今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

六斎日(Ⅰ)

2010-03-30 | 行事
今日は「六斎日」
「六斎日」は、仏教で、持戒(戒律参照)して慎むべき日とされていた日。
斎日は、身・口(く)・意の三業(さんごう。参照)を清浄にしてものいみ(斎=い)する日をいい、月のうち、8日、14日、15日、23日、29日、30日の6日いを慎むべき日としており、この6日を六斎日とし、前半の3日と後半の3日に分け、それぞれの3日を三斎日と称したようだ。
これは、中国の唐代に百丈懐海(ひゃくじょう えかい)が制定した禅宗叢林(そうりん。寺院のこと)の修道生活を律した規範である禅門の規範(清規)『百丈清規』によると、隋の開皇3年(583年)からは、皇帝の命で正月・五月・九月の三斎月および六斎日には祈祷道場を建てて祈り、殺生をしないようにというおふれを出したということが書かれているそうだが、これは、インドにおいて、古来からこの六斎日には鬼神が人を追って命をうばったり、病や悪い事をする悪日なので、身を慎み、沐浴・断食をして過ごす風習が行われていたが、この風習が仏教にも受け入れられて六斎日には八斎戒を守るようになったのだという。(以下参考の※:「仏事Q&A其の四十一」参照)
これが日本に伝わったものだが、六斎日の歴史は古く、文献上では、日本書紀持統天皇の条に六斎日が見られ、持統5年(691年)2月、公卿らに詔して六斎を行わせた・・・ともいわれているようだが、続日本紀の天平13年(741年)3月乙巳(24日)に、聖武天皇の詔(以下参考の(※:続日本紀(朝日新聞社本)、 ※:市川歴史散歩・国分寺・国分尼寺の世界の『続日本紀』巻第十四参照)にも見られる如く、律令制における令にもこの日は殺生を禁じる規定があり、出家したものは布薩説戒を行い、在家のものは八斎戒を守ることとしていたようだ。
この六斎日にちなんで月に6回行われる市が「六斎市」、月に3回行われるものは「三斎市」と称されるようになったのだが、このことに関して、以下参考の※:「仏教談議 法話 聖徳太子 推古天皇 蘇我氏 日本書紀」のなかに以下のように記されていた。
「推古九年(601年)春三月、三と八の日に、三輪の里に市をたてる。これより毎月六度の市(いち)がひらき、これを六斎市(ろくさいいち)とよんだ。わが国の商業の始めである。」・・・と。
日本の律令制は、概ね7世紀後期(飛鳥時代後期)から10世紀頃まで実施されたが、そのうち、8世紀初頭から同中期・後期頃までが律令制の最盛期とされている。6世紀末期から7世紀初頭の推古天皇の時代に、律令制を指向する動きがあったとする見解があり、確にこの時期に冠位十二階の制定などの国制改革が行われたが、政治・社会体制を大きく変革するものではなかった。当時の朝廷は、との交渉の中で、律令制とその基本理念を知る機会はあった(遣隋使の恵日らが623年に帰国したの律令制について報告を受けている)だろうが、それを実行に移す能力は未だ朝廷に備わっていなかったと思われる。しかし、推古9年(601年)には、三輪の里に六斎市が立っていたというのである。
奈良県桜井市の南東部にそびえる三輪山(みわやま)は、縄文時代又は弥生時代から、自然物崇拝をする原始信仰の対象であったとされている。古墳時代に入ると、山麓地帯には次々と大きな古墳が作られていることからこの一帯を中心にして日本列島を代表する政治的勢力、すなわちヤマト政権の初期の三輪政権(王朝)が存在したと考えられている。『記紀』には、三輪山伝説として、桜井市にある大神神社の祭神・大物主神(別称三輪明神)の伝説が載せられている。太古より神宿る山とされる三輪山そのものが神奈備神体山)であることから、大神神社は本殿を持ってない。
そんな三輪の里に推古9年(601年)市が立ったという。週間朝日百科「日本の歴史 47号」によると、古代、モノが商品として交換されるには、ある条件を備えた場が必要であったという。つまり、モノとモノとが交換されるということは、ある特定のモノであることから一旦離れなければならず、そうでなければ、モノは、贈与・互酬(互いに物品や役務などを交換すること)の関係、人間関係から離れられないと考えられていたようで、「市場」は、古くから、日常のモノから離れた無縁の場として設定されてきたようだ。つまり、「神の支配する場」市場に持ち出すことによって物品は俗界の縁から切れた「無縁」のもの「聖なる」世界のものとなり、相互に交換することが可能になると勝俣鎮夫(2000年静岡文化芸術大学教授)は「市と虹」の中で述べているという。
