12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

一家に一台デジタルTV

2008年05月13日 08時41分39秒 | Weblog

TVが、デジタル化され、アナログ放送が打ち切られる時期が2011年7月と確定した。それほど不便を感じていないのに、どうして変えるのだろうか。

こういったことを、技術の進歩というのだろうか。技術が進歩して“出来るようになったから変える”のと、“どうしても必要なから”変えるのでは、大きく異なる。

 一度電気屋さんに出向き、デジタルTVを購入したら、ビデオテープやDVDの再生を見ることが可能か(現在のアナログタイプの再生機がデジタルTVに接続・使用できるのか)を確認しないといけないと思い始めた。

我々の世代は変化に追随することがだんだん難しくなるのが当然である。ご近所を見回しても、あまりデジタルTVを購入したという話は無いようである。

 双方向性・多チャンネル化・高画質・高音質・・・などを、売り物にしているようだが、あまりぴんとこない。こんなことが必要なのだろうか? リモコンに、やたらボタンが沢山ある、分かり難くて・使いにくそうである。

パソコンだけで、十分に困らされている、小生も含めて、沢山いる機械音痴を困らせるのだけは、何とかして欲しい。

こんな思いを抱いていたら、インターネットのあるサイトで、次のような記事を見つけた。 こちらは小生より遥かに専門的にありようを心配していたのである。一読に値すると思ったので、「参考」に引用した。

数十万円もする高価なデジタルTV時代になると、以前の「一家に一台」の時代に逆戻りしそうである。さらに、小生はビデオ再生用にアナログの機械(デッキやTV)を使える限り使おうと思っている。

読者の皆さんは、いかようにお考えになっているだろうか。

参考;第132回「テレビ地上波デジタル化の読み違い」 (2003/03/27)

 (前略)デジタル化というと何か進歩的に感じられがち。しかし、テレビと密接な関係にあるパソコン、さらには携帯電話の最近の進歩、変容ぶりと併せ考えると、計画されているような強制的なデジタル化推進には、現状認識に大きな読み違いがあると思えてならない。

◆パーソナル化の流れに逆行  
総務省のホームページ「地上デジタル放送」を順に繰っていくと、「高画質・高音質で楽しめ」「見たいジャンルの番組が簡単に選べる」「地域情報も見られる」「双方向だから番組に参加できる」「データ放送、暮らしに役立つ最新情報」……と並んでいる。

  これを結構なことと感じられるかどうか。受信機がハイビジョン仕様を前提にしており、32型で1台30万円はすると言われたらどうだろう。量産で価格が下がるにせよ限界があろう。  

現在、家庭のテレビ普及率は100%に近く、家庭に2台以上あるのが当たり前になっている。アナログ機なら29型でも数万円、14型テレビなら1万円で買える。

1万円もしないパーツを買えば、パソコンにテレビ機能・録画機能が追加できる。2台目、3台目として、こうした小型テレビやパソコンが広く行き渡り、今日では家族集まってテレビを見るより、個人で好きなものを楽しむスタイルが主流なのだ。  

仮に地上波デジタル化が計画通りに進んだとしても、家庭の居間に鎮座する大型テレビがデジタル化されるだけに終わるのではないか。ある意味では本当に熱心に見られているパーソナルなテレビ視聴は、大型・高額化には耐えられない。

地上波アナログ放送が終了したら、何を見たらよいのか。ケーブルテレビに流れる方向もあるし、もちろんインターネットもある。(中略)  

確かにハイビジョンでじっくり楽しみたい番組はある。しかし、そんな高画質は要らない、気軽にちょっと楽しめれば良い程度の番組が圧倒的に多いのではないか。(中略)  

1年前、2002年3月の「フジテレビ定例社長会見要旨」に、総務省に強引に引っ張られている民放の本音がのぞいている。  

「デジタル化の良さは、皆が理解していると思うが、日本で進みにくいのはアナログ地上波があまりにも成熟しているということがあると思う。 面白い情報もたっぷりある。なぜ、デジタル化しなければいけないのか。それを説得するのがなかなかしんどい面がある。

アナログ波が衰退期を迎えていれば、すぐにデジタル化すると思う。アナログが横綱相撲を張っているので、変えづらいということだ」

◆ソフト著作権問題もブレーキ  
今なら家庭のビデオデッキで番組を録画し、後で楽しむのは誰もがしていることだ。 デジタルテレビは、その高画質・高音質のゆえに簡単にコピーを許す訳にいかない。コピーに劣化がなく、即、完全な商品になってしまう。

