プアについて書いている。
ワタシ自身のプアな人生を語りはじめたのがキッカケ。
思うがままに書いているだけで、内容の検証などしていないから、中身はてきとう。
厳格にチェックすると、おかしな箇所もあるだろう。
ただ、「視点」- そういう見方もある、そう見ている者もいるという受け止めで読んでもらえれば有り難い。
勿論、くだらないと思えば、無視してください。
この第3章では、中流貧民について書く。
最近は、格差社会とか、ワーキング・プアなどの言葉が氾濫している。
グローバル化や規制緩和などの大波に流された後に残ったもの、という位置づけらしい。
確かに、そうした面もあるが、少々違和感を覚える。
格差、本人の努力などによらない格差なんて昔からあったし、当然、昔の方がひどかった。
人間の歴史は、差別と格差の歴史。
そんなことは、中学生でも知っているよね?
今いう「格差」は、ワタシの結論を先に書けば、「物質文明が帰着する、その一現象」。
つまり、産業革命以降の欧米の価値観の行きつくところの一局面。
その根幹の部分に手をつけない限り、表面的な対処療法で終わり、問題の解決にはならない。
以前のブログでも書いたが、食料問題や環境問題なども同根。
我々の価値観とそれに伴う意識を大きく転換しない限り、また、それを導く思想が出てこない限り、流れは変わらない。
欧米の価値観が完全に壁にのりあげ、社会が終焉するまでに。
昔、『「中流」の幻想』という本があった(講談社、1978年)。
岸本さん(重陳氏、故人、元 横浜国大教授)の著作。
昭和30年代、40年代を経て、社会が「一億総中流」といわれた時代のもので、
岸本先生は「中流 - それは幻想にすぎない」と言った。
ただ、本質はともかく一般的に、社会的 "感覚" として「中流」の言葉は何となく説得性があった。
つまり、幻想かもしれないけど、それを信じたい人間の気分の現れとして。
その気分を受け入れるとすれば、「中流貧民」の表現が妥当ではないかワタシは思った。
勤勉に会社勤めをして社会生活をおくっている点では普通人=中流なんだろうが、その実態は貧民という意味。
実際には(階級の用語を用いず、「中流」の言葉にあわせれば)「下流」。
ワタシも中流貧民だった、(今は、下流の一番下。ワタシの表現で「真正プア」)
今も、ワタシの当時の考えは変わっていない。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_3.gif)
世では、昭和30年代から40年代を指して、
「昨日よりも今日が、今日よりも明日が明るいと信じた時代」と語られるが、実態は違う。
「信じた時代」ではなく、「信じたかった時代」「信じたいと思った時代」が正しい。
そう思わないと、しんどくて、やってられなかった訳で、自分の意思で自分をその様に錯覚させたのも当然ではある。
戦争に敗れ、何もない、食うためにどうするか、から再出発したわけだから、
何とか食える様になり、頑張れば、電気製品などが順次家庭に入る様になるとは夢のよう。
この電気製品などの出現で、家庭生活はそれまでと一変した。人はそれに感動した。あまりの差異に。
しかし、そのために 頑張って、頑張って を10回、100回繰り返して頑張らなければならなくなった。
隣の家でテレビを入れれば、ウチはいつなの? と言われる。
誰それさんチでは洗濯機を使いだしたよ。
誰それさんチでは、食べ物は冷蔵庫で保存し、いつでも何か食べられるよ。
誰それさんチは自家用車を買ったよ。。。
隣り近所や職場のまわりで競争を強いられる時代。
頑張れば手が届くから、かえって始末が悪い。
無理をしてそうした物を買うことで、家庭が明るくなった気がして、少しの満足感を味わう。
競争と、それによるモノ(物質)の時代の始まり。
それが、世でいう「中流」。
当然に、その頑張りがきかない、競争戦線に出られない人、離脱する人、つまり取り残された人々も沢山いた。
数年前に「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画が話題になったという。
ワタシは、想定した昭和33年(1958年)の現実を知らない者が作った映像に興味がないため見ていないが、
自分のイメージを膨らませただけの作品だろうと(勝手に)想像している。
しかし、それにノスタルジアを感じる人もいると思う。
その心情は分る。
電気製品などが家庭に入る前であり、物質を得ると同時に捨てていったものが、まだ残っている時代だから。
ノスタルジアをさそう映画、ということなら分るが、この種の映画はそれを超えて何を訴えたいのだろう?
