快晴に恵まれた体育の日、奈良秋篠寺から平城宮跡まで行ってきた。
出かけるまでは京都に行くつもりで用意をしていたが
地下鉄に乗って急に心変わり、秋篠寺に行きたくなって
難波から近鉄に乗り換えて西大寺の駅を降りた。
めざすは、まず、秋篠寺から
秋篠寺には何度も行っているので迷う心配はない
少し遠回りになるが秋篠川にそって青空の下をウォーキング
やがて民家が並ぶ狭い道を右へ左へすすむと
秋篠寺南口と東門へすすむ標識があり今日は南門へ。
南門前にはまだ取り入れ前の稲穂が柔らかな秋の日差しを受けて
きらきらと光っていた。
南門を入ると静寂な木立が続く、久しぶりの秋篠寺はちっとも
変っていない。
秋篠寺は、光仁天皇の勅願で奈良時代末期の776年、釈迦如来を
本尊として創建された、金堂、講堂、東西両塔の大きな寺だったが
兵火で焼失。唯一残った講堂を鎌倉時代に改修して現在の本堂に
なっている。境内の林の中に塔の礎石があちこちに残っている。
このお寺の楽しみの一つは
境内に入る前の木立を歩いて行くと
やがて木立が苔のじゅうたんに変わる
まるで奈良の苔寺のようでその苔の木立がなんともすばらしい。
今日もその苔のじゅうたんに目を奪われてデジカメのシャッター
を押し続けた。
受付から境内へ入る
目の前に広がる本堂(国宝)が、真っ青な秋の空をキャンバスに
して格子と白壁が一段と見事な美しさを見せている
その姿を境内のあちこちからじっと見つめている拝観者
これが秋篠寺の楽しみ方で、観光コースから外れているために
訪れる人が少ない分、静けさの中で、すばらしい環境を独り占め
できて時間を忘れさせてくれる。
本堂に足を入れる
秋篠寺といえば「伎芸天」、天平の美女と表現されている伎芸天は
秋篠寺をすっかり有名にし、秋篠寺ファンは多い、自分もそのひとり
女優の松坂慶子さんも美しい伎芸天に惹かれたと何かに書いていた。
節目がちの目がやさしく微笑んでいる伎芸天は、頭部が天平時代
体が鎌倉時代、入口の一番手前に立って、まるで迎えてくれているよう。
このお寺のご本尊は真ん中の「薬師如来」
しばらくご本尊の前にある椅子に腰かけてじっと薬師様と対面する
のも楽しみの一つ。
最初に訪れたのは昭和50年だった
なつかしく思い出された。
当時、独立とは言葉だけ、仕事がなくて
病んでいた体の回復には見通しがたたず
辛くて苦しくて途方に暮れていた時
ふと訪れたこのお寺のこの場所で
自分に出会ったような気がしたのがきっかけ
心のふるさとになった
それから自分のお寺巡りが始まった。
あれから何度来た事やら
気持ちに何かがあった時に決まって訪れて
ひとり静かに仏様と対面をする
仏様をじっと見つめていると
仏様も自分をじっとみつめている
仏様の中にいる自分が語りかける
そうして自分と出会う。
白壁の続く東門から出て
古い家屋の続く道を幾筋が曲がりながら来た道とは違う道を
次の西大寺へ向かう。
下車した西大寺駅のすぐ南に西大寺はある
西大寺といえぱ「大茶盛」でよく知られている
天平宝宇8年(764)に創建、東の東大寺、西の西大寺として栄えた
お寺で南都7大寺として壮大な伽藍を誇っていたが
幾たびもの焼失にあい再興されながら現在に至った。
小さくなっているそうだが、それでも本堂、四王堂、愛染堂等、立派
な建物が残っており、本堂の重要文化財釈迦如来立像の前に
座ると離れがたい親しみと安らぎを覚えさせてくれるのが不思議。
右手に錫杖を持つ観音像は長谷寺式というらしく、奈良の長谷寺、
鎌倉の長谷寺でしか見られないと説明してもらった。
西大寺でもゆっくりと拝観をしたあと、いよいよ最後の平城宮跡へ向かう。
西大寺駅南口からしばらくウオーキング、平城宮跡の西側へ
ついた時は早い秋の日が傾き始め、一面に広がるススキが風
に揺れてきれいだった。
生駒山方面を見ていると雲ひとつなく、くっきりと見えたので
きっと生駒山へ沈む夕日がきれいに違いない
平城宮跡を楽しんだ後は奈良公園の二月堂まで足をのばして
奈良の日没の瞬間を楽しもうと決めた。
平城宮跡の朱雀門は何度も訪れているところで今年も2度目
しかし、いつもの景色とは違っていた。
