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ルポルタージュ・損害調査員 その26【損保調査員企業の内容話し】

2022-08-07 | コラム
ルポルタージュ・損害調査員 その26【損保調査員企業の内容話し】
 今回は世間では技術アジャスターと称される損保調査員の内容を記して見たいと思う。ただし、私自身が損保在籍を離れ既に10年を超えているのだが、そんな中で旧時代の各損保のこれはと思う者の打ち解けた関係も保ちつつ、また外部から眺める様子からも粗糖程度に容易に想像できる内容として記して見たい。

 まず、始めに現在の損保調査員(技術アジャスター)の総数は、およそ各社合計で8千名程度だと想定できる。これは、10年ちょっと以前に私が損保を去る時点での数と大きくは変わらないと想像している。なお、この技術アジャスター資格の管理は、損保協会で行われており、資格試験の実施も損保協会マターにて行われている。また、技能ランクに応じて研修制度(これを義務研修と呼ぶ)があるが、この実施は(株)自研センターにより行われている。なお、2年前のコロナ勃発以降、今年度も義務研修は、実際に事件センターに集合して受講するのではなく、ビデオ通信などを利用したテレワーク研修で行われているそうだ。ちなみにNetで今年(2022年)の自研センターの年間研修スケジュール表が公開されているのを発見し添付するが、年間48研修コースしかないスカスカの研修よていだ。90年代初頭の毎週各クラス4コースが並列連続しており年間200クラス研修を実施していた往時の面影は到底ない。


 そもそも、私が損保在籍中は、各損保調査員が所属する会社は、親会社が非公開株式を保有した○○損害調査(株)という損調子会社所属になっていた。それが、損保の大合併を経て2022年現在で東京海上日動とあいおい損保の2社を除いて、すべて損調子会社は解散し、損保調査員は保険会社本体直雇の立場となている。

 この専門職などを別会社法人を設立して運営すると云うことは、大会社においてしばしば行われていることだ。その流として、まったく別テーブルの給与体系だとか雇用条件により人件費などコスト圧縮にあったのであろう。ところが、近年何故損調子会社を解散し、損保調査員を保険会社所属の直雇にしたのかだが、一つは企業間での資金やりとりに要する消費税の関係があると云われている。しかし私は主目的は別であろうと認識している。それは、いわゆる非弁法の関係があるのだろうと想定している。つまり、非弁法とは弁護士以外が法律的な賠償交渉を当事者以外が金銭の見返りを持って行うことを禁じているのだが損保本体が示談行為を行う場合においては賠償金を支払うという前提において、当事者と見なされ非弁法には抵触しないという説が一般的だ。ここで説と記したのは、このこと自身が訴訟で争われた事例が少なく、あくまで説という形で想定されると云うことだ。ここで、従来の様に子会社が示談を行うことになり、しかもそれにより報酬を得ていることになると非弁法に抵触する可能性があり、損保ではそんな権利もないのに日弁連と非弁法で訴えないという協定を結んだのだった。その内容は、およそ嘘八百の内容であり、損調子会社調査員の示談行為は、あくまで顧問の弁護士の指揮監督の元に行い、その損害額は35万円以下というものだった。その指揮監督の証明を書面化する目的で月1回示談の一覧表を顧問弁護士に渡し、一覧表の個別チェック検印欄に捺印を受けて保管するだけという形ばかりのものだった。そんななかで、私は1千万を越える示談を何度も行いつつも、それについて損保職員から何ら問題視を受けることは皆無だった。

 だいたい、私は個別事案の示談に付いて、弁護士の指揮監督を受けたこともないし、極希に法的な解釈で相談する場合があっても、まあ本に記したこと以上の回答が得られる様なレベルの高い弁護士は希なことだった。そもそも、不当に近い高額請求請求を受けるような案件で、職員共々弁護士事務所に相談に伺い、当方が正当な賠償額はかくかくしかじかと根拠を説明したところで、該当弁護士は「それで損保としては何処まで妥協できるのか?」と云うのが多くの弁護士に見られる常套句であり、そこに正義もへったくれもなく、ただただ着地点だけを示唆する思いが伝わりこりゃアカンという弁護士のなんたる多さかと呆れ返ったものだ。だだし、弁護士擁護の意味で書き添えると、不当要求に対し、「そりゃ許せません、徹底的に戦って見ましょう」というマジメな弁護士も少数ながらいたものだ。

