私の思いと技術的覚え書き

歴史小説、映画、乗り物系全般、事故の分析好きのエンジニアの放言ブログです。

昔の車両整備

2018-07-18 | 車と乗り物、販売・整備・板金・保険
 ここで車両整備と云ってもクルマでなく、蒸気機関車のことを想像の中で記して見たい。我が町にも昔の蒸気機関車が主流だった頃、機関区というのが設置され、大勢の工員が働いていたことが各種書物に一端が示されている。彼ら工員の職場は、いわゆる扇型車庫と呼ばれる、中心にターンテーブルがあり、車庫(ピット)が放射状に配列されたものである。この車庫において、様々な点検、整備などが行われたのだろう。

 我が町の機関区も子供の頃までは半ば廃墟然として残っていたが、国鉄分割と民営化の中で、広大なヤードは撤去され、今は跡形もなくなってしまって久しい。ここでは、そんな旧日の姿を留める京都梅小路蒸気機関車館を14年程前に訪ねた際の写真と共に紹介しよう。

 この梅小路の機関庫は、あくまで遺構として保存し展示しているものだろうから、昔の現用されていた当時の全国機関庫と比べれば綺麗過ぎると想像する。蒸気機関車の宿命として絶えず石炭煤煙を吹き出したり、車両下部は各軸受けやリンクロッドのグリースや、蒸気のための水など、云ってみれば汚れの塊といってよいのが蒸気機関車だろうから。だいたい蒸気機関車はほとんど黒色だが、汚れを見だたなくするとして採用されていることは明かだ。

 この扇型車庫である整備工場を見て、感じたことの一つに何故天井クレーンがないのだろうかということである。車両本体までの吊り上げは困難にしても、結構重い単品部品も多かろうに、どういう段取りで、車軸を抜いたり、シリンダーを外したりの整備をやっていたのかと考えると、その重作業さが想像出来るのではないだろうか。

 たぶん、車体(C62で89t)のリフトは4点油圧ジャッキエア加圧か手動かで行っていたのだろう。どうしても大物部品で吊り上げたい時は、構内用小型クレーン車を横レーンに搬入し作業していたのではなかろうか。戦前からの厚板鋼板製品だから、リベット結合も多く、それらの切り離しや再カシメも大変だろう。また、腐食などで一部外板を切り継ぎ取替るという作業でも、大戦前まではガス溶接しかなく、なかなか確実な溶接も難しさがあったと思える。戦後からアーク溶接は使われていたと思うが、CO2による半自動でなく被覆アーク溶接と云われるもの止まりだろう。

 何れにしても、体力勝負の現場だろうけど、それなりのスキルがないと筒底において安全な運行は不可能だろう。

 しかし、今年は全国的に暑いが、それでなくとも京都、奈良の夏は例年尋常でない暑さだ。この暑さの中での重労働は大変だろう。また、北海道など冬の寒冷地においては、建物内とは云え、出入り口などを密閉することも難しく、これまた作業環境として劣悪であったろう。正に苦労が忍ばれる昔の職場だ。

追記
 SLのボイラー内の構造はどうなっているのか? 大宮の博物館展示であったカットモデルが判りやい。火室の高温ガスは煙管を通じて煙突へ流れ排気される。煙管の廻りはボイラー内の水にが8割方満たされているから沸騰して上部空間に高圧水蒸気が溜まるという仕組みだ。しかし、幾らかは高温向けには調質された鋼であろうが、所詮耐燃合金でない鋼では寿命は見えていると感じる。それでも、当時の運用方法として、1日内程度の短期間の停車時は、ボイラーの火を絶やさなかったそうだ。それは、熱容量が大きくなかなか温度が上がらず、すなわち蒸気圧も上がらないことと、熱収縮と熱膨張を繰り返すほど、ボイラー寿命を縮めるからだという。








SLの良き思いで

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