今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

国民安全の日

2015-07-01 | 行事
無病息災を祈る「夏越の祓」の翌日が7月1日。
日本の民間行事としての大祓の一つである。
もっとも、「夏越の祓」は夏越節供,水無月(みなづき)祓とも呼ばれ、旧暦6月晦日(みそか)をいい、この日は一年の前半の最後の日、一年の折り返しとなる日であり、「なごし」という言葉は神意を和らげる、「和す(なごす)」が由来だと考えられており、大晦日の「年越の祓」とともに新しい季節に入る物忌(ものいみ)の日とされていた。『拾遺和歌集』に「題しらず」「よみ人知らず」として、「水無月のなごしの祓する人はちとせの命のぶというふなり」という歌にも見える。
夏に挙行される意味として、衣服を毎日洗濯する習慣や自由に使える水が少なかった時代、半年に一度、雑菌の繁殖し易い夏を前に新しい物に替える事で、残りの半年を疫病を予防して健康に過ごすようにする意味があったのではと考えられている。またこの時期は多くの地域で梅雨の時期にあたり、祭礼が終わると梅雨明けから猛暑と旱(ひでり)を迎えることになるが、この過酷な時期を乗り越えるための戒めでもあった。
6月の晦日は、大阪市住吉大社の夏越祭(※1参照)が有名で、今は7月31日に行われている。「夏越の祓」のことは以前このブログでも書いたのでここを見てください。

前口上が長くなったが、旧暦ではなく新暦の7月1日は「国民安全の日」である。
産業災害(労働災害)、交通事故火災等に対する国民の安全意識の高揚等の国民運動展開のために、1960(昭和35)年5月の閣議で制定され、総理府(現在の内閣府)が実施している(※2参照)。実施日は毎年7月1日。これは産業災害防止対策審議会(1959年(昭和34年)設置 - 1967年(昭和42年)廃止)の答申が概ね毎年7月1日となる ことから設定された模様(※3参照)。
制定の趣旨は、国民の一人一人がその生活のあらゆる面において、施設や行動の安全について反省を加え、その安全確保に留意し、これを習慣化する気運を高め、産業災害、交通事故、火災等国民の日常生活の安全をおびやかす災害の発生の防止をはかるために創設されたものである。
内閣府では、産業安全、交通安全、火災予防、学校安全等の安全運動の総合的見地から一段と推進し、国民の安全に関する認識の向上と各種安全運動の連けいの強化をはかるものとして、次に掲げる事項を実施するものとしている。
1) 関係行政機関及び関係団体においては、相互に連絡協調し、職域、学校、家庭及び地域社会を中心に、その環境に即した安全思想の普及徹底に有効な広報活動を行うこと。
2) 安全思想の普及徹底、安全水準の向上に顕著な功績のあった個人又は団体を内閣総理大臣又は関係各大臣が表彰すること。
3) 国民のすべてが安全な生活環境の醸成のため、生活環境の自主的な安全点検その他「国民安全の日」にふさわしい活動をするよう勧奨すること。
なお、地方公共団体においても、「国民安全の日」の趣旨にかんがみて、適切な措置が行われるようその協力を求めるものとする。

さて創設など過去の歴史を探ってみよう。
日本が今日直面している産業安全問題は、18世紀半ばから19世紀にかけて英国で始まった産業革命によってもたらされた。
当時の産業活動に伴う危険に対峙したのは、綿紡績(綿糸紡績,綿紡ともいう)工場で機械を操作する女工や機械のエネルギー源である石炭・鉄鋼石を採掘する鉱山での坑夫たちであった。つまり、工場や鉱山などの産業革命を担う生産現場での危険源に直接係わった人々が災害の対象であり、今日でも続いている労働災害の皮切りとなったものである。その後、産業の拡大とともに大規模爆発災害や水質汚濁,大気汚染など、産業活動に付随する影響がたんに工場などの生産現場内に留まらず、工場外での住民や環境にも影響を及ぼすいわゆる「公害」が出現し、その対応に追われてきたところであるが、今日では、地球温暖化による地球規模での環境問題や各種の環境ホルモン(内分泌攪乱物質)による次々世代の生物への影響問題などが出現し、産業活動に伴う影響は空間的拡大と時間的深化をみせている。
我が国で本格的な産業革命(日本の産業革命)が導入されたのは、明治開国(明治2年=1869年)後に富国強兵殖産興業が国家政策として採用されて以降のことであるが、欧米に比べ100 年近く遅れて始まったこの日本の産業革命は、産業部門ごとの発展が不均等であり、部門の間のつながりも不十分であった。
農業部門では大規模農場へ発展するものがまったくなく、商品貨幣経済に巻き込まれて競争に敗れ土地を失った農民たちは、高い現物小作料を払って地主から土地を借り、小規模生産を続けた。小作農家の生活は苦しかったため、娘たちの多くは繊維工場へ出かけて安い賃金で働かなければならなかった。小作農からさらに転落した者は、近くの都市などで仕事にありつけない限り、炭鉱や金属鉱山へ流れ込んで地底での重労働に従事した。
産業革命が終了したころの資本主義的生産の状態は、繊維工業と鉱山業に500人以上の大規模作業場が数多くみられ、賃金労働者(職工・鉱夫)も両分野に集中していた(表1)。
日本産業革命を代表する繊維工業部門は綿糸紡績業であった。渋沢栄一らが設立した大阪紡績(後の東洋紡績の前身。現:東洋紡)が、最新式の輸入機械と安い輸入綿花(綿の種子についた実綿 [みわた],または,それから生産された繊維 [ リント])を使い、女工を昼夜二交替で働かせて高利益をあげたのに刺激されて、1880年代後半に大阪、東京、名古屋などの大都市商人が出資する大規模紡績が続々と設立された。
1897(明治30)年に国産の機械制綿糸の輸出量が輸入量を上回り、輸入インド綿糸を国内市場から駆逐しただけではなく、中国・朝鮮へと輸出され、1913(大正2)年には中国市場においてインド糸輸入量を超えるまでになる。しかし、昼夜二交替制労働は女工の体重を減少させ結核患者を多発させたため、1911(明治44)年制定の工場法(施行は、1916年)において、女工の夜業禁止が定められた(ただし同法施行から15年間の適用猶予付き)。
また、養蚕農家がつくったを原料として生糸()を製造する製糸業は、最大の輸出産業として多額の外貨を稼いだ。昨・2014(平成26)年世界遺産に登録された富岡製糸場のフランス式鉄製繰糸機(※4参照)などをモデルに軽便かつ安価な木製繰糸機がつくられ、1870年代後半から長野・山梨・岐阜などの農村にたくさんの器械製糸場が設立された。
製糸家は輸出港横浜の生糸売込問屋や地方銀行から借金して原料繭を仕入れ、出稼ぎ女工を長時間働かせて生糸を生産した。女工の賃金は、工場内の全女工の賃金総額を固定したまま彼女らの繰糸成績によって分配されるという等級賃金制であったため、女工は長時間にわたって緊張した仕事を続けねばならず、しかも能率上昇の成果は全体として製糸家のものとなったようだ。製糸業の中心地長野県諏訪では、製糸家が同盟して女工の登録制度をつくり工場間の移動を禁止したので、彼女らは厳しい労働条件を耐えなければならなかった。
一方鉱山業の石炭と銅は当時の重要な輸出品であった。1890年代から諸鉱山の主要坑道に巻揚機械が導入されたが、切羽(きりは)での採掘と主要坑道までの運搬は手労働であり、地底での労働はたいへん厳しかった。筑豊の炭鉱では夫婦が仕事の単位となり、夫が狭い切羽で掘り出した石炭を妻が竹籠に入れて炭車まで引きずってゆく姿がみられた(労働基準法 第64条の2の女子坑内労働禁止は1933年)ようだ。こうした危険な重労働に従事する労働者を集め、彼らの生活を会社にかわって管理したのが、納屋頭(なやがしら。納屋制度参照)とか飯場頭(はんばがしら。飯場制度参照)とよばれる人々である。金属鉱山では鉱毒水や亜硫酸ガス(二酸化硫黄)による鉱害がかならずといってよいほど発生し、周辺住民との間にトラブルを生んだ。
鉱夫の酷使に支えられ、周辺住民へ鉱害を及ぼしながら、鉱山経営は大きな利益をもたらしたため、三井三菱住友古河(ふるかわ)などの大財閥の最大の蓄積基盤となった。
このように、明治初期に産業の近代化を担った繊維産業や石炭・鉄鋼石などを採掘する鉱業は、やがて日清 (1904年=明治37年2月8日 - 1905年=明治38年9月5日)・日露戦争(1904年=明治37年2月8日 - 1905年=明治38年9月5日)を経て重工業化が進むが、急速な近代化の下で、産業安全運動が展開されるまでにはかなりの時間を要した。
細井和喜蔵著『女工哀史』(※5参照)は、当時の紡績工場で働く女性労働者の生活を克明に記録したルポルタージュであり、自身の機械工としての経験と、妻としをの紡績工場での労働経験をもとに書かれたものである。また、『虞美人草』についで夏目漱石が職業作家として書いた二作目の作品(長編小説)『坑夫』(※6:「青空文庫」参照)があるが、これは、ある日突然、漱石のもとにあらわれた一人の青年(工夫)の悲惨な経験を素材とした、やはりルポルタージュ的な作品である。当時の女工や工夫の過酷な労働環境を窺い知ることができる。

我が国で産業安全運動が導入されたのは,明治末に古河鉱業会社(現:古河機械金属)足尾鉱業所、通称足尾銅山(現:栃木県日光市)と呼ばれる事業所で展開された「安全専一」運動が始まりだそうである。
足尾銅山は、当時の明治政府の>富国強兵政策を背景に20世紀初頭には日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長した。しかしこの鉱山開発と製錬事業の発展は、足尾山地の樹木が、坑木・燃料のために伐採され、掘り出した鉱石を製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染を引き起こした。荒廃した山地を水源とする渡良瀬川は洪水を頻発し、製錬による廃棄物を流し、足尾山地を流れくだった流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、広範囲な環境汚染を引き起こした。いわゆる、足尾鉱毒事件である。田中正造による国会(帝国議会)での発言で大きな政治問題となったのはよく知られている。1890年代より鉱毒予防工事や渡良瀬川の改修工事は行われたものの、鉱害よりも銅の生産を優先し、技術的に未熟なこともあって、鉱毒被害は収まらなかった。

●上掲は1895年頃の足尾鉱山

そんな足尾鉱毒事件が問題になったころ、「安全専一」運動を導入するに当たって指導的な役割を果たしたのが、当時足尾銅山所長であった小田川全之(おだがわ・まさゆき。)であったという。
小田川は、1883(明治16)年工部大学校土木工学科(現東京大学工学部)を卒業後、群馬県,東京府の土木工事や民間鉄道工事等に従事したのち、1890(明治23)年に古河家に入っている。当時の古河家は後年古賀財閥を創設する古河市兵衛が、東京に古河本店を開設し、渋沢栄一らの資金援助で、足尾銅山を中心とする多くの鉱山経営に取り組んでいた。
小田川が古河家に入社した1890(明治23)年は、先に書いた栃木県の名主の家に生まれたという田中正造(当時栃木県会議長)が、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し、初当選した年であり、この年には栃木県の渡良瀬川で大洪水を起しし同家の主力鉱山である、足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され騒ぎとなっていた年である。
そして、田中は、翌・1891(明治24)年には、鉱毒の害を視察し、第2回衆議院議会で鉱毒問題に関する質問を行っている。その後彼は、10年間、帝国議会に質問書を出し続けるが明治政府はこれを無視し続けた。
そのような中、古河家に入社した小田川は、足尾銅山での土木工事や鉱毒対策に取り組む。鉱毒対策では最新技術の導入を図るとともに,1897(明治30)年には農商務省から同銅山への第三回鉱毒予防工事命令に対して、180 日間の期限内に排水濾過池・沈殿池や採鉱堆積場の築造、煙突への脱硫(有害作用を持つ硫黄分を除去する)装置の設置等の難工事を成し遂げ、鉱毒の河川流入や拡散防止対策の中心的役割を担ったという。いわば、現在では常識的で、創業前には当然完備させている公害防止設備を足尾銅山では、小田川によって初めてなされたということである。
翌1898(明治31)年、その功績が認められ、銅鉱山の工作課長に就任。1903(明治36)年には古河本店理事に就任。
そして、翌1904(明治37)年には古河家3代目当主となる寅之助のアメリカ留学に随行し、1907(明治40) 年まで米国に滞在し、その間に、採鉱・精錬技術の調査を進め、これら最新技術とともに持ち帰ったのが当時米国で「Safety First」と呼ばれ広がりをみせていた安全の理念とその実践思想であった。
「Safety First」とは、米国最大の鉄鋼会社であったUS スティール社が1906(明治39)年にゲーリ工場を建設し操業を開始する際に「安全第一、品質第二、生産第三」をスローガンとして掲げ、工場設計,建設施工、設備搬入、レイアウト、据え付け・運転に至るまでの過程を安全第一主義の下に実施したところ、災害が激減するとともに生産効率も大幅に改善されたことが評判となり多方面に影響を与えた実践運動であった。
小田川は1911(明治44) 年に足尾銅山所長を兼務し、翌年から「Safety First」を「安全専一」と翻訳し、同文の琺瑯(ほうろう)製の標識を坑内作業所に掲げ、1913(大正2)年から同事業所所内報である『鑛夫之友』を刊行し,同誌に作業安全を喚起するための講話を掲載するとともに、1915(大正4) 年には安全心得読本を作成し作業員全員に持たせるなど、文字通り事業場での安全確保のための先駆的活動を展開したという。
ただ、「安全専一」活動は、鉱山の外部に普及したり、この運動に社会運動として取り組んだわけではなく、足尾銅山内に限定されたものであったが、”産業安全”という普遍的な価値を実現するための先駆けとなった運動ではあった。
足尾銅山は、日本の公害問題の原点と呼ばれ、産業近代化技術によってもたらされた負の遺産の象徴的な場所となっているが、同時に産業安全運動の出発点ともなった地でもあったようだ(※8参照)。