来年の平城宮遷都1300年を控えて工事中の大極殿は上部の
覆いが取られ1400メートル北側に際立って大きな姿を見せ
ていた。
(朱雀門・真中に見えるのが1400メートル前方の大極殿の屋根)
朱雀門から大極殿に向かって広大な広場をすすんで
真ん中あたりの草むらに腰をおろして両方を眺めると
ススキの向こうにスタートした朱雀門がそびえて
前には大極殿が迫っている。
1300年前、ここにどんな都があったのか
人々はどんな暮らしをしていたのか
まだ見ぬロマンがここに隠されているかもしれない
そう思うとわくわくどきどきしてますます興味が広がった。
平城宮は、和銅3年(710)に藤原京から遷都されて以来、74年間
都として栄えた、朱雀門は平城宮の正門、外国使節の送迎などに
使われたところで南へ幅75メートルの朱雀大路が延びていたという。
昭和30年に発掘が始まった平城宮跡は、いまその3割程度
全体の発掘が終わるまでは100年はかかるという・・・
10万人の人がここに暮していたと思うとロマンはつきない。
大極殿は平城宮の中心として、天皇の即位式や国家的儀式が
行われる最も重要な建物だった。
(工事中の大極殿)
平城宮跡は広大な広場になっており、たくさんの道が付いていて
ウォーキングを楽しんでいる人がいたので一緒に歩いてみた
向こうに若草山も見えて気持ちがよかった。
西大寺駅から電車で近鉄奈良駅へ着いたのが17時少し前
これはまずい、少し遊びすぎたので日没に間に合うか心配になった
奈良公園から帰りを急ぐ人の群れを逆に二月堂をめざして必死の
ウオーキング国立奈良博物館前では木々の間から太陽は見えて
いたが二月堂についた時はすでに没していた
多分5分くらい遅かったのだろう、残念!
しかし、日没後の二月堂回廊から奈良の夕景をたっぷり楽しむこと
ができた午後6時をまわり暗くなったので、真っ暗になった東大寺
の前を通って奈良駅へ急いだ。
自宅を出た時は京都へ行くつもりだったが、地下鉄に乗っている
途中で心変わり(?)して奈良へ行き先を変えたが、とてもいい1日
だった。満足。
出かけるまでは京都に行くつもりで用意をしていたが
地下鉄に乗って急に心変わり、秋篠寺に行きたくなって
難波から近鉄に乗り換えて西大寺の駅を降りた。
めざすは、まず、秋篠寺から
秋篠寺には何度も行っているので迷う心配はない
少し遠回りになるが秋篠川にそって青空の下をウォーキング
やがて民家が並ぶ狭い道を右へ左へすすむと
秋篠寺南口と東門へすすむ標識があり今日は南門へ。
南門前にはまだ取り入れ前の稲穂が柔らかな秋の日差しを受けて
きらきらと光っていた。
南門を入ると静寂な木立が続く、久しぶりの秋篠寺はちっとも
変っていない。
秋篠寺は、光仁天皇の勅願で奈良時代末期の776年、釈迦如来を
本尊として創建された、金堂、講堂、東西両塔の大きな寺だったが
兵火で焼失。唯一残った講堂を鎌倉時代に改修して現在の本堂に
なっている。境内の林の中に塔の礎石があちこちに残っている。
このお寺の楽しみの一つは
境内に入る前の木立を歩いて行くと
やがて木立が苔のじゅうたんに変わる
まるで奈良の苔寺のようでその苔の木立がなんともすばらしい。
今日もその苔のじゅうたんに目を奪われてデジカメのシャッター
を押し続けた。
受付から境内へ入る
目の前に広がる本堂(国宝)が、真っ青な秋の空をキャンバスに
して格子と白壁が一段と見事な美しさを見せている
その姿を境内のあちこちからじっと見つめている拝観者
これが秋篠寺の楽しみ方で、観光コースから外れているために
訪れる人が少ない分、静けさの中で、すばらしい環境を独り占め
できて時間を忘れさせてくれる。
本堂に足を入れる
秋篠寺といえば「伎芸天」、天平の美女と表現されている伎芸天は
秋篠寺をすっかり有名にし、秋篠寺ファンは多い、自分もそのひとり
女優の松坂慶子さんも美しい伎芸天に惹かれたと何かに書いていた。
節目がちの目がやさしく微笑んでいる伎芸天は、頭部が天平時代
体が鎌倉時代、入口の一番手前に立って、まるで迎えてくれているよう。
このお寺のご本尊は真ん中の「薬師如来」
