私の思いと技術的覚え書き

歴史小説、映画、乗り物系全般、事故の分析好きのエンジニアの放言ブログです。

戦時下の沼津のこと

2018-08-22 | 沼津そして伊豆周辺
 先の太平洋戦争が敗戦となったのは昭和20年(1945年)のことだから、既に73年も前のことになる。当然のことながら、私も、この戦争を実体験していないのだが、種々話しに聞いたり、文献の中で伺える事柄に感心を持って接している。先日、図書館で見て今回紹介する2つの図面(1つは手書き)は、戦時中の空襲での火災範囲と、軍関係施設を示したもので興味深く眺めた。

空襲の範囲と軍関係の配置
 沼津駅北側に広大な用地を軍が接収(住民は強制移転)し、海軍工廠が存在していたことは知っていた。従って、これを目標に沼津は空襲を受けたと思っていたのだが、空襲は駅の南側の範囲がほとんどであったことを知る。この地図を見ていて、軍関係および関連工業品(軍需物資)を生産納入していた下記の数々の工場などが読みとれる。
①沼津海軍工廠
 駅北側の用地を軍が接収し製造工場を設立したもので、主な製造品は電波探信儀(レーダー)、航空機用無線機の様だ。

②海軍技術研究所(海軍技研)
 沼津市下香貫で現三中や第三地区センターのある地に、海軍技研・音響研究所が東京から移管され設立された。音響というから、ソナーだとか音響追尾(ホーミング)などの実験研究をしていたのだろうと想像する。なお、この技研の実験施設が、沼津市内の、西浦地区、淡島、大瀬崎などにあったことが伺える。また、柿田川湧水を引き込む導水管を同技研が施工し、ために水利権を沼津市が手に入れる切っ掛けを作ったことも伺え興味深い。

③海軍工作学校
 これは沼津でなく隣の清水町長沢辺り(静岡医療センターの北方)にあった様である。wikの記述によれば、「軍関係の各種工作術(船匠・鍛冶・溶接・潜水作業)、ダメージコントロール、築城術・設営術、航空機整備術の技官や職工を養成する教育機関(軍学校)である。」とある。

④民間軍需物資工場
・沼津兵器
 芝浦機械と軍の官民共同で作られた軍需工場の様だ。何を作っていたのか不明。今の矢崎大岡工場辺りにあった様子だ。

・芝浦機械
 現東芝機械だろう(東芝の凋落により近く社名変わるのかも知れぬが)。工作機械企業である。

・三井精機
 現在は沼津に存在しないが、現在も残る工作機械企業だ。

・富士製作所
 戦後も長くスポーツデポ近隣を大きな廃墟工場が残っていたが、その裏地に現在も残る工作機械企業だ。

・国産電機 掲載地図にはないが、門池近くにある航空機エンジンの点火システム(マグネトー)製造工場だ。近年マーレエレクトリックドライブズジャパンという独企業傘下の系列となった。

・中島飛行機工場
 旧国1の黄瀬川沿い沼津側のほとりに戦後も長く富士ロビンとして残っていたが、近年マキタに変わったと思ったら、そのマキタもなくなり更地になっているそうな。ここは元々、中島飛行機三島製作所の分工場だった様子だ。なお、中島飛行機三島製作所は、現在の国立遺伝学研究所の場所にあり、航空機用部品を作っていたらしい。谷田の崖沿いには地下工場の痕跡あったそうだ。

・昌和洋行(製作所)
 同社は元来商社であったようであるが、沼津工場でオートバイを製造し軍需指定された様だ。戦後もオートバイ製造を続けるが、ヤマハ傘下となり沼津を去る。

・各種螺子(らし)企業
 螺子(らし)とは難しい読みの名称だが、いわゆるネジ(主に小ねじ)のことだ。大川螺子、イズラシなど、沼津周辺には螺子(主に小ねじ)を名乗る製造企業が戦前からあった。ネジは工業製品の製造に欠かせない要素技術の一つである。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。