陋巷にさまよう (野を拓く 第2部)

プアなわが道とこの世を嗤笑するブログ

プア3-(1) 中流貧民のはじまり

2009-01-11 18:58:31 | Weblog
プアについて書いている。
ワタシ自身のプアな人生を語りはじめたのがキッカケ。
思うがままに書いているだけで、内容の検証などしていないから、中身はてきとう。
厳格にチェックすると、おかしな箇所もあるだろう。
ただ、「視点」- そういう見方もある、そう見ている者もいるという受け止めで読んでもらえれば有り難い。
勿論、くだらないと思えば、無視してください。

この第3章では、中流貧民について書く。
最近は、格差社会とか、ワーキング・プアなどの言葉が氾濫している。
グローバル化や規制緩和などの大波に流された後に残ったもの、という位置づけらしい。
確かに、そうした面もあるが、少々違和感を覚える。
格差、本人の努力などによらない格差なんて昔からあったし、当然、昔の方がひどかった。
人間の歴史は、差別と格差の歴史。
そんなことは、中学生でも知っているよね?

今いう「格差」は、ワタシの結論を先に書けば、「物質文明が帰着する、その一現象」。
つまり、産業革命以降の欧米の価値観の行きつくところの一局面。
その根幹の部分に手をつけない限り、表面的な対処療法で終わり、問題の解決にはならない。
以前のブログでも書いたが、食料問題や環境問題なども同根。
我々の価値観とそれに伴う意識を大きく転換しない限り、また、それを導く思想が出てこない限り、流れは変わらない。
欧米の価値観が完全に壁にのりあげ、社会が終焉するまでに。

昔、『「中流」の幻想』という本があった(講談社、1978年)。
岸本さん(重陳氏、故人、元 横浜国大教授)の著作。

昭和30年代、40年代を経て、社会が「一億総中流」といわれた時代のもので、
岸本先生は「中流 - それは幻想にすぎない」と言った。
ただ、本質はともかく一般的に、社会的 "感覚" として「中流」の言葉は何となく説得性があった。
つまり、幻想かもしれないけど、それを信じたい人間の気分の現れとして。

その気分を受け入れるとすれば、「中流貧民」の表現が妥当ではないかワタシは思った。
勤勉に会社勤めをして社会生活をおくっている点では普通人=中流なんだろうが、その実態は貧民という意味。
実際には(階級の用語を用いず、「中流」の言葉にあわせれば)「下流」。
ワタシも中流貧民だった、(今は、下流の一番下。ワタシの表現で「真正プア」)
今も、ワタシの当時の考えは変わっていない。  

世では、昭和30年代から40年代を指して、
「昨日よりも今日が、今日よりも明日が明るいと信じた時代」と語られるが、実態は違う。
「信じた時代」ではなく、「信じたかった時代」「信じたいと思った時代」が正しい。
そう思わないと、しんどくて、やってられなかった訳で、自分の意思で自分をその様に錯覚させたのも当然ではある。

戦争に敗れ、何もない、食うためにどうするか、から再出発したわけだから、
何とか食える様になり、頑張れば、電気製品などが順次家庭に入る様になるとは夢のよう。
この電気製品などの出現で、家庭生活はそれまでと一変した。人はそれに感動した。あまりの差異に。
しかし、そのために 頑張って、頑張って を10回、100回繰り返して頑張らなければならなくなった。

隣の家でテレビを入れれば、ウチはいつなの? と言われる。
誰それさんチでは洗濯機を使いだしたよ。
誰それさんチでは、食べ物は冷蔵庫で保存し、いつでも何か食べられるよ。
誰それさんチは自家用車を買ったよ。。。
隣り近所や職場のまわりで競争を強いられる時代。
頑張れば手が届くから、かえって始末が悪い。
無理をしてそうした物を買うことで、家庭が明るくなった気がして、少しの満足感を味わう。
競争と、それによるモノ(物質)の時代の始まり。
それが、世でいう「中流」。
当然に、その頑張りがきかない、競争戦線に出られない人、離脱する人、つまり取り残された人々も沢山いた。


数年前に「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画が話題になったという。
ワタシは、想定した昭和33年(1958年)の現実を知らない者が作った映像に興味がないため見ていないが、
自分のイメージを膨らませただけの作品だろうと(勝手に)想像している。
しかし、それにノスタルジアを感じる人もいると思う。
その心情は分る。
電気製品などが家庭に入る前であり、物質を得ると同時に捨てていったものが、まだ残っている時代だから。
ノスタルジアをさそう映画、ということなら分るが、この種の映画はそれを超えて何を訴えたいのだろう?
それがよく分からない。

