27-28日、ふるさと広島に滞在して。
母の見舞いとカープの試合を観戦した翌日は
広島市内の文化ゾーンを親子ウォーキング。
9時にホテルを出て息子が希望した比治山へ
電車沿いに歩いて行く。

広島にはいたるところに原爆慰霊碑がある

そして折り鶴をみかけるのも広島だ。

いつか原爆慰霊碑めぐりウォークをしたいと思いつつ
実現していないが必ずやりたい、それも暑い夏に。
比治山神社に寄って急な坂道を上り比冶山の頂上へ
ここには漫画図書館と市立現代美術館があるがパス
市内が一望できる展望台へ行く、ここは三年ぶり
百万都市広島の発展をみるにつけ
被爆当時だれも想像しなかっただろう
七十年は草木も生えないといわれたのだから・・
すぐ近くにあるかまぼこ型の放射能影響研究所・・・多分
日本に一つしかない施設だと思う。
自分が広島にいた頃は、ABCCと言っていたと記憶している。

山を一気に下って比冶山下へ、そこからいったん広島駅へ出て
朝食と昼食兼の広島のお好み焼きを食べる、なにしろ人気のお好み焼き。
腹ごしらえをして広島の名園「縮景園」へ
県立美術館、世界平和祈念聖堂をまわり
折り鶴少女でおなじみの佐々木禎子さんの母校
広島市幟町中学校にある折り鶴の碑を訪ねる。

縮景園は、広島藩主浅野長晟が別邸として作ったもの

池の中に大小10の島があり
まん中には橋がかけられている回遊式庭園で実にきれいな庭園だ。

市内の真ん中にありながら静かで落ち着いた広い
この庭園に外国人もたくさん訪れていた。
そこから護国神社へまわって広島城へ
広島城は、毛利輝元が天正17年(1589)年に築城にかかり
福島正則が整備し完成させた。以後、浅野長晟に始まり
浅野家が明治2年の版籍奉還までの250年、12代に渡り
藩主を勤めた。

・広島カープの名前の由来・
広島城は別名を「鯉城」といわれている。城のあたり一帯が
己斐裏と呼ばれ、己斐の音が鯉に通じることから呼ばれるよ
うになったと伝えられている。
広島カープは、この鯉(carp)に因んで名づけられた。
広島城は原爆で天守閣わはじめ城内の建物を焼失した
現在の天守閣は昭和33年に復元されたもの。
城内にも原爆の足あとがいたるところに・・・
被爆の木・・手厚く保護されている原爆の証言樹木だ。

ここから原爆投下の第一報が・・・中国軍管区司令部地下通信室
ここは地下室になっていて被爆を免れた学徒動員の比冶山女学生が
軍事専用電話を使って原爆の第一報を伝えた。

現在はこのようになっている。

復元された二の丸・御門橋と表御門。

最後は、再び広島市民球場前まで歩いた
すでに市民球場での最終戦は行われていたが
球場周辺は名残を惜しむように記念撮影をする人や
グッズを求める人たちがたくさんいた。


そこから路面電車で広島駅へ

3時過ぎの新幹線で広島を後にして息子は新大阪で途中下車
家内と三人で新大阪駅で食事をした。
あわただしい二日間だったが親子で楽しい時間を過ごすことができた。
母の見舞いとカープの試合を観戦した翌日は
広島市内の文化ゾーンを親子ウォーキング。
9時にホテルを出て息子が希望した比治山へ
電車沿いに歩いて行く。

広島にはいたるところに原爆慰霊碑がある

そして折り鶴をみかけるのも広島だ。

いつか原爆慰霊碑めぐりウォークをしたいと思いつつ
実現していないが必ずやりたい、それも暑い夏に。
比治山神社に寄って急な坂道を上り比冶山の頂上へ
ここには漫画図書館と市立現代美術館があるがパス
市内が一望できる展望台へ行く、ここは三年ぶり
百万都市広島の発展をみるにつけ
被爆当時だれも想像しなかっただろう
七十年は草木も生えないといわれたのだから・・
すぐ近くにあるかまぼこ型の放射能影響研究所・・・多分
日本に一つしかない施設だと思う。
自分が広島にいた頃は、ABCCと言っていたと記憶している。

山を一気に下って比冶山下へ、そこからいったん広島駅へ出て
朝食と昼食兼の広島のお好み焼きを食べる、なにしろ人気のお好み焼き。
腹ごしらえをして広島の名園「縮景園」へ
県立美術館、世界平和祈念聖堂をまわり
折り鶴少女でおなじみの佐々木禎子さんの母校
広島市幟町中学校にある折り鶴の碑を訪ねる。

縮景園は、広島藩主浅野長晟が別邸として作ったもの

池の中に大小10の島があり
まん中には橋がかけられている回遊式庭園で実にきれいな庭園だ。

市内の真ん中にありながら静かで落ち着いた広い
この庭園に外国人もたくさん訪れていた。
そこから護国神社へまわって広島城へ
広島城は、毛利輝元が天正17年(1589)年に築城にかかり
福島正則が整備し完成させた。以後、浅野長晟に始まり
浅野家が明治2年の版籍奉還までの250年、12代に渡り
藩主を勤めた。

・広島カープの名前の由来・
広島城は別名を「鯉城」といわれている。城のあたり一帯が
己斐裏と呼ばれ、己斐の音が鯉に通じることから呼ばれるよ
うになったと伝えられている。
広島カープは、この鯉(carp)に因んで名づけられた。
広島城は原爆で天守閣わはじめ城内の建物を焼失した
現在の天守閣は昭和33年に復元されたもの。
城内にも原爆の足あとがいたるところに・・・
被爆の木・・手厚く保護されている原爆の証言樹木だ。

ここから原爆投下の第一報が・・・中国軍管区司令部地下通信室
ここは地下室になっていて被爆を免れた学徒動員の比冶山女学生が
軍事専用電話を使って原爆の第一報を伝えた。

現在はこのようになっている。

復元された二の丸・御門橋と表御門。

最後は、再び広島市民球場前まで歩いた
すでに市民球場での最終戦は行われていたが
球場周辺は名残を惜しむように記念撮影をする人や
グッズを求める人たちがたくさんいた。


そこから路面電車で広島駅へ

3時過ぎの新幹線で広島を後にして息子は新大阪で途中下車
家内と三人で新大阪駅で食事をした。
あわただしい二日間だったが親子で楽しい時間を過ごすことができた。