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 私の思いと技術的覚え書き

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損保は何故損害を見積として折衝するのか?

2021-12-10 | 車両修理関連
損保は何故損害を見積として折衝するのか?
 損保扱いの損害調査物件(主に9割方は車両損害だろう)について、損害調査員(アジャスターと呼ばれる)は損害見積として交渉を進めるが、その理由の根本を判っちゃいない該当者が多く存する様だ。このことは、その該当者の所属する会社の教育の問題も内在するのだろうが、そもそも該当人が会社から命じられたことにただ隷従するだけで、自ら思考してみようという意識の欠如にある様に思えてしまう。

 遙か数十年前に損害保険の調査員に業として就くことになった筆者ではあるが、入社当初から新人教育を経てある次期まで、何故見積書ということで意見を戦わせるということの意味の根本を明確に教えられることもなかったし、ある時は何故だろうと考える時代が続いたものだった。

 ここで、見積書の一般論を改めて考えて見たい。昨今はNetの時代だから例えば ”見積 意味" などのワードで検索すると、「見積(みつもり)とは、金額・量・期間・行動を前もって概算すること。また、それらを書面に記載したものを見積書と呼ぶ。」なんて説明が出てくる。ただし、これはあまりに当たり前のことでもあるのだろうか、何故見積がなされるのかということには触れていないが、見積書は購入者が要求する場合や、販売者が提示する場合とそれぞれの立場の違いがあるが、商品購入の契約をするに当たり、双方の意思を確かめあうという前提条件ということになるのであろう。

 つまり、購入者は見積書を見て、ある場合は複数社の見積を見比べ、単に総額だけでなく、想定される必用作業が含まれているかなど内容の妥当性を吟味しつつ、「発注会社の決定を行う場合」が想定されるだろう。一方、販売会社側としては、「当社としてはこういう作業内容で、これこれの費用を要しますがよろしいか?」と確認していることになる訳なのだ。

 ところで、今でも、整備板金業界の方々の一部からは、損保はユーザーではなく、単に成り代わって修理費を負担する立場であり、法的にユーザーの立場ではあり得ず、見積内容にとやかく云う権利はないのだとする意見がある。確かに、車両の所有もしくは使用権は修理を要請するユーザー(多くの場合保険契約者)にあり、その時点では保険会社にそれら権利はない。

 一方、世の商行為において債権者と債務者という立場に別れるが、修理工場に修理を持ち込んだユーザー(保険契約者)と修理工場の立場で商行為の契約が成立する前提において、債権者は修理工場であり、債務者はユーザー(保険契約者)となるが、ユーザーは保険会社と保険契約を締結しており、被保険者が負担する法的もしくは保険約款(約束ごと)から妥当な債務を肩代わりする債務者の立場にある。

 となると、最終的な債務者(ユーザーに成り代わり代金を支払う立場)としての保険会社は、債権者の修理工場に対し、妥当性追求のための意見を申し述べる意見を持つ権利を持つと解すべきだろう。

 ここで、何故見積書の段階で戦うかと云う今回の話しの端緒に戻るが、修理着工前を前提とした見積書の段階で、大きな意見の差異が生じれば、その商品契約(購入するかどうか)そのものを変更する場合もあり得るという訳だ。つまり、端的に記せば、あなた(該当工場)の売値は妥当性を欠くから、別のところで買うということを検討したいという意見もあり得る。

 このことは、私の損保調査員時代の中にも希にあり、契約者に対しこの工場の見積額は異常であって、とても保険会社としては容認できかねる。ついては、確実に同等以上の修理品質が確保できる前提で、当社が推奨する別工場での修理を要請しつつ、同意を得るということを行った場合も、実際事例としては少ないが存在した。

 なお、これら保険契約者の修理工場変更への同意を得た場合に場合であっても、必ずしも修理工場を強制変更すると云う行為に至った訳でなく、該当工場に対し契約者の同意を得た旨を通告しつつ、強い牽制力を持って、当方の見積に対する意見の実効値を高めつつ、欲深い工場の思いを打ち砕き、該当工場の立場の尊重も計りつつ、解決を図って来たつもりだ。

 以上述べて来たのは、本論で述べたい核心のことを記す前提での前置きだったのだが、予想を超えて長文となってしまったが、以下に今回の本論を述べたい。

 何故、見積段階で必ずしも修理費総額の決定に至らずとも交渉を始めなければならないかと云うことである。つまり、昔も今も、私に云わせれば、損害調査員として、低レベルと判断せざるを得ない者の中には、修理見積の中で大局を決めるべき修理方針の決定に際し、その方針自体への参加を放棄(工場まかせ)する者が多くいる。

 もう少し具体例として記せば、ある核心部分を修理するか交換するかで、極めて大きな修理費の乖離が生じる問題がある場合は多いが、その判断を工場まかせにして、やって見て事後に打ち合わせましょうと安易に流すことをここでは指す。

 さらに具体例を記せば、後部被追突車の事例で、片側クォターパネルの変形が生じているが、交換を主張する工場に対し、様々な実事例を経験しつつ一定の技術力ある適切な修理技法を保有している工場なら十分修理で対応できると判断する損害調査員は、その核心部分について作業か完成してから打ち合わせましょうとは決して云わない。

 その損害調査員のもの云いいとしては、「様々な工場で類似の程度の作業を見て来たが、(これこれの作業手法を持って)多くは取替することなしに修理で作業を完成して来たと知見しています」と述べるだろう。

 さらに、そこに該当工場が技術が未熟なため真実としての不安を持つことが伺われる場合は、以下の様な言葉を継ぎ足すのだ。「まずは挑戦してみて欲しい。もしそれでもダメで、どうしても巧く直らないと云うのなら、その場合まで取替を認めないというつもりはない。あなたの工場へ総てのリスクを負わせるつもりはない」と。

 最後になるが、損害調査員の存在意義とは、提出された見積書(多くの実態は工場の希望清算請求書)の欠点探しに明け暮れ、僅かな指数の適用誤りとか端数を値切ることではない。既に述べた様に、修理費の大局となる修理方針の決定に影響力を行使できるかどうかが真価なのだと信じているが、このことはほとんどの損保の損害調査部門の指導者には判っちゃいないことを無念に思うところだ。


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