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【書評】裁判所が道徳を破壊する

2021-04-20 | 論評、書評、映画評など
 著者の「井上薫」氏をWIKIで経歴を調べると、東大を大学院・理学科学専攻修士課程を納め、その後民間の研究所を経て独学で司法試験に合格とかなり異色の経歴を経て裁判官になっていることが判る。1986年に判事補任官、1996年に水戸地裁・下妻支部判事、1998年前橋地裁・高崎支部判事、2004年横浜地裁判事を経て、2006年退官となっている。都合20年の裁判所での勤務だったことと、退官時の年齢は52才だったことが判る。その後は弁護士登録をしている。

 これは勝手な想像を多分に含むが、判事としての業務に相当な矛盾も感じつつ「ヒラメ判事」(常に上を見て上位判事を目指す)ことはできぬと悟ったに違いないと思える。

 今回の書評だが、同書は3つの例題と判決文に対する1つの問題を、その実例を上げ綴ったものだ。それは、以下の実例となる。

1.義務教育学校などの給食費を平気で払わないバカ親たち
 小中学校などの義務教育学校では、学費は国費であるが、お昼の給食費は人件費は国費だが、材料費は個別自己負担として親が支払うという規定になっている。それを生活保護世帯とか母子家庭で本当に困窮しているならともかく、夫婦が外車を乗り回す様などう見ても支払うことができる様なバカ親がいるという。この様な、ある意味公的な金を罰則などがないと知ると平気で踏み倒そうとする親のモラルの頽廃を嘆いている。

2.安易に行われる破産認容
 他人から金を借りたら返すのが普通の道徳だ。ところが、昨今はサラ金などの普及により、いわゆる借金を返済するための新たな借金を繰り返したあげく多重債務となり、それをチャラにするための破産認定を受けようとする者が増えつつ、裁判所が安易に破産を認め過ぎているというテーマを記している。

 そもそも法律上、多重債務者など、何れ破産するしかない状況で新たな借金をするなど、自己破産の権利の乱用を防ぐために、その様な場合は認められないという条文がある。それなのに、裁判官は過度の斟酌により自己破産を認め過ぎており、これでは債権者に不利益は高まるだけだろうというものだ。

3.尊属殺人の法律を越権行為で踏みにじる判事
 ある事件で、娘をムリヤリ姦淫し続けた父親がいた。娘が婚姻しよう云う意志を示したところ激高した父親と諍いが生じて、娘が父親を刺殺するに至る事件が起きた。従来の尊属殺人を適用すると、最低でも3年6月の懲役となり、3年を越えると執行猶予を付すことはできない。普通殺人だと、最低3年で執行猶予を付すことができる。そこで裁判所の取った処置は、尊属殺人は憲法の平等の原則に照らして違法だからという理由付けで、尊属殺人という罪名を無効としてしまったと云う。

 しかし、尊属殺人として、親子間などの殺人を通常より重罪とする考え方は、親を大事にするという古来からの道徳に基づいて普通殺人より重罪にすることが規定されたものだったのだが、今回の事案の情状酌量の余地を優先させようとするあまり、平等の原則を持ち出し、法律を廃止してしまったというものだが、こんなことが裁判所に許されるのだろうかというテーマだ。つまり、被告の女性の情状酌量の余地は十分認められるが、法律の解釈を云々するのは判事の権限だが、法律を廃止したりする権限など判事に与えている訳でもないのに、それを平然と行ったことへの問題視を行っている。

4.判決文に内在する蛇足の弊害
 ものごとを書き表す場合、情緒的な物語をべつとして、ビジネス文書だとか公的な命令書であれば、必要最小限に端的に記すのは当たり前のことだ。

 判決文は、結論と理由の2つに大別できる訳だが、理由は結論に至る合理性を補佐するために記すものなのだが、実際の判決文は、理由にもならないある意味結論に関係ない蛇足判決文が如何に多いことかをテーマとしている。しかも、判決文を記している判事は、何とか結論を補強しようと頭をひねくり廻しているのだろうけど、判決を越えた、いわゆる越権というべき文意を平気で書き散らかしている場合が往々にしてある。

 ここからは私見だが、さほど大量の判決文を過去読み続けた訳でもないが、一般論として記させてもらえば、判決文の理由は、世にこれ程の悪文はあるのだろうかというものが多過ぎると感じる。その一つが、一分が極端に長い文章が続くことが挙げられると感じる。つまり、文頭から句読点(。)までが、A4文書で数行におよぶ判決文は珍しくなく、こうなると主語が、何処に掛かるのか、もしくは何処を指すのかも曖昧になる。こんな文章の書き方を新聞などでやったら、本当に意味が理解し難く、苦情の嵐となるだろう。

 それと、公文書たる命令文なのだから、修飾語を使うにしても、余程注意して、誤解を生まない様な留意が必要だろうと思うが、それが結構おざなりになされていると感じる。

 このことは企業の命令書とか警告書などでも結構あることで、例えば「散見される」と断じている文章があるが、散見とは「あちことにチラホラ見当たること」の意だが、実際には2つの事例にしか落ち度はなく、とても散見などしていないという文章に呆れた記憶がある。書き手は、何とか被注意者等に警告したいがあまり、もしくは発令者の妥当性を強調したがために、この様な文体になるのだと思うが、知恵足らずの文章は、逆に反論を生み出す元になるだろう。


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