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【映画評】24の瞳

2021-12-28 | 論評、書評、映画評など
【映画評】24の瞳
 この映画名というか書名は有名で、作者の壺井栄の名と共に知られている。かくいう筆者も、たしか小学校時代に学校の催す映画鑑賞(だいたい体育館内などで行われた)で見た記憶はあるが、今はその内容の概ねだけで細部を記憶してはいなかった。

 この年末に来て、志賀・琵琶湖周辺を通る国道1号の辺りは、例年にない強雪に見舞われているが、筆者地方では雪こそないが、連日寒い風が吹く毎日が続いている。そんな中、例年の如く、正月読書用にと図書館で幾冊か書籍を借り出し、ついでにDVDも3枚借りだして来た打ちの枚が、この「24の瞳」なのだ。


 この24の瞳は、日本の古典的な有名作であり、映画やTVで何度かリバイバル作品も作られている様だが、今次借りだして来たのはオリジナル作品とも云える1954年(S29年)松竹公開・木下恵介監督・高峰秀子主演のモノクロ映画だ。ただし、最近の流行で2007年にデジタル処理でリマスタリングされたというもので、前編を通して古いフィルム映画だという画面や音声のノイズもほとんど感じられない作品に仕上げられている。

 正直、この手の児童向け作品というべきものを自ら進んで積極的に見る方ではないが、この寒空の中で、パソコン画面の中で、断続的に視聴するのだが、映画の中で高峰秀子が悲しみを演じる局面では、ついぞ筆者に限らず同様の悲しみを誘起されるという方が大多数だろうと思える。

 この映画は戦後の作品だが、物語の舞台は戦前の昭和の初め頃の、だんだん戦争へと近づく気配が高まる時代で、映画の中でも赤騒動(反共産主義)という表現で描かれている。

 この映画を見ていて思うのだが、見ている視聴者の思いも、時代と共に変化しているのではないだろうかという連想を感じた。つまり、高度経済成長からバブル崩壊以前の視聴者なら、昔は貧しい時代を過ごしたんだなぁという感想が主だろう。しかし、現代の視点では、昔はこうして貧しかったし、赤だなんだと言論の自由にも事欠いていたんだが、今またその時代に戻りつつあるのではないかと云うことだ。


 つまり、僅かな富裕者もしくは特権階級者と、多くの貧しい者との間に、本来は厚い層としてあるべき中流層が霞みつつ、現代の筆者の目の周り至る所に貧困という現象が目に付く様になっている。そんな時代だというのに、政治も行政もそんなことはほとんど述べず、ただただ新しい道路だとか鉄道路線への工事や投資の話しに、いささかの疑問を持つこともない様だ。言論の自由も、戦後の憲法では第1義的に保障される立て付けになっているのだが、何故か真実・本当を暴くオピニオンは、メディアメインストリームから姿を消していく。このことは個別企業においても同様で、何らか経営者の一方的なやり方に異議を呈し、それが的を得ているとなると、その人物は最終的にその企業に居続けることが困難な方向になる。

 労働組合運動法は、資本家と労働者の根源的な力関係を救うためにできた法令だろう。独占禁止法だとか含まれる下請法なども、過剰な大資本がやり過ぎない様な制限を掛ける法令だろう。労働基準法は、必ずしも労働者だけに向けた法令ではないが、資本家および労働者は基本的に対等な立場として、最低限の基準を定めた法であって、真の良心的な経営者であれば、この基準は最低のものであって、こんなものを基準に思考する経営者がいたとしたら、最低の非道徳者なんだろうが、これが今の世には結構多いし、メディアとか評論家や大学教授と称す者の中にも総総数そういう人物が居る。(と云うより大多数がそういう人物で、まともな良心を持つ者は極僅かだろう。)

 司法関係者もそもそも官僚機構の一部となるので、根源的に国民目線で思考するということが困難だということは理解するが、あまりに天井人として、世間の実態とかその猥雑な細部に触れたり関わることを避ける気風が強すぎる様に思える。

 今年の初めに知る、関西生コンの産業別労組を中心とした大弾圧事件が数年前から起きていて、現在も労働組合法で合法的な活動として規定されている行為を、無理やり一般的な法規に当てはめ、断罪しようとする警察、検察、裁判所の民主主義を無視した行為はあまりの民主主義に対する脅威というべき事件だろう。

 こうして、「24の瞳」を見る視聴者の感想は、昔は酷かったから、視点を変えると今も酷いという意見に変わって来ているのではないかと云うのが、筆者の感想ということになる。



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