私の思いと技術的覚え書き

歴史小説、映画、乗り物系全般、事故の分析好きのエンジニアの放言ブログです。

【書評】丸山眞夫 人生の対話(中野雄箸)

2023-01-31 | 論評、書評、映画評など
【書評】丸山眞夫 人生の対話(中野雄箸)
 丸山眞夫と聞いて、ある程度ものの本を読む方なら、その書いた本自体を読んでなくとも、各種の著者などが引用しつつ記して来ているので、「かつての大論客人の1人」と思い当たる方は多いだろう。それは、この書評を記す前の私の思いそのままだ。

 丸山眞夫の実相を知りたくて、図書館の蔵書を検索すると、本人の記したものもちろんあるが、その他の人物が丸山眞を題材として語る本も非常に多い。このことは、世界中で過去から起きて来た現実で、そもそもキリストの聖書と云われるものだって、キリスト本人が書いた訳ではなく、その弟子とか、さらにその弟子達が追記して行きでき上がったものだと云われている。新興宗教と云われる者でない限り、仏教でもイスラム教でも同様のことではないだろうか。

 このことは、一時関心を持って何冊か読み続けた田中角栄のこともまったく同様で、本人というより他人が表した本だけが出回っているのが現実だろう。従って、過去の偉人と思える人物像とか、その言論、思考、評伝というものは、偉人であるほど、その他大勢がある意味書かずにいられないと云う思いで積み重なって行くのだろうと思える。

 さて、今次読んだ「丸山眞夫人生の対話」(中野雄箸)も正に丸山門下生を自認した著者が記した本となる。ところが、この門下生だが、当然にして著者は丸山の考え方に共感し、影響を受け、門下生となり、しばしば丸山と語り合う時を過ごして来たのだが、そこには師匠もしくは先生と慕う者との関係ではあるが、社会的にあるタテの関係としてではない。確かに、著者としては、丸山を慕う優劣的見方をすれば当然劣後の立場にある訳だが、一般社会におけるタテの関係ではない。このことは、この本で描かれる丸山の各種言動とか所作にも、いささかも著者のことを見下したり、もっといえば命じたりという姿は微塵も感じられない。

 さて、著者だが初見参する名で正直今後も、この名を目当てに関係本を猟書することはなかろうかと思うが、それはこの本の内容が愚劣だとかそう云うのではなく、丸山という人物の知られざる一面を含め巧みに記述した文章はいささかも非難すべきところがない。あまり本の本質に関係しないが、丸山との出会いは、著者が東大法学部在籍中に講師が丸山であり、巡り会ってから丸山の死亡するに至るまで40年ほどの子弟関係を続けて来たという関係だ。

 著者は同大学卒業後、当時の日本開発銀行を経て現在のオーディオメーカーのケンウッド(当時はトリオ)の財務担当役員として定年まで勤務することになった。その間も、ケンウッドUSAの社長を委嘱されたり、女子大の非常勤講師として音楽論の講義なども担当してきた様だ。そんな前提で、この本の冒頭は事故の大学での音楽論の講義が、予想に反して好評でという自慢めいた話しから始まるのだが、ある時受講生から、授業が終わった後「ちょっとお話しさせて戴けますか」と声を掛けられ、気軽に応じたのが、その受講生から先生の講義はとても判り易く関心を持って聞いているところですがという前置きの後、先生の各種分析手法は、講義の際時々引用なされている丸山眞夫氏を敬じていることが判るのだが、正に分析手法が丸山氏と同じですねとスバリと核心を突かれ、いいやそんな意識まではしていないよとは言いつくろうものの、いささか狼狽したことから書き始めている。つまり、丸山に私事する中で、何時の間にやら、自己の思考法まで丸山に強く影響されていることを再認識しつつ狼狽したということだろう。
つまり。丸山眞夫とは、極論すればその門下生をある意味洗脳するまでに、これはイエスが12人の弟子に与えた影響力にも匹敵するものと感じる。それ程に丸山とは、ある種のカリスマ性を持った論客であったということを示しているのだろう。