中世の史書や貴族の日記には、虹の立つところに市を立てなければならないと言う慣行が存在したと記されているそうだ。世界の多くの国の民族神話として「虹」は、天と地との間の橋との認識をもっているようだが、日本でも「虹は天国から地上に向かって出る」「虹は天の橋」等の伝承があり、『日本書記」『古事記』の創生神話(日本神話参照)に見られる』「天の浮橋(あめのうきはし。天沼矛参照)」を虹と解することが可能であり、天神が虹を通って下界へ降りてくる・・。つまり、虹が天界(他界)と俗界とを結ぶ橋・・と信じられていたようだ(以下参考の※:「Iris〔イーリス〕」参照)。そうなれば、虹の立つところは天界と俗界の境にある出入り口で、神々の示現する場であり、そのため、虹の立つところでは神迎えの行事をする必要があり、その祭りの行事そのものが市を立て、交換を行なうことであったらしい。
日本の市の起源は、主としてその語源を探ると、身を清めて神に奉仕する「斎(いつき)」と言う語に結び付けられており、「斎(いつ)く地(ち)」が「イチ」と縮んだとされているようで、この語源説が妥当性を持っていることは、中世の市が三斎・六斎という「斎日」に立てら、「三斎市」「六斎市」といわれたのも、この日が天界から四天王が、下界に下りてくる日とされたからであり、平安時代中期の作とされる『枕の草紙』には「おぶさの市」と言う市名があげられているが「おぶさ」は虹をさす言葉であり、当時に、虹の市が現実に存在していたことになる。そのほか、古代の市には「阿斗桑(あとくわ)の市」・「海石榴(つば)市」など木の名を冠した市が多く見られるが、『枕草子』第11段“市”には以下のような市の名が書かれている。
“市は、辰の市。里の市、海柘榴市。大和にあまたある中に、泊瀬に詣づる人のかならずそこに泊るは、「観音の縁のあるにや」と、心ことなり。をふさの市。飾磨の市。飛鳥の市。 ”・・と(以下参考の※:「古典文学講座 『枕草子』の世界」 より)。
この木と市の関係も虹と市との関係と同じで天に向かってそそり立つ大木が、天の神々が降りてくる神の依代(よりしろ)とされ、そこが、虹の立つ場と同じく天界と俗界の境界領域とされ、固定的な市の立つ場となった。同じく、市と密接な関係をもち、イチコ・イタコなどと呼ばれる巫女も、この観点から言えば神を呼び出す媒体としての役割を担っていたことになる。このように、原始的な市は神々がこの世に現れる場であることがその本質であり、交換する場である市としての機能は、その非日常的で特殊な空間という特質と深く結びついていたものであったようだ。古代の市はたんに売買としての場としてのみ存在していたのではなく、神の存在を前提として種々の機能をもっていたが、市本来の売買を含めた広い意味での交換機能を持っていたことは言うまでもない。見知らぬ男女が歌をかけあうことを通して求婚する歌垣は市で行なわれることが多かったようだ。又、市の状況がそこにある木と結び付けられて万葉集にも歌われている。
「海石榴市の八十のちまたに立ちならし結びし紐を解かまく惜しも 」 (巻十二-2951)
「八十(やそ)のちまた(街)」とは、たくさんの道が分かれるところを指し、人びとの行き交う交差点であり、人の集う広場でもある。意味は、“海石榴市(つばいち)のいくつもの分かれ道で地をならして踊って、せっかく結び合った紐を、解いてしまうのは惜しいことだ”と言った意になるのだろう。「結ぶ」はイワウ」とも読み、「祝う」に通じる言葉でもある。『万葉集』には紐の歌は約50首にものぼるというが、紐を結ぶことには、紐の結び目に想い(魂)を込めるの呪術的な祈りがあり、歌垣で紐を結びあうのは、結婚の約束である。
以下参考の※:「神話の森・>歌語り風土記海石榴市」又、※:「万葉散歩>奈良県桜井市金屋、海石榴市、歌垣」にもあるように、 海石榴市(つばいち)は、わが国最古ともいはれる市で、三輪山の南麓の初瀬川べり(桜井市金屋)にあったそうで、海石榴市とは椿市の意味で、山の民が持参した山づと(土産)の椿の木を市に植ゑ立て、山姥(やまうば、やまんば)がまづ鎮魂の歌舞をして、里の民と交流したものが起源といはれているようだ。「八十のちまた」と謡われているように、四方八方から主な街道がこの地で交わり、山全体が御神体という「三諸(みもろ)の神」(三輪山のこと。参考の※:「やまとうた」の千人万首-高市皇子の歌参照)の麓という土地柄もあって人が集まりやすく、ここで物の交換が行なはれ、やがて市として発展していったようだ。市は、歌垣の場でもあり春と秋に、若い男女が出会いを求めて海石榴市に集まってきて恋の歌のかけ合わせ(片歌の交換)をして、男性が首尾よく女性の名前を聞き出せば結婚の了解を得たことになった。
そんな、市は単なる未婚の男女だけでなく既婚の男女の交歓も許された場であったようだ。このような交歓も広い意味での交換と捉えれば、市場に入った人達はすべて自由な交換可能な人間に転化すると考えられていたようだ。「市場」は「市庭」とも書かれるが、目に見えない力に支配された"庭"でもあったわけだ。

六斎日(Ⅱ)へ続く

六斎日(Ⅱ)

