今次の衆院総選挙総論
今次の総選挙結果については、あまりの腐敗堕落ぶりと民主主義が崩れていく様を嘆きつつ、できれば政権交代を期待していたのだが、投票日が近づくにつれ、とてもそういう状況は起きないという雰囲気が感じれて来ていた。ここでは、選挙について、特別の理解が深い訳でもない素人たる一国民の思いとして書き留めておきたい。
選挙結果については、NHKがまとめて現した3つの図を参照してもらいたい。この結果から判ることだが、与党自民は△15、公明+3、立民△13、共産△2、維新が+30、国民+3、れいわ+2、社民±0、その他はのきなみゼロという結果だ。
つまり政権与党となる自公は合わせて、293議席と総議席数465の63%だから十分安定多数で変化ない。
一方、私は期待なんかしていなかったが野党第一党となる立民は96議席と13議席もへらしている。一方、共産も2議席減らして10議席だが、ある意味誤差というかたわいない変動のことだろう。
驚くのは、私は自民の急進的改革派をさらに強化した強者優先の思想を秘めていると見ている維新が、30議席も積み増し41議席となったところだ。この理由として考えられることは、後段で記してみたい。
国民が3議席積み増して11議席、れいわ新選組が2議席積み増して3議席と伸ばし、党首の山本太郎も国政に復帰した。社民は1議席で変わらず、その他はゼロである。
今まで述べたのは当選者の状況だが、小選挙区で見ると(図2)、やはり全国でおしなべて強いのが自民だ。安倍元首相とか、河野太郎氏などが、各地元で圧倒的なトップ当選していることから、かなりの地盤を作り上げていることが判ろうというものだ。だいたい、安倍氏など、地元山口に家を持つが幼少期から住んだこともなく、大して帰省している訳でもないのに、よほど後援会組織がしっかりしていると云うことだろうか。河野太郎氏は、私には欠点の固まりの人物だということが透けて見てしまうが、地元というか世間では必ずしもそう見られていないとうことが判る。
それと比例区では、大阪及び一部兵庫で、維新の圧倒的強さが目立つ。しかし、コロナ病変対応だとか、森友学園問題、水道民営化、あの邪悪な竹中平蔵氏との蜜月関係などがウワサされても、大阪府民は維新を支持しているというのだから驚いてしまう。私にも母方実家は大阪であり、大阪の血が幾らか流れているし、大阪の街も好きだから余計にそう思うのかもしれないが、外から見ると邪悪さが丸見えなのに、そこに住む者にはその邪悪が見えなくなってしまうのだろうか不思議な現象だ。
比例代表の表示が図3だが、やはり圧倒的に強いのは自民だ。しかし、あれだけ贈収賄事件だとか腐敗ぶりを繰り返しても、自民を党として押す国民がこれだけ多いということに驚くが、一つは労働組合とか特に大企業系列の企業からの従業員に対する示唆が大きい様に思える。なお、この比例代表で、メインストリームメディアとしての知名度は低い、れいわ新選組が山本太郎党首以下総計3名が当選する結果となったのは喜ばしいことだ。これで、今までNHKなどでの党首討論から除外され続けて来た山本党首のメインストリームメディアへの露出機会も増え、党勢がますます拡大することを期待したい。
今回の投票率だが、未だ公式には算定できていない様だが、速報によると55.3%程度で前回(2017年)の衆院選挙の53.7%よりは多少持ち上がった様である。しかし、彼の昔1955年頃の安保闘争があった時代の投票率が70%を超えていたと云うから、それと比べればもの凄くていかしており、投票という国民の権利が捨て去られている現実が見えてくる。もし、この投票率が70%代まで届けば、その増加した分はすべてが組織票でない、完全な時代の民意が反映された結果となり、およそ今回の自公政権が圧倒する選挙結果とならないことは誰でも予想できることだ。一国民としては、残念な事態だと思うしかないが、選挙を投じるか投じないかも、自由民主の上においては国民の自由だが、せめてもう少し国民の自由民主への意識が高まることを期待したいとしか云えない。
最後に、人間誰しも未来の変化を予測はできない。そういった場合、変化を期待してあえて変革を望むのか、その変革がリスクを生むことも十分考えられるので、それなら今まで通りで良いという安易なというか無難な結論を導く事例というのは世に多くある。このことは、広く世を眺めて、富める者とそうでない者がいる訳で、富める者は一種の既得権を持った者で、そうでない者は既得権などないはずなのだが、案外その富めない者にも、今の現状が既得権と感じているのかも知れない。つまり、これ以上悪くならなければ良いと云う様な発想なのではないだろうか。しかし、これは愚の骨頂の思想であって、急進的に世を変革するのはクーデターの様に極めてリスキーだが、富める者と富めない者の格差が広がりつつある現代の方向性に付いて、方向性の変革を求めて行かなければ、何も変わらないということだけは確かだろう。だいたい、世にお釈迦様の様な立派な人物が現れたとしても、時を経ればそのお釈迦様はだんだんと悪魔化してくるというのが世の宿命なのだろうと思える。
