陋巷にさまよう (野を拓く 第2部)

プアなわが道とこの世を嗤笑するブログ

2012年12月21日

2009-12-07 08:30:41 | Weblog
あと3年やけど、
一部で「2012年12月21日」に関心が高まってるんやて。
マヤ文明で使うていた暦の一つが2012年12月21日~23日頃に一巡するらしい。
この一巡は、2011年という説もあるみたい。

調べたら、このマヤ暦の基準日は紀元前3114年。
紀元前3114年を起点とする暦というたら、
もっと後の時代に、誰かが適当に遡って決めたにきまっとる。
日本の「紀元」と同んなじ。
けど、マヤの名前を冠し、リクツらしきものをくっつけたら、
何や、それらしゅう聞こえますなあ。
それが狙いなんやろけど。

マヤ暦の周期性は人類滅亡を想定したものとは違うという論者もおるらしいけど、
そりゃあ当たり前ですがな。

「世界の終わり」-
それは、いつの時代にもよくあるご神託。
神託からくる終末論は、人間の不安感が、そうした気運を加速させますからなあ。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など、「預言者」が出てくるけど、
(これらは、みな根は同じやし、当然なんやけど。。。)
そういう存在を仮定したら、いろいろなオハナシが可能になりますからなあ。
好き勝手なオハナシが。

それに加えて、表現を工夫したら、どうってことないもんでも、それらしゅう聞こえますがな。
 ・「それはどこにあるん?」 と 「それは那辺にありや?」
 ・「それを上にあげたら。。。」 と 「それをアウフヘーベンすると。。。」
同じことなんやけどね。
聖書でも、「旦那はんが言いよった」 と 「主がかくのたまう」 とでは印象が違いますがな。
前者の言いまわしで聖書の新訳をやったら、信者は増えるか、減るか、どっちやろ?
日本人の場合は、減るにきまっとる。

ほな、ワタシも暦を作って、それにまつわる預言を厳粛な表現でやってみましょうかのう?
「プア暦」-- 人類発祥と共に脈々と生き続けてきた「プア」たちの暦、
人類の歴史と共に歩んだ、数百万年の由緒正しきコヨミになるかも。

しかし、ワタシが「預言」をしても、誰も一考もせえへんやろなあ。
マヤ暦の様に、人をふり向かせるだけでも、大したもんや。
生半可な詐欺師で勤まるもんじゃあありまへんがな。

日々が連続し、そのときは何あんにも変わらん様に見えても、
後で思えば、あの時が分岐点やった、ということは人生や歴史でよくあること。
その意味では、別に2012年でなく、それが今日であってもおかしゅうはない。

この種のものは、
現状が変わって欲しいという人間の願望が根底にあるんやな。

ワタシも、
原因やキッカケは何でもええんで、今のプアな状態から脱却できへんかと、
いつも思うてるんやけどね。
そんな者は、摩訶不思議なハナシに遭遇すると、
コロッと信じよる。
実は、ワタシもだまされやすい人種なんでござりまするよ。
ココロの奥底に、それを望むジブンがおるんでありましょうなあ。 
コメント
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