既にこんな例が持ち上がっている。  BSデジタルハイビジョン放送を始めた当初、WOWOWがハイビジョン録画可能なD-VHSデッキでの高画質録画を認めていなかった。

同社のお断り文書「D-VHS録画/再生について」によると「デジタル時代における視聴者の私的録画の権利保護と、著作権者の権利保護の両面から、ほとんどの放送番組に『1世代録画可』のコピー制御信号を付加して放送して」いるという。

この結果、走査線が1080本もあるハイビジョン仕様から、テレビで標準画質の480本に自動的に落として録画されてしまう。BSデジタル各社の規制は普及優先から現在では緩やかだが、地上波全部となれば当然変わってくる。(中略)  

ビデオデッキやDVDレコーダーを使うにせよ、テレビ機能付きパソコンにせよ、家庭内なら自由に録画したり、加工できる現在の在りようと根本から様変わりする。こんな事情が広く知れ渡れば「こんな厄介なものは要らないよ」という声があちこちから飛び出しそうなものだ。(中略)  

「月刊ニューメディア3月号」の「総務省放送政策課長に聞く『地上波デジタル化、国はどう責任を果たすのか』」はインタビュー要約になっていて、多々ある問題点が一覧できる。  

その最後で「もし2011年までのデジタル移行が実現困難となったら」との質問に「現段階では想定していない。予定通りの完全移行を目指し、全力で取り組んでいく」「万一、不幸にも移行が実現困難となる事態が起これば『大胆かつ柔軟』に考える必要があるだろう」と答えている。  

一般大衆がメリットを感じにくく、家計も含め出費だけかさむ「国策」。一足早く始めた米国は、もともとケーブルテレビ視聴が多数派だったこともありデジタル化は行き詰まりつつある。「万一」が「十一」「五一」になったとしても不思議ではない。


城壁

2008年05月12日 07時27分33秒 | Weblog

     

              ローテンブルグの城壁

     

日本の場合には、お城と呼ばれる構造物のみが、堀や城の石垣を防御装置として利用している.

城下町に居住する武士や町人達には防御のための何物も存在しないのだった。 むしろ、城に近い所から上級武士、だんだん離れるに従って、下級武士・町人や職人・それにお寺などを配置し、防御施設の一部として利用したと読んだ記憶がある。

 従って戦争になると、武士以外の城下町の住人は、自ら避難をしていたようである。
(どこかに避難すれば、財産は別としても差しあたりの生命の保全は出来たのであろう)

異民族との紛争が長かった外国では、城壁で町全体を防衛したため、殆どの中世以前の大都市(領主が支配する街)は、侵略者による住民の皆殺しを防ぐため、長い城壁でかこんだと、何処で聞いたか読んだような気がする。

兵士であれ住民であれ、多くの場合民族が異なる関係で、侵略者から皆殺しにされたのであろう。そのため、ヨーロッパや中国など、例えばドイツでのローテンブルグも中国の西安も今度のイタリアの各都市も、全て都市を取り囲む長い城壁に囲まれていたのである。

                            

          ピサの城壁

城だけを守るのと町全体を防衛するのでは、工事の大変さは段違いである。各都市国家の領主は、多額の工事費を捻出し、長大な城壁都市を建設したのであった。

 このように膨大な防衛工事をしなくてはならなかったことから類推すると、異民族に対する恐怖心は大層なもので、そういう精神構造が現在異民族に対する人種的な偏見として残って居るようにも思えるのである。

人種的な偏見については、城壁都市を持ったことの無い日本人には理解できないことなのかもしれないと最近思うようになった。


光源氏とイタリア男性

2008年05月11日 06時24分19秒 | Weblog

 前日からの雨で術後初めて膝が痛み若干睡眠不足で、また3ヶ月以上多くの講座や教室を欠席したこともあり、9日(土)が今年度の源氏物語開講の日であることを全く失念していた。

生涯学習センターの職員の方から呼び出しの電話が架かってきて、大急ぎで教室に遅刻の出席、まことにばつの悪いこと。

光源氏は、据え膳を食わず、手ごわい女性ほど果敢なる闘志を燃やし、そしてその女性に対しては最大限の賛辞を持って接すると言う先生の説明が強く印象に残った。

 またまた、塩野七生さんの「男たちへ」の「嘘の効用について」と言うエッセイから引用する。

 彼女はご自身の経験から「・・・人間と言うものは百パーセントの嘘をつくことができないと思っている。彼の言う嘘には一パーセントではあっても必ず真実が含まれているはずなのだ。