もし、若い人が、
「昭和30年代=貧しいが夢のあった時代、これから成長してゆく時代」、
「昭和40年代=成長する時代」
のイメージを持つとすれば、
それは、ある特定の一面だけの現象。
りんごを真横から見て、「りんごは台形だ」というのと同じ。
その様なイメージ通りの時代なんぞ、なかったんですよ。

確かに、経済は成長したが、現実は、そのための生存競争を強いられ、矛盾のはざまでしんどかった時代。
こう書くと、今と同じだと感じない?
そう、同じなのよ。当時も、今も。
その意味で、古きよき時代なぞないのよ。

時間は流れているから目に写る風景は変わるけど、
乗っている舟と一緒に流れている舟の周囲の川の水は、10年前も、50年前も同じなのよ。
合流したり、分流したり、よどんだりで、別の流れの水が混じって、多少は変わるだろうけど。
風景が変わったからといって、自分も変わった、社会も変わったと錯覚すると間違ってしまう。

みんな必死になって、一見、それらしく生きた、生きているけど、一朝事あらば全て瓦解。
外からは、それらしく、普通(中流)に見えるけど、中身はのりしろナシの、あくせくとする貧民生活。
昭和30年代、40年代もそうだし、今も同じ。
過日の「うつ病」でも書いたけど、例えば、今、うつ病になったら、それさえも終わり。
今の社会の価値観では。

今日、書いたのは、
戦後の再出発は、昭和30年代、40年代を経て今に至っている。
その昔を「古き、よき時代」と思うとすれば、それは「錯覚」にすぎない、ということ。
そうあって欲しいという人間の「幻想」。
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鬱病

2009-01-08 08:34:17 | Weblog
昨年一年、考えさせられたことが幾つかあるが、
その一つが「うつ病」。

読めても、手書きで「鬱病」とはなかなか書けない人が多いと思う。
途中で、あれ、どうだった? となる。ワタシも同じ。
(周囲から、自分がそうだからといって他も同じだと思うな、と言われそう。)

それはともかく、この鬱病が次第に増えつつある。
この鬱病で休職する人が。
休職する人は、つまりは会社に申し出て表面に出た人だが、
そこまで行っていない、まだ表面に出ていない人も多いのではないかと想像される。

昔なら、どこかの、誰かの話で、自分には無縁という感覚だったが、
どうも今は違う。
他人事ではない。

長期休職にまで至った人は、その程度にもよるが、現実問題として職場復帰は厳しい。
リハビリをしても、復帰後の仕事に適応できるかどうか。
一度復帰しても、再発の可能性もある。
会社や仕事で差があるが、職場での一定の配慮も、長期にわたるとなかなか難しくなる。

(イメージとして)一度そうなってしまうと、あり地獄に陥ったのと同じ。
家庭があり、家のローンがある人だとどうなるか?
- そういう年代の人がなるんだよね。仕事のプレッシャーがのしかかる年代が。
以降の、厳しい人生が容易に想像できる。

もし、自分、或いは周囲で、その兆候を感じたら、
今まで仕事を通じて得たものを全部捨ててでも、最悪の事態だけは回避する方策を考えた方が良い。
それさえ回避すれば、後でリカバーすることは可能だろうから。

いろいろ原因、理由はあるだろうが、
それらはさておき、日本人は、昔と比べて人間がヤワになっていると感じるのはワタシ一人?
雑菌がいない環境で育った者が、蝿が飛び、ゴキブリが出る環境下ですぐ病気になるのと似た感じ。
花粉症などのアレルギーも同じだという。
雑草の様なたくましさが、個人だけでなく、社会から失われている気がする。

しかし、そんなことを言っても始まらず、
現実には、そういう状態に陥った場合に、政治は勿論、社会の支援など期待できないから、
ただただ、それぞれが自己防衛をする必要がある。

これからの世の中、どうやって、しぶとく、たくましく生きるか。
このブログを読んだ方、他人事だと思わず、ご留意のほどを。  
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マッチポンプ

