私の思いと技術的覚え書き

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郷里の偉人 続きの話し

2019-02-04 | 沼津そして伊豆周辺
 先日、郷里の偉人として、伊豆国を治めた代官たる江川太郎左衛門・英龍とお台場のことを記し、コメントから大場の久八(森久八)なる博徒のことに話しが及びました。その後、久八のことを知りたくて各書籍に当たりましたが情報が極めて少なく、まとまった書籍は見つかりませんでした。それでも、幾つかの書籍から、英龍と久八だけでなく、これらと関係する様々な群像が多少は明らかになり、非常に面白い部分も感じるところもあり紹介してみます。なお、一番参考になった書籍としては、「博徒の幕末維新」(髙橋敏著)によります。

 博徒の幕末維新では、甲州無宿の竹井安五郎という博徒が伊豆諸島たる新島へ遠島されていたのが島抜けするところから始まります。時あたかも、米国のペリー艦隊(黒船)が来訪し、江戸幕府は右往左往の混乱状態だった時のようです。安五郎は網代へ上陸すると、甲州へ帰る訳ですが、兄弟分たる旧知の久八を間宮村(函南町)に訪ね応援を請います。久八は、かつて英龍から中追放(重中軽三種の追放刑の中位のもの)を受けているが、お構いなしに伊豆、甲斐、武州(埼玉)などで親分家業を拡大していた様です。筆者も記していますが、幾ら黒船騒ぎで多忙であろうが、英龍は久八も安五郎も捉えたことがあり、その関係も知っており、その気になえば捕まえられたはずだろうと。あえて逃がしたことは、後の台場(大場と云われるが本来は台場の久八)の築造が既に見えていたことを伺わせる表現がされていいます。そして、黒船は一旦引き上げますが、1年後の再来を予告し、それまでに開国を決意すべく督促しているのですから、幕府の混乱は続いたのです。そして、英龍が担当することになったのが台場と大筒(大砲)を作るための反射炉(溶解炉)の築造だったのです。

 ところで、安五郎の甲州逃亡に手を貸したもう一人の大物が、甲州境村名主の天野海蔵という男だそうです。天野は、甲州内谷村の特産甲斐絹を押さえ、駿河国沼津と江戸に出店し、薪炭業や廻船業も手広く営む豪商かつ政商に近い人物だったそうです。安五郎とは同い年であり、若い頃はいっぱしの侠客気取ったといい、安五郎とは相知る中であったといいます。ここに、英龍との接点も生じてくる様です。英龍の治めた地は、伊豆国のみならず、甲斐、武州、相模と広大な地であり、予て英龍は甲州の天野にオピニオンリーダーとしての目を掛けていたと想像されるし、天野も商圏拡大に英龍の力を借りたのだろうと記しています。と云うことで英龍は、台場築造の調達を天野に担わせた様です。天野は、伊豆、相模、遠州、三河、紀州、豊後(大分)、松山までの広大な範囲から台場に必要な石を集めたといいます。しかし、天野でも調達できなかったのが、人足と差配であって、ここで登場するのが弟分の間宮の久八だったと記しているのです。

 しかし、久八は先に述べた様に中追放の身分であり、難色を示し断り続けた様です。そこに登場するのか英龍の筆頭手代たる柏木総蔵という人物でなのです。柏木から要請を受けた久八は、日頃目こぼしを受けている負い目もあり、中追放も目をつぶるとの暗黙の了解の上で、自身のネットワークで人足の手配をなし、自らも含め差配も取り仕切ったということの様です。

 台場の築造が終わり、莫大な請け負い金が天野に支払われたそうです。千両箱が数十個だと云われますが、天野が甲州への帰り道、間宮の久八方へ立ち寄り千両箱一つを渡そうとしますが、久八はがんとして受け取らなかったといいます。台場の親分としての手当は既にもらっており、それ以外の金をもらういわれはないという男気でしょう。結局、後にこの1千両は韮山代官所へ寄進され、天野金として活用されたといいます。

柏木総蔵の人物像について、下記の信用あると判断できるブログ文を見つけたのでリンクします。

日本の心・武士道 柏木総蔵にみる武士道(花見正樹氏ブログより引用)
https://www.kaiundou.jp/bushidou/?p=557

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