その一パーセントの真実を百パーセントの真実に変えることは不可能でも、せめて十パーセント、いや、うまくいけば二十パーセントくらいにすることは、私の意思一つにかかっていることである。・・・」

イタリアでは、男性が女性に関心を示し、「ジュ・テーム」とか「ティ・アーモ」すなわち“ I love you. “ を男が口にするとき、一番最初に彼自身がその言葉を聞く。そして、二度三度と繰り返すと「嘘」が本当になってくる。

ひょっとすると、光源氏もこんな風に「嘘から出た真に」なったのかも知れないと思ったのである。

日本語で小生が「私は貴女を愛します」と言っても、石ころをぶつけられそうだが、光源氏だと、とても気の利いたすばらしい愛の言葉が囁けたのであろう。

イタリアでは、男性が魅力的な女性に積極的にアッタクするのは当たり前なのだそうである。女性にとって、男性が関心を示してくれないことは、自己の魅力不足だと感じるか、あるいは、本当に魅力的な女性にとっては、これほど魅力的な私を無視するとはと大変な侮辱を感じるそうである。

男が女に言い寄るのは、その女性に魅力を感じるからである。女性に魅力を感じた男性は、洒落た愛の言葉が捧げられるようでなくてはいけない。

せいぜい日本の女性には益々その魅力を開発してもらい男性から言い寄られるように勤めて欲しいのである。

そして、日本男性には源氏物語でも研究し、洒落た言葉で言い寄れるようになって欲しいのである。

おまけ:
電子辞書の「7ヵ国語会話」イタリア語編で「ジュ・テーム」とか「ティ・アーモ」を探したが、ついに検索できなかった。

旅行・観光用センテンスは沢山出て来たが、一番大切な愛の言葉が出て来ないとはどうなっているのかと不思議に思ったのである。


さいは投げられた

2008年05月10日 05時58分55秒 | Weblog

ローマへの道中、ガイドさんからルビコン川ですと説明され、そして思い出されたのがこの言葉であった。

共和政末期の古代ローマにおいては、本国である「イタリア」と属州ガリア・キサルピナの境界線の役割を果たしていたのがルビコン川であった。

 軍団を連れこの川を越え南下することは法により禁じられており、その南下行為はすなわち共和国に対する反逆と見做されていた。

一般にルビコン川の名前は、紀元前49年1月10日、ローマ内戦においてユリウス・カエサルがこの川を渡ったことで知られる。

この際に「賽は投げられた」(Alea iacta est)と檄を発したことは余りにも有名。「ルビコン川を渡る」は以後の運命を決め後戻りのできないような重大な決断と行動をすることの例えとして使われる。

 技術などの物質的なものは二千年を経て大きく変化したように思えるが、欲望・嫉妬・喜怒哀楽などの人間本来の本性に類するものは、その当時と現代と何にも変わっていないようである。

     

古代ローマの政治の中心であったフォロ・ロマーノは、コロッセオの隣にある。このあたりを古代ローマ人が闊歩していたかと思うと、不思議な気もした。

<!-- フォロ・ロマーノ -->

参考:Wikipediaによると以下のごとく記載されている。(関係部分のみ抽出)

歴史上,英語読みでジュリアス=シーザーと呼ばれるのは,ローマ最大の英雄,彼らの言葉ラテン語では,ガイウス=ユリウス=カエサル(Gaius Julius Caesar)のことである。

 実際は,信長のカリスマと,秀吉の人望と,家康の組織力を兼ね備え,しかもその男の色気とガンジーの慈悲さえも,ともに授かった,歴史上稀有な魅力を持つ人物であり,欧米人にとっては,まさにタイム誌の表紙を一人で飾る"The Man of The History"といってもいい人物である。

 ローマでは,執政官などの高級官職を務めた人物は,その翌年から属州(一種の植民地)の総督として派遣されるのが常である。そしてカエサルに割り当てられたのは「属州ガリア」であった。  

属州ガリアとは,カエサル就任当時は,北イタリアと南フランス一体を示すだけの言葉であったが,カエサルは,これを実力でフランス全土とベネルクス方面へと拡大していった。