2010-03-30 | 行事
モノの交換は魂を含んだ媒介として、交換者相互の関係を規定すると考えられていたことから、その所有者と所有者の関係を絶つためにいったん神の物にすることが必要とされていたのでありその場が市であった。百済の使者が来日して敏達天皇にその身につけていた鎧を贈ることを申し出た際、天王が、阿斗桑(あとくわ)市でそれを受納することにしたのは、この市空間の「祓い」「清め」の機能を利用したのだという。又、古代では、この市での、交換・売買そのものが神を喜ばせ神を祝う祭りであるという概念はこのような交換の論理に基ずくものであり、、古代では、「買う」という語と物を神に差し出して罪をつぐなう「贖(あがな)う」が同音同意の語として用いられ、さらに「贖う」が祓いの一部として使用されていたことは、人と人との交換に先行して、人と神の交換が交換の本質として存在していたこと明確にものがたっているっという。(週間朝日百科「日本の歴史 47号」)。
先に、海石榴市のところで、“山姥がまづ鎮魂の歌舞をして、里の民と交流したものが起源”とあったが、山姥は仏教の奥深い教えを悟った「鬼女」とも云った。この山姥は、三輪山説話に基づきつくられた能 「三輪」に出てくる三輪明神が化身した女ではないか。
三輪山の大神神社の祭神・大物主神(別称三輪明神)は男神であり、三輪の神婚説話では三輪の神は男性の姿となって人間の女性と契りを結ぶが、能では三輪の神は女性の姿で登場し、男(玄賓)に救いを求める(以下参考の※:「能楽ライブラリー/能 三輪」参照)。
大物主神の大物の”モノ”は仏・神・鬼・魂など、霊妙な作用をもたらす存在。妖怪、邪心、物の怪。をさす言葉でもあり、大物主は、それらもろもろのモノの首領つまり、八百万の神のということだろう。三輪の神・大物主神が姿を変えて通ったといわれる倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと。孝霊天皇の皇女)の墓は三輪山の麓・箸墓古墳に葬られており、邪馬台国を治めたとされる卑弥呼に比定する説もある。近年はこの説がかなり最有力の説となってきているという。
魏志倭人伝』によると、卑弥呼は邪馬台国に居住し、鬼道(ここ参照)で衆を惑わしていたという。
三輪山の三輪の神婚説話、能の「三輪」など日本神話の国生みの話などと非常に関連していることが分る。長くなるので、この話はこれくらいにするが、三輪山と大神神社の話は、以下参考の※:「大神神社」など参考にされるとよい。
海石榴市に隣接して流れる初瀬川は大和川の上流で、大阪湾から大和川をさかのぼり多くの物資が運びこまれていた。又、ここは各国からの使節を迎え入れる国際的な玄関口でもあった。当然このような多くの人や物資が行き交うところに「市」がたち、市場には多くの人が集まるようになり各地の物産を売る露店が軒を連ねることになるのであるが、律令制下では、都である平城京・平安京などに官設の東・西の市が置かれ、全国の民衆から徴収された調(ちょう)や庸物(ようもの)(租庸調参照)の余剰分が放出され、役所や寺社、貴族たちが必要物を求めたり換貨していたようであった。市場は物品の交換をする聖なる場ではあったが、そこで行われた交易の収益は初尾(はつお。初穂と同じ)として、神に捧げられていた。古代においては、これは一種の交易税・年貢的な役割も果たしていたようだ。
中世以降、自足経済が余剰生産物を増すにつれ、平安時代には交通上の要地や門前町などにはじめは斎日に由来する三斎市や六斎市が定期的に開かれるようになるが、後には、斎日とは関係なく開かれた。三日市、八日日市など定まった市日をもつようになるが、鎌倉時代の多くの定期市は三斎市で、貨幣経済の発展に伴ない南北朝には六斎市が現れ、応仁の乱後には農村でも六斎市が開かれ、戦国大名もこれを保護、奨励したが、畿内では商業が発展し定期市は衰えていった。
冒頭画像は、一遍聖絵より、信濃の国佐久郡伴野の市場。市は、この当時、五日市、八日市などのように日を定めて行なわれていたことから、普段は閑散としている。絵は、一屋を借りて念仏修業する一遍たち。すると、中空から紫雲があらわれたという。一遍達が市場などで念仏を行なったのは、市の“聖なる”場としての特性ともかかわっていたからであろう。
直、念仏踊りに、六斎念仏があるが、これは、空也や一遍など回国僧によって全国に広められた念仏踊りであるが、各地の民族舞踏と結びついて芸能化したものだといわれている。六斎念仏は、本来、自戒して慎むべき日とされた六歳日に行われる念仏踊りであったが、彼岸・盆・法事の折などに行なわれるようになった。江戸時代の京都では、盆中の六斎念仏が盛んで、近郷の者が郷ごとに組を作って町中をまわったようだ。したがって、これらの六斎念仏と本来の六斎日との関わりは全くないようだ(以下参考の※:壬生六斎念仏)参照)。