2009-01-07 08:44:29 | Weblog
日本郵政の宿泊・保養施設「かんぽの宿」70施設のオリックス一括譲渡に対し、
鳩山総務相が「国民が出来レースと受取る可能性がある」として中止を強く求めたとの報(2009年1月6日)。

「可能性がある」じゃあなくて、出来レースそのものじゃあないの?
オリックス&宮内は、常に「マッチポンプ」だから。
火事だ! 火事! だと言って火を消しているヤツが、実は火をつけたヤツ。

ウィキペディア(Wikipedia)をひいてみると、
『「マッチで火をつけておきながら、それをポンプで消す」というように、自分でわざわざ問題を作り出しておきながら、そ知らぬ顔で、自分がそれを解決することで賞賛や利益を得るあくどい自作自演の手法を意味する和製英語である。』とあった。

言いえて妙。
宮内(義彦、オリックス会長)にピッタリ。
明治時代の岩崎弥太郎(三菱)そっくり。もっとも、岩崎弥太郎ほどの大物じゃあないが。

宮内は、小泉政権時代に規制改革・民間開放推進会議議長を務め、様々な民営化問題を論じたが、
「世のため、人のため」と言いつつ、実は自分&自社のために動いているだけ。
「かんぽの宿」だけじゃあない。
今の時代、バカじゃあない限り、言い訳ができる形にしてあるだろうが、本質は全く同じ。

「李下に冠を正さず」というが、
冠は正していないよと言いつつ、実は外套の下に隠した袋にスモモを入れる。
冠は正さなかった、だから何ら問題はない、という論法。
今の時代を象徴する手法。
それが彼らのビジネスモデル。古くて新しい、いつまでも色あせないモデル。
すばらしいネ。
米英の詐術金融の思想と同じ。

このブログでいう「プア」そのもの。ココロ貧しき究極のプア。
ここまで繰り返しやると、世のプアの範!
ヒョウショウジョウと勲章(プア大貧華章)をさしあげたい。
勲章は、缶詰のカンを切り、切取った丸いペラにマジックで「プア」と赤字で大書きした後にヒモを通したもので、
副賞は派遣村への入村券10枚。
その代わりマッチポンプで得た全財産没収。
さらし首もいいね。

   
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みんなの仕事始め

2009-01-05 08:55:19 | Weblog
今日から、みんなの仕事始め。
月曜日からのスタートとなると、この一週間はしんどく感じる人がいるかも知れない。

各社では、新年の行事として社長の年頭所感などの挨拶があるだろう。
ワタシのところは、そんな仰々しいものはない。
世の社長の皆さんは、何と言うんだろうね。
大体想像がつく。みんな同じことを言うに決まっている。
年末年始の新聞等のメディアでも、どこも似たりよったりのことを論じている。
誰もが認識はほぼ同じ。

世の中、2008年で大きく変わったということ。
いいにせよ、悪いにせよ。
ワタシもつらつら考えた。
世の識者が言う「パックス・アメリカーナの終焉」ではなく、「パックス・キリストの終焉」ではないかと思う。
同じ様なことを言っている人もいる。

キリスト教文明の果てが共産主義と資本主義の闘争で、
共産主義が敗れ、
残った資本主義が詐術に走り、転んでしまった。
結果、その次の理念やモデルがない状態。

経済的には、自動車産業がリードする時代が終わった。
牽引産業は、鉄鋼から電気へ、そして車へと移ってきたが、それも終わり。
次は何か? と誰もが考えているだろう。

いずれにせよ、新しい価値観を築きあげる時代に入った訳で、
当分はこの混沌状態が続くんだろうねぇ。
3年で経済再建なんていうのは、単なる政治スローガン。砂上の楼閣。
(すぐに出るものはホンモノではない。ホンモノは混沌の飽和点に達しないと出ない、それが歴史の教訓。)
各社、次のビジネスモデルをどうするか、その構築までどう持ちこたえるか、
世の中、悩み多き仕事始め。 
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プア2-(7) ワーキング・プアはプアである

2009-01-04 07:24:47 | Weblog
今回は、プア 第2章全体のつけたり。
これまでは、おのれをプアと認識していないプアの話しだったが、今回はキチンと認識している人たち向けを書く。
新年のメッセージでもある。

タイトルの用語を説明すれば、次のとおり。
・ワーキング・プア=世間で言われている意味と同じ、啄木の「はたらけど...」の世界の人たち
・プア=生き方が貧しい人たち