この9年間に渡る「ガリア戦争」は,カエサルの筆になるラテン語の名文中の名文(日本で言うなら「古事記」+「源氏物語」+「平家物語」のようなもの)である戦争報告書集「ガリア戦記」に詳しいが,これはまさにカエサルの将来を賭けた戦争でもあった。

保守派の貴族の牙城である元老院には,常に斬新な政策を持って民衆の喚起の声を浴びるカエサルが恐ろしかった。彼が,ローマの伝統的な貴族支配体制を破壊しようとしていると考えたからである。

そして,前50年,元老院はカエサルに対し任期切れを理由に「ローマ帰還命令」を出した。しかし,その命令に従えば,カエサルはガリアで鍛え上げた軍隊を解散して,一人ローマに向かわざるを得ず,それはとりもなおさず彼にとっては「死」を意味した。

そして迷いながらもやってきたのが,属州ガリアとイタリア本国との境界線,北イタリアのちっぽけな(しかし歴史上はナイル川以上の意味を持つ)ルビコン川である。 彼は思い悩んだ。

軍隊を連れてこの川を渡れば自分は国家反逆者,ここで軍を解散すれば行きつく先は身の破滅。・・・前49年1月11日,ついに彼は決断し,全軍に号令を発した。

「賽は投げてしまおう!」-賽は投げられた。もう後には引けぬと。  

カエサルに国家反逆者となる度胸はないものと,たかをくくっていた元老院とポンペイウスは,カエサルの怒涛のごときローマ進軍にパニックとなった。とりあえずギリシアへ逃れる元老院。 それを追うカエサル。

両者の最終決戦はギリシアのファルサロス(前48年)。
カエサルは部下たちにこう命じた。「今日は心臓は狙わなくてよい。奴らの顔を狙って傷つけてやれ!」そして、カエサルの天下になった。


物価

2008年05月09日 07時28分42秒 | Weblog

専業主夫になって初めての物価急上昇である。経済評論家は、デフレは終わり、インフレとデフレの中間点になったというのだが、小生の実感は立派な大インフレである。

インスタントラーメンは100円くらいだったものが140円、食パンは150円くらいだったものが200円、そしてよくご承知のガソリンであるがこれが160円近辺、その他急騰した物価を上げればきりが無いのである、あれもこれも絶好の機会到来とこぞって値上げに踏み切っている。

先日「楽しく賢い節約術」なる見出しのミニコミ紙が新聞に挟み込まれていた。

1. クレジットカードを見直そう=ポイント還元割り増し期間中に纏め買い(めんどくさいし無駄になりそう)
2. 食料品を纏め買いでフリージング(どうしても無駄になることが多い)
3. ETCカードで高速料金の割引(これは恩恵に浴しているが多寡が知れている)

4. デパートの駐車料金を無料にするための商品券購入(デパートなんかに行く用事がない)
5. コンビニの支払いは電子マネーでポイント獲得(コンビニにもめったに行かない)

こんなことで実際的な節約術といえるのだろうか、あまりにも読者を馬鹿にした内容だと小生は思うのだが。

 2004年2月発行のある冊子「ドイツ流 貴女の暮らしの節約診断」を読むと、
「ドイツでは質素倹約の暮らしを第一に考え、生活に対する合理性と実用的センスにこだわります。でも、それと同時に、快適さと居心地のよさを何より大切にします」と書いてあった。

この冊子も、さしたる具体的な方策は述べてなく、精神論が主体で、実務を預かっているベテラン主婦達にとっては、チャンチャラおかしいのではないかと思った。

翻ってスーパーマーケットでのベテラン主婦達の買い物は、実に真剣であり、よく考え・研究して購買活動をしているように思える。 女性の脳には、コンピューターが何台もありそれらが同時に働いていると医学者が言うのである。

実に情けないことに男性の脳にはコンピュータが唯の一台しかない(単細胞)ので、色々な事を同時に考えられない構造になっているという。

レジに並んで前後のベテラン主婦達の買い物籠を覗くと、感嘆するくらい巧妙な買い物がなされているのである。

掴んだ物を、唯単に買い物籠に放り込んでいる小生の買い方は、毎度反省と悔恨の塊をなのであるが、これを何とかするためには、頭のコンピューターの台数を増やす必要があるのだが・・・、どうすればいいのだろうか?