小田川によって掲げられた産業安全運動の灯火は大正時代に入り次の世代に引き継がれた。産業安全運動に関する次世代の代表格の一人が蒲生俊文(がもう・としぶみ。1883=明治16年生まれ)であった。
蒲生は、二高、東京帝国大学で学んだのち東京電気(現:東芝前身)の工場内に我が国で初めての事業所内安全委員会を組織し活動を展開するとともに「Safety First」を安全第一と訳し、広く同思想の啓蒙普及を図るために、逓信官僚の内田嘉吉らとともに「安全第一協会」を1917(大正6)年に設立(内田を会長、蒲生を理事として)。同協会の事業として、機関誌「安全第一」を通して広範な安全情報を提供するかたわら、2年後の1919(大正8)年には当時の、東京市で開催された安全週間の輪が年々広がり、1927(昭和2)年10月2日から一週間1道3府21県連合工場安全週間が開催されるようになった(※10参照)。
この連合安全週間は、この種の運動を広域的実施しようとする機運を盛り上げ11月には九州一円と山口県の連合安全デー、福島鉱山監督局管内での鉱山安全デー、12月には、海軍所属の全鉱山、専売局所属の全事業所での安全週間などが開催された。そして、翌年には、全国的に足並みを揃え実施されることになり。ここに、全国統一の「全国安全週間」が昭和3年10月2日~7日(昭和6年の第4回からは7月1日から7日)の間「一致協力して、けがや病気を追い拂ひませう」の標語(労働衛生を含めた運動であった様である)のもとに繰り広げられ、今日に至っているようだ。その際、産業安全のシンボルマーク・緑十字を定めるなど、産業安全運動を、足尾銅山の小田川のように、たんに事業所内での活動に留めず社会運動へと発展させた功績は大きい。


●上掲画像説明:1919(大正8)年、6月15日から1週間、東京市で初の「安全週間」が催され、運動本部や警視庁などが災害予防を呼びかけた。1928(昭和3)年からは、「全国安全週間」となり、全国的な活動になった。上段の写真は安全徽章の製作に追われる運動本部の夫人たち。下段は当時の安全週間のマーク。写真は雑誌『歴史写真』からのもの。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1918-19年号23P掲載写真を借用した。

それまでの事業所における安全問題では、工場で災害が発生した場合など、被災者が一方的に解雇されたり、見舞金による示談で済まされたりするなど、事業所での安全責任は事業者と労働者との片務的な私的関係によって処理されていた。「安全第一協会」による活動の意義は、そのような状況下にあった安全責任の枠組みを、同協会の安全第一思想に基づく運動を通して、事業所での安全対策の必要性や災害補償制度の有用性を社会的に認知させることによって工場法により法制化された労働災害に対する予防措置や災害補償を、事業者責任(※9参照)として履行させることを促進したことにあるという。すなわち,生産活動に伴う安全の確保が国家・社会的管理の枠組みの下に取り組まれるための産業界の基盤整備を行った訳であるというのだが・・・。
又、東の足尾銅山の小田川全之、東京電気の蒲生俊文に対して、西で活躍したのが住友伸銅所(現:住友金属工業)の三村起一(1887=明治20年生まれ)である。一高,東京帝国大学で学んだのちに住友総本店に入社し,住友伸銅所にて安全運動を開始した。我が国での最初の労働立法である工場法が1916(大正5)年に施行された折から、工場内での安全活動を周囲の無理解と闘いながら率先垂範して展開していたという。1919(大正8)年には米国へ労務管理研修のために出かけ,帰国後は住友各社の重役を務めたのち、1941 (昭和16)年住友鉱業(現:住友金属鉱山)社長、同年住友本社理事を歴任し、戦後は経団連理事や産業災害防止対策審議会会長,さらに初代中央労働災害防止協会会長など枢要(物事の最も大切な所)なポストを務めたという。
三村と蒲生とが出会ったのは1917(大正6)年に三村が蒲生の工場を訪れたときだそうだが、その出会いは三村の一高以来の恩師新渡戸稲造の勧め、紹介によるものであったという。また小田川と蒲生との接触については,蒲生が「安全第一協会」を設立し安全第一運動を展開した折、小田川は同協会の賛助会員として参画するとともに、同協会設立総会での記念講演や機関誌へ投稿を行うなど、その活動に対して積極的な支援をしているという。
このように産業安全運動は、小田川や新渡戸らの明治期の近代化を担った世代と、蒲生や三村らの次の世代とが密接な関係を有しながら引き継がれていったようだ。
昭和に入り、1929(昭和4)年には工場法に基づく「工場危害予防及び衛生規則」(※11参照)が定められ,作業安全のための環境整備は進展するが、やがて戦時統制が強化される中で、産業安全運動も停滞を余儀なくされていった。そのような状況下にあった産業安全運動の中で忘れてはならない人物に。伊藤一郎(1888年=明治21年生まれ。※12の伊藤一郎先生のことl参照)がいると言う。
1911(明治44)年東京高等工業学校卒業後に同校助教授、東京工業大学講師を経て伊藤染工場の経営に参画し、1939(昭和14)年同工場を東洋紡績(現:東洋紡)に譲渡し、翌年その売却金50 万円を国に寄付し、「安全第一協会」を設立以来、多くの産業安全関係者の宿願であった産業安全研究所(※12)と産業安全参考館開設(1943=昭和18年。1954 =昭和29年には「産業安全博物館」と改称)の設立を願い出た人物だそうである(※12のここ参照)。

戦後、1947(昭和22)年に労働省(現:厚生労働省)が設立され、安全衛生行政が同省所管の下に執行されるとともに、労働基準法(昭和22年4月7日法律第49号)や労働者災害補償保険法(昭和22年4月7日法律第50号)、労働組合法(昭和24年6月1日法律第174号)などが成立し、労働条件を取り巻く環境と執行体制は大きく変わった。
そして戦後の復興を経て、1958(昭和33)年には、国としての「産業災害防止総合五カ年計画」が策定され。以降5年ごとに改訂され実施されている。また1972(昭和47) 年には労働安全衛生に関する基本法とも言うべき「労働安全衛生法」も成立している。この間産業安全運動もさまざまな変遷を経て、現在は中央労働災害防止協会、建設業労働災害防止協会(※13)を始め多くの団体・組織による活動に引き継がれている。尚、2013 (平成25)年4月から始まっている、第12次労働災害防止計画の計画本文、概要などは参考の※14を参照されるとよい。
これからの産業安全は、経済のグローバル化(グローバル資本主義)が進行する中で、世界的枠組みの下に展開することが求められている。
ILO(国際労働機関)は1999(平成11)年の 総会において21世紀のILOの目標として「すべての人へのディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)の実現」を掲げた。そして、2003(平成15)年から4月28日を労働安全衛生世界デーと定め、労働災害と職業病における予防の重要性に注意を喚起する日としている。しかし、今でもなお毎年世界全体で230万人を超える人々が業務上の災害や疾病によって命を落としているという(※17参照)。

以前このブログ「世界社会正義の日 」で、ILの批准条項中、日本の未批准条約が多くあること、そして、連合調べによる『ディーセント・ワークに関する調査』(※15:「人事ネットワーク/日本の人事部」のここ)など見ると、ディーセント・ワークの認知度も非常に低く、ILPの批准条項中、特に、労働時間関連(※16参照)が批准できていないことを書いたが、事業場での安全衛生確保のためには、先ず、適正な労働時間管理が出来ていないといけないはずだなのだが、今はどうなっているのだろうか・・・。

それはさておき、日本の安全運動に取り組んだ人物のうち、小田川の足尾銅山での安全運動は社内運動に留まり。社会運動へ発展するに至らなかった。それを、たんに事業所内での活動に留めず全国的な社会運動へと発展させ、これが三村などによって広がりを見せていったのであり、その意味、蒲生の功績は非常に大きいのだが、他の安全運動の先覚者などと比して、蒲生の生い立ちやどのような考えで安全運動をしたのかについてもう少し詳しく記録が残っていても良いと思うのだがあまり出てこないかった。・・・一体どうしてなのだろうか?
戦時下の最中におこなわれた安全運動であったせいだろうか。蒲生は、敗戦直後の公職追放対象者の一人にも数えられていたというからそのせいだろうか。いろいろ調べていたら、以下のページを見つけた。詳しく書くと長くなるので省略する。知りたい人は以下を参照されるとよい。

蒲生俊文の「神国」観と戦時下安全運動

どうも、上掲に書かれているところを読む限り、戦時下において、産業犠牲者の絶滅を期するこそ生産増強の第一に着手すべき課題であり、安全運動は国防の第一線である・・・といった「生産増強・安全報国」と言った思想のもとでなされていたもののようである。そうだとすれば、今となっても、日本ではILOの条項の批准条項がなかなか批准されない理由の一つには労働者の思惑とは違った意味での労働災害防止が考えられているからだろうか・・・などと勘繰りたくもなるのだが・・・。


(冒頭の画像は全国安全週間のシンボル(2014年)。
参考:
※1:住吉祭(夏祭り) | 住吉大社
http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/natu.html
※2:国民安全の日について - 内閣府
http://www.cao.go.jp/others/soumu/kokuminanzen/kokuminanzen.html
※3:新産業災害防止5カ年計画について | 政治・法律・行政 | 国立国会図書館
https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib01470.php
※4:製糸場支えた豊富な水 繰糸や動力源に利用 : 地域 : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/local/gunma/feature/CO004089/20131107-OYT8T00122.html
※5:『女工哀史』 細井 和喜蔵 | 考えるための書評集
http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-880.html
※6:夏目漱石 坑夫 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/774_14943.html
※7:代戯館
http://daigikan.daa.jp/
※8:小田川全之、足尾鉱業所でわが国最初の産業安全運動 ... - 防災情報新聞
http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_6497.html
※9:事業者の責任と義務 of 労働安全衛生法のポイント
http://aneihou-point.com/pg87.html
※10:全国一斉に愈よ明日から工場安全週間に入る - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070028&TYPE=HTML_FILE&POS=1
※11:労働災害発生状況|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/anzeneisei11/rousai-hassei/
※12:独立行政法人 労働安全衛生総合研究所
http://www.jniosh.go.jp/
※13:建設業労働災害防止協会
http://www.kensaibou.or.jp/
※14:第12次労働災害防止計画について |厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/anzen/anzeneisei21/index.html
※15:人事ネットワーク/「日本の人事部」
http://jinjibu.jp/
※16:なぜ日本政府はILO第1号条約(8時間労働制)を批准できないのか
http://www.jitan-after5.jp/essay/es020511.htm
:※17:2015年労働安全衛生世界デー - ILO
http://www.ilo.org/tokyo/events-and-meetings/WCMS_361936/lang--ja/index.htm
国民安全の日 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%AE%89%E5%85%A8%E3%81%AE%E6%97%A5



