いよいよ2011年も大晦日を迎えた今日、世の終末感というか限界感に達しつつあるのではないかという思いを強めているのです。これは、云い方を変えれば、社会に対する信頼感の低下が著しく、もはや極限に達しつつあるのではなかろうかという思いなのです。
これは、何も今年始まったことではありませんが、現行民主党政権の奪取だって、マニフェストで従来の弊害と云われていた官僚政治の打破だとか、国民第一の政治などを掲げて大勝利したのですが、政権に付いてみれば、早くも3名も首相が変わり、マニフェストはなし崩しに捨てられつつ、消費税増税は何時からなんてことを云いだしているのですから、言行不一致さには呆れ果てます。
検察を初めとする司法の信頼度の低下も著しいものがあります。これを解決するには、まず取り調べの可視化は自明のことなのですが、検察および警察の反対勢力は強い様で、なかなか全面実施に踏み蹴れない様に見えます。
大手企業の不祥事も、オリンパスを初め生じていますが、なによりも大きな不祥事を起こしたのは東京電力だと思っております。しかし、そこには未だ一切の司直の手は入らないという何とも不思議な現象が生じています。また、九州電力のやらせメール事件だって、会社ぐるみで行っていたのは明かなのに、あくまで責任を回避しようとする組織体や経営者は見苦しい限りです。
311東北震災において復興がままならないのは、極論すれば連動して生じた福島第一原発事故と放射性廃棄物の拡散にあることは明らかだと思います。これだけの危険さ、その深刻さが証明されたのにも関わらず、未だ原子力発電を止めようという意見に収束しないのは、もはや異常のレベルを通り越していると感じられます。
ことほどかように社会に対する信頼度は低下しつつあり、その限界点に達しつつあるかの様に思えます。これら不正を正すには、民主主義の透明性を高めると云うことが求められるのでしょう。そんな中、ネット社会の福音として、組織内の内部告発だとか、国際政治においてはウィキリークスみたいな新手の組織が登場していることは喜ばしいと思います。
内部告発は、場合によっては大組織ですら、組織解体に至る場合もあり組織の構成員は路頭に迷います。ウィキリークスのリーク情報は、国の政権交代に至る場合すらあり得る問題です。これらには、賛否両論あるのでしょうが、何れにしても組織の権力者にとっては、頭の痛い場合によっては手段を選ばず排除すべきターゲットとなるはずのものです。
最近読んだ「日本人が知らないウィキリークス」(浜野喬士他6名共著)で、印象に残る文脈があったので、以下に文意を引いて紹介してみます。
ウィキリークスの求める公益とはいったい何なのか、それを純粋公益と仮定したとき、公益とは何かでなく、公益を語るのは誰かであるとし、フランスの思想家ミシェル・フーコーの「パレーシア」の概念が類似するとして著者の浜野喬士氏は引いている。パレーシアは公益でなく真理に関する概念である。パレーシアとはギリシャ語で、英語では free speech(率直語る)の意である。パレーシアステーツとは、パレーシアを行使する人、真理を語る人のことだ。パレーシアを語るものは、自分の心の内をさらけ出し正確に語らねばならない。しかし、語ることの証明はは不要なのだ。フーコーによればパレーシアを語るものは、語ることが道徳的な性質を持っており、端的には勇気を持っていることを示すだけで良いのだと。つまりパレーシアを引き受ける者は、権力者などから大きな迫害を受けるリスクを引き受ける覚悟を持っている。それは、尖閣ビデオ流出事件の元海保職員しかりであり、ウィキリークス代表のジュリアン・アサンジ氏などは、世界中の諜報組織から常に付け狙われ、死の危険にらされているのであろう。
これは、何も今年始まったことではありませんが、現行民主党政権の奪取だって、マニフェストで従来の弊害と云われていた官僚政治の打破だとか、国民第一の政治などを掲げて大勝利したのですが、政権に付いてみれば、早くも3名も首相が変わり、マニフェストはなし崩しに捨てられつつ、消費税増税は何時からなんてことを云いだしているのですから、言行不一致さには呆れ果てます。
検察を初めとする司法の信頼度の低下も著しいものがあります。これを解決するには、まず取り調べの可視化は自明のことなのですが、検察および警察の反対勢力は強い様で、なかなか全面実施に踏み蹴れない様に見えます。
大手企業の不祥事も、オリンパスを初め生じていますが、なによりも大きな不祥事を起こしたのは東京電力だと思っております。しかし、そこには未だ一切の司直の手は入らないという何とも不思議な現象が生じています。また、九州電力のやらせメール事件だって、会社ぐるみで行っていたのは明かなのに、あくまで責任を回避しようとする組織体や経営者は見苦しい限りです。
311東北震災において復興がままならないのは、極論すれば連動して生じた福島第一原発事故と放射性廃棄物の拡散にあることは明らかだと思います。これだけの危険さ、その深刻さが証明されたのにも関わらず、未だ原子力発電を止めようという意見に収束しないのは、もはや異常のレベルを通り越していると感じられます。
ことほどかように社会に対する信頼度は低下しつつあり、その限界点に達しつつあるかの様に思えます。これら不正を正すには、民主主義の透明性を高めると云うことが求められるのでしょう。そんな中、ネット社会の福音として、組織内の内部告発だとか、国際政治においてはウィキリークスみたいな新手の組織が登場していることは喜ばしいと思います。
内部告発は、場合によっては大組織ですら、組織解体に至る場合もあり組織の構成員は路頭に迷います。ウィキリークスのリーク情報は、国の政権交代に至る場合すらあり得る問題です。これらには、賛否両論あるのでしょうが、何れにしても組織の権力者にとっては、頭の痛い場合によっては手段を選ばず排除すべきターゲットとなるはずのものです。
最近読んだ「日本人が知らないウィキリークス」(浜野喬士他6名共著)で、印象に残る文脈があったので、以下に文意を引いて紹介してみます。
ウィキリークスの求める公益とはいったい何なのか、それを純粋公益と仮定したとき、公益とは何かでなく、公益を語るのは誰かであるとし、フランスの思想家ミシェル・フーコーの「パレーシア」の概念が類似するとして著者の浜野喬士氏は引いている。パレーシアは公益でなく真理に関する概念である。パレーシアとはギリシャ語で、英語では free speech(率直語る)の意である。パレーシアステーツとは、パレーシアを行使する人、真理を語る人のことだ。パレーシアを語るものは、自分の心の内をさらけ出し正確に語らねばならない。しかし、語ることの証明はは不要なのだ。フーコーによればパレーシアを語るものは、語ることが道徳的な性質を持っており、端的には勇気を持っていることを示すだけで良いのだと。つまりパレーシアを引き受ける者は、権力者などから大きな迫害を受けるリスクを引き受ける覚悟を持っている。それは、尖閣ビデオ流出事件の元海保職員しかりであり、ウィキリークス代表のジュリアン・アサンジ氏などは、世界中の諜報組織から常に付け狙われ、死の危険にらされているのであろう。