やるべきとき

2008年05月08日 06時35分57秒 | Weblog

 膝の手術から、三週間が経過したが、依然として、僅かながら腫れが残り、まっすぐ膝を伸ばせず、正座も出来ない状態で、歩ける距離はせいぜい2百メートル程度である。

ストレッチ体操や太極拳を3ヶ月も休んでいるのである。このため膝周りの筋肉は細くなり、反対に腹部には厚い脂肪層が付着してきている。運動する毎日に戻さなくてはとあせるのだが、思うように行かないのである。

 昨日は、太極拳の大(おお)先生のお宅を訪問した、と書きたいのであるが、実際には、ご所有の3箇所の畑の内の一箇所をお尋ねしたのであった。 長らくお借りしたままになっていた物をお返しに上がったのであった。

先生は、その畑でさやえんどう収穫作業中だった。 そのときの立ち話で、先生が「したいときに、したいことをしないと、後悔が残る」と言う意味のことを話された。

膝が原因で3ヶ月間も不自由な思いをして、あれもしたいこれもしたいと思うのだが、実行不可能なのである。

 まず第一に「行きたいところに行けない」事、これが最大の問題である。次に、「したいこと(運動のようなこと)が出来ない」のが大層なストレスとなっている。

今までは「何時でも出来ると」多寡をくくっていたことが、急に出来なくなってきた感がある。 歳を経る毎に、この不自由度が高まるのは避けられないのである。

先生のおっしゃる「したいときに、したいことをしないと、後悔が残る」との言が骨身にしみたのであった。
これからは、先送りをしないで、したいことにで出くわしたら、直ちに実行する生き方に変えねばと思っている。


メガネちがい

2008年05月06日 07時10分20秒 | Weblog

数年ほど前から、目の具合が悪くなって困っていた。それは、白内障だったり、網膜剥離だったり、目或いは脳の痙攣か何かはっきりしなかったが、数十分のあいだ視野が部分的に無くなるなどの不調に悩まされ続けていた。

最近、パソコン専用メガネ(旧式の単焦点レンズ)を使用し始めて、視野が部分的に欠落する現象は、激減した。それまでは、遠近両用(ハイテク)メガネを使用していたのだが、旧式品を試したのが功を奏したようなのである。

遠近両用めがねは、自動車の運転時、前方と速度計などの近い部分を見るためには必需品であるが、在宅中は、多少遠くが見えにくくても、殆どの場合にパソコン専用メガネを使用している。

結果からすると、ハイテクの遠近両用品は、小生の体には適したものではなかったと言えそうである。(まさにメガネちがいだった)

 こんな状態なので、ビデオの編集作業が最近はかどるようになってきた。

 小生のビデオカメラは、テープを使用するタイプ(今では旧式?)であるが、最近DVD・ハードディスク・メモリーカードなどの記憶媒体を使用する新タイプのものが沢山出回って来た。

どんどん便利になって来ているのだが、はたと困ることに気が付いた。小生は、将来デジタルTVで見るとき用にハイビジョン撮影した映像をテープで保管している。しかし、現有のカメラが壊れテープを読めない新型のカメラに買い換えたら、これらの保管映像を読み出すことが出来なくなるのである。

また、溜め込んでいるTVのビデオテープは、旧形式のアナログビデオデッキでないと再生できない、さらに、デジタルに変換しないとデジタルTVでは見ることが出来ないのである。

と言うことは、数年以内で購入せざるを得ないハイビジョンTVで見えなくなりそうである。

どうも、旧式アナログTVも{しばらく=故障するまでは}使用し続ける必要があると思えてきた.

 過去の情報的財産をうまく生かす点で、デジタル化の進展は、不便なことが出てくるような気がしてきた。

デジタル化が「めがねちがい」にならないように、対策が必要である。


偽の真実の口

2008年05月05日 08時34分32秒 | Weblog

 

         

   

毎日少なくとも一箇所は、土産物屋さんに案内されるのが団体旅行である。今回のツアーでは、真の「真実の口」はツアーコースから外されていたが、その代わり、ローマ三越の土産物屋に案内され、偽の「真実の口」を見物することになった。

ところが、この偽の「真実の口」にはあまり若い観光客が寄り付かないのであった。

   