かって触れたが、このブログでの「プア」は経済力だけで判断している訳ではない。
富んでいても、貧しい生き方の者も多い。特に、今の日本には。

しかし、世では経済的に貧しい人たちが論じらている。
その端的な表現が「ワーキング・プア」。
このワーキング・プアは、そこから脱却しようとしても、なかなか難しい現実がある。
「格差」は昔からあるが、今は階層・階級として固定化しつつある点が問題であることはいうまでもない。
同時に、誰もがそうなる可能性がある。
自分は違うゾと思っても、明日は分らない。
不安がつのる。
それが今の社会。

そうは言いつつも、既にワーキング・プアの者と、その可能性に不安を覚える者とでは天と地の差がある。
多くのワーキング・プアは、何とか脱却しようとあがいている(と思う)。
しかし、あがくだけでは本質的な解決にならないことを、どれだけ判っているかが問題。
あがくほど、ズルズルと落ちてゆく蟻地獄。
あがくだけでは、どうにもならない。
ワーキング・プア候補も同じこと。今のところ、それに直面していないだけ。

ワーキング・プアは、もはや失うものはないのだから、世に、もの申すべし。
申すだけでこと足りないのであれば(こと足りないのは自明であるが)、行動に移すべし。
今のままでは何も解決せず、ジリ貧の先には何もないのだから、何かを起こすしかないではないか。
「何か」とは何か?
- それは「ぢつと手を見て」それぞれが考えろ。
資本主義の矛盾があちこちに噴出し、その一つがワーキング・プア問題であることは誰の目にも明らか。
他の問題、例えば現下の金融危機も然り、環境問題、食料問題も然り。
根は同じで、違う現象の様に見えるだけ。
今までの枠組みもいびつだったけど、それさえもが、ガラガラと崩れてきている。
ひとつの崩れが次の崩れを呼ぶ崩壊の連鎖、負のスパイラル。

社会がおかしければ、改善するか、叩き壊すしかないのは世の常識。
自分がおかしければ、つぶれるか、つぶされるしかないのが、これまた常識。
ワタシが偉そうに言うまでもなく、またアジるわけでもなく、過去の歴史はその様に動いてきたし、これからも同じ。

世の中の矛盾を矛盾と断じ、社会を徹底的に変革する場合、それができるのは、
どんな時代、どんな社会でも、その矛盾に満ちた存在の中から出てくる。
今の日本で、一番それに近いのはワーキング・プア層。

行動できない、しないワーキング・プアは、現状に甘んじるしかない。
その生き方が、それこそ「プア」。
更に落ちればよい。

ワタシなぞ、自分であがいても、どうにも前に進まない様になってきている。
あがき続けているうちに、トシをとった。
身体が動かなくなってきている。
アタマも半ボケ状態。
つまりは「プア」真っ盛り。真性プア。

ワーキング・プアの諸子よ。
若い君たちが、何か考え、行動すべし。
何もしないと、ず~っとプアだぞ。人生そのものが。それでいいのか?

出でよ、現代の吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿
(注)クズの伊藤博文や、山県有朋なんぞはいらないよ。

自分にできないことを他人にねだってスミマセン。- プア老人より。
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三が日も終わり

2009-01-03 19:08:39 | Weblog
世の中は、まだ正月?
ワタシは既に普段の土曜日モード。
前のビルの6Fだか7Fでも、電気がついていて、今日から仕事の様子。
ここは弁護士事務所だけど、1月1日、2日以外は日曜日も出ている。
当たり前とはいえ、感心させられる。

しかし、今日から明日にかけては、帰省先から沢山の人が戻ってくるんでしょうなあ。
ウチの若い人もそうだけど、混雑の中で移動する、そのエネルギーが羨ましい。
ワタシも昔の帰省経験はあるが、帰省先がなくなってからは、その混雑が妙になつかしい気もする。
そういう一種の熱気が、もうワタシにはないから。
家を出ていった愚息たちは何も連絡をよこさないし、実の子以上にかわいがっていた犬も死んでから久しい。
人間、わいわい、がやがやと、あくせくしているうちが華なんですなあ。
一人だけ「あくせく」というのは、何だか侘しいもんです。

この正月にうけとった(個人宛ての)年賀状は約10通。年々減ってゆく。
そりゃあそうだよね。こちらから出さないんだから。
出さないと来ない、世のことわり。
普段接触していない人は、ワタシをもう死んだと思っているだろう。
仕事ではそうもいかないけど、私事では既に世捨て人。