皆既月食

2014-10-09 | 行事
月食(英: lunar eclipse)は地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月にかかることによって月が欠けて見える現象のこと。望(満月)の時に起こる。
日食と違い、月が見える場所であれば地球上のどこからでも同時に観測・観察できる。
満月が完全に地球の影に隠れ、暗い赤銅色に見える皆既月食が昨日・2014年10月8日にあった。
幸い、昨夜は天気も良く、2011 年12 月以来約3年ぶりの皆既月食が欠け始めから終わりまで観測することが出来た。日本で次に見られる皆既月食は、2015年4月4日のことだそうだ。
掲載の画像.19時ごろのもの。どうしたわけか、望遠レンズが見当たらず普通にカメラのズームアップで撮った。
あまり綺麗に撮れていないが、私としてはそれなりに撮れていたのでアップした。

結核予防週間

2014-09-24 | 行事
9月24日~9月30日は「結核予防週間」である。
1949(昭和24)年から厚生省(現在の厚生労働省)と結核予防会(JATA)が実施している。
結核についての正しい知識を普及し、これからの活動を考える週間として、結核予防会では周知ポスターやパンフレット「結核の常識」等を作成配布するとともに、「全国一斉複十字シール運動キャンペーン」として全国各地で街頭募金や無料結核検診、健康相談等を実施して、結核予防の大切さを伝えている(参考※1「公益法人結核予防会」HPの結核予防週間参照)。
 
「みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる」 

上掲の短歌は、日本を代表する短歌結社誌『アララギ』の中心人物として明治・大正・昭和と長く活躍した歌人・斎藤茂吉の処女歌集で、1913(大正2)年に刊行された『赤光』(死にたまふ母 其の一)に所収のものである(※2参照)。
茂吉は、1882(明治15)年、山形県守谷家の三男に生まれる。生家には経済面の余裕が無く、茂吉は、15歳の頃より東京に出て浅草で精神科医院を開業するも跡継ぎのなかった同郷の医師、斎藤紀一の家に養子候補として厄介になっていた。
上京してからの茂吉は開成中学(現・開成高校)から旧制第一高校(現:東京大学の前身)へと進学、このころから歌を詠むようになり、幸田露伴森鴎外などを愛読。とくに露伴の影響は大きかったようだ。
1902(明治35)年第三学部((現:東京大学教養学部)の学生となった茂吉は、発行されたばかりの正岡子規の遺稿集第一篇『竹の里歌』(※3参照)を読んで強い感銘を受け、作歌を志すようになる。
しかし、養家の医師である斉藤家を継ぐため、同年、第一高等学校卒業後、東京帝国大学医科大学>(現在の東大医学部医学科)に入学し,1910(明治43)年に卒業している。
その翌・1911(明治44)年には、東大医科大学副手となり、精神病学を学ぶかたわら付属病院に勤務。7月より東京府巣鴨病院勤務し、授業と診療の生活が始まっていた。この時茂吉29歳。
その間1906(明39)年、子規の流れを汲む伊藤左千夫に入門し、本格的に短歌の道を歩み初めていた。
そして、茂吉が31歳の時、生母いくが1913(大正2)年5月に亡くなっている。上掲の短歌は臨終を迎えようとしている郷里山形の母に対する想いを詠んだ短歌である。東京に住んでいた茂吉。今のように飛行機も新幹線もなかった時代。 おそらく夜行列車に揺られているときに浮かんできた短歌だろう。
「一目見ん一目見んとぞ」と反復させることで、作者の願いや祈り、あせりが強く表現されている。
そんな茂吉のエッセイ(随筆)『結核症』(1926=大正15年)がある。
日本を代表する歌人でありながら、精神科医を本業としていた茂吉が、ここでは肺結核の病状が作風に影響を及ぼす例を分析している。一般的に結核性の病に罹(かか)ると神経が研ぎ澄まされ、健康な人の目に見えないところも見えて来るようになり、更に末期になると病に平気になり呑気になるものの依然として鋭い神経を持つ傾向にあるそうだ。
そして、肺結核患者は健康の人が平気でやっていることに強い厭味(いやみ)を感じたり、細かい粗(あら)が見えたりすることがあるそうで、その例として子規が若い頃は傾倒していた幸田露伴の作品に対して嫌味というか細かい指摘をしたことを挙げている。
そして子規の末期の作品を「センチメンタリズムから脱却しているが、感慨が露(あら)わでなく沈痛の響に乏しい」のは、俳人としての稽古によるものでなく、末期の肺結核特有の症状から来たものと結論づけている(参考※4:「青空文庫」参照)。

茂吉の『結核症』に出てくる正岡子規や、国木田独歩の他、高山樗牛(ちよぎう)、綱島梁川(りやうせん)、石川啄木 、森鴎外など結核で亡くなった文豪等が登場する。
正岡子規は、1894(明治27)年夏に日清戦争が勃発すると、翌1895(明治28)年4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についたが、その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院(現:神戸大学医学部附属病院)に入院。その後7月には、療養のために須磨保養院へ移り、故郷の松山へ行くまでの1ヶ月間、須磨に滞在していた。
当時須磨には、鶴崎平三郎博士によって解説された日本最初のサナトリウム「須磨浦療養院」(現:須磨浦病院。※5参照)があり、紛らわしいことに、隣接して「須磨保養院」もあった(須磨浦療養院より須磨駅方向。同じ須磨浦公園内の東端)。後者は療用にも保養にも利用されていた施設で、子規はこの「須磨保養院」に滞在し、サナトリウムの医師の診察を受けていたようだ。
松山に帰郷した子規は、1897(明治30)年に俳句雑誌『ホトトギス』を創刊しているが、その4年後 1902(明治35)年9月に肺結核が悪化し34歳 の若さで死去した。辞世の句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」を残している、苦しんで死んだことだろう。

国木田独歩は、1905(明治38)年5月の日本海海戦で、日露戦争 の勝利がほぼ確実になると、戦後にそなえ翌1906年初頭にかけて、新しい雑誌を次々と企画・創刊して、12誌もの雑誌の編集長を兼任していた。そして、日露戦争の終結後自ら独歩社を創立したが、1907(明治40)年には破産。その上独歩は肺結核にかかる。
しかし皮肉にも、前年に刊行した作品集『運命は』(「運命論者」など9編を収める第3著作集、うち「運命論者」は※4:「青空文庫」参照)が高く評価され、独歩は自然主義運動の中心的存在として、文壇の注目の的になった。
神奈川県茅ケ崎にある結核療養所の南湖院で療養生活を送る。「竹の木戸」「窮死」「節操」などを発表するが、病状は悪化していき、1908(明治41)年6月、満36歳で死去している。

高山樗牛は、明治時代の文芸評論家、思想家である。1871年2月28日(明治4年1月10日) 現在の山形県鶴岡市に生まれた。父は庄内藩士・斎藤親信。生後高山家の養子になった。樗牛の号は『荘子』の巻頭に載せられている「逍遥遊」(何ものにも拘束されない全く自由の境地。伸びやかに遊ぶ荘子の意か・・※6参照)からという。
樗牛がこの号を用いるようになったのは、彼が仙台の旧制第二高等学校に在学中のことであったという。彼は自分の性格を良く知っていたのだった。若輩の身で天下国家を論じるような、良く言えばスケールの大きな話、悪く言えば大風呂敷と見做されるような話を好んでする性格を、樗牛は自覚していたのだった。
1896(明治29)年に東京帝国大学文科大学哲学科卒業後、第二高等学校の教授になったが、翌年、校長排斥運動をきっかけに辞任。博文館に入社し『太陽』編集主幹になった。
当時は三国干渉後で国粋主義的な気運が盛り上がっており、「日本主義」を鼓吹する評論を多く書いていたようた。一方で『わがそでの記』のようなロマン主義的な美文を書いたり、美学をめぐっては森鴎外と論争を行っていたという。
1900(明治33)年、文部省から美学研究のため海外留学を命じられた。夏目漱石芳賀矢一らと同時期の任命であり、帰国後は京都帝国大学(現:京大)の教授が内定していたが、洋行の送別会後に喀血し、入院。療養生活に入った。
翌・1901(明治34)年、留学を辞退。病中に書いた『文明批評家としての文学者』ではニーチェの思想を個人主義の立場から紹介した。また、田中智學の影響を受け日蓮研究を進めていたという。
当時病気で喀血で入院と云えば結核であった。樗牛は、24 歳の時に結核を発症してからは、時として頭をもたげてくるこの病をなだめながら、評論活動を続けたのだったが、病床に臥していたある時(1897年=明治 30年)、次のように述べているという。
「われ病にかかりて、ここにまことの人生を見そめき。あだ波たてる世の常にかけはなれて、ここに静かなる寂しきまことの世相を観じそめき。利に走り名にあこがるるともがらの外に、真の友情の貴むべき事を覚えそめき。あだにすごせし幾とせの、偽り多くつみ深きを想ひて、ここに青春の移ろひやすく、勝事のとこしへならざるを嘆きそめき。(『わがそでの記』)
この文章は、友人の姉崎嘲風との交友について、樗牛が書いたものだそうである(※7、※8参照)
1902年(明治35年)、論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与されたが、病状が悪化し、前年東大の講師になり週1回、日本美術を講じていたが、これを辞任、12月24日に31歳の若さで死去している。

綱島梁川 、本名:栄一郎は、1873(明治6)年5月年岡山県上房郡有漢村(現:高梁市)生まれの宗教思想家、評論家である。
1890(明治23)年に岡山の高梁教会で牧師より洗礼を受ける。1892(明治25)年に東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。
坪内逍遥大西祝の教えを受ける。逍遥の『早稲田文学』の編輯に加わり、文藝・美術評論を書く。
横井時雄本郷教会植村正久の一番町教会(後の富士見町教会)に出席する。この頃正統的な神学に懐疑的になり、倫理に傾倒するようになった。
肺結核で神田の吉田病院に入院しているときに、副院長の橋本善次郎神戸教会牧師の海老名弾正と出会って信仰を回復。
文芸評論家として活動すると同時に、倫理学者としても活動した。病身になってからは、主に宗教の論評を発表するようになり、明治38年(1905年)に『新人』に発表した『病間録』「余の見神の実験」は大きな反響を呼んだ。この宗教的な思索は、安部能成、斎藤勇らに大きな影響を与えたという。綱島も肺結核のため満34歳で死去している。

岩手県出身の歌人、詩人石川啄木は、曹洞宗日照山常光寺住職の長男として生まれる。戸籍によると1886年2月20日の誕生だが、1885(明治18)年10月28日に誕生したともいわれているそうだ。
盛岡中学校(現:岩手県立盛岡一高)時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の岡山不衣金田一京助らと知り合う。
明星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒し、また上級生の野村長一(のちの野村胡堂)や及川古志郎らの影響を受け、文学への志を抱くようになる。
1901(明治34)年12月から翌年にかけて友人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、啄木の作品も「翠江」(すいこう)の筆名で掲載された。これが初めて活字となった啄木の短歌だったという。
しかし、翌1902(明治35)年文学で立身することを決意し、盛岡中学校を中退し、11月9日、雑誌『明星』への投稿でつながりがあった新詩社の集まりに参加、10日には、当時、歌壇ではきら星の如き存在であった与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねる。
東京滞在は続き作歌もするが出版社への就職がうまく行かず、結核の発病もあり、1903(明治36)年2月、父に迎えられて故郷に帰る。
1903(明治36)年 5月から6月にかけ『岩手日報』に評論を連載、11月には『明星』に再び短歌を発表し新詩社同人となる。この頃から啄木のペンネームを使い始め、12月には啄木名で『明星』に長詩「愁調」を掲載、歌壇で注目されるようになる。
啄木は貧窮と病に冒された漂白の生活の中、1910(明治43)年)には、処女歌集『一握の砂』(※4「青空文庫」で読める)を発表。新しい光を世に放つ551首が納められたこの歌集を残して、2年後の1912(明治45)年わずか26歳で夭逝した.。

