の発行時までの現状の業務内容などが記されている。なお、当本は非売品であり、当時の所内とか損保関係者に配布する目的で製本したものと想像できるが、当方は発行当時、自研センター講師を行っていた関係者として謹呈を受け所持しているものだ。


1.自研センターの設立
 1971年6月東京海上社損害調査部内に設立準備室が設けられ、島田啓助室長(後の自研センター初代社長)以下、3名の陣容でスタートした。この組織は、当初東京海上単独の事業運営構想から出発したのだが、欧米視察の結果から検討した結果、特にクレームマン研修は、数社ないしは損保全社の参加協力が望ましいという方向へ変わった。そして、当初数社それぞれ独自の組織を作る企画が、損保全社の参加による新組織とするとことと、財団法人とか社団法人ではなく、損保全社の出資による株式会社とすることが決定された。
 新組織(自研センター)の事業目的は、当初のクレームマンの教育訓練から手を付けるにしても、欧米の様にリペアリサーチを一つの組織の中に包含するということが結論された。
 施設はサッチャムおよびフォルクサムを参考に検討され、宿泊施設は受講生2千人/年を対象として、研修施設、実習、実験併用の工場の建設を予定し、東京近郊に約3千坪の敷地を探すこととなった。
 この結果は、現在の市川市に所在する大林組所有地8千坪を東京海上社が買い取ることとなり、その一部に自研センターが建設されることとなった。以上の諸点は、1972年9月および12月の損保全社参加の自動車保険常任委員会において決議された。
 1973年6月、損保全社の社長列席の下で「自動車保険研修センター」設立総会が開催された。なお、当初の法人登記は、この通りで行われたが、10年後となる1983年に社名を正式に「自研センター」と改称した。1974年4月1日、自動車保険研修センターは事業開始した。さらに、1975年4月1日にアジャスター制度が発足した。

2.自研センター設立に至るまでの歴史
➀戦後のモーターリゼーションの立ち上がり時代(1950-1960年頃)
 敗戦を迎えたのが1945年(昭和20年)だが、日本のあらゆる製造業は壊滅的な状態からリ、スタートした。ちなみに、自動車生産数では、2022年現在日本は、世界各地に製造拠点を持つに至っていて、その生産数では世界1位となっており、国内自動車保有台数もだいぶ以前に8千万台を越え微増を繰り返す高原状態に至っている。
 この自動車生産について、別表1の1950年~1990年までの急増ぶりを驚きを持って見つめる。つまり、1950年の四輪生産数は31千台であったものが、1960年には481千台と15倍に、同じく保有台数では476千台が230万台と5倍近くに急増しているのだ。つまり、日本のモーターリゼーションの立ち上がりは、1960年ちょっと前から始まっていることが判る。

 この自動車の急増により、国内損害保険業も自動車保険の需要に答える形で、自動車保険の占めるシェアは、別表2の通り1960年に20%程だったのが、1970年には57%に増加した。

 また、別表3の通り、1960年の保険支払件数は276千件だったのが、1970年には113万8千件と4倍に増え、別表4に示すが、損害率とは収入保険料に対する保険金支払の割合云うが、特に車両保険の損害率悪化が恒常的に続くことになった。これに対応するために、損害保険会社では1964年に設立した損害保険料率算定会の統計に基づき数度の保険料値上げを行って対処してきた。
 損害保険業界としては、自動車保有台数の増加と共に急成長する自動車保険が全収入保険料の半分を越える程を占めることになり、この自動車保険の損害率如何が、各損保社の経営に大きな影響を与えることを意識せざるを得なくなった。


