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日本人は国民主権を示す時(G7広島サミットでの国民意識の示威)

2023-01-30 | コラム
日本人は国民主権を示す時(G7広島サミットでの国民意識の示威)
 日本は憲法でも国民主権の自由民主主義国を規定してる。しかるに、現在の岸田政権は、唐突ともいえる防衛費(軍事費)の超大幅増、たったの11年前の運悪ければ日本が壊滅する可能性さえあった311福島原発大事故の反省の欠片もない原発再興政策を打ち出している。この福島原発の経営責任については、司法においても無罪結審の方向の結論が導かれ続けている。

 そもそも、1945年の815(敗戦日)に日に、多くの日本人は、もう戦争はこりごりだと思ったはずではないか。また、311時の福島原発(事故になった福島1だけでなく、からくも事故にまで至ることを逃れた福島2、茨城県東海村の日本原電2の危機)の危機を知り、もう原発はこりごりだし、そもそも地震の多く津波も起こる日本ではリスクが大きすぎる施設だと感じたのが多くの日本人の思いではなかったのか。

 それらの、多くの国民が感じて強い後悔の気持ちを、まったく無視した方向が、現在の岸田政権ではないだろうか。しかし、日本の近代史を振り返れば、60年の岸首相政権における安保改定については、大きな国民の反対意思を示す行動としての示威が示されたのだった。(下記参照)

 こうして考えてみると、日本人は国民主権を示す示威行動をとらねばならないのではないだろうか。この示威の相手としては、現内閣とか国内政治だけではなく、世界の元首が集まる場において行うことが、日本国民の思いを世界に知らしめる効果を持つと思える。

 つまり、今年5/19~21の日程で開催されるG7サミット広島会場にG7各国の元首が集う訳だが、ここで60年安保のデモ運動の様な反対の意思を示すことが必要かつ効果的なのではないだろうか。

 なお、会場のグランドプリンスホテル広島は宇品島の先端にあり、開催時は島の入り口には検問が設置され、関係者以外の出入りは規制なされるのだろう。従って、デモ運動は、広島空港、JR広島駅、そして会場のグランドプリンスホテル広島沖合の海上におびただしい船舶(観光船、遊漁船など大小さまざまな船舶多数による多重の囲み)と、デモ参加者達の乗船による横断幕や拡声器によるアピール、そしてインターネットによる世界へのライブ発信により世界へ意思提示が必要ではないだろうか。


60年安保における国民意志の示威
 1951年(昭和26年)に締結された安保条約は、1958年(昭和33年)ごろから自由民主党の岸信介内閣によって改定の交渉が行われ、1960年(昭和35年)1月に岸首相以下全権団が訪米、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意。1月19日に新条約が調印された。

新安保条約は、
➀内乱に関する条項の削除
②日米共同防衛の明文化(日本をアメリカ軍が守る代わりに、在日米軍への攻撃に対しても自衛隊と在日米軍が共同で防衛行動を行う)
③在日米軍の配置・装備に対する両国政府の事前協議制度の設置
 など、安保条約を単にアメリカ軍に基地を提供する為の条約から、日米共同防衛を義務付けたより平等な条約に改正するものであった(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約の項目を参照)。

 岸首相が帰国し、新条約の承認を巡る国会審議が行われると安保廃棄を掲げる日本社会党の抵抗により紛糾した。締結前から、改定により日本が戦争に巻き込まれる危険が増すという懸念や、在日米軍裁判権放棄密約から派生する在日米兵犯罪免責特権への批判(在日米軍裁判権放棄密約事件の項目参照)により、反対運動が高まっていた。スターリン批判を受けて共産党を脱党した急進派学生が結成した共産主義者同盟(ブント)が主導する全日本学生自治会総連合(全学連)は「安保を倒すか、ブントが倒れるか」を掲げ、総力を上げて、反安保闘争に取り組んだ。

 6月15日には、暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの負傷者を出し、機動隊が国会議事堂正門前で大規模に国会内に突入してきたデモ隊と衝突し、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死した。

 6月15日には、暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの負傷者を出し、機動隊が国会議事堂正門前で大規模に国会内に突入してきたデモ隊と衝突し、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死した。在京局で唯一中継をしていたラジオ関東(現:アール・エフ・ラジオ日本)の島碩弥も警棒で殴られ負傷した。21時に開かれた国会敷地内での全学連抗議集会で訃報が報告されたことで、警察車両への放火等を行うなど一部の学生が暴徒化し、負傷学生約400人、逮捕者約200人、警察官負傷約300人に上った。国会前でのデモ活動に参加した人は主催者発表で計33万人、警視庁発表で約13万人という規模にまで膨れ上がった。

国会を取り囲んだデモ隊、1960年6月18日。


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