今日は、何だか熱っぽい感じ。
風邪?
- 皆には、インフルエンザには気をつける様にと言いながら、イの一番に風邪をひいたんじゃあ、みっともない。

家でゲバラの映画の話をしたとき、家内から「キューバ革命50周年だよ」と言われた。
何で今、ゲバラかと思いきや、言われてみれば、そうなんだ。
どんどんもの忘れをし、アタマもボケてきた。

【注】キューバ革命は、米資本と結託した旧政権の打倒を果たしたもので、当初は米国を敵としたものではない。
キューバを社会主義へと追いやったのは米国だからね。ケネディの失敗ですよ。
というより、ケネディも、米国の軍産複合体を制止できなかったということ。
米国では、それだけ軍事産業がハバをきかしている。昔から。
今のアフガン、イラク侵攻も同じ。タテマエはあれこれ言うんだろうけど。
新大統領に就任するオバマも、アフガンに増派する方針の様だけど、
行くのは、黒人と貧民とビザなし移民なんでしょうなあ。
コメント (1)
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仕事始め

2009-01-02 18:16:31 | Weblog
今日は仕事始め。

今年は、通常業務の持ち越しは(幸か不幸か)余りないが、
年が変わることで、例年、年末年始にやらなければいけないことがある。

それに先立ち、今日は例年にはないことをした。
初詣(?)。
行き先はヒミツ。

疑問符をつけたのは、初詣が神社仏閣に参ることをいうなら、
今日行ったところは社寺ではないから、初詣ではない。
まあ、そんなことはどうでもいいいけど、お参りをした。
日本酒を持っていった。カップの酒だけど。

誰もいないものと思いこんでいたが、何人かいた。
正直、驚いた。
世の中、いろいろな人がいるもんですなあ。

ワタシは、社寺に見物には行ったとしても(信者ではないから)手は合わせないが、幾つか例外がある。
今日参ったところは、(社寺ではないが)その例外の一。

自転車で行く途中の皇居ばたは、一般参賀の往来か、結構人が出ていた。
これまた、世の中、いろいろな人がいるものですなあ。

帰路、マリオンへ立ち寄り、(昨日のブログで書いた)ゲバラの映画のチケットを買った。
-「チェ/28歳の革命」「チェ/39歳別れの手紙」
数量限定の特典(ステッカーやバッグ)はもう品切れだった。
う~っ! 欲しかった訳ではないが、すでに無いとは! ← ホントウは欲しかった。
中南米をはじめ、絶大な人気があるゲバラだが、日本でもその人気衰えずか?
そりゃあそうだよね。
ワタシの年代の者にとっては、神にも等しい存在だから。
商業ステッカーであれ何であれ、ゲバラの爪のあかでもなめたいワタシ。

昨、元日の新聞に、映画の一面広告が出(ワタシが見たのは朝日)、村上龍がいいコメントをしていた。
コメントの内容はさすがに村上龍。
ワタシと似た様な年代だけあって、ゲバラが判っている。
しかし、彼は1952年生まれだから、本当に判っているはどうかは疑問(村上龍に失礼か?)。
知識や認識としてではなく、存在として。

(上にも書いたが)ワタシや同年代の者にとっては、チェ・ゲバラは神にも等しい。
そうした人物を評するなど、不遜というか、してはいけないことの様に思える。

今日の参拝(?)先も同じ。
ワタシは彼の直接の血を引いている訳ではないが、気分としては一族の大叔父さん。
1000年以上前の革命家。
評してはならない。

なあんてことをしたり、考えたりしていたら、今日の仕事始めは殆ど仕事にならなかった。
まあ、いいか。今日くらいは。
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新年でござりまする

2009-01-01 09:00:25 | Weblog
新年でござりまする。
プアのワタクシ(←今日だけの表現)にも、どういう思し召しか元日がやってまいりました。
有り難いことでござりまする。 

ワタクシ、約10年前から個人でも会社でも、年賀や年賀状を全廃し、ご無礼申しあげておりまするが、
プアに免じてご容赦くだしゃりませ。
(理由になっていない?)