森鴎外は、東京大学医学部卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツで4年過ごして、帰国後、訳詩編{於母影』、小説『舞姫』、翻訳[『即興詩人』を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』(※:「青空文庫」の55柵草紙の山房論文参照)を創刊して文筆活動に入った。
その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより、一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『』などを発表。乃木希典の殉死に影響されて『興津弥五右衛門の遺書』を発表後、『阿部一族』『高瀬舟』など歴史小説や史伝『澁江抽斎』等も執筆した。
晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任するなど幅の広い文芸活動とともに幅広い交際もしてきた鷗外も、1922(大正11)年、親族と親友の賀古鶴所らが付きそう中、腎萎縮、肺結核のため60歳で死去している。
森鴎外の死については、鴎外の妹で、訳詩集『於母影』の共訳者として、紅一点で名をつらねる等、女性文学者として明治期に若松賤子バーネットの『小公子』の名訳で知られる)と並び称された歌人・随筆家でもある小金井喜美子が、『鴎外の思い出』の中で、以下のように書いている(※3:「青空文庫」参照)。
「近親中で長生したのは主人の八十七、祖母の八十八でした。祖母は晩年には老耄(ろうもう)して、私と母とを間違えるようでした。主人は確かで、至って安らかに終りました。この頃亡兄は結核であったといわれるようになりましたが、主人も歿(ぼつ)後解剖の結果、結核だとせられました。解剖家は死後解剖するという契約なのです。医者でいる子供たちも、父は健康で長命して、老衰で終ったとばかり思っていましたら、執刀せられた博士たちは、人間は老衰だけで終るものではない、昔結核を患った痕跡(こんせき)もあるし、それが再発したのだといわれます。解剖して見た上でいわれるのですから、ほんとでしょう。つくづく人体というものを不思議に思います。」・・・と。
喜美子の兄、鴎外の直接の死はやはり結核によるものだったようだ.
続いて「割合に早く終った兄は気の毒でした。何も長命が幸福ともいわれませんけれど、その一生に長命の人以上の仕事をせられたのですから。・・・長年の間、戦闘員でこそなけれ、軍人として戦地に行き、蕃地(ばんち)にも渡り、停年までその職に堪えた上、文学上にもあれだけの仕事をされたのですから、確かに過労に違いありません。よくもなされたと驚くばかりですが、それにつけても、晩年にはもっと静養させたかったと、ただそれだけが残念です」・・・と。
結核で亡くなったその他の文豪たちの中では鴎外の60歳での死は湯治としては早い方ではないが、長生きの家系の中では意外と早死した兄の働き過ぎを惜しんでいる。
又、喜美子の夫は日本解剖学会初代会長などをつとめた小金井良精であり、その夫も、当時としては長生きの88歳で亡くなったがその死因は老衰ではなく解剖の結果死因は結核だったそうだ。

上記以外にも明治以降、とされる主な文豪、樋口一葉(24歳と6ヶ月)、•二葉亭四迷(45歳)、•宮沢賢治(37歳)梶井基次郎(31歳)などは、肺結核で亡くなっていると言われている。
特に梶井基次郎氏は、京都の三高在学中、四条大橋の上で文学仲間に「肺病になりたい、肺病にならんとええ文学はでけへん。」と叫んだそうだ(祖母も弟も肺病で先に亡くしている)。その直後、肺結核を発病、その後名作『檸檬』を残し、31歳で生涯を閉じたという(※9参照)。

明治時代から昭和20 年代までの永い間、「国民病」「亡国病」と恐れられた結核は、年間死亡者数も10数万人に及び死亡原因の第1位であった。
医療や生活水準の向上により、今では薬を飲めば完治できる時代になったが、過去の病気と思っていたら、結核の集団感染が学校や病院、老人ホームなどで続き、1999(平成11)年には厚生省から「結核緊急事態宣言」が出された((※10:「厚生労働省」のここ参照)。
1997(平成9)年の国内の結核新規登録患者数は42,715 人で、前年比243人増。1998(平成10)年は44,016人で、さらに1,301 人増加と、確実に増えてきた。
世界的に見ると、日本は先進国中で図抜けた罹患率( 平成10年34.8)であった(※10:「厚生労働省」のこのページの参考資料-1参照) 。
この状況は、現在でも同様である。「平成24年結核登録者情報調査年報集計結果(概況)」(※10:「厚生労働省」のこのページの参考資料 1参照)を見ても、日本の結核罹患率16.7は、米国(3.4)の4.9倍、ドイツ(4.3)の3.9倍、オーストラリア(5.4)の3.1倍である。、欧米諸国と比較すると、日本の結核罹患率は依然として高い。
このような状況から判断して、結核罹患率が、10人以下となっている欧米先進国に比べ日本はまだまだ結核は多く、現在でも世界の中では依然「“中”蔓延国」とされている状況である。
人口10万人あたり10人以下の「“低” 蔓延国」になるにはまだまだ相当年数かかるだろうし、100万人あたり1人以下の「制圧」までには50年以上かかるのではないかという予測もあるようだ。
それには、結核を知ることが予防への第一歩であり、早期発見・早期治療は本人の重症化を防ぐためだけではなく、大切な家族や職場等への感染の拡大を防ぐためにも重要である。

結核は明治前期の資本主義経済の発展と共に増え続けたと言われている。
貧しい農村か若い女性を製糸、紡績工場に集め、低賃金、重労働で働かせた。作業場も住宅も不潔で栄養不良が重なると、徐行は結核に倒れ、故郷に帰りひっそりと暮らした。このような過酷な労働条件下で働く女工について語るとき、これを「女工哀史」などともいった。
結核を患い故郷に帰った女性は、親や兄弟に厄介者扱いされるケースもあった上、家族に菌を移し、農村に結核を広げた。死亡率が高かった頃は、病名「結核」はあまりにも直接的で人々の口に出しづらかった面があったからだ。
折しも、1908(明治41)年6月、結核菌の発見をしたドイツの細菌学者コッホ夫妻が来日した。

上掲の写真はその折の記念写真。前列左がコッホ、後列右端が弟子の北里柴三郎である(画象『朝日クロニクル週刊20世紀』1913-1914 年号より。
コッホは来日時の談話で、イギリス、プロシアなどで結核が減少している理由として、
1)伝染を恐れ注意するようになった。2)一般に衛生思想が発達した。3)貧民の住宅事情を良くした。4)療養所を増やし、感染源を隔離できるようになった。・・・ことを指摘したという。これを機に日本でもようやく本格的な結核対策を講じる機運が高まったようだ。
そして、1913(大正2)年は、このような結核予防史上重要な年となった。財団法人日本結核予防協会が発足したからだ。発会式は2月11日の紀元節に行われ、会頭に芳川顕正、理事長に北里柴三郎が就任した。
それまでは北里柴三郎らの大日本私立衛生会(日本公衆衛生協会の前身、※11参照)と、2年前にクリスチャン医師ら数名により出来た白十字会(※12、※13参照))があったが、国家的な取り組みが求められていた。
同協会の事業を1939(昭和14)年に引き継いだのが、今の結核予防会である。
日本結核予防協会は啓発活動の小冊子を発行し、翌1914(大正3)年には東京大正博覧会で大がかりな展示をし、「結核征伐の歌」を製作、その後も映画、劇で広く大衆に予防を訴えた。
1、そも肺病は目に見えぬ 結核菌の襲ひ来て
強と見ゆる體(からだ)にも 呼吸に障(さわ)りあるときは
その弱點(じゃくてん)につけ入りて ついに発するものぞかし

2、されば豫防(よぼう)の第一は 結核菌を近づけず
常に體を養ひて よしかの菌の襲ふとも
打ちかつ程の體力(たいりょく)を 備へおくこそ秘訣なれ

上掲は「結核征伐の歌結核征伐の歌」1、2番、 歌詞は10番まであるようだ。
また、冒頭に掲載のものは、大正末期に作られた結核予防協会の宣伝ポスター。このころは3月27日が結核予防デーだったのだろうか。歌も、ポスターも時代を感じさせるよね~。、

政府の方針で1917(大正6)年初めて結核療養所・大阪市立刀根山病院(現:国立病院機構刀根山病院)が開院した。
この施設は結核専門の診療所であると同時に根本的な治療方法のない結核という病気の研究機関でもあった。結核治療という分野に関していえば日本国内で最古の歴史を持つと言える。
個人の結核療養所としては、先にも書いた通り、神戸の須磨浦療病院が1889(明治22)年に設立されているが、その2年前の1887(明治20)年に、鎌倉海浜院が設立されているが,翌年ホテル(鎌倉海浜院ホテル)に転向しているので、本格的な日本最初の結核サナトリウムは須磨浦療病院といってよいであろう。
開設者は鶴崎平三郎博士で,湘南と同様,景勝の気候温暖な海浜が建設地として選ばれている。
湘南地方にはその後1892(明治25)年に鎌倉養生院、1887(明治30)年に杏雲堂平塚分院、1899(明治32)年に中村恵風園療養所と南湖院が次々と開設され、最も多い時代には12のサナトリウムが湘南地方にあったという。
この中で,医師高田畊安によって開院された南湖院は最初は5千坪強の土地から発足し、最後には5万坪の土地に総病床数200床強の施設に発展し、当時東洋一と云われた施設であったらしい。東京の医科大学の学生が施設見学にくるなど、診療の他に医学教育にも貢献している施設であったという(※1:「公益法人結核予防会」HPのここ参照)。

上掲の画像は神奈川県・茅ケ崎にあった民間の結核療養所「南湖院」。写真は、1931(昭和6)年南湖院海浜会場で衛生講和をしている様子(写真は鶴田蒔子氏蔵のもので、『朝日クロニクル週刊20世紀』1913-1914年号掲載のものより借用した)。

しかし,入院料は1939(昭和14)年に一番安い病床でも1日3円であり、1カ月入院すると100円弱かかり、当時大学出の初任給が100円くらいであったことを考えると、庶民には長く入院することは困難であったようだ。それは、湘南と同様、景勝の気候温暖な海浜が建設地として選ばれた「須磨浦療病院」も同様であった。
そのようなことから公的な療養所として最初に大阪市、そして、東京市に続いて、第3番目に建設されたのがわが地元、神戸市立療養所であったという。
須磨浦療病院のある須磨公園駅から山陽電鉄板宿まで行き、市営地下鉄で2駅目の名谷で下車、車で数分の国立神戸医療センターが、今は旧神戸市立療養所跡に建てられた施設である。1918 (大正7)年創立の神戸市立屯田療養所を伝統的母体として、1941(昭和16)年にこれを統合して現在の地(多井畑)に神戸市立多井畑療養所として開設されたものである。
1919(大正8)年には、旧結核予防法が施行され、人口5万人以上の市に結核療養所の設置が命じられ,強く蔓延していた結核に対応するために,公立の結核療養所は急速に増えていった。そして、患者の家の消毒、有業制限、結核療養所への収容や生活保護などを定め、性病やらい病などその後に次々とできる予防法の手本となった。
しかし、この当時は、まだ、患者の救済・援助よりは感染から社会を防衛する意識が強かったようだ。
先にも書いたように、かって、結核は若き天才が倒れる病気であった。1898(明治31)年徳富蘆花の『不如帰』は上流階級のモデル小説で、結核に倒れ、離縁される薄幸の新妻、浪子(大山 巌元帥の娘信子がモデルとされる)を通じて結核の残酷さを浮き彫りにした。このことは目にこのブログ蘆花忌で詳しく書いた(※14参照)。

結核とは、「結核菌」という細菌が引き起こす「おでき」のようなものだという。最初は炎症から始まり、肺ならば肺炎のような症状になる。
 炎症が進むと、組織がだめになって「化膿」に似た状態になる。肺結核ではこの状態がかなり長く続き、レントゲンなどに写る影の大半がこの時期の病巣で、その後、だめになった組織がドロドロにとけて、咳(せき)やくしゃみと一緒に気管支を通って肺の外に出され、病巣は空洞(穴のあいた状態)になる。
空洞なので空気も肺からの栄養も十分にあり、結核菌には絶好のすみかとなって菌はどんどん増殖するのだという。
 ここから菌が肺の他の部分に飛び火したり、リンパや血液の流れに乗って他の臓器でも結核菌が悪さを始めたりすることもある。こうして結核は肺全体、全身に拡がって行く。最後には肺の組織が破壊され呼吸困難や、他の臓器不全を起こして生命の危機を招くことになるという。
こう書けば怖い病気だが、予防法や治療法の発達により、現在の結核の罹患率などは明治大正、昭和前期の結核の壮絶さとはとうてい比較にならないほど低くはなっている。
しかし、先進国中でも高い水準にあるのは、日本が諸外国と比べて湿気が多いという結核になりやすい気候条件のあることが大きな理由のようでもある。加えて戦前は、衛生面で劣悪(これは日本に限ったことではないが)だったことも、感染に拍車をかけていた。
日本結核予防協会の「結核征伐の歌」じゃないけれど、「結核予防の第一は 結核菌を近づけず、常に身体を養って 結核菌に打ちかつだけの体力を備へおくことが最も基本的に大事なことではあるのだが、今後日本は更なる高齢化により、患者数が再び増加に転じる恐れが強まっており、これを食い止めるため厚生労働省や結核予防会などが結核予防の啓発活動を進めているわけである。
結核を撲滅するためには、なによりも、だれもが結核について正しい知識を持っていることが大切であり、この機会に、結核について少し学んでみるのも良いのではないだろうか(※15、※16参照)。