 ところで、この著者がケンウッド役員になる決意をしたのも、多分に音楽とかオーディオに関心があったことが伝わって来るのだが、実のところ丸山眞夫もオーディオマニアではなく、真の音楽愛好家であったことが書き表されている。このことは、著者が銀行からケンウッドに移籍後も、丸山の要望を聞き、それなら自分がと進んで自己メーカーの機器のファインチューニング役を買って出るのだ。ところが、丸山は決して潤沢な資産に恵まれていた訳ではないのだが、新たなオーディオ機器を導入しようという場合、型式とかスペックで注文するのではなかった。そういう点で、オーディオマニアではないことが判るのだが、丸山の要求は、到底普通のオーディオ店とか担当者では不可能な話しかもしれない。注文の仕方は、まず予算というのを前提におくのだが、この音楽をこういう感じで聞こえる様にと、具体的な曲名とか演奏者を示して、それがどういう風に表現されるのかと云うのを論理的に指定して要求してくると云う。これ、私の幾らか得意の車の話しで云えば、どこどこのワインディグ路で、限界で飛ばすときというのではなく、ある程度流して走る場合を前提にして、ハンドリングだとか車両の挙動がどうだこうだ、エンジンの力感はただパワーがあるだけでなく、ほどよいレスポンスを持つとか、その他路面の継ぎ目とか段差の通過時、つまりハーシュがただ低ければ良いという訳ではなく、ハンドリングとも関係してくるし、タイヤの接地感がどうであるべきと指定してくる様なものかなと思う。

 こういうことは、オーディオにしてもクルマにしても、サーキットをただ早く走り抜ければ良いとか、セロヨン数値が良ければとか、室内の静粛性として、デシベル値がどうのという単純な話しではない。先日のトヨタ社長交代のブログ記事で、書き漏らしたことを記すが、章男氏はテストドライバーが大切でドライバーにランクを付けて大事にしている様な言説を垂れているのだがいささか懐疑的に聞いている。
 確かにトヨタのクルマは良くできており、平均的なドライバーへの評価は低くはなく、整備性でも他メーカーより優れたものがあり、およそプロ整備士達の評価も悪くない。しかし、私に云わせりゃ、この丸山のオーディオ機器への要求ほど緻密ではないが、これでホントにテストドライバーが評価したのか?と首を捻る部分が多分に感じられる。
 これは、想像だが今のジャーナリズムと同じで、個別ジャーナリストの中には、これが正解と記しても、いやデスクがダメ出しするとか、読者をスポンサーをとダメの限りを尽くして、そういう記事を全否定されてしまう。車の評価でも、設計の方が社内的には権限は当然強い訳で、テストドライバーが幾らこういう極面でどうだこうだと報告しても、いやコストがとか、生産性がとか、いやいや数値データからそんなはずはないとか全否定されてしまうだろう。
 そういう世界では、そもそも自ら反発を受ける評価者はいなくなるのは当然だ。このことはカー雑誌の評価論がまるであてにならないべた褒め記事で埋め尽くされるとか、カーオブザイヤー選定車がまったく的外れと共通するのではないだろうか。こういうことを考え合わせると、自らハンドルを握りレーシング活動まですると云う章男氏の云ってることは、まるでウソだと断じられるのではないかと私は思うところだ。

 それと、この本で丸山という人物の性格を表す記述でおもしろいと思った一説に、ホームテレホン(電波式家庭内電話もしくは親子電話)の購入から後日の販売店(倒産したかつての量販店)との話しがある。このホームテレホンを購入して帰宅した丸山は、取り扱い説明書を一行づつ丹念に読み込みすべての機能が動作するか確認したという。そうしたところ幾つかの動作で、欠陥ではないのだが説明書の間違いとか機能の不満足を翌日来店して、購入時の店員にたずねたという。ところが、ムリもないことだとも思うがその店員はそんな個別機種のすべての機能まで把握しておらず、店長や他の店員も含め、降参するに至ったという。後日、その量販店の社長や製造メーカー担当者も丸山と話しをしたが、偉い先生だというが参ったよと云う話しを後刻著者は知ることになったという。
 現在ならクレーマー扱いとなるこの丸山の行動というのは、著者は後刻知ることになるが、それは例え販売者であっても機械の中身は知らなくて当然だが、ユーザーが知る必用がある機能にはプロとして知って説明できるのが当然だというプロ論というか説明責任という意味での思いが根底あり、それへの意識がある意味怒りとなって質問を繰り返し、追求するという姿になったと記している。

 このことを知る時、このことは単なる電気製品の話しだが、私の知る保険会社調査員としての活動でも、対する相手から「どういう根拠で?」と質された場合、判りませんとは云えないのだが、「いや会社で決まってます」という説明はあまりに浅はかではなかろうか。
 保険会社の支払いは、保険約款だとか法律上の賠償責任だとか書かれている訳だが、ある意味相手のレベルに合わせて、こういう考え方が約款だとか法律には書かれていて、それは根源としてはこういう部分があって、具体的事例を上げて見れば、かくかくしかじかの合理性だとか非合理性、公平性や不公平をなくすためなんですよ程度は説明責任としてはあるのではなかろうかと改めて思うところだ。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。