映画「ローマの休日」に「真実の口」が登場したことをご存知の方は、小生とかなり年齢的に近い方であろうと思う。

殆どが大学卒業の若い女性ばかりの卒業記念旅行者が大半を占める我々の団体では、この映画を見たことのある人は少なかったようで、彼女達には何のことかあまりぴんときていなかったようだった。

もっぱらの関心事は、お土産。若い女性達は、観光専念派とお土産専念派にきれいに二分されていた。大多数は、お土産派なのだった。

母親からの「頼まれ土産」も含みかなり高額な土産物、高級ブランドのバック・革製品・洋服などを多量に購入していた。しかし買い方はそれなりに上手なのである、日本国内の値段を熟知していて、差額を暗算しながら買い物をしていたのには驚いた。

 100ユーロ以上の高額品は免税届けをすると日本の消費税相当の税金が返還されるのだが、ガイドさんの協力を得ながら、面倒な手続きを懸命にこなしているのにまたまた驚かされた。

この若い女性達の頑張りを横目で見ていると、ふとこんなことを思ったのである。

今回の旅行中色々な空港やホテルなどで見かけるのは大半が女性であった。若い男の子達はいったいどうしているのだろうか?家に閉じこもって、世間知らずのままで、ゲームに夢中だとしたら、将来の日本は本当に安泰であろうか?


再放送

2008年05月04日 08時08分17秒 | Weblog

 またまた、「塩野七生」女史の一文より。

イタリアの八月は全てバカンス、国営放送TVも再放送・再々放送、従って、名画週間が続く、とあった。

日本のNHKでは、バカンスが無い替わりにアーカイブとか蔵出しとかで、年中名作週間みたいなものとなってきた。これはむしろ好ましいことで、再放送・再々放送番組を見ることは、面白い番組を見るための最良の手段だと思っている。

一つには経費節減だろう事には違いないと思うのだが、それ以外に新規製作番組のアイデアが種切れ状態になっているのかもしれないと邪推している。

けれども昔のように、TVを楽しみに見るということが大変少なくなってきたのである。ニュース・天気予報番組以外には、限られた種類の番組を見るだけとなってきた。

それ故、1日せいぜい1・2時間程度の視聴にしか過ぎなくなっている。 反面、インターネットの使用時間は、数時間程度とTVの時間をオーバーしているが、こちらは必要を感じて特定のサイトを覗くのであって、特定の番組を見る状態ではない。

確実にいえることは、情報をTVでなくインターネットに頼り始めたことには違いないのである。

しかし、従来と変わらず、ラジオは、ほぼ終日聞いているのである。ラジオは「ながら」で聞くことが可能なので、これほど重宝なものはないと思っているのである。

なんといっても、我々世代はラジオで育ってきたのである、「三つ子の魂百までも」である。 されど、子供達は、「ながらTV族」のようである、これを世代間の差とでも言うのであろう。


文化と文明

2008年05月03日 07時57分59秒 | Weblog

 しばらく前から、どうも気になって仕方がない言葉があった。
それは「文化と文明」と言うものである。

日常判ったつもりで使っているが、深く考えると意外に曖昧なままに使っている言葉が多いのである。それぞれをいかに判り易く表現すればいいのか迷いに迷っていたのであった。

そんな訳で数年間、この原稿は書いては消してきたものである。
普通は辞書を引けば簡単に解決するはずだが、ところがどうして、こんな風であった。

 「文化」を電子辞書で引くと
「精神文明(その土地・社会の生活・習慣・考え方などの総称)」と説明がある。

「文明」を電子辞書で引くと
「(特定の地域・国民・時代に発達した)文明(一定の生活様式を持つ文化((状態)))」と説明がある。

どうも判ったようで良く判らなかった。 それで、いつもお世話になる「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を見たが、この説明は、まことに複雑怪奇、小生の頭では到底理解不可能なのであった。
(あまり複雑なので、下記の参考にのみ掲載しておく)

ところが、かの有名なフィレンツェの住人である作家「塩野七生」女史によると、

食は「文化」であり、「文明」は食べ方、即ち、生きるマナーやスタイルだと、といとも簡単に且明瞭に解説してくださったのである。

これで小生の長年の悩みも一気に解決したのであった。
頭の冴えた人も居るものである。

 参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より

文化
(1)〔culture〕社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体。言語・習俗・道徳・宗教、種々の制度などはその具体例。文化相対主義においては、それぞれの人間集団は個別の文化をもち、個別文化はそれぞれ独自の価値をもっており、その間に高低・優劣の差はないとされる。カルチャー。