(画像:一遍聖絵より、信濃の国佐久郡伴野の市場。歓喜光寺蔵。週間朝日百科「日本の歴史 47号」より)

参考:
※:仏事Q&A其の四十一
http://www.good-stone.com/hp/top/qa/qa-41.htm
※:続日本紀(朝日新聞社本)
http://www.j-texts.com/sheet/shoku.html
※:市川歴史散歩・国分寺・国分尼寺の世界
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/8209/mania2.htm
※:仏教談議 法話 聖徳太子 推古天皇 蘇我氏 日本書紀
http://www.kannon-in.or.jp/kanji/bu-dangi/bu0203.htm
※:古典文学講座 『 枕 草 子 』 の 世 界
http://www.daito.ac.jp/~hama/m000.html
※:能楽ライブラリー/能 三輪
http://home.catv.ne.jp/dd/seion/library-7.html
※:大神神社
http://www.7kamado.net/omiwa.html
※:むかし村 楽市楽座のこと
http://mukashi.jp/mura/30rakuithi/ichi/setumei1.html
※:たのしい万葉集: 衢(ちまた)
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/terms/chimata.html
※:万葉散歩>奈良県桜井市金屋、海石榴市、歌垣
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/33.htm
※:神話の森・神話の森 >歌語り風土記海石榴市
http://nire.main.jp/rouman/fudoki/34nara05.htm
※:壬生六斎念仏
http://www4.ocn.ne.jp/~mibu/miburokusai/main_mr.html
※:Iris〔イーリス〕
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/iris.html
※:やまとうた
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/index.html
「たのしい万葉集」
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/index.html
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/promotion/
Yahoo!辞書 - すべての辞書
http://dic.yahoo.co.jp/search?stype=0&ei=UTF-8&dtype=2&p=
山本 瞳美「現代の結婚指輪のルーツを探る」
http://www.wako.ac.jp/bungaku/proseminar1/proseminar1-yamamoto.html
物忌 ものいみ
http://www.tabiken.com/history/doc/S/S154R100.HTM
日本の歴史 47号
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=6025
吾妻鏡入門(目次)
http://katohjuk-web.hp.infoseek.co.jp/aduma00-00mokuji.html

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邂逅忌(小説家・椎名麟三の忌日)【Ⅰ】

2010-03-28 | 人物
今日は、「邂逅忌」。小説家・椎名麟三(しいな りんぞう)の1973(昭和48)年の忌日である。
長編作品『邂逅(かいこう)』から邂逅忌と呼ばれているようであり、この日、椎名麟三を偲ぶ会主催の追悼会が行われているようだ。
椎名 麟三、本名は、大坪 昇(おおつぼ のぼる)は、1911(明治44)年10月1日、兵庫県の現姫路市書写東坂に出生し、家庭の事情から姫路中学(現・兵庫県立姫路西高等学校)を中退後、1926(昭和元)年15歳のときに、大阪の父のもとに行くが直ぐに家出をし、果物屋、出前持ち、コック見習いなどの職を転々とした後、宇治川電気電鉄部(現・山陽電鉄)に入社、車掌時代に労働運動に参加。日本共産党員として活動。1931(昭和6)年、共産党員が一斉摘発され、政治思想犯として逮捕されるが、独房で、差し入れられた1冊の本ニーチェの『この人を見よ』を読み、これに影響を受け、転向上申書を書き、文学を志すようになったという。1934(昭和9)年23歳で、結婚した後、1938(昭和13)年 、 新潟鉄工所社員となるが、1941(昭和16)年12月には日本も第二次大戦へ参戦するようになり、戦車が国産されるようになると、1941(昭和16)年には、同鉄工所でも戦車製造をはじめたことかから、これに嫌悪し退職。以後、文学に専念することになる。戦後、(1945年)に出版社「創美社」を経営(以下参考の※:「中野書店 古本倶楽部」参照)、翌年、新日本文学会へ参加。1947(昭和22)年に『深夜の酒宴』を発表し、作家としてデビューした。その翌・1948(昭和23)年、 安部公房らと芸術を改革しようと「夜の会」にも参加している。