②モーターリゼーションの普及時代(1970年前後)
 1970年、四輪車生産台数50万台を超えた。また、1975年には自動車保有台数は2800万台に達した。1970年以前、車物収入保険料はその契約件数の増大と共に著しく増大していたが、車物保険の損害率は悪化していた。
 損保全種目における自動車保険および自賠責保険の収入保険料は1960年度で20.1%に過ぎなかった。しかし、1970年になると自動車保険および自賠責保険の収入保険料は10年前の27倍となる5758億円に達した。この結果、損保の全種目に対する自動車保険の比率も57.1%を占めることになった。
 1970年の自動車保険と自賠責保険金の支払い保険金は3371億円となり、損害率は58.5%となった。1970年の車物だけを絞ってみると、収入保険料991億円で60年の8倍になった。しかし、支払保険金は11万件、590億円に達し、1960年に比べ著増し損害率は59.5%となった。
 この原因は、まず交通事故の多発化がある。60年の交通事故は45万件であったが、70年には72万件となり、この年の年間死者は16,765名と現在までの最大値に達するに至った。
 1970年に自動車保険の料率改定で引き上げがなされたが、特に車両保険では損害率が依然として高い水準で推移した。ここに、損保業界として、車物保険金の合理化、低減化のための抜本的な対策の実施を迫られるに至った。それが、鑑定人および調査人の1本化(後の技術アジャスター制度)であり、車物クレームマン(鑑定人、調査人、損保社員)の研修施設(後の自研センター)の設立だった。

③自研センター設立至近の損保の思考
 自研センターの具体的な設立が損保業界として意志統一される以前、幾つかの損保において車物保険への重点対応への思考が始まっていた。
 その1として、機械化による自動車および自賠責保険統計の正確な統計。その2は、この統計による保険料率の検証。そして、その3は車両損害の教育訓練とリペアリサーチに先立つ、欧米各国の実情把握だった。
 この思考の中で、東京海上社では、自動車修理専門教育、研究工場設置案と、海外事情の調査と鑑定人と調査人の制度合理化の必要性を提言なされた。そして、1971年5月10日から2週間の予定で3名の欧州視察団が、スウェーデンのフォルクサムオートならびに英国サッチャムの両センターでの訪問調査がおこなわれた。また、同年9月には、2名の米国視察団メンバーが選任され、ベール研修センターを中心に2週間の予定で実施された。なお、この旅程の一部で、日車協連の視察団に同行しているそうだ。
 この2つの視察団の派遣目的は、欧米各国のリペアリサーチ活動およびクレームマンの研修の実態調査にあった。サッチャムセンターでのリペアリサーチでは、タイムスタディの結果が現場で活用され、作業時間×レバーレートを基礎とした見積が実際に行われていた。
 ただし、クレームマン研修では欧州の実情はあまり参考とはならず、むしろ米国ベール研修センターでの事情が参考となった様だ。同センターでは損保500社、数千名のアジャスターを対象とした泊まり込み研修が行われていた。この研修管理は厳格で、受講生各自の成績が個別損保に報告されるなど、管理体制も万全と感じた。また、受講生の成績が悪ければクビもあり得るという厳格なものであるが、この様な研修所が、独立の私企業として運営されていることに驚いたという視察人の談話も記されている。
 なお、米国の場合、マニュアルに従った作業時間が測定され、労働組合と合意されたレバーレートを乗じて見積書が作成されるという米国らしい合理的な手法が確立されていたという。
 この2回に渡る欧米視察での結論は、まずクレームマンの教育訓練から入るべきで、現在の日本の諸事情から後刻にタイムスタディから標準作業時間×レバーレートの見積算定や、中古部品の活用などを進めるということであった。
※ここは拙人としての注となるが、後刻日本でも調査員をアジャスターという名称にすることになるが、米国のアジャスターと日本のアジャスターでは、その組織でおける立ち位置が異なる。簡潔に記せば、米国アジャスターは支払い権限を持つが、日本のアジャスターはあくまで調査し金額の同意(協定)するまでという違いがある。なお、米国では、見積額だけの業務を行う者をアプライザーと呼称していると聞き及ぶ。

 長い記述となったが、その1としてここで区切らせてもらう。この続きは、その2以降に記して行きたい。


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