世の諸兄が、正月をどう過ごされておられるのか、存じあげないのでござりまするが、
ワタクシの元日は、一年の特別な日なのでござりまする。
何が特別でござるか?
それはもう、4年前まで、一年に一度の定休日なのでござりましたからなぁ。
今では、日曜日を定休日にしておりますので、一週に2日の定休日がある一年で唯一の週なのでござりまする。
めでたいことでござりまする。
有り難いことでござりまする。

涙して雑煮なんぞをいただきまする。
プアにして雑煮を食するとは、何とも今年の正月は豪華でござりまする。
本当は、糖尿のためカロリー制限があり、食してはいけないのでござりまするが、
次に食する機会があるかどうか分からぬゆえ、無視して頂戴つかまつりまする。
モグモグ。  

昔の丁稚どんは、盆と正月に数日の休みがあったそうでござりまするから、嘘の様な話しでございますなぁ。
今の時代、特にお役人様は今年は12月27日から休みだそうでござりまして、まるで王侯貴族でござりまするなぁ。
ワタクシなぞ、お役人様を仰ぎ見れば、恐れ多くて目ん玉がつぶれそうになるのでござりまする。
仕事なんぞ適当にやったフリをすればいいのでござりまするからなぁ。
ワタクシめには、とても人とは思えませぬ。

人のことはともかく、気分としては、凧をあげ、こまを回して遊びたいのでござりまするが、  
凧やこまを買う金なぞありませぬゆえ、
また作るにも、どうにも手が不器用でござるゆえ、
何をするでもなく、無為な時間を過ごすのがワタクシの元日なのでござるよ。
テレビもくだらない番組ばかりで、テレビ局はそろいも揃って、よくぞこんなアホ番組を考えつくものでござりまするなぁ。
社会として、時間と金のムダでござるよ。
しかし、とほうもないバカ知恵がないと、ここまでアホ番組競争はできませぬ。
それに出演する者も、まあそれは求めに応じて出ているのでござりましょうが、
アホ番組に加担しているご自分がよくイヤにならんものでござりまするなぁ。
プア&アホはワタクシだけではないことを実感いたしまする。
まあ、昨今は、アホを装うアホが人気を博するようでござりまするから、
当人は何も感じず、金の稼ぎどきと思っているのでござりましょうなぁ。
そうしたアホ番組をプアが見ているのでござりまするから、世の中、マンガでござりまする。

ワタクシもな、コタツでごろんと横になって、本なぞ読みながら昼間から焼酎を飲み、
うたたねをすると腰が痛うござりましてな。
腰と背中が痛い、痛いというのが毎年のことでござりまする。
家内に頼んで揉んでもらうと、嫌がられましてな。
「今日は会社に行かないの?」といやみを言われるのでござりまする。
節句働きではござらぬが、会社へ出た方がよかったかもと思いつつ、日が暮れるのでござりまする。

世の中、平和でござりまするなぁ。
 - 自衛隊は相変わらず戦争ごっこ、軍隊ごっこをやってりゃあいいんだから。
世の中、豊かでござりまするなぁ。
 - 身売りしたり、餓死する人なぞいないんだから(ごく稀にいるかも)。
 - ワタクシなぞ、プアだとほざいてりゃあ一年が暮れるんだから。


コタツからガバッと起きて、トーンが一転。 ウッ、正月どころではない!
知らなかったのだが、
チェ・ゲバラ(Che Guevara、1928年~1967年)の映画2部作
-「チェ/28歳の革命」、「チェ/39歳 別れの手紙」が近く公開されるとのこと。
往々にして、こうした映画には期待を裏切られるが、やはり見てみたい。
20世紀 最高の英雄、チェ・ゲバラの面影を。一端だけでも。
そうだ! 追憶に、この正月は「Hasta Siempre Comandante」だ! 【注】

今の、利権にまみれたボンクラだらけの政界、金亡者だらけの実業界をみるとなさけなく溜息ばかりだが、
ワタシはマルキストではないものの、ゲバラの様な男がいたことだけで、この世もまんざら捨てたものではないと思う。
知れ プアとは無縁の、真の男の生き様を。


【注】「Hasta Siempre Comandante」は、ゲバラ讃歌(カルロス・プエブラ Carlos Pueb 作曲)
youtube にいろいろあった。 歌としてもいい曲ですよ。
Hasta siempre -- 画像でゲバラの面影を偲ぶ
Hasta Siempre Comandante Che Guevara -- ゲバラの画像と太い歌声が良い
Nathalie Cardone - Che Guevara -- ゲバラを商業化している感があるが、歌もイメージも悪くない
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