今次の総選挙結果については、あまりの腐敗堕落ぶりと民主主義が崩れていく様を嘆きつつ、できれば政権交代を期待していたのだが、投票日が近づくにつれ、とてもそういう状況は起きないという雰囲気が感じれて来ていた。ここでは、選挙について、特別の理解が深い訳でもない素人たる一国民の思いとして書き留めておきたい。
選挙結果については、NHKがまとめて現した3つの図を参照してもらいたい。この結果から判ることだが、与党自民は△15、公明+3、立民△13、共産△2、維新が+30、国民+3、れいわ+2、社民±0、その他はのきなみゼロという結果だ。
つまり政権与党となる自公は合わせて、293議席と総議席数465の63%だから十分安定多数で変化ない。
一方、私は期待なんかしていなかったが野党第一党となる立民は96議席と13議席もへらしている。一方、共産も2議席減らして10議席だが、ある意味誤差というかたわいない変動のことだろう。
驚くのは、私は自民の急進的改革派をさらに強化した強者優先の思想を秘めていると見ている維新が、30議席も積み増し41議席となったところだ。この理由として考えられることは、後段で記してみたい。
国民が3議席積み増して11議席、れいわ新選組が2議席積み増して3議席と伸ばし、党首の山本太郎も国政に復帰した。社民は1議席で変わらず、その他はゼロである。
今まで述べたのは当選者の状況だが、小選挙区で見ると(図2)、やはり全国でおしなべて強いのが自民だ。安倍元首相とか、河野太郎氏などが、各地元で圧倒的なトップ当選していることから、かなりの地盤を作り上げていることが判ろうというものだ。だいたい、安倍氏など、地元山口に家を持つが幼少期から住んだこともなく、大して帰省している訳でもないのに、よほど後援会組織がしっかりしていると云うことだろうか。河野太郎氏は、私には欠点の固まりの人物だということが透けて見てしまうが、地元というか世間では必ずしもそう見られていないとうことが判る。
それと比例区では、大阪及び一部兵庫で、維新の圧倒的強さが目立つ。しかし、コロナ病変対応だとか、森友学園問題、水道民営化、あの邪悪な竹中平蔵氏との蜜月関係などがウワサされても、大阪府民は維新を支持しているというのだから驚いてしまう。私にも母方実家は大阪であり、大阪の血が幾らか流れているし、大阪の街も好きだから余計にそう思うのかもしれないが、外から見ると邪悪さが丸見えなのに、そこに住む者にはその邪悪が見えなくなってしまうのだろうか不思議な現象だ。
比例代表の表示が図3だが、やはり圧倒的に強いのは自民だ。しかし、あれだけ贈収賄事件だとか腐敗ぶりを繰り返しても、自民を党として押す国民がこれだけ多いということに驚くが、一つは労働組合とか特に大企業系列の企業からの従業員に対する示唆が大きい様に思える。なお、この比例代表で、メインストリームメディアとしての知名度は低い、れいわ新選組が山本太郎党首以下総計3名が当選する結果となったのは喜ばしいことだ。これで、今までNHKなどでの党首討論から除外され続けて来た山本党首のメインストリームメディアへの露出機会も増え、党勢がますます拡大することを期待したい。
今回の投票率だが、未だ公式には算定できていない様だが、速報によると55.3%程度で前回(2017年)の衆院選挙の53.7%よりは多少持ち上がった様である。しかし、彼の昔1955年頃の安保闘争があった時代の投票率が70%を超えていたと云うから、それと比べればもの凄くていかしており、投票という国民の権利が捨て去られている現実が見えてくる。もし、この投票率が70%代まで届けば、その増加した分はすべてが組織票でない、完全な時代の民意が反映された結果となり、およそ今回の自公政権が圧倒する選挙結果とならないことは誰でも予想できることだ。一国民としては、残念な事態だと思うしかないが、選挙を投じるか投じないかも、自由民主の上においては国民の自由だが、せめてもう少し国民の自由民主への意識が高まることを期待したいとしか云えない。
最後に、人間誰しも未来の変化を予測はできない。そういった場合、変化を期待してあえて変革を望むのか、その変革がリスクを生むことも十分考えられるので、それなら今まで通りで良いという安易なというか無難な結論を導く事例というのは世に多くある。このことは、広く世を眺めて、富める者とそうでない者がいる訳で、富める者は一種の既得権を持った者で、そうでない者は既得権などないはずなのだが、案外その富めない者にも、今の現状が既得権と感じているのかも知れない。つまり、これ以上悪くならなければ良いと云う様な発想なのではないだろうか。しかし、これは愚の骨頂の思想であって、急進的に世を変革するのはクーデターの様に極めてリスキーだが、富める者と富めない者の格差が広がりつつある現代の方向性に付いて、方向性の変革を求めて行かなければ、何も変わらないということだけは確かだろう。だいたい、世にお釈迦様の様な立派な人物が現れたとしても、時を経ればそのお釈迦様はだんだんと悪魔化してくるというのが世の宿命なのだろうと思える。