冒頭の画像は、結核予防会の2014年度結核予防週間のポスター。
参考:
※1:公益法人結核予防会
http://www.jatahq.org/index.html
※2:小さな資料室:資料91 斎藤茂吉「死にたまふ母」(初版『赤光』による)
http://www.geocities.jp/sybrma/91syakkou.syohan.html
※3:近代デジタルライブラリー - 竹の里歌
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/873702
※4:青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/
※5:須磨浦病院HP
http://www5c.biglobe.ne.jp/~sumaura/
※6:(逍遥遊篇)のすべて [ 原文・読み下し・訳]
http://www.1-em.net/sampo/sisyogokyo/souji/soushi1.htm
※7:明治三十年代の文明論 : 文明批評の成立と展開<1>- 北海学園大学(Adobe PDF)
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/1256/1/JINBUN-6-13.pdf#search='%E6%96%87%E6%98%8E%E6%89%B9%E8%A9%95%E5%AE%B6%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%80%85'
※8:高山樗牛と「冥想の松」 - 東北薬科大学(Adobe PDF)
http://www.tohoku-pharm.ac.jp/laboratory/germany/PDF%20chogyu.html.pdf#search='%E9%AB%98%E5%B1%B1%E6%A8%97%E7%89%9B+%E7%B5%90%E6%A0%B8'
※9:肺結核と文豪、文学 - やさしイイ呼吸器教室
http://tnagao.sblo.jp/article/60254385.html
※10:厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/kouseiroudoushou/shozaiannai/
※11:「北里柴三郎博士と日本私立衛生会」(PDF )
http://www.kitasato.ac.jp/kinen-shitsu/data/download/syonaihou_52.pdf#search='%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A7%81%E7%AB%8B%E8%A1%9B%E7%94%9F%E4%BC%9A'
※12:連載 - 結核予防会結核研究所(Adobe PDF)
http://www.jata.or.jp/rit/rj/2010_1.pdf#search='1911%E5%B9%B4+%E7%B5%90%E6%A0%B8+%E7%99%BD%E5%8D%81%E5%AD%97%E4%BC%9A'
※13:社会福祉法人白十字会
http://fields.canpan.info/organization/detail/1159347721
※14:今日のことあれこれと・・・蘆花忌(小説家・冨蘆花の忌日)
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/2b06b2e4bd2f1732efd5dae461deadd1
※15:結核ってこんな病気
http://www.jazzday.net/
※16:結核(BCG) |厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/kekkaku-kansenshou03/
結核 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E6%A0%B8

白露

2014-09-08 | 行事

日本には何月何日というデシタルなとともに、「立春」とか「清明」「白露」などの美しい言葉で示される「二十四節気」という暦がある。
四季に恵まれた日本では、「二十四節気」によって、自然の再生・循環と季節の移ろいを身体全体で感じ、 自然との共生をしてきた。
その節気の一つ一つをさらに三等分し最初の五日間を初候(一候)、次の五日間を次候(二候)、最後の五日間を末候(三候)として、一年間を七十二等分したものを七十二候という。
「七十二候」は、二十四節気と同様、それぞれの季節にふさわしい名を付けて時候の推移をあらわしたもの。一候の長さは、ほぼ五日間であるが、もともとは中国で考えられたものであるため、日本との季節の相違による不都合が生じ、江戸時代に入って囲碁棋士であり天文暦学者でもある渋川春海(※1参照)らによって日本の気候 風土に合うように改訂されたものが「本朝七十二候」である。そして、土用、彼岸などの雑節も設けられた(節季・雑節等については※2参照)。
因みに冲方丁による江戸時代に日本初の暦作りに挑戦した実在の人物安井算哲(後の渋川春海)の生涯を描いた時代小説『天地明察』が第31回吉川英治文学新人賞、第7回本屋大賞を受賞し、2年前(2012年)には、『おくりびと』の滝田洋二郎監督で映画化(主演は今人気のV6岡田准一)もされているので、このような暦にも興味を持つ人が増えたかもしれない。以下はその映画チラシである。映画あらすじなどは※3Movie Walkerを参照されるとよい。

上掲は「天地明察」の映画のチラシ。

今日は二十四節気の第15「白露(はくろ)」、八月節(旧暦8月の節気。新暦では9月8日頃~9月22日頃)にあたる。現在広まっている定気法では太陽黄経が165度のときで、例年9月8日ごろであるが、2014年は、9月8日である。
野の草に宿る白露(しらつゆ)も、秋の風情を感じさせるようになる頃。白露とは露(つゆ)の美称,で、露が玉のように白く輝いている様子をいう。夜の内、大気が冷え込むようになり、朝がた草木の葉先に水晶の玉のような美しい露が宿ることが多くなる。
『暦便覧』(著者:太玄斎他。※4参照)では、「陰気(いんき)やうやく重りて、露にごりて白色となれば也」と説明している。
日中はまだ汗ばむような暑さが残るが、この頃になるとさすがに朝夕僅に涼しくなり、日、一日と秋の気配が深まっていく頃。しかし、今年は例年異常に秋は早く来ているが、それにしても、白露とはいかにも日本的な美しい言葉ではある。
万葉集にも白露(しらつゆ)を詠んだ歌は多くある(※5参照)が、小倉百人一首第37番には文屋朝康の以下の歌が選ばれている。

「白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける」

上掲の画像は「百人一首」文屋朝康。

この「白露に・・・」(後撰308)の歌の、
【通釈】草の上の白露に風がしきりと吹きつける秋の野とは、緒で貫き通していない玉が散り乱れるものだったのだ。
【語釈】◇白露 大気中の水蒸気が葉の上などに凝結したもの。和歌では涙の喩えやはかないものの象徴ともなる。◇吹きしく 「しく」は「事が重なって起きる」意。◇つらぬきとめぬ玉 緒で通して留めていない玉。白い玉と言えば真珠を指すことが多かったようであるが、この歌では数珠を連想させられるので、玻璃珠(水晶玉)や白珊瑚の珠などを思い浮かべても良いか・・という。
【補記】草葉の上の白露が風に吹き散らされる情景を、玉の散り乱れる様に喩えている。
ただ、この歌は、寛平元年(889年)の「寛平御時后宮歌合」(※6、※7参照)、同5年の「新撰万葉集」に見える歌(参考※6の「寛平御時后宮歌合」の00090、「新撰万葉集」。00087参照)である。
後撰集の詞書に「延喜御時、歌召しければ」としているが、「延喜御時」は 醍醐天皇の御代(897年~930年)であり、後撰集の詞書には疑問がありそうだ。

文屋朝康(ふんやのあさやす)は、六歌仙中古三十六歌仙の一人縫殿助 文屋康秀の子。
是貞親王家歌合』(※6参照)の作者として出詠するなど、『古今和歌集』成立直前の歌壇で活躍している。
しかし、勅撰和歌集には、『古今和歌集』に1首と『後撰和歌集』に2首が入集しているに過ぎない。
宇多醍醐朝の卑官(階級の低い官)の専門歌人のようだ。歌の解釈等は以下も含め、参考※8:「千人万首」を参考。
冒頭に掲載の写真は葉の上の露。
後撰集にはもう一句、」「題しらず」として、以下の歌がよまれている。

「浪わけて見るよしもがなわたつみの底のみるめも紅葉ちるやと」(後撰417)
【通釈】わたつみは海のこと。波を分けて見てみたいものだ。海の底を見れば、みるめ(海松布)も紅葉して散っているのかと想いを馳せた歌。
【補記】紅葉した木の葉が散り始める頃、海底でも同じ様な現象が見られるのかと思いを馳せた歌。

そして、古今集には「是貞のみこの家の歌合の家の歌合によめる」歌として次の一首が掲載されている。

「秋の野におく白露は玉なれやつらぬきかくる蜘蛛の糸すぢ」(古今225)

【通釈】秋の野に置く露は玉だろうか。つらぬいて通す蜘蛛の糸すじよ。
【補記】蜘蛛の掛け渡した糸に白露が掛かっている情景を、緒に貫いた玉に見立てた。
是貞親王(これさだのみこ)は平安時代前期の皇族。光孝天皇の第二皇子。『新撰万葉集』の編纂に先立って宇多天皇より託されて、その元となる『是貞親王家歌合』の撰定を行っている。この歌合は寛平4年(892年)頃催された。

上掲の画像は、クモの網に結露した露。Wikipediaより。
露は木の葉、草の葉につくものである。他の物にも着くが、葉はある程度水をはじく性質があるため、水滴として視認しやすい。特に葉の先端や、鋸歯のある葉ではその突出部に大粒の水滴が見られることがある。また、クモの網に水滴が着くのもよく見られる。特に横糸には粘球があり、この粘球に露が追加される形で大きくなる。朝日を浴びると美しく輝くのが見られる。私の家でも庭木の蜘蛛の巣に露がついている時があるが、綺麗なものだ。

「百人一首」に採りあげられた「白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける」の歌の排列は、第37番歌。
百人一首では朝康が古今集歌人の最後に位置し、次の右近から後撰・拾遺集の時代に移る。
百人秀歌では38番目になり、一つ前の参議等の以下の「浅茅生の…」と合わされることで、恋歌の風趣を帯びる。

「百人一首」参議等
「浅茅生の 小野の篠原 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき」(後撰577 参議等)(百人秀歌では37、百人一首では39番、※9:『百人一首』・響き合う歌の心」の『百人秀歌』一覧)。

【通釈】浅茅の生えている野原の、篠竹の群落――その篠竹が茅(ちがや)の丈に余って隠れようがないように、忍んでも私の思いは余って、どうしてこうあなたが恋しいのでしょう。
【語釈】浅茅生(あさぢふ) 丈の低いチガヤ(イネ科の多年草)が一面に生えているところ。普通、人の手が入っていない荒れた草地を言う。◇小野 野。野原。「小(を)」はさして意味のない接頭辞。◇篠原 篠竹(細い竹の類)の群落。「原」は「三輪の檜原」(三輪山林)、「庭の萩原」(庭の萩の繁み)などと同じ用法で、ある植物が群をなして生えている場所の意。◇あまりて 忍びあまって。思いを堪えきれずに。◇人 ここでは歌を贈った相手の恋人を指す(※※8:「千人万首」のここ参照)

『百人秀歌』は、藤原定家の撰による歌集である。1951(昭和26)年、有吉保によって存在が明らかになったという。
同じく定家撰の『百人一首』の後に記された物であると言われている。『百人一首』が1首ずつ年代順に記されているのに対し、『百人秀歌』は2首で1組という構成になっている(※10参照)。

秋の晴れた空は高く澄み渡り俗に「天高く馬肥ゆる秋」ともいわれるが、夜が長くなり、月や星を賞でたり、読書にいそしむ・・・いわゆる「読書の秋」でもある。
慣れ親しんだ百人一首の後に記された『百人秀歌』定家が選んだ歌を2首1組で詠んでみるのも面白いかも・・・。
今年(2014年)の中秋の名月(十五夜)は、今日・9月8日(月曜日)でもある。
そして、明日9日は「重陽の節句」である。
食べることよりもお酒の方が大好きな私。今夜は月を見ながら「月見酒」。明日は風流を気取ってコレクションの中のお気に入りの大盃に菊の花びらでも浮かべて菊酒でもいただこうか・・・・。
「草の戸や 日暮れてくれし菊の酒」(松尾芭蕉
この頃は局地的に急に大雨が降ったりするが、今日・明日天気が良いことを願っている。