ドストエフスキーとの出会いからイエス・キリストの存在を知り、1950(昭和25)年、キリスト教へ入信。洗礼を受け、以後キリスト教作家として活動。自由や愛などのテーマを新しい感覚で描いた戦後文学の代表者であり、第一次戦後派作家と呼ばれている。主な作品には、『永遠なる序章』『避逅』『自由の彼方で』『美しい女』などがあり、1956(昭和31)年には「美しい女」その他の作品活動により、第6回芸術選奨文部大臣賞を受賞している。演劇、映画、ラジオドラマのシナリオなども手がけており、椎名がシナリオを書いた1953(昭和28)年公開映画「煙突の見える場所」は、ベルリン映画祭で国際平和賞を受賞している。
この映画は、私も見たので、以前このブログ11月11日「煙突の日」の中でも採り上げたが、東京の下町・北千住の“お化け煙突”と呼ばれる煙突が見える界隈の安い貸家に住む夫婦は2階を2人の独り者に貸している。映画は、これらの人々の日常を描いたヒューマン・ドラマで、非常にコミカルで面白い映画だったが、この映画の始まりから最後まで、見る場所によって1本にも2本にも、又3本4本にもみえる”おばけ煙突”が映画のバックに出てくる。まるで、”おばけ煙突”がいつも、この人達をおかしげに見下している感じである。タイトルに「煙突の見える場所」とあるように、この映画の主役は、出演者よりも、むしろ、この“お化け煙突”であるともいえるかもしれないが、これは、かつて隅田川沿いに存在した東京電力の火力発電所「千住火力発電所」をモデルにしたものだ。
私は、映画「煙突の見える場所」意外、正直なところ、彼の他の作品は読んでいないのでよく知らない。彼の作品については、以下参考の※:「椎名麟三 - ウラ・アオゾラブンコ」で簡単に紹介されているので興味のある人は覗いてみると良い。
椎名の作品のことをよく知らないのに、今日、「邂逅忌」を取り上げたのは、今日の忌日の名の元となった本の名『邂逅』に興味を持ったことと、椎名が勤めていた山陽電鉄は、私が今の家に引っ越してくる前に住んでいた家の時代、通勤や通学などでよく利用していたことがあること。又、椎名が私の地元である神戸に本社にある山陽電鉄に勤めていたことや、同本社前には、椎名の碑文(石碑)があるのを知っていたからである。
冒頭掲載の画像:左が、山陽電鉄本社前にある碑文を撮ってきたものである。そこには、
「考えて見れば人間の自由が僕の一生の課題であるらしい」(「自由の彼方で」の後書きより)と刻まれている。
同碑文の横面(画像:右)には、“宇治川電気電鉄部(現山陽電鉄)に入社後、2年余り、車掌として勤務していたこと。後に上京して、『深夜酒宴』や自伝小説『自由の彼方』又『美しい女』などを発表したが、代表作であるこれらの作品は、山陽電鉄に勤務していたころの生活を背景に書かれたもので、このころより、西代(神戸市長田区)、須磨、姫路に想いをよせた多くの秀作を世に問う”た旨。と、この石碑が1985(昭和60)年3月に造られたことなどが記されていた。
1968(昭和43)年、神戸高速鉄道が開業。阪急電鉄阪神電鉄・山陽電鉄が東西線への乗り入れを通じて相互直通運転を開始した。この当時、旧山陽電鉄は、地下の長田-西代間で地上に出た。この当時、西代駅は地上にあった。今思い起こせば、懐かしい光景である。
1995(平成7)年6月の阪神・淡路大震災復旧時に、震災前から工事を進めていた西代から東須磨間の山陽電鉄としての地下新線に切替えられ、西代駅も、今は地下駅となっており、山陽電鉄本線の起点駅、神戸高速鉄道東西線の終点駅となっている。現在、山陽電鉄本社ビルがある位置には、以前、兵庫電気軌道開業(1907年=明治40年)時からの車庫である、西代車庫が存在していた。車庫機能は、1970年代後半現山陽電車の地下から初の地上駅となる東須磨駅に移転している。現在本社ビル前にある椎名の文学碑も確か地上にあった西代駅の近く、車が多く往来する交差点あたりにあったように記憶している。
椎名の生い立ちや彼が山陽電鉄に勤務していたことなどと深くかかわりのあった事などは、以下参考の※:「神戸新聞読者クラブ「自由を求めて 兵庫と椎名麟三」」を見ればよくわかる。
