昨日は珍しい雪で終日、ふとんにくるまって巣籠りしたので、今日はそうはいかん!幸いに昼前から天気も回復の兆しが見えてきたので久しぶりにぶらりウォーキングにでかけてくることにした。
さて、どこに行こうかと電車に乗ってぼそぼそひとり会談、そうだ、先週の大河ドラマ、江の舞台になった京都・本能寺など「信長の足跡」を巡り歩きしようと決めてJRに乗り換え、JR京都駅に着いたのが12時20分。風が冷たい!身体を温めておこうと駅でかきあげうどんを食べていざスタート。
コースは電車内で考えた織田信長と信忠親子の眠る「阿弥陀寺」→明治2年に明治天皇により創建された信長・信忠親子が祀ってある船岡山の「建勲神社」→本能寺の変があった「本能寺跡」→その後移転して現在の「本能寺」を回って16時半に京都駅に戻ってくることにした。先週のNHKテレビでは、祇園の近くにある大雲院が紹介されていたがこのお寺は一般公開されていないのでパス。

まず地下鉄で今出川まで行き、12月に訪れた京都五山2位の相国寺の境内を横切って寺町通りを北上、途中で京都の某ウォーキング団体の旗を持った人たちと一緒になったがこの一団はただ見るだけの素通りで巻き込まれなくてほっとした。

「阿弥陀寺」のことは知っていたが来たのは初めて、門前に「織田信長公本廟」の大きな石碑が建っている。

信長が帰依した清玉上人が創建した織田家の菩提寺で、信長が本能寺で自刃した際、清玉が遺骸を持ち帰り供養し墓を建立したという。信長、信忠の墓が並んで立っているが古くて文字も正確に読みにくいくらい古い。
ここには信長に仕えた森蘭丸ら三兄弟をはじめ本能寺で討ち死にした110余名の墓もある。6月2日の「信長忌」には党内の拝観ができるそうだ。

阿弥陀寺を出て烏丸通へ、途中で上御霊神社の前を通る、ここも12月に訪れた神社で室町幕府八代将軍足利義政の跡目争いになった内乱「応仁の乱」(1467-1477)の勃発した地。

烏丸通りを北へすすみ大徳寺近くの船岡山にある建勲神社を目指し烏丸鞍馬口を通過、烏丸紫明の交差点へ行ったところでみぞれまじりの雨が降ってきた。空を見ても晴れる見込みがなさそうなのでしばらく雨宿りした後、引返すことにして地下鉄鞍馬口から烏丸御池へ、下車して外に出ると、小雨になっていたので「本能寺跡」へ行くことにした。
御池通りを西へすすみ堀川通りを南へ、一度訪ねたことはあるが昔のことなのでわかるだろうかと心配したが迷うこともなくぴたり跡地の碑の前に着いた。ここにもお父さんと男の子が来ていてノートしていた、自分も父子でよくやったことなのでなつかしく、ほほえましく眺めていた。“あの男の子も歴史好きになるやろな”この地があの「本能寺の変」(天正10年1582年6月2日)の舞台になった「本能寺」があったところ。

ここから、現在の本能寺へ向かう、地下鉄の御池を経由、小雨の御池通りを東へ、京都市役所向かいまですすみ本能寺へ着いた。テレビの影響なのか本能寺には若い人たちの姿が目立って見受けられた。

現在の本能寺は法華宗の大本山、本能寺の変で焼失した後、豊臣秀吉の命で天正15年(1587)に現在地に移転した。境内には信長供養塔があり宝物館では「本能寺信長公の遺品展」を開催中だった。