それがよく分からない。
もし、若い人が、
「昭和30年代=貧しいが夢のあった時代、これから成長してゆく時代」、
「昭和40年代=成長する時代」
のイメージを持つとすれば、
それは、ある特定の一面だけの現象。
りんごを真横から見て、「りんごは台形だ」というのと同じ。
その様なイメージ通りの時代なんぞ、なかったんですよ。
確かに、経済は成長したが、現実は、そのための生存競争を強いられ、矛盾のはざまでしんどかった時代。
こう書くと、今と同じだと感じない?
そう、同じなのよ。当時も、今も。
その意味で、古きよき時代なぞないのよ。
時間は流れているから目に写る風景は変わるけど、
乗っている舟と一緒に流れている舟の周囲の川の水は、10年前も、50年前も同じなのよ。
合流したり、分流したり、よどんだりで、別の流れの水が混じって、多少は変わるだろうけど。
風景が変わったからといって、自分も変わった、社会も変わったと錯覚すると間違ってしまう。
みんな必死になって、一見、それらしく生きた、生きているけど、一朝事あらば全て瓦解。
外からは、それらしく、普通(中流)に見えるけど、中身はのりしろナシの、あくせくとする貧民生活。
昭和30年代、40年代もそうだし、今も同じ。
過日の「うつ病」でも書いたけど、例えば、今、うつ病になったら、それさえも終わり。
今の社会の価値観では。
今日、書いたのは、
戦後の再出発は、昭和30年代、40年代を経て今に至っている。
その昔を「古き、よき時代」と思うとすれば、それは「錯覚」にすぎない、ということ。
そうあって欲しいという人間の「幻想」。
ワタシ自身のプアな人生を語りはじめたのがキッカケ。
思うがままに書いているだけで、内容の検証などしていないから、中身はてきとう。
厳格にチェックすると、おかしな箇所もあるだろう。
ただ、「視点」- そういう見方もある、そう見ている者もいるという受け止めで読んでもらえれば有り難い。
勿論、くだらないと思えば、無視してください。
この第3章では、中流貧民について書く。
最近は、格差社会とか、ワーキング・プアなどの言葉が氾濫している。
グローバル化や規制緩和などの大波に流された後に残ったもの、という位置づけらしい。
確かに、そうした面もあるが、少々違和感を覚える。
格差、本人の努力などによらない格差なんて昔からあったし、当然、昔の方がひどかった。
人間の歴史は、差別と格差の歴史。
そんなことは、中学生でも知っているよね?