椎名は長い間、出身地を尋ねられると、「私に故郷はない」 ・・と答えていたという。彼の母親は結婚前に実家の納屋で彼を生んだ3日後に、彼を抱き、鉄道自殺を図るが、未遂に終ったといい、椎名文学の暗さや自由へのあこがれは、そんな、不幸な出生が根底にあるという。両親は不仲だったようで、幼少のときから父方、又母方のどちらかで、余り愛情を持って育てられることなく15歳のときに家出をし、喰うために色んな職業を転々とするが、中華料理店など封建的な職場で暴力も受け、自伝小説「自由の彼方で」の描写にもあるように殴られたときよろめき、わざと窓ガラスに飛び込み、相手が流血におののいて逃げた。・・・といったような経験もしていることから、なんとしても“今の生活から自由になりたい一心”で、ロシア革命から10年が経過して、日本にも社会主義の波が押し寄せ、思想的な著作が多く売られていたときでもあり、・・・そんな本を乱読、次第に左翼的思考へ傾倒していったようだ。
ある日、神戸の須磨の浦で女が入水自殺未遂したとの新聞記事が目にとまり、それが、母親ではないかと直感し須磨署に駆け付けると、そこにはやつれた母がいたという。 その縁で、須磨署長と方面委員の口利きを得て、宇治川電気電鉄部(現・山陽電鉄)に就職したのが、1929(昭和4)年のことで、西代駅に詰め、2年余車掌として過ごしているが、この間に、労働運動に従事、一斉検挙で捕らえられる。1審で非転向のため4年の判決を受けていた椎名が、2年後の1933(昭和8)年に転向上申書を書き執行猶予で出所しているが、これは、「非合法的政治活動には今後一切関与しない」ことを誓わされたわけであり、これは、時節の重圧に屈し、それまでの同士への、またプロレタリア全体・組織への裏切りを経験したことにもなる。
出所後、筆耕を職業として生活をしている中で、ドストエフスキーの『悪霊』に出会たことから、文学に開眼したというが、椎名がドストエフスキーと出会い影響受けたこと、や、何故、ニーチェからドストエフスキーへと変わったのか、又、その後の彼の作品にどのように影響を与えているかといったことについては、以下参考の※:「椎名麟三 とドストエフスキー」に詳しく書かれている。
椎名は“ドストエフスキーの『悪霊』との出会いによってマルクス主義に対する「空虚でむなしい脱落感」をもたらしたとのべている(『戦後派作家は語る』古林尚との対談、筑摩書房4)。そして、彼が刑務所の体験についてのべているところによると、「牢獄の経験はわずか二年たらずにすぎない。だが、この二年たらずの間に、私は精神的な危機というものを体験したのである。その危機は、その後の私の生き方を決定したといっていいであろう」 その体験の詳細は『自由の彼方で』という小説に書いてしまった。「一言で言えば、私の精神的土台の崩壊を見たといっていいだろう。一つは拷問のときの自己の無意味感である。何度か引き出されて拷問されたとき、今度は死ぬだろうと感じたとき、ふいに自分の一切が無意味に感じられたのである」”・・・と。
その後、彼は「現代を支える労働者が書けない」と悩み、1954(昭和29)年古巣の職場を訪れたという。そこで、何十年も黙々と働く仲間を見て、労働者の感情を取り戻し、 そして書いたのが小説「美しい女」だいう。美しい女とは、時代や組織、人々に翻弄される主人公の心に現れる、まぶしい光のような存在で、「フランスの作家ジャン・ジュネの代表作『泥棒日記』の中の言葉『美しい自由(おんな)(=脱獄)』にヒントを得た」もので「 美しい女は、椎名の求めた『本当の自由』の象徴。立ちはだかる絶望を相対化して救ってくれる存在だった」 ようだという(斉藤末弘西南学院理事長)。
冒頭の山陽電鉄本社前の句碑には「考えて見れば人間の自由が僕の一生の課題であるらしい」(「自由の彼方で」の後書きより)と刻まれていた。
以下参考の※:「椎名麟三 『美しい女』論[ PDF] 」では、椎名のこの小説を深く掘り下げて検証している。そのなかに、“椎名の小説『美しい女』(1955年発表)は、山陽電鉄に勤務して以来のできごとを主人公の「私」が回想する形式で書かれたものであるが、その中で、「過去をふりかえって考えてみると、私は、いろんな人々から、いろんな風に言われながら生涯を送って来た。ある時期は、左翼的な人々から、無自覚な労働者だとか、奴隷根性をしているとか、臆病だとか、卑怯だとか、言われた。又ある時期は、右翼的な人々から、無関心だとか無責任だとか言われた。現代では、組合の意識的な保守的だといわれている。これらのレッテルへ、人なみの熱い血を通わせ、生命の光を与えてやりたいと思うのである」・・と。そうして、それをイエスの十字架上の復活の場面に感銘を受けて自己の信仰を確かなものとし、クリスチャン作家となった椎名は「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きる」ことに信仰の本質があると考えている。作品の中での「私」はクリスチャンとして設定されていないが、作品執筆時に於ける椎名の信仰が「私」の思考に投影されている”・・・という。