 それと、現在は大手2社を除いて、損保調査員は損保直雇の立場になり、提示する名刺も損害保険会社名が明記されている訳だが、給与関係で損保本体職員と同一になった訳ではない。あくまでも調査員は別テーブルの給与体系が維持されつつ、その金額も往時と比べれば目減りが激しいと聞いている。

 ところで、保険会社の職員の給与は、往時に比べると低下傾向にあるが、一般の製造業に比べると高く、業界内で一番高いのは東海日動社で、総合職(全国転勤型職員)の30代中旬以降の課長職で1200万/年、部長職で1800万/年程度はクリアしているだろう。これに比べると、調査員全体の平均給与は600万/年程度ではないだろうか。40代以降の課長職職で1千万/年、部長職で1千2万程度ではないだろうか。ちなみに、バブル崩壊直前の私の給与は40代後半課長職で役1千万弱であった。

 なお、私が損保を去って幾らも経ない中で、各損保においていわゆる画像処理センターという1県もしくは複数県に1カ所程の画像専門部署を設置する様になった。その処理件数は、今や車物物損処理件数の半数程度になっている様だ。ここで、現行の調査員に質してみれば判るだろうが自ら進んで画像センターに行きたいと思っている者はいないだろう。そもそも、ここの所属になる調査員は、現場仕事でクレームが多い、現場仕事で仕事の処理が遅く書類を溜め込んで問題化したなど良い噂を一切聞かない。しかも、修理工場から聞こえて来る画像処理センター担当者との会話から、細かい千円程度の金額を一々指摘され値切って来るなど、良い話は一切聞こえて来ない。しかも、損保本体は、画像処理担当者の給与を引き下げる様に計っているという。こんなただの処理屋を置くことに何処に意味があるのだろうかと云うのが私見だ。

 さらに、損保はあくまで総合職が部署のリーダー格として、損害調査部門では小部署では1名、中大部署では数名の総合職に対し、事故受付、経理入金確認および出金担当事務、電話での示談代行業務を担う女性職員が総合職と同数名程度存在する。彼女らの地位は、東京海上などはキャリアサービスなどの別会社だとか損保職員でも一般職(もしくは地域型職員)という立場で、給与は300万~400万/年という程度ではないだろうか。明かな男女格差が生じている。おまけに、総合職のパワハラだとかの被害を受けている場合も往々にしてあるだろう。地方で親元から通勤している女性はともかく、東京などの都会に住み、通勤時間1:30分県内から通勤している女性などは、家賃が6万とかする中で、なかなか厳しいものがあるだろう。それに比べると、総合職は住まいは社宅扱いで、自己負担は月1万程度で済むわけだし、仕事はしべ手女性とか調査員に任せて済みであるが、彼らも出世という意味ではなかなか大変であり、学閥だとか上の引きがないものは、地方の過疎地や寒冷地巡りを繰り返すことになる。

 そもそも、損害保険会社において社長もしくは役員になれるのは、営業と査定と区分した場合は、圧倒的に営業部門出身者が多い。また、官僚などで国家公務員上級職は、形ばかりの僅かな現場経験で、後は本省でステップアップしていくのだが、損保でも社長なる人物はそういう者が多い。入社時の配属が人事部とか総務部で、本社内で経理部、システム部、総合開発室などを巡りステップアップして、課長か部長になったところで、問題の少ない大型支店の現場に2-3年出る。そして、本社に戻り取締役にステップアップしつつ、総合開発室長兼務、その後、常務、専務、副社長、社長となる事例が多い様だ。