 (2)学問・芸術・宗教・道徳など、主として精神的活動から生み出されたもの。

 (3)世の中が開け進み、生活が快適で便利になること。文明開化。

文明〔civilization〕
(1)文字をもち、交通網が発達し、都市化がすすみ、国家的政治体制のもとで経済状態・技術水準などが高度化した文化をさす。

 (2)人知がもたらした技術的・物質的所産。


世界ふれあい街歩き

2008年05月02日 06時36分37秒 | Weblog

           

これは小生の好きなNHKのTVの番組である。世界の有名な街に行くのだが、観光スポットから少し離れた裏町をTVカメラが探訪するのである。特に面白いのが、裏町の人々とのちょっとしたふれあいがなんといっても見所である。

 3月29日にベネチアの番組を見た。(NHKの表現に合わせてベネチアと表記する)

小生は、迷子になることを恐れて、裏の裏までは到底歩けなかったのだが、代わりにこの放送が代行してくれた。 ベネチアの概要を短い言葉で表現していたので、下記を引用させてもらった。

イタリア北部、「アドリア海の女王」と呼ばれる水上の迷宮都市ベネチア。120以上の島々が400もの橋で寄木細工のように繋がれている。面積は7平方キロメートル、そこにおよそ6万人が暮らしている。

1千年の歴史を誇るベネチアは、中世以来、馬や馬車の通行が禁止され、現在も車の乗り入れが禁じられている。 ベネチア国際映画祭やビエンナーレ、仮面祭りのカーニバルなどが有名。

看板が頼り?
迷路のような街をいかに歩くか。その時、助けにもなり、歩く楽しみを与えてくれるのが路地の名を書いた看板。ベネチアでは、どんな小さな路地にも名前がついている。

 FONDAMENTA(フォンダメンタ)は運河沿いの通り、SALIZADA(サリザーダ)は昔から賑わっていた広めの通り、 SOTOPORTEGO(ソットポルテゴ)はトンネルのような道、その他の普通の道はCALLE(カッレ)です。カッレ・ストレッタ(「狭い道」の意)という、その名のとおりの道も。

運河が網の目のように張り巡らされていることは、言い換えれば、橋を渡らねば別の島には行けないという事である。したがって、万一道を誤り別の島に渡ってから迷子になると大変だと思ったのであった。

もと来た橋を渡らない限り、もと来た島には帰れないということである。 上記によれば「120以上の島々が400もの橋で寄木細工のように繋がれている」と言うことは、一つの島に僅か3箇所から4箇所の橋しかないということである。

言い換えれば、二つの島を結ぶ橋は、1つかあっても2つ程度と考えねばならない。 如何に無鉄砲な小生と言えども迷子になって同行者達に迷惑をかける勇気は無かった。

言葉は話せず、文字のローマ字読みは出来ても意味不明、更に歳相応に方向音痴になっているのであった。 こんな状態では、ポータブルのGPSでもない限り、一人とぼとぼ裏町を散策することは到底不可能であった。なんだか惜しいことをしたような気がしたが、このTV番組で救われてたような気になった。

 おまけ;
ご興味を持たれた方は、放送の概要をご覧いただける次のサイトを開いてみていただくとよい。下記のURLをクリックしていただきたい。

http://www.nhk.or.jp/sekaimachi/detail/arukikata/050329.html

 

 


サンマルコ寺院

2008年05月01日 05時51分27秒 | Weblog

         

ヴェネチアは、数百万本の松の杭の上に建設された街で、自動車は無く、交通の足と言えば船なのである。のんびりして時間を忘れさせてくれる船は、小生の大好きな乗り物である。

ゴンドラ遊覧を以前ご紹介したので、今回は、ヴェネチアで一番よく知られている所、サンマルコ寺院と前の広場を取り上げてみた。

        

春先の大潮の時期には、サンマルコ広場は水浸しとなるのだが、幸いに小生たちの時には、この心配は無かった。沢山の人で溢れただけであった。

                               

 幸いにもちょうど正午にあたり大鐘楼の鐘の音も聞くことが出来たのである。

         

 ヨーロッパでは何時も羨ましく思うのはオープンカフェである。思い思いに戸外でのんびりとワインやコーヒーを楽しむことは、なかなか日本では実現しがたいのである。

                                 

 

<!-- サンマルコ寺院と広場 -->