椎名が地元の作家であることから、名前ぐらいは知っていたものの作品も読んでおらず、詳しくは知らなかったが、時代に翻弄され続けた椎名のことが、今日、このブログを書くことでいろいろ調べてみて良く分った。

「邂逅忌」(小説家・椎名麟三の忌日)【Ⅱ】へ続く

邂逅忌(小説家・椎名麟三の忌日)【Ⅱ】

2010-03-28 | 人物
私も戦前に生まれ、戦後の荒廃した時代に、父の仕事が成功していたので、小学校4~5年生くらいまでは、その時代としては、裕福な生活をしていたが、戦後の混乱期、父が仕事上であくどい詐欺に引っかかり、一転天国から地獄へ、借金まみれのどん底生活を経験することになった。家や家財は全て抵当で差し押さえられ、収入は途絶え、一家心中をさえ考えたこともあった。そんな時、父の仕事が順調で裕福であった時代には、家にしょっちゅう出入していた人達や、親族までもが、どん底に落ちたときには豹変し、離れていった。父は心労から早世してしまった。私たち子供3人は母の手1つで育てられることになった。毎日寝ずに内職をして育ててくれた。子供時代にそんな人々を見て育ち、人間が如何に弱い、そして、欺瞞に満ちた動物であるかを知らされた。そのような中で、大変な苦労をした母親が、信仰(仏教)に救いを求めるようになったのは自然な成り行きでもあった。私も、子供の頃から母親に連れられて、お寺に行き仏の教を受けた。戦後の誰もが食べるのにも事欠く大変な時代のこと。熱心に信仰をしている人達の多くは、生活上非常な苦労をしている人や、病気で困っている人、その他大きな悩みを抱えている人達であった。人間困ったときの神頼みじゃないが、神や仏への信仰など、何事もなく平穏に暮らしている人が、心底から出来るものではなく、どん底に落ち、地獄を見たときに、初めてそこに光を見出だし、生きてゆく支えとなるのが信仰であることに気づくものだろう。仏の教えから生き方を学び、おかげで、人並みの生活が出来るようになった今、毎日、ただ普通に生きていられることに心から感謝している。
「邂逅忌」の元となった本「邂逅」の字は難しい字だが「かいこう」と読み、“思いがけなく出会うこと。めぐりあうこと”をいう。また、この「邂逅」は、「わくらば」とも読む。たまたま。偶然に。まれに。の意(goo-辞書参照)。
「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶと答へよ」(古今集雑下、九六二、在原行平。意味などは以下参考の※:「在原行平 千人万首」参照)
「わくらば」と言えば、1961(昭和36)年の大ヒット曲で、仲宗根美樹の「川は流れる」(作詞:横井弘、作曲:桜田誠一)を思い出す。
「病葉を 今日も浮かべて 街の谷 川は流れる・・・」
この歌の冒頭に出てくる「わくらば」は「病葉」と書かれている。「病葉」は、病気で枯れた葉。特に、夏、赤や黄に変色して垂れたり縮まったりした葉を言う。大好きな歌だったので歌詞はよく覚えている。
歌はこの後、1番:「ささやかな 望み破れて 哀しみに 染まる瞳に黄昏の 水のまぶしさ」
2番「思いでの 橋のたもとに 錆ついた 夢のかずかず ある人は 心つめたく ある人は 好きで別れて 吹き抜ける 風に泣いてる」
3番「ともし灯も 薄い谷間を ひとすじに 川は流れる 人の世の 塵にまみれて なお生きる 水をみつめて嘆くまい 明日は明るく」と続いて終わる。
仲宗根美樹が、ハスキーな声で気怠い感じで唄うこの歌は枯れて流される「病葉」に喩えて人生を謳ったものであり、なんとも切なく、わびしいが、心にしみる名曲である。
何時までも青々と茂っていて欲しいと願う美しい葉のなかにも病気や虫のために枯れて変色し、川に落ち、さ迷い流されるものがある。人生にも同じようことが起る。誰もが「病葉」のようにはなりたくはないと願うが、人が生きていく上にも「明・暗」様々なことが起る。いや、むしろ、「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」と言われるように、苦の後に楽が、楽の後に苦が来るのが人の一生と言うべきか・・・。
それまでは全く見知らぬ男と女がめぐり合い(邂逅)、愛が芽生えて結ばれるのも、予期せぬ「病葉」に「邂逅」するのも、それは、偶然(邂逅)ではなく運命(天命)と悟るまでには、「川は流れる」の歌の「病葉」のようにずいぶんとさ迷い歩くことになるのだろうな~。「邂逅」と言う字には"しんにゅう"が付いている。明日のある事を信じ、さ迷い歩いているうちに光明にめぐりあうことになるのだろう。この味わいのある歌以下で聞ける。
YouTube - 川は流れる・・・仲宗根美樹 
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=o00Pkw8znAc