 ところで、未だ各損保に損調子会社が存在した時代に、損調子会社の社長として送り込まれてくるのは、多くの場合営業部門出身の支店長(部長)クラスを途中で更迭された様な方々だ。私が本社勤務時代、その様な時代の中にあって、損保本体の専務だった人物が損調子会社に更迭されて3年ほど付き合った経験がある。まあ、普段はさほど口を聞く機会はなかったが、偶の飲み会などで軽口が出る様になると、その人物としても恨みとも取れる言葉が聞かれたものであった。

 また、損調子会社の話しに戻るが、その当時は組織といて、損調子会社の各現場は本体と同一の部署となるが、その現場と本社の間に、本体で云うところの支店(母店)といえる事務所というのが設定されていた。この事務所長となるのは、やはり損保本体の支店長クラスを任期途上で更迭された人物が多かった。酷い人物と私に取っては大いに励まされた良き人物といたので、その両極端のことを気してみたい。

 まず悪い所長だが、コイツは支店長でなく支店の損害調査部長を1年程度で更迭された人物だった。私は上位職に営業と査定と両部門の人物と付き合って来たが、例外はあるが、どちらかと云えば営業部門の出身者の方が、いろいろ教え諭されるコトが多かったと思える。一方、なまじ査定部門の出身者は、調査員はこういう者という偏見が強く、物の見方が狭く、平行したことは度々だった。その該当所長で名前も忘れたチンケな奴だったが、たまたま私が勤務する部署で後輩の調査員が人身死亡事故を起こした事件があった。その葬儀の日に、そのアホ所長は他の用事があるとかなんとか抜かして出席を拒んで来たのを知った時は流石に頭に血が上った。即座に電話を入れ、「自分の配下の不始末を詫びるのが何よりも上位職として最優先されるされるべきをなんであなたは逃げるのだ」と怒鳴り倒したが返事はモゴモゴと云うだけで一切論理的な説明はなされなかった。以後、会社を辞めるまで、一言も口を利いたことはなかった。

 良い方の所長だが、これは私の横浜時代の所長で、当時東京事務所と呼んでおり、所長席は該当損保東京本社内にあった。その書著KNK氏だが、営業部門で支店長任期半ばで更迭されたのだが、傘下損調課としては東京と横浜であり、それぞれアジャスターの部長職となる東京のSと横浜の課長である私の2名が存在した。その中で、そのKNK所長と調査員部長のSとは意見が対立することが多く、私のところへ来ては、よくこういう云い方をされた。「私は営業出身だから査定の細かいことは判らないが、Sの所業を見ていると自分が手本を見せ、それをやらせることがない様に見受けられる。つまり調査員の理想を掲げ、配下を引っ張るんではなくて、人情だけで自分の職責をまっとうしているしている様に見えてしまう。調査員の長としてはあなた(私)のやり方が正常に見える」という云い方だったと思う。そのことは、常々私も感じていたことであり、そもそも何事にも論理がないSが部長にまで引き上げられたのは、当時の本社損調部長の引きがあったからだと思っていたし、本来の適任者は人間性、技術力、などからHという先輩がいたのであるが、バブル以前の労働組合運動で書記長としてスト決行までリードしたHの左思想を会社上層部は恨んでいたのであろう。なお、その当時、組合員としてSも参加しており、種々の内部情報を会社に漏らしていたのがSだったことは公然の事実であり、これがSごとき何を云っているのか判らない物言いをするまるで論理なき人物の出世の理由だったのだった。しかし、このKNK所長とSとの確執は、驚いたことにKNK所長が早期退任するすることで納められたには驚いた。想像するに、KNK所長自身がこのままでは続けられないと辞意を表明したのだと思っている。それから5年ほどしたある日、KNK所長宅に電話を入れ出た奥さんに、名前を告げると、名前は聞いております。しかし主人は亡くなりましたのですと聞いた時は、流石に驚き落胆したものだった。


#損保調査員の内情


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