参考:
※1:渋川春海 - 国立科学博物館
http://www.kahaku.go.jp/userguide/hotnews/theme.php?id=0001347959426703&p=2
※2:みんなの知識【ちょっと便利帳】 - 二十四節気
http://www.benricho.org/koyomi/24sekki.html
※3:天地明察 | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv47754/
※4:国立国会図書館デジタルコレクション - こよみ便覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536637
※5:たのしい万葉集: 白露(しらつゆ)を詠んだ歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/nature/shiratsuyu.html.
※6:和歌 作品集成立年順索引
http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/index_era.html
※7:寛平御時后宮歌合(十巻本) - e国宝
http://www.emuseum.jp/detail/100161/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=2&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=9&num=5
※8:千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin.html
※9:『百人一首』・響き合う歌の心
http://homepage2.nifty.com/100-1/teika/HYAKUNIN/main.htm
※10:タイトルネーミングの由来 - 明日香の風
http://blog.goo.ne.jp/nose_yo/e/901fb5642870c6bebf67a7180d834618>http://homepage2.nifty.com/100-1/teika/HYAKUNIN/main.htm
こよみのページ
http://koyomi8.com/
国立天文台暦計算室 こよみ用語解説 二十四節気
http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/faq/24sekki.html
※NPO PTPL ・ PLANT A TREE,PLANT LOVE
http://www.plantatree.gr.jp/
露 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2


「エープリルフール」は新年度。今年は消費税アップの日。

2014-04-01 | 行事
4月1の今日は、何の日ですか?
そう聞いたら殆どの人は「エイプリルフール」(April Fool's Day)・・・と答えるだろうほどに、この日は有名。
興味のある日なので、私も「エイプリルフール」関連のことは、このブログで既に3度も書いている。
第1回目は「エープリルフール」のタイトルで簡単に。
第2回目「四月馬鹿」のタイトルで、横溝正史のデビュー作 『恐ろしき四月馬鹿』に絡めてのお話を。
第3回目は「ピノキオの鼻とうそ」のタイトルで、「嘘(うそ)」についての話を。
にもかかわらず、過去3回の中で、肝心のエイプリルフールの起源については書いていなかったが、いつ、どこでエイプリルフールの習慣が始まったかはよくわかっていないらしい。たた有力とされる起源説として、その昔、ヨーロッパでは3月25日を新年とし、4月1日まで春の祭りを開催していたが1564年にフランスのシャルル9世が1月1日を新年とする暦を採用した。
それまで慣れ親しんだ年初の概念を覆すシャルル 9世の突然の年初変更は、民衆の間には強い反発を生み出し、これに反発した人々が、4月1日を「嘘の新年」とし、馬鹿騒ぎをはじめた。・・・・これがエイプリルフールの始まりだと言われているようだが、あくまで仮説の域を出ていないようだ。
全国的な風習として、この日は一般に“軽いいたずらや、まことしやかなで他人をかついだり、無駄足を踏ませても良い日として知られており、騙された人のことを日本語では直訳で「四月馬鹿」と呼んでいる。
フランス語ではエイプリルフールを「プワソン・ダヴリル」(Poisson d'avril, 四月の魚)と呼び、子供達が紙に書いた魚の絵を人の背中にこっそり張る付けるいたずらをするそうだ。この『4月の魚』とはサバのことを指すと言われ、ちょうどこの頃にサバがよく釣れるためこう呼ばれるとされているようだ。
そういえば、エイプリルフールをあらわすフランス語からタイトルをつけた大林宣彦監督の同名タイトルの『四月の魚』(1986年)というラブコメディ映画があった(冒頭の画像はそのチラシ)。
映画の中で根本昌平(高橋幸宏主演)が万理村マリ(今日かの子)に、フランスでは4月1日を「ポワソン・ダブリル (Poisson d'avril)」といい、魚の形をしたチョコレートを贈ると恋愛が成就するという嘘をつくシーンがある。この映画の主題歌を担当したのは主演の高橋幸宏。映画と同名の主題歌『POISSON D'AVRIL -四月の魚』は出だしだけは日本がだがあとはフランス語で歌っているのでよく意味が解らなかったが良い曲であったので紹介しておきたい。以下がそれ。
POISSON D'AVRIL -四月の魚- / 高橋幸宏 - YouTube
フランス語の歌詞の部分が知りたいと検索していて見つけた。以下の参考※3:「近童弐吉プロデュース『四月の魚 Poisson d'avril』 - 閑人手帖」の「四月の魚」のフランス語歌詞部分の翻訳を参照。

いずれにしても今日「四月馬鹿」の日の話は、どこの誰がどこまでが本当のことを言っているか?
一応疑ってみなければ・・・。もし、それを真に受けて聞いているようなら・・・。ひょっとして、このブログだってどこまでが・・・ホントカナー?(¬з¬)

日本記念日協会(※1)に登録されている」4月1日の記念日で、「エイプリルフール」以外のものには、「第2の成人式」「資格チャレンジの日」「携帯ストラップの日」「釜飯の日」「オンライントレードの日」「あずきの日」「熊本甘夏の日」「トレーニングの日」などがあるが、「釜飯の日」は毎月1日が記念日なので、この記念日については、昨・2013(平成25)年9月1日に書いた。→ここ
それで、他の記念日について書こうかと思ったのだが、余り気が乗らなかったので、今日のような可笑しなタイトル“「エープリルフール」は新年度。今年は消費税アップの日。”なんて長いタイトルでで書くことにした。
4月の「1日」。この「1日」とは、暦上の各月における1日目であり普通は「ついたち」と読む。これ以外に「朔日」、「朔」とも表記し、朔日については「さくじつ」とも読む。
」とは新月のことであり、元は旧暦太陰太陽暦)の1日のことを指した。
旧暦の一日は、「朔」(新月)の日、つまり、月の1か月の旅立ちの日、「月立ち(つきたち)」が変化したものが「ついたち」だと言われている。
そして、旧暦四月一日を称して「綿抜の朔日」といった。
「綿抜」(わたぬき)とは、かつては、冬の間に防寒として着物に詰めていた綿を旧暦4月1日に抜いて、(あわせ)に縫いなおしたもの」をいった。要するに「更衣」(衣替え)である。そういえば、この「衣替え」についても2009(平成21)年に書いたのでそこを見てください(→ここ)。
そのようなことから、 「四月一日」「四月朔日」、と書いて「わたぬき」と読む姓も存在する。例えば、四月朔日 義昭(わたぬき よしあき。ギタリスト、作曲家、編曲家、プロデューサー)の如きである。同様に「八月一日」「八月朔日」と書いて、「ほつみ」或いは「ほづみ」と読む苗字も存在するらしい。この頃に実る早稲(わせ)は、当年最初の稲穂つまり初穂である。その穂を摘み、恩人などに贈る風習が古くから農民の間にあったことに因むもの。なお、この風習の詳細は2006(平成18)年に書いたブログ「八朔(はっさく)。田の実の節句」を見てください。
現在日本では、4月が政府機関や多くの企業などの新年度会計年度)とされており、この様な暦の年度と会計年度の2つの年度のあることに何の疑問も感じずに慣れっこになっているのだが、それが昔からそうであったかというとそうではない。
「会計年度」という言葉は無かったものの、国家の会計を1年間で区切る方法は、律令国家の段階から存在していたとみられ、7世紀末期には、「旧暦1月 - 旧暦12月制」が導入され、これに基づいた租税の徴収や予算配分などが実施されており、明治政府における「会計年度」も、明治元年(1868年)においては、従来の慣例に従って「旧暦1月 - 旧暦12月制」だった。今でもその習慣が残っており、年も押し迫った大晦日には、その年の借金の返済を済ませ、清々しい気持ちで新年を迎えるのが常識であったのだ。
日本で今のように暦年と異なった会計年度が生まれたのは、明治になり、その都度、財政状況の都合で年度の区切りが変えられてきたが、1882(明治15)年の壬午事変により、翌年から帝国海軍の拡充計画が進んだため、財政赤字の穴埋めの必要から明治18年度(1885年度)の酒造税を明治17年度(1884年度)に繰り入れしてしまった。
翌年度の税収を繰り入れてしまったこの状況を改善するには、明治19年度(1886年度)より酒造税の納期(第1期が4月)に合わせて年度変更するほかに方法がないことになり、明治17(1884)年10月に「4月 - 3月制」の導入が決定され、明治19(1886)年4月から実施された。つまり、明治17年松方正義により提出された「会計年度改定趣意書」上、形式的には会計年度を租税年度に適合させることを趣旨としているように見えるが、結局は、軍事費増強に対して、大蔵省のやりくりが破綻してしまった結果であったのだ。この辺の事情は、以下参考に記載の※3:「会計年度と財政立憲主義の可能性 -松方正義の決断」に詳しく書かれているので参照されるとよい。
会計原則の一つである発生主義に照らしても「会計年度は4月1日から開始するが、課税年度は暦年の1月1日から開始する」といった不自然な会計制度の変更は、まだ、民主主義的な政治が確立していなかった時代だからこそ成し得たことである。
インターネット百科事典『ウイキペディア』(英: Wikipedia)aによれば、会計年度の始期・終期を変更しようとする議論は、実際に変更がなされた以外にも明治時代から何度も提起されているらしいが、いずれも見送られており、1972(昭和47)年には当時の田中角栄首相が会計年度の暦年制移行を訴えたが、結局、大蔵省(当時)などの反対により暦年制への移行は実施されなかったという。
従って、我々の税金は課税年度(1月-12月)で徴収され、その所得配分である年度予算の編成は会計年度で行われているのである。
そして、会計年度の初日である今日4月1日は、政府機関や企業等で多くの制度変更や、新設、発足が行われ、個人レベルでも異動や新入学など大きな変化が起こる日である。
だから、私がこのブログで大いに利用させてもらっているWikipediaの4月1日の「できごと」を見ても、実にいろいろなできごとが見られる。ここ参照→4月1日-Wikipedia
だから、私も、過去の4月1日の出来事の中から、以下のブログを書いた。
「「新学年」。学年度始めの日」では、新学期の成立について。→ここ参照。
「明治政府が男子の満20歳以上を丁年(成年)と定める」では、明治政府がなぜ男子の20歳を成年と公的に定めたのかなどについて。→ここ参照。
「神戸市」誕生」では、我が地元神戸市誕生秘話を。→ここ参照。
「地域団体商標制度」スタートの日」では、全国各地で取り組んでいる差別化を図るための地域ブランド作りについて。→ここ参照。

これら過去の出来事の中には、当然、一番の関心事消費税の導入や税率のアップも含まれている。
消費税とは、消費に対して課される租税であり、特定の物品・サービスを課税対象とする個別消費税(※5のここ参照)と、原則としてすべての物品・サービスを課税対象とする一般消費税(※5のここ参照)とに分けられる。
また、納税義務者(※5のここ参照)と担税者(実際に税を負担する者。直接税[所得税・法人税・相続税など]では納税義務者と同一であるが、間接税[酒税・有価証券取引税など]では異なる。)とが、一致して消費者であることが予定されている直接消費税と、納税義務者が事業者であって租税負担の消費者への転嫁が予定されている間接消費税とに分けられる(詳しくは※6参照)。
さて、その消費税の歴史を簡単に辿ってみよう。

日本においては、戦前から戦後において物品税と言う消費税があった。
1937(昭和12)年に特別税法に規定された北支事件特別税(1938年から1940年まで支那事変特別税)の一つとして創設された物品特別税が前身となり、1940(昭和15)年に恒久法として物品税法が制定されて物品税となり、さらに1962(昭和37)年に全文改正が行われ今日にまで至っていた(物品税法の改定内容については※7参照)。
この物品税の特徴は2つあり、その一つは、この物品税が他の消費税と異なる点であり、課税対象が酒税や揮発油税のように1種類の消費財ではなく、物品税という単独税目の形態をとりながら課税対象が多種多様な物品に及んでいることであり、その意味においては、複数税的な特質を有している消費税であるといえる。
そして、もう1つは、Wikipediaにも記載されている。
間接税についての伝統的な考え方は、生活必需品に対しては課税を差し控え、贅沢品には担税力が認められるからこれを重く課税するというものである。
戦後の混乱期から高度経済成長を迎える日本においても、前述の考え方は一般的に肯定されていた。具体的には、宝石、毛皮、電化製品、乗用車あるいはゴルフクラブといったものが物品税の対象とされていた。日本の「物品別間接税」は世界に先駆けて導入され、現在欧米で導入されている間接税の物品別軽減税率は日本のこの間接税システムを真似したものと言われている。
物品税は低所得者でも購入せざるをえない生活必需品などが非課税になっており、かわりに高所得者が購入する贅沢品に課税されるという税制であるため、一億総中流社会の原動力になったシステムといえる。・・・・と。この考え方は、基本的に正しいだろう。

