修理工場と損保の争い
表題のことは争いと記したが、そこまで至らなくとも宿命としての問題があることは、これら業界以外の一般人でもちょっと考えれば理解をするところだろう。すなわち、保険で修理費が出るとなると、懐豊かな大企業である保険会社から、より多く保険金としての修理費を認めてもらおうとする修理工場が存在することは理解できるだろう。まあ、国家が最終統括する健康制度(国民皆保険)だが、医者と健保組合間で同様な意識が働き、希に不正請求が発覚し、保険指定医取り消しの処分を受けるということがある。さらに、今次のコロナ下で、様々な給付金が限定的に施行されたが、その給付金支払いから1年以上過ぎた最近では、不正請求で逮捕とかの報が増えているが、これも国家がとか、大組織がということが、不正とか過剰ということをしても罪の意識が希薄化させるということなのかもしれない。つまり、貧乏人からむしり取るのは罪深いと意識するものの、相手が国家とか大組織であれば、たかだか自分如きがちょっと過大に要求したからと云え、ビクともするもんじゃない。それより、保険会社は営利企業として運営されている大企業だから儲け過ぎているんだからと云う様な勝手な意識が働くのかもしれない。
一方、保険金を支払う側の立場になると、そもそも保険という制度は、善良な契約者や利害関係者であることを前提にして、保険料の計算をしつつ(純率)、資本主義経済社会なので同業他社の保険料も睨みながら自社の原価を前提としつつ(付加率)保険料を決めている。そして、保険約款だとか、民法を中心とした様々な法律を大前提として、市場における客観性ある妥当な価格で保険金を支払うと云うのが理念なのだ。しかし、ともすると保険会社の出し渋りではないかと非難される事態も時々起きているのだ。
こういう事態を考える時、本来は保険料を営業する保険会社と保険金を支払う部門は別企業で、できれば全社一括で保険査定を行う機関を設立してはどうなのかという論議が相当以前(おそらく昭和40年前後)にあったやに聞いたことがある。いわゆる共同査定と云うものだが、これは現在自賠責保険で行われている全国各地にある自賠責調査事務所に近いものだろう。なお、幾ら共同査定として大組織を構築しても、独占的な組織はそのままでは腐食していくのが世の常だから、それを監査しつつ、リフレッシュしていく仕組みが必用なことはいうまでもない。
さて、序論が長くなったが、本論として元損保所属の損害調査員(いわゆるアジャスター)として20数年間活動し、以後も事故絡みの業務を継続する拙人としては、損保在籍当時から、意図しない不幸にして生じた事故の損害認定については、極力客観性ある妥当な損害認定を意識して活動はしてきたつもりである。しかし、如何にせよ組織の一員である以上、私の理想とする客観妥当な損害認定とは乖離が生じて来る案件も内在していたことは事実だ。それと、先の述べた意図しない不幸な事故と記したが、保険請求事故には意図した事故(故意もしくは虚言)というのも内在し、これを的確に発見し除外する活動も求められるのだが、これがまた保険会社が除外に抵抗する場合すらあることを経験して来た。
こういう拙人としての思いの中、世の流れは速く、失われた30年というくらいに日本の経済環境とか国民の暮らしは低下して来ている現状を感じ、また修理業界とか保険会社を観察する時、それらを統合して思うところは、サラリーマン化とか真のプロが喪失してしまったという感を持つのだ。ここでいうプロとはプロッフェショナル、つまり専門家を指し、それはおよそサラリーマンという呼称とは異なると意識するのだ。
表題のことは争いと記したが、そこまで至らなくとも宿命としての問題があることは、これら業界以外の一般人でもちょっと考えれば理解をするところだろう。すなわち、保険で修理費が出るとなると、懐豊かな大企業である保険会社から、より多く保険金としての修理費を認めてもらおうとする修理工場が存在することは理解できるだろう。まあ、国家が最終統括する健康制度(国民皆保険)だが、医者と健保組合間で同様な意識が働き、希に不正請求が発覚し、保険指定医取り消しの処分を受けるということがある。さらに、今次のコロナ下で、様々な給付金が限定的に施行されたが、その給付金支払いから1年以上過ぎた最近では、不正請求で逮捕とかの報が増えているが、これも国家がとか、大組織がということが、不正とか過剰ということをしても罪の意識が希薄化させるということなのかもしれない。つまり、貧乏人からむしり取るのは罪深いと意識するものの、相手が国家とか大組織であれば、たかだか自分如きがちょっと過大に要求したからと云え、ビクともするもんじゃない。それより、保険会社は営利企業として運営されている大企業だから儲け過ぎているんだからと云う様な勝手な意識が働くのかもしれない。
一方、保険金を支払う側の立場になると、そもそも保険という制度は、善良な契約者や利害関係者であることを前提にして、保険料の計算をしつつ(純率)、資本主義経済社会なので同業他社の保険料も睨みながら自社の原価を前提としつつ(付加率)保険料を決めている。そして、保険約款だとか、民法を中心とした様々な法律を大前提として、市場における客観性ある妥当な価格で保険金を支払うと云うのが理念なのだ。しかし、ともすると保険会社の出し渋りではないかと非難される事態も時々起きているのだ。
こういう事態を考える時、本来は保険料を営業する保険会社と保険金を支払う部門は別企業で、できれば全社一括で保険査定を行う機関を設立してはどうなのかという論議が相当以前(おそらく昭和40年前後)にあったやに聞いたことがある。いわゆる共同査定と云うものだが、これは現在自賠責保険で行われている全国各地にある自賠責調査事務所に近いものだろう。なお、幾ら共同査定として大組織を構築しても、独占的な組織はそのままでは腐食していくのが世の常だから、それを監査しつつ、リフレッシュしていく仕組みが必用なことはいうまでもない。
さて、序論が長くなったが、本論として元損保所属の損害調査員(いわゆるアジャスター)として20数年間活動し、以後も事故絡みの業務を継続する拙人としては、損保在籍当時から、意図しない不幸にして生じた事故の損害認定については、極力客観性ある妥当な損害認定を意識して活動はしてきたつもりである。しかし、如何にせよ組織の一員である以上、私の理想とする客観妥当な損害認定とは乖離が生じて来る案件も内在していたことは事実だ。それと、先の述べた意図しない不幸な事故と記したが、保険請求事故には意図した事故(故意もしくは虚言)というのも内在し、これを的確に発見し除外する活動も求められるのだが、これがまた保険会社が除外に抵抗する場合すらあることを経験して来た。
こういう拙人としての思いの中、世の流れは速く、失われた30年というくらいに日本の経済環境とか国民の暮らしは低下して来ている現状を感じ、また修理業界とか保険会社を観察する時、それらを統合して思うところは、サラリーマン化とか真のプロが喪失してしまったという感を持つのだ。ここでいうプロとはプロッフェショナル、つまり専門家を指し、それはおよそサラリーマンという呼称とは異なると意識するのだ。