いまわたしは軽い。いまわたしは飛ぶ。
そうすけはこう語った。
期限をきる。
やりたいことを具体的に細かく行動計画をつくる。
「何月何日何時にする」
「何時にAさんと逢えるようにする」
「チャンスをつくる」
行動を時間で締め切ることでパワーをアップする。
残暑お見舞い申し上げます。
お葉書ありがとう、です。
引越しの通知をしていなくて、ご迷惑をおかけしました。
お蔭様で今年の年賀状は半減してしまいました。
早いもので、今年も夏が終わろうとしています。
この歳になると時間が経つのが早いですね。
わたしは、ご多分に漏れずに、貧乏一直線、負け組、下流社会すれすれの低空飛行をつづけております。
これも、いか仕方ないこと、若い時からの努力嫌い、人間嫌い、自意識過剰、シャイな性格。なんだかわからないものを恐れて、逃げ回っているうちに、このようになってしまいました。
つまり、このような生活を私は望んでいたのです。無意識ですが望んでいたのです。
スリルとサスペンスのある半径十米の日常とはなんと非ドラマチックなことでしょう。
時はたんたんとすぎていきます。
不便ではあるが不幸ではない。
これでいいんだな、とおもっています。
また近いうちに飲みたいものですね。
また会う日まで御機嫌ようお暮らしください。
それでは左様なら。
夜を恐れることない。
夜こそ問う。
おまえは何者たるや。
月明かりがさす宵闇。昼と夜の交代時間。
昼のけだるさとやるせなさの体温を
巣へもちかえり、問う。
なぜ、問いつづけなければならないのか。
夜だからだ。
過去という事実は宇宙の彼方へワープする。
三次元は裏返り、全く違う位相を生み出していく。
答が見つからない。わからない。どうしよう。夜なのに。
今夜もなにひとつ答の出ないのは、どうしてか?
やがてねむくなり、夢の通い道をが開かれる。
バスにゆられている。
「つぎはネコマタギ、ネコマタギです。お降りの方はボタンを押してください」
ピンポンと音がした。
「猿も木から落ちるでお馴染みの神谷薬局はネコマタギから徒歩1分」
猫股木の停留場に近づいた。老婆がよろよろと立ち上がった。
そのとき、バスは急ブレーキを踏んだ。
老婆が転んだ。乗客は全員息を呑んだ。
老婆は大の字になって胸を指差した。
「ワタシハココニイル」
乗客は感動した。そこに老婆がいたからだ。
問いつづけなければならない夜がまたくる。
くるしくなることで、集中ができる。
ぼんやりとした不安は現在の生活の苦しさからくるのではない。それは虚しさから呼び起される。虚しさは苦しさから無意識に逃避し、行き着いた感情である。それは、突如、現れたかのようにみえるが、日常の生活態度、行動によっておこる。
なぜ苦しさから逃避するのだろう。
実は恐怖から逃避しているのだ。恐怖からの逃避を苦しみと考えている。しかしそれは本当の苦しみではない。
苦とは恐怖と対峙するときに感じることである。
恐怖とは自分自身である。自分の中の隠れた真実である。
隠していたものが暴かれることがこわいのだ。
だからもう一人の自分と闘う時に苦しみは生まれる。
その苦しみは分裂した自己の統一へと向っている。
闘い続けている時は、集中している。
そして、そのくるしみから、なにかが生まれてくるのだろう。
生活苦と感情は密接に関わりあうが別問題である。
アランはもともと「思想は筋肉に従う」という考えも持主である。
その『幸福論』でも、くよくよするより行動せよ、と教える。身体をうごかすことによって救われるという。
モンテニュも、「何か行動せよ、それからあなた自身を知るがいい」といっているが、身体をうごかすことによって、われわれは考える。姿勢を正しくしたり、足どり強く歩くことによって、気持の不安がうすらぐことがある。
『詩のこころ 美のかたち』 杉山 平一