しかし、物品税は課税対象の品目をあらかじめリストアップしておく必要があるが、商品の多様化により生活必需品か贅沢品の判定自体が困難なものもあり、奢侈度で税率が異なっていたため、物品税そのものが執行困難性を内包する税制であった。また基本的には蔵出し課税であり、一部を除いてサービスなどには課税されない(問題点参照)。

このような背景もあり、1978(昭和53)年、第1次大平内閣時に、財政再建のため一般消費税導入案を閣議決定したが、総選挙の結果(大敗)を受け撤回。1986(昭和61)年 第3次中曽根内閣時には、「売上税」法案を国会に提出するが、世論の反発にあい廃案となる。
しかし、高齢化に伴う社会保障費用の増大に備え、経済活力を高め、安定的な歳入構造を実現するため、直間比率の見直しを含めた税制改革が必要との認識は定着してゆき、10年に及ぶ議論の末に1988(昭和63)年、竹下内閣時に、消費型付加価値税型である一般消費税導入(昭和63年12月30日法律第108号)が成立し、翌・1989(平成元)年4月1日に施行された。この時に、物品税は廃止され、土地や住宅家賃などの非課税資産やサービスを除き、幅広い資産の譲渡又は役務の提供が課税対象となった。
この時の消費税率は3%であった。当時ちょっとしたものを買おうと思えば20%ほどの税を負担しなければならなかったとき食料品など全商品に「広く浅く」掛けることになっても3%ぐらいなら国民も納得しようという気になった(当時の種別、品目別税率は、※※8を参照)。
その後、1994(平成6)年2月 - 細川内閣で消費税を廃止して福祉目的の税率を7%とする“国民福祉税”構想がマスコミなど世論の批判を浴びたため、即日白紙撤回した。この背景には、日米間の経済問題を協議する日米包括協議でアメリカは日本の内需拡大とそのための所得税減税を日本に求めており、所得税減税分を埋める財源確保の必要に迫られていたのであった。
高い支持率を背景にした連立政権の細川は就任当初から、行政改革、規制改革、地方分権、景気対策等の懸案に取り組んでいく姿勢を見せ、税制改革にも意欲を示していた。
また、 赤字国債を発行しないことが細川政権の公約の柱の一つだったこともあって、当時新生党小沢一郎代表幹事と大蔵省は財源を赤字国債に頼らず、消費税の増税に求めることにしたが、当時の社会党は消費税増税に絶対反対の姿勢であった。しかも、この構想は厚生大臣や官房長官にも知らせていないもので、政権内外の反発を呼び。翌日の連立与党代表者会議で撤回が合意されるに至ったのであった。そのため、日米首脳会談は決裂し、結局3兆円余の赤字国債発行を盛り込む平成6年度予算案が2月15日に編成された。
昭和55年度をピークに、その後は赤字国債発行額は減少。赤字国債依存体制脱却が財政目標となり、平成3年度(1991年)から平成5年度(1993年)まで、赤字国債の発行実績はゼロとなり、赤字国債依存体制から脱却していたのだが、この細川政権での減税特例公債(特例公債法参照)という名前で赤字国債の再発行が開始され、発行残高は200兆円を超えてしまった。以後平成10年度(1998年)から赤字国債の無制限発行体制へ移行し、今日のような結果を招くことになったのである(日本国債推移参照)。
当時野党に落ちていた自民党の執拗な東京佐川急便事件の追及に嫌気した細川は予算編成時に退任。これは野党に落ちた自民党の余りにも人気のあった細川政権への嫌がらせとも思われるが、それにマスコミが加担した感じであった。そして、細川政権は1年に満たない短命政権で終わった(※9。※10を参照)。
どうせ今頃8%の消費税を導入するなら、理想に燃えていた細川政権に“国民福祉税”構想をやらせていたら、本当に良いものが出来ていたのではないかと思うのだが、野党に落ちた自民党の嫌がらせ、自民党に味方して世間に反対をあおったマスコミ、いつもそんなマスコミに騙され続けている日本国民がつぶしてしまったといえるのではないかな~。
細川内閣の退陣後の羽田政権での「ワン・ワン・ライス」が主導する政権運営に強く反発した社会党が政権を離脱したため羽田政権は少数与党政権となり、内閣不信任決議が衆院に提出されて、自民党・社会党の賛成多数で可決される見込みとなったため、平成6年度予算成立後、自発的に内閣総辞職した(在任期間64日間であった)。
羽田内閣が総辞職後、政権復帰を目指した自民党(河野洋平総裁)は、社会党(村山富市委員長)・新党さきがけ武村正義代表)との自社さ連立政権を組み、村山富市社会党委員長を内閣総理大臣とする村山内閣(平成 6 年-平成 8 年)を成立。
細川政権時代から消費税率アップを強硬に反対していたはずの村山だが、自分が首相となった村山内閣にて、所得税を減税して消費税率を引き上げる「所得税法及び消費税法の一部を改正する法律」(平成 6 年法律第 109 号)を、平成6年(1994年)11月第130回国会で成立させた。
所得税は、累進構造が緩和され、人的控除の見直しによって課税最低限度が引き上げられ、そのかわり、消費税は、3%から新たに導入した地方消費税を含めて 5%(国 4%、地方 1%=国の消費税率の25%)に税率が引き上げられた。この時の消費税の増税は「福祉を充実させる」という名目であった。
この改正では一時的な国民負担を増やさないために、村山内閣の1995(平成7)年度から所得減税と社会保障支出増加が実施された一方、村山内閣で内定していた消費税等の税率引き上げと地方消費税の導入は、橋本内閣で1997(平成9)年4月1日より実施された。
所得税収、法人税収はそれぞれ1998(平成10)年度、1999(平成11)年度と減少し続けているが、法人税は両年にわたって、所得税は1999年度に減税が実行されている。他の先進国の基準にあわせる方向で、所得税は高所得者の負担が軽減、法人税は税率が引き下げられているため、減税による税収減も含まれている。
そして、この1997(平成9)年の消費税増税、健康保険の自己負担率引き上げ(10%→20%へ)、特別減税(所得税・住民税)廃止など、総額約10兆円の緊縮財政の影響や金融不況(アジア通貨危機の影響によるもの)の影響もあり、1998 (平成10) 度には名目GDPは前年度比マイナス2%の503兆円まで約10兆円縮小し、GDPデフレーターはマイナス0.5%に落ち込んで、深刻なデフレ経済が蔓延する結果になった。
産経新聞の田村編集委員は、消費増税を実行したせいで、増税実施の翌年から日本がデフレ不況に突入したことを指摘したうえで、消費増税を実施した1997(平成9)年度においては消費税収が約4兆円増えたが、2年後の1999(平成11)年度には、1997(平成9)年度比で、所得税収と法人税収の合計額が6兆5千億もの税収減にとなったと指摘し、消費増税の効果が「たちまち吹っ飛んで現在に至る」と評している。
さらに、「橋本元首相は財務官僚の言いなりになったことを亡くなる間際まで悔いていたと聞く。」と述べている.(2010年6月15日“【経済が告げる】編集委員・田村秀男 カンノミクスの勘違い (1/3ページ)”産経新聞)。また、2001(平成13)年に自民党総裁選挙に出馬した際、橋本は自身のホームページにて、財政再建を急ぐあまり経済の実態を十分に把握しないまま消費税増税に踏み切り、結果として不況に陥らせたことを謝罪している(岩本沙弓『バブルの死角 日本が損するカラクリ』2013年、集英社新書p.83)という。

ちょっと、下記の「消費税の逆進性と物品税1 - ISFJ日本政策学生会議」の図4「国税収入、消費税収入及び税収に占める消費税収入の割合」のグラフを見てください。
消費税の逆進性と物品税1 - ISFJ日本政策学生会議(Adobe PDF)
同図を見ると国税収入に占める所得税収入は減少しているが、消費税収入の割合が毎年じわじわとアップしている。所得税は所得が多い人ほど税金が高く、所得の低い人ほど税金を支払わなくていいという累進性を持っている。
それに対して、消費税が3%の1990年と1995年は所得の大小に関わらず消費税負担率にさほど変わりはなかったが、消費税が5%に上げられた後の1999年と2002年は見事に右下がりのグラフであり3%時より逆進性が強まっている。税率が2%上がっただけで負担率は1%上昇し差が拡大しているのである。このグラフを見ても分かるように、今後もし消費税のアップをすると、消費税負担率の問題はもっと深刻化し、逆進性もより強くなるだろうということを考えなければならないし、単に税収を増やす為の増税ではなく、国民の負担を如何に軽減すべきかを考えないといけないことが分かるだろう。
そのようなことから、今後の消費税率引き上げに関する議論の中で、「複数税率が必要」という議論が出てきた。つまり、一般の商品やサービスの税率とは別に、生活必需品に対する税率を軽減税率ないしゼロ税率とし、複数の税率を設定するというものである。

その後の日本の消費税論議は民主党によって起こる。民主党は2009(平成21)年の衆議院総選挙において、消費税を4年間は引き上げないとの公約を掲げて圧勝した。しかしながら、政権獲得後の翌2010(平成22)年には消費税引き上げを示唆し始め、直後の22回参議院選では大敗を喫する。それにもかかわらず、野田首相は2011(平成23)年11月の主要20カ国・地域(G20)首脳会議では、財政再建のために消費税率を10%に引き上げるとした。
消費税増税は2011(平成23)年6月に民主・自民・公明の3党による「社会保障・税一体改革成案」で決定し、与党内での協議を経て、消費税を2014(平成26)年4月1日より8%、2015(平成27)年10月1日より10%へ段階的に引上げを行うことを明記した「社会保障・税一体改革大綱」(※11参照)を2012(平成24)年2月に決定した(消費税増税問題参照)。
その後、社会保障・税一体改革の関連法案が国会へ提出され、国会にて審議が開始された。審議が続けられる中、2012(平成24)年6月8日から6月15日まで民主、自民、公明の三党による修正協議が行われ、この三党合意を基にした消費税増税法案を含む関連法案が同年6月26日に衆院本会議にて、同年8月10日に参院本会議にて可決された。社会保障改革については、子ども子育て分野など、一部のみ可決され、残りの社会保障改革の多くの分野については「社会保障制度改革国民会議」で議論されることとなった。
その後政権交代などがあったが、「社会保障制度改革国民会議」での議論は、2013年8月5日に報告書(※2参照)として取りまとめられた。
ただ、この2014(平成26 )の消費税率を8%に引き上げるべきか否か-。「総理は本当に悩んでいた…」。ある政府関係者はこの報告書の出来た昨年8月下旬の安倍晋三首相の様子をこう振り返る。その迷いの背景にあったのは、政治が長く払拭できなかった「平成9年のトラウマ」だった。安倍首相はこのトラウマに終止符を打とうとした。そのために何としても「デフレ脱却」の道筋をつける必要があった。そこで、「企業減税→賃上げ→家計の消費拡大」の好循環でデフレ脱却を図ろうという政治的メッセージを示した。
そして、ある日銀首脳は、平成9年の消費税増税前後と現状を比較し、「金融システムの安定度が全く違う。増税しても景気の腰折れはない」と断言。17年前とは経済環境が違うし、打つべき手も打った。デフレ脱却への手応えを得て、首相は増税への「断」を下した。・・・と(※13参照)。

