近未来の自動車の産業構造と民主主義の危機
この世の中の主に製造業を俯瞰すると、既に製造業としての頭打ち限界が見え始めている様に思える。そして、製造業には、完成品をブランドを示して世にリリースするメーカーと、半製品をメーカーに納入し、完成品としてはそのブランドを示すことが宿命的に難しいサプライヤーの2種に大別できる様に思える。
このメーカーとサプライヤーの数は、圧倒的にサプライヤーが多いし、サプライヤー同士は絶えず競合関係にあり、メーカーの様に付加価値を追求した商売が難しいという宿命がある。つまり、メーカーによれば、過度な単一のサプライヤー依存は、割高コストを生みかねないし、不慮の事故や災害による供給途絶のリスクを生むから、適度に複数以上のサプライヤーと契約し、競合させてコスト上昇を抑制したり、供給途絶のリスクに備えることを行う。
一方、自動車産業に関わらず、世界人口60億という中で、先進諸国においては、既に自動車の保有数は頭打ちの限界を迎えているのは日本に限らず同様だろう。現在、自動車販売が増加し得ている国は、あくまでも新興国であり、主要自動車メーカーやサプライヤーは、その近郊に現地工場を設立しつつ、つまり既存の中心を新興国たる周辺に移して自社生産を維持もしくは微増させているのだが、それすら近い将来限界を迎えることは確実だろう。つまり、エネルギーとか原材料の高騰の問題もあり、一方現在の資本主義は利益率として上昇が限界を迎える中で、極僅かな富裕層と貧困層を増やし、購買力を持つ最大の中間層を減らしてしまった故でのことだ。
こうなると、自動車という製造業の未来は、台数増加の限界は近いと予測するしかない。しかも、現在のASV(自動運転車)は何処まで普及するのか、その時期が何時ごろになるのか見通し難いところではあるが、何れにしても技術が確立され次第であるが順次その方向へ向かうだろう。このASV技術が確立された場合、個々人が車両を保有する必要度は著しく低下することになる。つまり、必用な都度、自動的に配車され、目的地に到着すれば勝手に帰って行く自動車が普及すれば、わざわざ高額な車両を買う者は、余程の富裕層に限定されるだろう。このことを端的に示すのが、町を村を近隣を見廻してみれば、走行している自動車より、余程多くの自動車が停止して保管されている状態にあることから明かなことと判る。つまり、ASV技術が完成すれば、人類は現在の保有台数より、余程少ない車両で、その移動という手段を充足できることになる。
また、EV技術は、従来の内燃機関より余程簡単な技術もしくは専門サプライヤーからの部品供給で、その求められる技術水準のしきい値は低い。また、ASV技術は、既存の車両メーカーに蓄積された技術的優位点はまったくなく、AI技術というべき高度なソフトウェアを低遅延で動作できるハードウェアがあれば、その目的は達成することが可能だ。しかも、道路に接地された情報源とか車間情報のプロトコル(通信規約)は現在のところ世界標準規格までには至っていないが、何れその優劣が明確になれば何処かのメーカーの規格がデファクトスタンダードとして認められる時代が来るだろう。こういう時代、従来の車両という技術を育て上げた既存車両メーカーの技術的蓄積だとかその設備機器に投じたコストは、むしろ重荷としてコスト競争力の弊害になる可能性すらありそうだ。
このような、EV化とか完全ASV化が達成される時代になると、そもそもぶつからない前提での自動車という設計理念が生まれて来ると、高度なクラッシュ特性を確保できうるボデー設計技術とか、運転していて操安性が良いとかいう、高度でコスト高となる既存車両メーカーの優位点はまったくなくなる。それよりも、前輪操舵ユニットとか、駆動制動ユニットとかを低コストで作り出せる、大規模サプライヤーの優位点が出て来そうに思える。そして、車両を企画するIT企業では、自社の持てる高度なAIソフトウェアおよび通信プロトコルを基本としつつ、各大規模サプライヤーのユニットを組み合わせることで、完成車ができるという事態になりそうだ。なお、この場合、ボデー外板を作り出す主に樹脂射出成型とアルミダイキャスト製品を生み出す、新たなサプライヤーが登場する可能性があるのだが、これは既にバンパーとかインストルメントパネルやドアインナーパネルなどを作り出している専業サプライヤーがあり、ちょっとした製品の拡充程度で目的は達成できる様に思える。
当初にも述べているが、現在の資本主義は、利益を求め技術革新と共に産業を発展させてきたのだが、自動車に限らずだが、その最小維持という意味でしか、利益の増加は不可能な時代が来るのは必然となるのだろう。そうでないと、現在IT金融業が投資としう単なる資本の移転だけで、バブルを生み出し、その破綻の都度、公的融資を注ぎ込みつつ、従業員の整理解雇や非正規社員の増加という名目で中間層がなくなる時代になっているのだが、この世を代表していた中間層の欠如は、すなわち民主主義の崩壊へと結び付くことと同意語となることは目に見えている。これへの抵抗の動きが、米英でのメキシコとの壁とかブレグジットというべきナショナリズムへの回帰なのだが、一部のごく限られた富裕層だけを利する帝国主義というべき動きなることは恐怖だ。
