私の思いと技術的覚え書き

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依存ということが生起するリスク

2019-07-13 | コラム
 世に依存症なる言葉があります。アルコール依存、薬物依存、パチンコ依存、インターネット依存・・・などなど数え上げたら切りない依存症がある訳です。今回記すのは、それら病ではなく、依存という行為が生起するリスクについて思うところを書き記してみます。

 そもそも、依存という意味を辞書引きすると「他のものによりかかり、それによって成り立つこと。」と記されています。昨今報道されることが多い、コンビニエンスストアとフィランチャイズ本部との契約関係も、絶対的な依存関係を生起する関係でしょう。そんなフランチャイズチェーンでなくとも、日頃関係深い自整業とか板金塗装業において、特定のディーラーとか中古車販売店との依存比率が高いと、ある日突然、元受け会社が傾いたり、元受け会社のマネージャーが替わっただけで、依存していた入庫がパタリと止まり、該当自整業とか板金塗装業の命運が尽きるなんていう実例を見て来ました。

 土木建設業や自動車関連サプライヤーの関係でも、上流から下流へと連綿と続く構造があります。下層のサプライヤーは一生懸命、上流企業の命に従い、品質や単価を押さえつけられ生きている訳ですが、ある日親企業の不祥事とか経営難により、一方的に契約を切られるなんていう事例は、過去のニッサンとか三菱、昨今の東芝その他幾多の大企業傘下のサプライチェーンで繰り返された来たことでしょう。

 勤め人足るサラリーマンも同様です。幾ら自らに問題はなくとも、企業の経営状態においては、組織は冷酷なものです。組織維持のためには、幾ら倫理道徳を歌い上げていようが、リストラなどとして早期退職ならまだ良い方で、狙いを定めた追い出しに奔走する組織の暗部を垣間見ることもしばしばです。そもそも、これら経営者の横暴に対抗する目的で、労働組合が生まれたのだろうと思いますが、右肩上がりの経済成長が停滞して以来、組合がなんと空疎な存在であり、組合が組織のメッセンジャー化しているのが現実でしょう。そんな組合で、美味く立ち回り、組織上層部から認められると、マネージャーに昇格して組合を離脱する事例は多いし、一組合員として傍観すると、その組合執行部員に、そもそも組織上層部に認められたいという組合設立の至上命題と相反する様相が垣間見えるなんて事例も、枚挙に暇がないでしょう。

 国家という組織体の最上層は政府な訳ですが、先に記した事例と類似な関係は多い訳です。やはり上流から下流に向けて、もしくは政府や行政官庁から、県、市町村と、法令上では一定の自治権がある様に見えても、その実態は許認可権や補助金などの根源的な問題があり、依存関係を持つことは多いでしょう。そんな中、昨今良く聞かれる言葉に「忖度」(そんたく)があります。辞書では「他人の気持をおしはかること。」と記してありますが、何ら直接命令を受けぬ段階で、相手(上位者)の意向を推し量り、自らが気に入られる様に動くというものです。類似のことを良い意味として「機を見るに敏」という表現がありますが、これが行き過ぎると、忖度ということになるでしょう。結局のところ、この忖度というのも過度の依存関係だとか「今だけ、金だけ、自分だけ」という風潮から生まれて来ている様に思えます。

 世の格言に「借りを作るな」というものがあります。過度の借りの連鎖は、必然として依存としての関係を生起し、世の正義を裏切る忖度もしくは命に従うしかなくなる関係になることを予見させるからのことでしょう。しかし、恐らく行政官庁の意を組む政府は、様々な優遇税制などを用い、民衆を制御しようとする訳です。実例を上げれば、グリーン課税と呼ばれる低燃費車優遇税制などがある訳ですが、新車に乗り換えを促進し、大企業を優遇する訳です。彼ら(政府もしくは行政)は、そのことが行き詰まった我が国経済のカンフル剤となることを信じているのでしょうが、真の困窮した国民には、新車を買う余裕なんてない訳です。新車を買うのは、生活に窮していない金持か、利益を出していて税金取られるならと新車を買う訳です。こういう政府の優遇税制に飛び付き税金を食う者を、タックスイーターとか乞食と表現する論者もいますが、正にその通りと同感を思う訳です。

 長々と記して来ましたが、我が国が属国だとか、依存国家と呼ばれる場合が多い訳ですが、その相手国は米国に他なりません。およそ70年前の大戦で徹底的に打ちのめされ、憲法下書きを提示され、唯々諾々と従い成立さしめ、戦後の検閲だとか焚書(ふんしょ:書物を焼き捨ていることを意味するが、我が国の戦争前の歴史を分断するために米国が指定して戦後行った行為)などにより、米国こそが我らの正義という歴史を作り上げられてしまった訳です。日米安保もしかりで、仮に我が国に核攻撃されたら、米国は報復核で打撃するとされていますが、本当にそこまでのリスクを米国が取るか甚だ疑問でしょう。米国の報復核は、その苦痛に耐えた相手国から、更なる報復核を誘発し、米国がどうなるか判らないとなれば、そんな約束は反故にされる可能性を考えることは当然のことでしょう。だから、日本は独自に核を持つ必要があるんだ、憲法も改正し、確実に報復できる抑止力を持つ必要があるんだと、信じる論者は云います。当然のこと自衛隊なんていう名は、国防軍として改める必要が生じるでしょう。だいたい、詳しくはないですが、国際法という法令というか倫理基準に類したものがあるそうですが、これには無差別爆撃だとかジェノサイド(民族殺戮)に類する、一般民衆を対象にした核攻撃、占領下での憲法作成だとか検閲や焚書による歴史分断などの行為は禁じられています。戦後、世界は戦火が絶えることなく続く訳ですが、間違いなく多くの戦場に関与し続けたのは米国に間違いなく、そのことは米国の軍事力を背景とした覇権主義に他ならないでしょう。戦後25年程して、そのことを嘆いた三島由紀夫が割腹して既に45年も経るのですが、属国化は弱まるどころか、前提条件として極当たり前の関係をますます強めている訳です。果たしてこの関係が霧散する未来はあり得るのだろうかと考えた時、およそないだろうと考えざるを得ないとき、暗たんとならざるを得ないのです。

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