しばらくご本尊の前にある椅子に腰かけてじっと薬師様と対面する
のも楽しみの一つ。
最初に訪れたのは昭和50年だった
なつかしく思い出された。
当時、独立とは言葉だけ、仕事がなくて
病んでいた体の回復には見通しがたたず
辛くて苦しくて途方に暮れていた時
ふと訪れたこのお寺のこの場所で
自分に出会ったような気がしたのがきっかけ
心のふるさとになった
それから自分のお寺巡りが始まった。
あれから何度来た事やら
気持ちに何かがあった時に決まって訪れて
ひとり静かに仏様と対面をする
仏様をじっと見つめていると
仏様も自分をじっとみつめている
仏様の中にいる自分が語りかける
そうして自分と出会う。
白壁の続く東門から出て
古い家屋の続く道を幾筋が曲がりながら来た道とは違う道を
次の西大寺へ向かう。
下車した西大寺駅のすぐ南に西大寺はある
西大寺といえぱ「大茶盛」でよく知られている
天平宝宇8年(764)に創建、東の東大寺、西の西大寺として栄えた
お寺で南都7大寺として壮大な伽藍を誇っていたが
幾たびもの焼失にあい再興されながら現在に至った。
小さくなっているそうだが、それでも本堂、四王堂、愛染堂等、立派
な建物が残っており、本堂の重要文化財釈迦如来立像の前に
座ると離れがたい親しみと安らぎを覚えさせてくれるのが不思議。
右手に錫杖を持つ観音像は長谷寺式というらしく、奈良の長谷寺、
鎌倉の長谷寺でしか見られないと説明してもらった。
西大寺でもゆっくりと拝観をしたあと、いよいよ最後の平城宮跡へ向かう。
西大寺駅南口からしばらくウオーキング、平城宮跡の西側へ
ついた時は早い秋の日が傾き始め、一面に広がるススキが風
に揺れてきれいだった。
生駒山方面を見ていると雲ひとつなく、くっきりと見えたので
きっと生駒山へ沈む夕日がきれいに違いない
平城宮跡を楽しんだ後は奈良公園の二月堂まで足をのばして
奈良の日没の瞬間を楽しもうと決めた。
平城宮跡の朱雀門は何度も訪れているところで今年も2度目
しかし、いつもの景色とは違っていた。
来年の平城宮遷都1300年を控えて工事中の大極殿は上部の
覆いが取られ1400メートル北側に際立って大きな姿を見せ
ていた。
(朱雀門・真中に見えるのが1400メートル前方の大極殿の屋根)
朱雀門から大極殿に向かって広大な広場をすすんで
真ん中あたりの草むらに腰をおろして両方を眺めると
ススキの向こうにスタートした朱雀門がそびえて
前には大極殿が迫っている。
1300年前、ここにどんな都があったのか
人々はどんな暮らしをしていたのか
まだ見ぬロマンがここに隠されているかもしれない
そう思うとわくわくどきどきしてますます興味が広がった。
平城宮は、和銅3年(710)に藤原京から遷都されて以来、74年間
都として栄えた、朱雀門は平城宮の正門、外国使節の送迎などに
使われたところで南へ幅75メートルの朱雀大路が延びていたという。
昭和30年に発掘が始まった平城宮跡は、いまその3割程度
全体の発掘が終わるまでは100年はかかるという・・・
10万人の人がここに暮していたと思うとロマンはつきない。
大極殿は平城宮の中心として、天皇の即位式や国家的儀式が
行われる最も重要な建物だった。
(工事中の大極殿)
平城宮跡は広大な広場になっており、たくさんの道が付いていて
ウォーキングを楽しんでいる人がいたので一緒に歩いてみた
向こうに若草山も見えて気持ちがよかった。
西大寺駅から電車で近鉄奈良駅へ着いたのが17時少し前
これはまずい、少し遊びすぎたので日没に間に合うか心配になった
奈良公園から帰りを急ぐ人の群れを逆に二月堂をめざして必死の
ウオーキング国立奈良博物館前では木々の間から太陽は見えて
いたが二月堂についた時はすでに没していた
多分5分くらい遅かったのだろう、残念!
しかし、日没後の二月堂回廊から奈良の夕景をたっぷり楽しむこと
ができた午後6時をまわり暗くなったので、真っ暗になった東大寺
の前を通って奈良駅へ急いだ。
自宅を出た時は京都へ行くつもりだったが、地下鉄に乗っている
途中で心変わり(?)して奈良へ行き先を変えたが、とてもいい1日
だった。満足。