この世の中の主に製造業を俯瞰すると、既に製造業としての頭打ち限界が見え始めている様に思える。そして、製造業には、完成品をブランドを示して世にリリースするメーカーと、半製品をメーカーに納入し、完成品としてはそのブランドを示すことが宿命的に難しいサプライヤーの2種に大別できる様に思える。
このメーカーとサプライヤーの数は、圧倒的にサプライヤーが多いし、サプライヤー同士は絶えず競合関係にあり、メーカーの様に付加価値を追求した商売が難しいという宿命がある。つまり、メーカーによれば、過度な単一のサプライヤー依存は、割高コストを生みかねないし、不慮の事故や災害による供給途絶のリスクを生むから、適度に複数以上のサプライヤーと契約し、競合させてコスト上昇を抑制したり、供給途絶のリスクに備えることを行う。
一方、自動車産業に関わらず、世界人口60億という中で、先進諸国においては、既に自動車の保有数は頭打ちの限界を迎えているのは日本に限らず同様だろう。現在、自動車販売が増加し得ている国は、あくまでも新興国であり、主要自動車メーカーやサプライヤーは、その近郊に現地工場を設立しつつ、つまり既存の中心を新興国たる周辺に移して自社生産を維持もしくは微増させているのだが、それすら近い将来限界を迎えることは確実だろう。つまり、エネルギーとか原材料の高騰の問題もあり、一方現在の資本主義は利益率として上昇が限界を迎える中で、極僅かな富裕層と貧困層を増やし、購買力を持つ最大の中間層を減らしてしまった故でのことだ。
こうなると、自動車という製造業の未来は、台数増加の限界は近いと予測するしかない。しかも、現在のASV(自動運転車)は何処まで普及するのか、その時期が何時ごろになるのか見通し難いところではあるが、何れにしても技術が確立され次第であるが順次その方向へ向かうだろう。このASV技術が確立された場合、個々人が車両を保有する必要度は著しく低下することになる。つまり、必用な都度、自動的に配車され、目的地に到着すれば勝手に帰って行く自動車が普及すれば、わざわざ高額な車両を買う者は、余程の富裕層に限定されるだろう。このことを端的に示すのが、町を村を近隣を見廻してみれば、走行している自動車より、余程多くの自動車が停止して保管されている状態にあることから明かなことと判る。つまり、ASV技術が完成すれば、人類は現在の保有台数より、余程少ない車両で、その移動という手段を充足できることになる。
また、EV技術は、従来の内燃機関より余程簡単な技術もしくは専門サプライヤーからの部品供給で、その求められる技術水準のしきい値は低い。また、ASV技術は、既存の車両メーカーに蓄積された技術的優位点はまったくなく、AI技術というべき高度なソフトウェアを低遅延で動作できるハードウェアがあれば、その目的は達成することが可能だ。しかも、道路に接地された情報源とか車間情報のプロトコル(通信規約)は現在のところ世界標準規格までには至っていないが、何れその優劣が明確になれば何処かのメーカーの規格がデファクトスタンダードとして認められる時代が来るだろう。こういう時代、従来の車両という技術を育て上げた既存車両メーカーの技術的蓄積だとかその設備機器に投じたコストは、むしろ重荷としてコスト競争力の弊害になる可能性すらありそうだ。
このような、EV化とか完全ASV化が達成される時代になると、そもそもぶつからない前提での自動車という設計理念が生まれて来ると、高度なクラッシュ特性を確保できうるボデー設計技術とか、運転していて操安性が良いとかいう、高度でコスト高となる既存車両メーカーの優位点はまったくなくなる。それよりも、前輪操舵ユニットとか、駆動制動ユニットとかを低コストで作り出せる、大規模サプライヤーの優位点が出て来そうに思える。そして、車両を企画するIT企業では、自社の持てる高度なAIソフトウェアおよび通信プロトコルを基本としつつ、各大規模サプライヤーのユニットを組み合わせることで、完成車ができるという事態になりそうだ。なお、この場合、ボデー外板を作り出す主に樹脂射出成型とアルミダイキャスト製品を生み出す、新たなサプライヤーが登場する可能性があるのだが、これは既にバンパーとかインストルメントパネルやドアインナーパネルなどを作り出している専業サプライヤーがあり、ちょっとした製品の拡充程度で目的は達成できる様に思える。
当初にも述べているが、現在の資本主義は、利益を求め技術革新と共に産業を発展させてきたのだが、自動車に限らずだが、その最小維持という意味でしか、利益の増加は不可能な時代が来るのは必然となるのだろう。そうでないと、現在IT金融業が投資としう単なる資本の移転だけで、バブルを生み出し、その破綻の都度、公的融資を注ぎ込みつつ、従業員の整理解雇や非正規社員の増加という名目で中間層がなくなる時代になっているのだが、この世を代表していた中間層の欠如は、すなわち民主主義の崩壊へと結び付くことと同意語となることは目に見えている。これへの抵抗の動きが、米英でのメキシコとの壁とかブレグジットというべきナショナリズムへの回帰なのだが、一部のごく限られた富裕層だけを利する帝国主義というべき動きなることは恐怖だ。