陋巷にさまよう (野を拓く 第2部)

プアなわが道とこの世を嗤笑するブログ

ワーキングプアと仕事のえり好み

2009-05-15 19:54:03 | Weblog
5月5日の『対談での姿勢とワーキングプア対策』で、
「仕事や条件をえり好みしなければ、何とかなる」と書いた。
しかし、この言は、これだけでは本質的な解決にならない。
言葉足らずなので補足する。

えり好みしない ⇒ 正しく選択することを指すが、それがワーキングプアにできるか?
できない。
できていればワーキングプアにはなっていないから。

自分が分かっている者が仕事を選ぶのは「えり好み」ではない。
それは、自分の意思と判断による「選択」。
えり好みは、自分を分かっていない者が、目先の条件や感覚で仕事を探す。
これは、「選択」ではない。
ただ、犬も歩けばと同じで、クンクンと嗅ぎまわるだけ。
自分で方向を決め、考えにそって行動する訳ではない。

この自分の意思と判断が欠ける者に、「選択せよ」と言っても、豚に真珠。
結果、ワーキングプアは自分が分かっていない者をいう。
自分が「選択」した仕事であるが、経済的には貧しいというのは、ワーキングプアではない。

では、どうすれば良いのか?
簡単なハナシ。
  (1)選択する力がないことを自覚する。
  (2)縁があると思える仕事を、それが何であれ、徹底して続ける
     → 処遇や条件なぞ目もくれず、最低10年続ける
以上、これだけ。

自分に合った、自分らしい、自分ならではの仕事を得たい?
気持ちは分からなくもないけど、そういう考え方は止めるんですな。
そもそも自分が何なのか分かっていないのに、何を言ってるの?
上に書いたが、選択する能力がある者が選択するのは結構だが、
選択能力がないんだから、高望みをしないこと。
繰り返すと、選択能力とは、自分が分かっているかどうか、それ次第。
当人がそれをきちんと認識できるか、そして10年続けられるかどうか。
それができない者は、死ぬまでワーキングプアを続けるんですよ。
ワタシの様に。

不運を語ってもラチがあかないし、
また、社会構造の問題を指摘してもその解消には年月がかかるうえに、
他力を期待するという意識そのものがプア。
ワーキングプアは、結局のところ当人の力で脱却する他ないことを思い知るべし。
ワタシも、毎日思い知らされてますよ。

「自分はワーキングプアではない」-
大いに結構。
しかし、それは、あなたが、たまたま少しの幸運に恵まれただけ。
少しばかりの幸運を、自分の力と錯覚しないことですな。
そうはいっても、錯覚したまま生を終えられるのであれば、錯覚もまたよし。
夢の中で夢をみて、夢の人生を終えられるのであればハッピーなハナシ。

ワタシ?
ワタシは、ずっ~と、そして今もってプア。
これも、ひとえに自分が分かっていないから。
しかし、最近は、それがワタシなのかも、との思いに至っている。
つまり、真正プア、ということ。
そうだとすると、プアはプアでも、並みのプアとは違う訳で、
こうなったら、尋常ではないプア状態を100年、1000年続けてやろうか、とも考えている。
これからは、歴史に残る大プアを目指してやろうかね。 
コメント
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