さて、帰ろうかと地下鉄の駅をめざしていると先ほどの雨があがってきた・・・地下鉄で京都駅に着くと、なんと、空はからりと晴れ上がっているではないか、これなら建勲神社へ行っておけばよかったと悔しかったが、次の楽しみにということにして少し早かったがJRで戻ってきた。
明日の「江」は、秀吉と光秀の天王山(山崎)の合戦、そして琵琶湖畔坂本城へ敗走する山中で光秀は土民に・・・・そんな場面何だろうと想像しているが。
さて、どこに行こうかと電車に乗ってぼそぼそひとり会談、そうだ、先週の大河ドラマ、江の舞台になった京都・本能寺など「信長の足跡」を巡り歩きしようと決めてJRに乗り換え、JR京都駅に着いたのが12時20分。風が冷たい!身体を温めておこうと駅でかきあげうどんを食べていざスタート。
コースは電車内で考えた織田信長と信忠親子の眠る「阿弥陀寺」→明治2年に明治天皇により創建された信長・信忠親子が祀ってある船岡山の「建勲神社」→本能寺の変があった「本能寺跡」→その後移転して現在の「本能寺」を回って16時半に京都駅に戻ってくることにした。先週のNHKテレビでは、祇園の近くにある大雲院が紹介されていたがこのお寺は一般公開されていないのでパス。

まず地下鉄で今出川まで行き、12月に訪れた京都五山2位の相国寺の境内を横切って寺町通りを北上、途中で京都の某ウォーキング団体の旗を持った人たちと一緒になったがこの一団はただ見るだけの素通りで巻き込まれなくてほっとした。

「阿弥陀寺」のことは知っていたが来たのは初めて、門前に「織田信長公本廟」の大きな石碑が建っている。

信長が帰依した清玉上人が創建した織田家の菩提寺で、信長が本能寺で自刃した際、清玉が遺骸を持ち帰り供養し墓を建立したという。信長、信忠の墓が並んで立っているが古くて文字も正確に読みにくいくらい古い。
ここには信長に仕えた森蘭丸ら三兄弟をはじめ本能寺で討ち死にした110余名の墓もある。6月2日の「信長忌」には党内の拝観ができるそうだ。

阿弥陀寺を出て烏丸通へ、途中で上御霊神社の前を通る、ここも12月に訪れた神社で室町幕府八代将軍足利義政の跡目争いになった内乱「応仁の乱」(1467-1477)の勃発した地。

烏丸通りを北へすすみ大徳寺近くの船岡山にある建勲神社を目指し烏丸鞍馬口を通過、烏丸紫明の交差点へ行ったところでみぞれまじりの雨が降ってきた。空を見ても晴れる見込みがなさそうなのでしばらく雨宿りした後、引返すことにして地下鉄鞍馬口から烏丸御池へ、下車して外に出ると、小雨になっていたので「本能寺跡」へ行くことにした。
御池通りを西へすすみ堀川通りを南へ、一度訪ねたことはあるが昔のことなのでわかるだろうかと心配したが迷うこともなくぴたり跡地の碑の前に着いた。ここにもお父さんと男の子が来ていてノートしていた、自分も父子でよくやったことなのでなつかしく、ほほえましく眺めていた。“あの男の子も歴史好きになるやろな”この地があの「本能寺の変」(天正10年1582年6月2日)の舞台になった「本能寺」があったところ。

ここから、現在の本能寺へ向かう、地下鉄の御池を経由、小雨の御池通りを東へ、京都市役所向かいまですすみ本能寺へ着いた。テレビの影響なのか本能寺には若い人たちの姿が目立って見受けられた。

現在の本能寺は法華宗の大本山、本能寺の変で焼失した後、豊臣秀吉の命で天正15年(1587)に現在地に移転した。境内には信長供養塔があり宝物館では「本能寺信長公の遺品展」を開催中だった。

さて、帰ろうかと地下鉄の駅をめざしていると先ほどの雨があがってきた・・・地下鉄で京都駅に着くと、なんと、空はからりと晴れ上がっているではないか、これなら建勲神社へ行っておけばよかったと悔しかったが、次の楽しみにということにして少し早かったがJRで戻ってきた。
明日の「江」は、秀吉と光秀の天王山(山崎)の合戦、そして琵琶湖畔坂本城へ敗走する山中で光秀は土民に・・・・そんな場面何だろうと想像しているが。