今いう「格差」は、ワタシの結論を先に書けば、「物質文明が帰着する、その一現象」。
つまり、産業革命以降の欧米の価値観の行きつくところの一局面。
その根幹の部分に手をつけない限り、表面的な対処療法で終わり、問題の解決にはならない。
以前のブログでも書いたが、食料問題や環境問題なども同根。
我々の価値観とそれに伴う意識を大きく転換しない限り、また、それを導く思想が出てこない限り、流れは変わらない。
欧米の価値観が完全に壁にのりあげ、社会が終焉するまでに。
昔、『「中流」の幻想』という本があった(講談社、1978年)。
岸本さん(重陳氏、故人、元 横浜国大教授)の著作。
昭和30年代、40年代を経て、社会が「一億総中流」といわれた時代のもので、
岸本先生は「中流 - それは幻想にすぎない」と言った。
ただ、本質はともかく一般的に、社会的 "感覚" として「中流」の言葉は何となく説得性があった。
つまり、幻想かもしれないけど、それを信じたい人間の気分の現れとして。
その気分を受け入れるとすれば、「中流貧民」の表現が妥当ではないかワタシは思った。
勤勉に会社勤めをして社会生活をおくっている点では普通人=中流なんだろうが、その実態は貧民という意味。
実際には(階級の用語を用いず、「中流」の言葉にあわせれば)「下流」。
ワタシも中流貧民だった、(今は、下流の一番下。ワタシの表現で「真正プア」)
今も、ワタシの当時の考えは変わっていない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_3.gif)
世では、昭和30年代から40年代を指して、
「昨日よりも今日が、今日よりも明日が明るいと信じた時代」と語られるが、実態は違う。
「信じた時代」ではなく、「信じたかった時代」「信じたいと思った時代」が正しい。
そう思わないと、しんどくて、やってられなかった訳で、自分の意思で自分をその様に錯覚させたのも当然ではある。
戦争に敗れ、何もない、食うためにどうするか、から再出発したわけだから、
何とか食える様になり、頑張れば、電気製品などが順次家庭に入る様になるとは夢のよう。
この電気製品などの出現で、家庭生活はそれまでと一変した。人はそれに感動した。あまりの差異に。
しかし、そのために 頑張って、頑張って を10回、100回繰り返して頑張らなければならなくなった。
隣の家でテレビを入れれば、ウチはいつなの? と言われる。
誰それさんチでは洗濯機を使いだしたよ。
誰それさんチでは、食べ物は冷蔵庫で保存し、いつでも何か食べられるよ。
誰それさんチは自家用車を買ったよ。。。
隣り近所や職場のまわりで競争を強いられる時代。
頑張れば手が届くから、かえって始末が悪い。
無理をしてそうした物を買うことで、家庭が明るくなった気がして、少しの満足感を味わう。
競争と、それによるモノ(物質)の時代の始まり。
それが、世でいう「中流」。
当然に、その頑張りがきかない、競争戦線に出られない人、離脱する人、つまり取り残された人々も沢山いた。
数年前に「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画が話題になったという。
ワタシは、想定した昭和33年(1958年)の現実を知らない者が作った映像に興味がないため見ていないが、
自分のイメージを膨らませただけの作品だろうと(勝手に)想像している。
しかし、それにノスタルジアを感じる人もいると思う。
その心情は分る。
電気製品などが家庭に入る前であり、物質を得ると同時に捨てていったものが、まだ残っている時代だから。
ノスタルジアをさそう映画、ということなら分るが、この種の映画はそれを超えて何を訴えたいのだろう?
それがよく分からない。
もし、若い人が、
「昭和30年代=貧しいが夢のあった時代、これから成長してゆく時代」、
「昭和40年代=成長する時代」
のイメージを持つとすれば、
それは、ある特定の一面だけの現象。
りんごを真横から見て、「りんごは台形だ」というのと同じ。
その様なイメージ通りの時代なんぞ、なかったんですよ。
確かに、経済は成長したが、現実は、そのための生存競争を強いられ、矛盾のはざまでしんどかった時代。
こう書くと、今と同じだと感じない?
そう、同じなのよ。当時も、今も。
その意味で、古きよき時代なぞないのよ。
時間は流れているから目に写る風景は変わるけど、
乗っている舟と一緒に流れている舟の周囲の川の水は、10年前も、50年前も同じなのよ。
合流したり、分流したり、よどんだりで、別の流れの水が混じって、多少は変わるだろうけど。
風景が変わったからといって、自分も変わった、社会も変わったと錯覚すると間違ってしまう。
みんな必死になって、一見、それらしく生きた、生きているけど、一朝事あらば全て瓦解。
外からは、それらしく、普通(中流)に見えるけど、中身はのりしろナシの、あくせくとする貧民生活。
昭和30年代、40年代もそうだし、今も同じ。
過日の「うつ病」でも書いたけど、例えば、今、うつ病になったら、それさえも終わり。
今の社会の価値観では。
今日、書いたのは、
戦後の再出発は、昭和30年代、40年代を経て今に至っている。
その昔を「古き、よき時代」と思うとすれば、それは「錯覚」にすぎない、ということ。
そうあって欲しいという人間の「幻想」。