ローマへの道中、ガイドさんからルビコン川ですと説明され、そして思い出されたのがこの言葉であった。
共和政末期の古代ローマにおいては、本国である「イタリア」と属州ガリア・キサルピナの境界線の役割を果たしていたのがルビコン川であった。
軍団を連れこの川を越え南下することは法により禁じられており、その南下行為はすなわち共和国に対する反逆と見做されていた。
一般にルビコン川の名前は、紀元前49年1月10日、ローマ内戦においてユリウス・カエサルがこの川を渡ったことで知られる。
この際に「賽は投げられた」(Alea iacta est)と檄を発したことは余りにも有名。「ルビコン川を渡る」は以後の運命を決め後戻りのできないような重大な決断と行動をすることの例えとして使われる。
技術などの物質的なものは二千年を経て大きく変化したように思えるが、欲望・嫉妬・喜怒哀楽などの人間本来の本性に類するものは、その当時と現代と何にも変わっていないようである。
古代ローマの政治の中心であったフォロ・ロマーノは、コロッセオの隣にある。このあたりを古代ローマ人が闊歩していたかと思うと、不思議な気もした。
<!-- フォロ・ロマーノ -->
参考:Wikipediaによると以下のごとく記載されている。(関係部分のみ抽出)
歴史上,英語読みでジュリアス=シーザーと呼ばれるのは,ローマ最大の英雄,彼らの言葉ラテン語では,ガイウス=ユリウス=カエサル(Gaius Julius Caesar)のことである。
実際は,信長のカリスマと,秀吉の人望と,家康の組織力を兼ね備え,しかもその男の色気とガンジーの慈悲さえも,ともに授かった,歴史上稀有な魅力を持つ人物であり,欧米人にとっては,まさにタイム誌の表紙を一人で飾る"The Man of The History"といってもいい人物である。
ローマでは,執政官などの高級官職を務めた人物は,その翌年から属州(一種の植民地)の総督として派遣されるのが常である。そしてカエサルに割り当てられたのは「属州ガリア」であった。
属州ガリアとは,カエサル就任当時は,北イタリアと南フランス一体を示すだけの言葉であったが,カエサルは,これを実力でフランス全土とベネルクス方面へと拡大していった。
この9年間に渡る「ガリア戦争」は,カエサルの筆になるラテン語の名文中の名文(日本で言うなら「古事記」+「源氏物語」+「平家物語」のようなもの)である戦争報告書集「ガリア戦記」に詳しいが,これはまさにカエサルの将来を賭けた戦争でもあった。
保守派の貴族の牙城である元老院には,常に斬新な政策を持って民衆の喚起の声を浴びるカエサルが恐ろしかった。彼が,ローマの伝統的な貴族支配体制を破壊しようとしていると考えたからである。
そして,前50年,元老院はカエサルに対し任期切れを理由に「ローマ帰還命令」を出した。しかし,その命令に従えば,カエサルはガリアで鍛え上げた軍隊を解散して,一人ローマに向かわざるを得ず,それはとりもなおさず彼にとっては「死」を意味した。
そして迷いながらもやってきたのが,属州ガリアとイタリア本国との境界線,北イタリアのちっぽけな(しかし歴史上はナイル川以上の意味を持つ)ルビコン川である。 彼は思い悩んだ。
軍隊を連れてこの川を渡れば自分は国家反逆者,ここで軍を解散すれば行きつく先は身の破滅。・・・前49年1月11日,ついに彼は決断し,全軍に号令を発した。
「賽は投げてしまおう!」-賽は投げられた。もう後には引けぬと。
カエサルに国家反逆者となる度胸はないものと,たかをくくっていた元老院とポンペイウスは,カエサルの怒涛のごときローマ進軍にパニックとなった。とりあえずギリシアへ逃れる元老院。 それを追うカエサル。
両者の最終決戦はギリシアのファルサロス(前48年)。
カエサルは部下たちにこう命じた。「今日は心臓は狙わなくてよい。奴らの顔を狙って傷つけてやれ!」そして、カエサルの天下になった。