しかし同時期に「苦心の経済対策とのセットでようやく決まった消費税率引き上げだが、少子高齢化で増大する社会保障費の財源の手当てや財政再建という消費税増税の本来の目的を果たせるのか、疑問視される。社会保障制度改革の遅れや5兆円規模の大型経済対策の追加で、昨年の自民、公明、民主の3党合意時点とは大きくシナリオが変わったためだ。
消費税増税は社会保障費の安定財源確保が目的で、3党による「社会保障と税の一体改革」の中で決まった消費税に関しては、既に、「年金、医療、介護などへの給付費は平成24年度予算ベースで約110兆円。これに対し、財源となる社会保険料などは60兆円程度。差額のうち40兆円を国税、地方税、国債発行(借金)でまかなっている。国の税収が40兆円台で推移する中、社会保障関係費は今後も毎年1兆円規模で膨らみ続ける。大和総研の市川正樹主席研究員は『負担と財源の差が毎年約1兆8千億円広がってきたことを考えると、消費税率が10%になっても7年程度で食いつぶす」との指摘もあった(※14参照)。
又、「社会保障制度改革国民会議」報告書については、総論および少子化対策、医療・介護、年金の各論で構成されているが、日本総合研究所では、これらの主なポイントを整理するとともに、評価を試みているが、例えば、医療については、医療提供体制の改革について、これを医療提供側の自主性にほぼ任せており、報告書の目指すところが実現するのか不透明である。消費税収が医療機関へのばら撒きとなる危険がある。又、現在は市町村が保険者となっている国民健康保険(国保)の都道府県への移行について、財政責任の軽くなった市町村のインセンティブ低下も懸念される。そして、医療保険財政全体の長期的な持続可能性に対する関心が希薄な点もある。他にも、年金に関して殆ど時間が割かれておらず、報告書もそれを反映している。そのなかで、年金財政健全化に向け、政府に決断を迫っている、また、わが国の年金制度体系は、依然として 60%を割り込んでいる国民年金保険料納付率、第3号被保険者制度に代表されるように今日の家族・就労形態と必ずしも合致しない仕組みなど抱える課題は少なくないものの、報告書は、制度体系のあり方については解を示せていない。…といったことが指摘されている(※15参照)。

自民、公明両党は、昨年12月12日に「2014年度(平成26年度)「与党税制改正大綱」を正式決定した。ここで先にも書いた低所得者の税負担率を低減するため、消費税に欧州のような「軽減税率」が導入されることとなった。ただ、導入時期は「消費税率10%時」と記すにとどめ、以下のようなあいまいな書き方となっている。
消費税の軽減税率制度については、「社会保障と税の一体改革」の原点に立って必要な財源を確保しつつ、関係事業者を含む国民の理解を得た上で、税率10%時に導入する。このため、今後、引き続き、与党税制協議会において、これまでの軽減税率をめぐる議論の経緯及び成果を十分に踏まえ、社会保障を含む財政上の課題とあわせ、対象品目の選定、区分経理等のための制度整備、具体的な安定財源の手当、国民の理解を得るためのプロセス等、軽減税率制度の導入に係る詳細な内容について検討し、平成26年12月までに結論を得て、与党税制改正大綱を決定する。・・・と。(※16「平成26年度 税制改正大綱」6ページ参照)
そして、何故か、経団連は企業側の利益追求団体であるのに、最近では消費税の増税に賛成意見を述べるようになってきた。過去に消費税の増税が行われた際には、すべからく消費を減退させて景気を冷え込ませている。にもかかわらず、なぜ経団連は、売上減少が確実である増税に賛成するのだろうか?
そしてこの消費税の複数税率についても、平成25年度与党税制改正大綱において「本年12月予定の2014年度与党税制改正決定時までに、関係者の理解を得た上で、結論を得るものとする。」とされているが、以下の理由により、複数税率制度は導入せず、単一税率を維持すべきであるといろいろ理由を挙げて消費税の単一税率にこだわっているI(反対の理由等は※17参照)。これはなぜなのだろうか?
これに対しては、先にも挙げた金融コンサルタントで大阪経済大学経営学部客員教授 岩本沙弓さん(※18参照)の『バブルの死角 日本が損するカラクリ』(2013年、集英社新書)「第一章 消費税というカラクリ」(※19参照)に書かれているように、「輸出還付金」(正式には「輸出免税」=「輸出戻し税」による益税)というものがあるからなのである。
消費税法7条に、「本邦から輸出として行われる資産の譲渡又は貸付については、消費税を免除する」という規定があり、消費税が免除されている。これが「輸出免税」といわれる規定である。そのカラクリ(還付の仕組み)は以下参考の※20:「輸出企業に消費税が還付されるしくみ」を見られるとよい。このしくみを利用し、例えば、2003 年分輸出上位 10 社の輸出戻し税(還付税額)の試算をすると、
、輸出大企業には巨額の消費税が還付され、トヨタ自動車1社で輸出割戻し税は1710 億円、輸出上位 10 社で 6842 億円にもなるという(※20表 1参照)。
これは2003年のものだから10年も前のこと、この優遇税制が改善されたという話は聞かないので、今ならその額は1兆円にもぼるのではないだろうか。「広く浅く国民全体から集めたお金を特定企業に渡してしまうわけであるから輸出大企業優遇制度とも言えるだろう。
大多数の国民に向けては、「増税しなければ、社会保障費がパンクする」「日本の消費税は国際的に非常に低い」と言い募り、消費増税がやむを得ないような空気を醸成し、集めた税を大企業へ補助金として出す。消費税率が上がれば上がるほど、大企業の「益税」は増え、中小下請け企業の負担は増えていくのである。
安倍首相は経団連に対して、この隠れた企業優遇税は別にして、消費税率引き上げと同時に打ち出した経済対策は「企業優遇」に重点が置かれた。企業がため込んだ手元資金など280兆円にのぼる内部留保を賃上げや設備投資に向かわせ、消費、雇用の拡大を生む好循環につなげるにはまず経営者に行動を促す仕掛けが欠かせないと判断したためだが・・・実効性をどれほど上げられるか。
今年安倍首相は2014年度税制改正大綱では、2014年度末までとされていた復興特別法人税を1年前倒しで廃止する、「民間活力の活用」などの口実に大企業の交際費や設備投資に減税するとしている。また、財界が強く要求した法人実効税率についても引き下げを検討するとしている。
安倍首相は経団連に対して、賃上げ要請をした・・・。これにこたえてというか輸出大企業がほんのわずか従業員の賃上げをしたようだが、円安の影響で莫大な為替差益も出している企業にとってはお愛想のようなものであろう。
経団連はマスコミを通じて、消費税増税のプロパガンダ戦略を打ちだしている。テレビや新聞に「消費税増税やむなし」という報道をさせる事で、国民に増税が必要な事であるかのように洗脳し、法人税減税などの必要性への布石もしている。大スポンサーの広告がなくては困るテレビや新聞は、彼らの意向に沿うような報道しか行わないので、メディアは増税やむなしという報道一色になっていた。これに多くの庶民が洗脳されている。

先にも書いた金融コンサルタントの岩本沙弓さんは、PRESIDENT2013年9月30日号:米国が今も消費税を導入しない「もっともな理由」(※21参照)で今回の「消費税の集中点検会合の人選はあまりにも偏向しすぎではないか。特に最終日の8月31日の第2回目の経済・金融の有識者の会合のメンバーに、増税そのものへの反対を明確に唱える人は1人もいなかった」。・・「これでは増税を実施するか否かの判断ではなく、増税を前提にその方法論が話し合われているだけである」・・・とあきれ返っている。そしてこの中で、
「財政難の米国がいまだに消費税(付加価値税)を採用していないことは、意外と知られていない。米国が採用しているのは通称州税といわれる小売売上税で、消費税とはまったく違うタイプの税制だ。
実は、米国議会では過去何十年にもわたって、付加価値税の導入について議論が持たれてきた。法人税や所得税に代表される直接税に比べて、消費税・付加価値税など間接税が優れているとは見なせないという理由で採用は見送りとなっている。ちなみに、米国の国税における直間比率は9対1だ。付加価値税の場合は特に、輸出に還付金が渡され、輸入には課税される点、法人税引き下げとセットにされやすい点などが議論の焦点となってきたことが米公文書に多く残る。」。。。という。
「例えば法人税がなぜ有効で、消費税・付加価値税と代替させるべきではないと考えるのか。1960年代の米財務省の報告書には、すでにこんな記述がある。
消費税は売り上げにかかるために赤字の企業でも支払いの義務が生じるが、「赤字企業が法人税を支払わなくて済むことは、その企業にとっても経済全体にとっても有効である。たとえどんなに効率的で革新的な新規ビジネスであっても、収益構造が確立するまではある程度の時間がかかる」とし、さらに仮に、赤字の繰り越し機能付きの法人税をなくし付加価値税を導入するほうが、付加価値税なしで高い法人税を設定するよりも企業を助けるという前提について「これでは急激な景気後退局面では、たとえ効率的な企業であったとしても、単に一般需要が落ち込んだという理由だけで多くの企業が赤字企業となってしまう」と記す。こうした記述を見るにつけ、米国はやはりフロンティア精神の国家なのだと認識を新たにする。新しい挑戦の芽を潰すことはしない、それが消費税・付加価値税採用を見送り、法人税に依存する理由とするのはいかにも米国らしいではないか。」と、そして、最後に、
「アベノミクスが成長戦略にベンチャー企業の育成を掲げるなら、法人税こそ引き上げ、消費税は凍結、あるいは引き下げが筋というものではなかろうか。」・・・と提言しているが私もそう思う。
政治家の決まり文句は「日本は世界に比べて消費税率は低い」であるが本当にそうなのだろうか?なにか疑問が残りそう(※22参照)。
消費税率が高い北欧諸国は、高福祉・高負担を国民が選択した結果である。日本の場合、年金や医療への国民の期待は大きいものの、先ずは消費税増税前に、行政改革の余地が大きいとの見方が強く、消費税率の引き上げについての世論は割れている。仮に消費税率の改定を行う際には、国民の批判が強い税金の無駄遣いを正し、国民負担と政府の役割についての国民的な合意を形成した上で、財政と社会保障が持続するための負担増に理解を求めているか?
負担増においては、消費税だけではなく、所得税や法人税を含めた税制全体を見直し、公平と活力の両面から望ましい税制を構築する必要があるのだが・・・・。
多くの国民は安倍政権の経済政策「アベノミクス」の効果を実感しているどころか、消費税増税でさらに支出を切り詰めようとしている。所得や雇用は改善しているとは言えず、増税前の駆け込み需要の終わった4月から消費が冷えこめば経済が悪化し財政の足も引っ張られるのではないか。円安で物価も上がり、医療費から何から何まで値上がりしているときに増税し、年金の支給などは引き下げられる。こんな状況の時に消費税増税は、暮らしと経済をいよいよ破壊して行くのでは・・・。
今は、増税よりも税収がどれだけ必要なところに正しく使われているか・・・その使われ方をもっともっと厳しくチェックした上で、経済の活性化に集中すべきと思うのだが・・・。何か、政治家や官僚が信用できないのである。
最後に、「政治にとって何が大事な問題なのか」・・・。
論語』の顔淵第十二の中に孔子とその弟子の子貢の次のような会話があるので書いておこう。尚、顔淵(がんえん)とは子貢同様孔子(孔丘)の弟子(孔門十哲の一人で随一の秀才)顔回のこと。字(あざな)は子淵(しえん)である。
【原文】
子貢問政。子曰。足食。足兵。民信之矣。
子貢曰。必不得已而去。於斯三者何先。
曰。去兵。子貢曰。必不得已而去。於斯二者何先。
曰。去食。自古皆有死。民無信不立。
【読み下し】
子貢(しこう)、政(まつりごと)を問う。子(し)曰(いわ)く、食を足らし、兵を足らし、民(たみ)之(これ)を信ず。
子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯(こ)の三者に於いて何をか先にせん。
曰(いわ)く、兵を去らん。子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯(こ)の二者に於いて何をか先きにせん。
曰く、食を去らん。古(いにしえ)より皆な死有り、民、信無くんば立たず。
【通釈】下村湖人(1884~1955)の『現代訳論語』による。
「子貢が政治の要諦についてたずねた。先師はこたえられた。食糧をゆたかにして国庫の充実をはかること、軍備を完成すること、国民をして政治を信頼せしめること、この三つであろう。子貢がさらにたずねた。その三つのうち、やむなくいずれか一つを断念しなければならないとしますと、まずどれをやめたらよろしゅうございましょうか。先師――むろん軍備だ。子貢がさらにたずねた。あとの二つのうち、やむなくその一つを断念しなければならないとしますと?
先師――食糧だ。国庫が窮乏しては為政者が困るだろうが、昔から人間は早晩死ぬものときまっている。国民に信を失うぐらいなら、飢えて死ぬ方がいいのだ。信がなくては、政治の根本が立たないのだから」
(原文・読み下し、通釈等は以下参考の※23:「Web漢文大系:論語」の顔淵第十二 7参照)
ここでは、「食の確保」は現代でいうと「社会保障とその資金源の税金・社会保険料の確保」の問題を含む。だが孔子はそれよりもなお政治に対する信頼が重要だというのである。解釈を加えるならば、税金の増減よりも税金が正しく使われるかどうかということに対する信頼の方が重要だということになる。・・・、政治家はどう読むのだろう。


「エープリルフール」は新年度。今年は消費税アップの日  参考へ