【映画評】富士山頂
表題映画は、作家である新田次郎(元気象庁職員)で数々の山岳小説を記して来た原作を基にした富士山頂にレーダーを設置する物語だ。ちなみに、新田次郎氏の小説自体はあまり読んだ記憶はないが、同じく原作映画として「剱岳」(つるぎだけ)は記憶に残る日本映画の一つだ。
さて、富士山レーダーは、台風の接近情報収集を目的として、1965年に運用開始された富士山レーダーの計画から工事完了までを描いたものだ。
今回の映画で知るが、レーダー本体は三菱電機、建屋など建設は大成建設が受託し、様々な協力者達の参加で短期間で完成させたものだ。
映画は石原プロダクション製作ということもあり、石原裕次郎主演、渡哲也などが登場するが、それ以外にも勝新太郎、山崎努、佐藤充、芦田伸介などなど、当時の名優と云われる方が出演している。
このレーダーは、気象観測衛星だとか、その他の高性能レーダーの設置により、1999年に役目を終え、レドーム(レーダーを風雨から保護する樹脂板(おそらくFRP製))など、一式は山梨県富士吉田市の「富士山レーダードーム館」に移設展示されている。
この映画を見て、思い出すことを記して見たい。映画の中でも描かれているが、富士山への荷物や機材の荷揚げは、7合八勺までは馬方が扱う馬で、それ以降は「ごうりき」と呼ばれる人足が行っていたのだが、富士山レーダーの建設を雪のない夏場にしかできない短期間で早期に完成させるため、ブルトーザーの輸送にトライし成功したことが、早期完成の大きな要素になったことである。
実は、拙人は、今や記憶も定かでないが、たぶん中学生の1年か2年のころ富士山に頂上に登っているのだが、徒歩ではなく、このブルトーザーの積荷のバスケット上に乗って登り降りしているのだ。当時既に富士山レーダーは完成し、10年弱は経過していたと思うが、その後も少数のブルトーザーによる、頂上の売店や測候所の食料などを荷揚げする業務は継続されていたのだ。そこで、たまたま叔父に当たる親戚の者が、地元小山町須走の旅館で頂上の売店も経営しており、そのため輸送用ブルトーザーも所有しており、そのオペレーターとして、叔父(当時30代だろう)の存在があり、無料で載せてもらえるという幸運な機会を得たのだった。
当時のブルトーザーの出発地は、須走から登り始める、現在「ふじあざみライン」と呼ばれる道(現在は全面舗装されており無料で5合目まで行けるが下記期間は一般車は通行禁止)だが、当時は未舗装で、それはなかなかの急登坂でスコリア(火山灰の子粒状の土壌)で滑りやすく、ここまで登るだけでも、大変なものだった。そこから、ブルトーザーの前後に荷物搭載用のバスケットを特設したブルトーザーで登るのだが、まともにまっすぐ登れる訳もなく、じくざくと反転しながら亀の様にゆっくり登って行くのだ。反転する際は、非常に傾いて、バスケットの枠にしがみ付いていた記憶が僅かに残る。
帰り、つまり下ってくるのが面白いというか、総てではなかったと思うが、俗に云う砂走という場所など、ブルとは云え結構速度も出るのだが、後退でオペは後ろを見ながら下ってくるのだ。その理由だが、ブルの前方バスケットは、前方ブレードの代わりに装着されているのだが、目一杯上昇させても、いわゆるアプローチアングルが小さいのだ。つまり、前進で下ってきて、ピッチングした様な場合、バスケット部分が当たってしまう程度なら良いが、速度がある場合など、パリダーカルラリーで砂漠でジャンプして縦の回転を起こして大きなクラッシュとなる場合があるが、あれと同じ危険があるのだ。
表題映画は、作家である新田次郎(元気象庁職員)で数々の山岳小説を記して来た原作を基にした富士山頂にレーダーを設置する物語だ。ちなみに、新田次郎氏の小説自体はあまり読んだ記憶はないが、同じく原作映画として「剱岳」(つるぎだけ)は記憶に残る日本映画の一つだ。
さて、富士山レーダーは、台風の接近情報収集を目的として、1965年に運用開始された富士山レーダーの計画から工事完了までを描いたものだ。
今回の映画で知るが、レーダー本体は三菱電機、建屋など建設は大成建設が受託し、様々な協力者達の参加で短期間で完成させたものだ。
映画は石原プロダクション製作ということもあり、石原裕次郎主演、渡哲也などが登場するが、それ以外にも勝新太郎、山崎努、佐藤充、芦田伸介などなど、当時の名優と云われる方が出演している。
このレーダーは、気象観測衛星だとか、その他の高性能レーダーの設置により、1999年に役目を終え、レドーム(レーダーを風雨から保護する樹脂板(おそらくFRP製))など、一式は山梨県富士吉田市の「富士山レーダードーム館」に移設展示されている。
この映画を見て、思い出すことを記して見たい。映画の中でも描かれているが、富士山への荷物や機材の荷揚げは、7合八勺までは馬方が扱う馬で、それ以降は「ごうりき」と呼ばれる人足が行っていたのだが、富士山レーダーの建設を雪のない夏場にしかできない短期間で早期に完成させるため、ブルトーザーの輸送にトライし成功したことが、早期完成の大きな要素になったことである。
実は、拙人は、今や記憶も定かでないが、たぶん中学生の1年か2年のころ富士山に頂上に登っているのだが、徒歩ではなく、このブルトーザーの積荷のバスケット上に乗って登り降りしているのだ。当時既に富士山レーダーは完成し、10年弱は経過していたと思うが、その後も少数のブルトーザーによる、頂上の売店や測候所の食料などを荷揚げする業務は継続されていたのだ。そこで、たまたま叔父に当たる親戚の者が、地元小山町須走の旅館で頂上の売店も経営しており、そのため輸送用ブルトーザーも所有しており、そのオペレーターとして、叔父(当時30代だろう)の存在があり、無料で載せてもらえるという幸運な機会を得たのだった。
当時のブルトーザーの出発地は、須走から登り始める、現在「ふじあざみライン」と呼ばれる道(現在は全面舗装されており無料で5合目まで行けるが下記期間は一般車は通行禁止)だが、当時は未舗装で、それはなかなかの急登坂でスコリア(火山灰の子粒状の土壌)で滑りやすく、ここまで登るだけでも、大変なものだった。そこから、ブルトーザーの前後に荷物搭載用のバスケットを特設したブルトーザーで登るのだが、まともにまっすぐ登れる訳もなく、じくざくと反転しながら亀の様にゆっくり登って行くのだ。反転する際は、非常に傾いて、バスケットの枠にしがみ付いていた記憶が僅かに残る。
帰り、つまり下ってくるのが面白いというか、総てではなかったと思うが、俗に云う砂走という場所など、ブルとは云え結構速度も出るのだが、後退でオペは後ろを見ながら下ってくるのだ。その理由だが、ブルの前方バスケットは、前方ブレードの代わりに装着されているのだが、目一杯上昇させても、いわゆるアプローチアングルが小さいのだ。つまり、前進で下ってきて、ピッチングした様な場合、バスケット部分が当たってしまう程度なら良いが、速度がある場合など、パリダーカルラリーで砂漠でジャンプして縦の回転を起こして大きなクラッシュとなる場合があるが、あれと同じ危険があるのだ。