「忘却とは忘れ去ることなり、忘れずして忘却を誓こう心の悲しさよ。』」これはNHKラジオドラマ
君の名は』の名台詞。『邂逅とは、めぐりあうことなり』これは私の戯言(^0^)。『忘却』 とか『邂逅』といったかって使われていた良い言葉が、今はどんどん忘れ去られ、使われなくなってしまったね~。
(画像は、神戸にある山陽電鉄本社前に設置されている椎名麟三碑文)

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参考:
※:神戸新聞読者クラブ「自由を求めて 兵庫と椎名麟三」
http://club.kobe-np.co.jp/mint/article/odekake/jiyuuwomotomete20080329.html
※:兵庫文学館/兵庫県ゆかりの作家/椎名麟三
http://www.bungaku.pref.hyogo.jp/cgi-bin/jousetsu/sakka.cgi?id=24
※:椎名麟三 - ウラ・アオゾラブンコ
http://uraaozora.jpn.org/shina.html
※:椎名麟三 とドストエフスキー
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost205.htm
※:椎名麟三 『美しい女』論[ PDF]
http://www.kinjo-u.ac.jp/kibunken/document/12_onishi.pdf
※:煙突の見える場所 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23651/index.html
※:中野書店 古本倶楽部
http://nakano.jimbou.net/catalog/geta_themes.php/gtID/135
※:在原行平 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yukihira.html
転向 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E5%90%91
ジャン・ジュネ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8D
信仰 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E4%BB%B0
第一次戦後派作家- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%B4%BE%E4%BD%9C%E5%AE%B6
イエス・キリスト -その偉大なる生涯-
http://www.adventist.jp/media/bible/christ/
新潟鐵工所 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E9%90%B5%E5%B7%A5%E6%89%80
新日本文学会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%AD%A6%E4%BC%9A
仲宗根美樹 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E5%AE%97%E6%A0%B9%E7%BE%8E%E6%A8%B9
芸術選奨 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B8%E8%A1%93%E9%81%B8%E5%A5%A8
君の名は - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%81%AF

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ドラマチック・デー

2010-03-25 | 記念日
日本記念日協会の今日(3月25日)の記念日を見ると、「ドラマチック・デー」があった。
由来を見ると、1956 (昭和31)年の今日(3月25日)”後楽園球場の巨人-中日戦で、巨人・樋笠一夫選手が9回裏の攻撃で中日・杉下茂投手から史上初の代打逆転満塁サヨナラホームランを放ったことに由来するするらしい。どんな修飾語もつけようがないほどドラマチックなバッティングだった。 ”ことからだそうだ。
巨人の樋笠一夫選手・・・正直私は、この当時まだ高校生だったが、野球では、高校野球は地元に強い高校、滝川学園や育英高校、報徳学園などがあったのでシーズンになると高校野球には関心を持っていたが、この当時は、それ程の巨人ファンでもプロ野球ファンでもなかったので、この選手のこともこの試合のこともよく覚えていない。
Wikipediaによると、樋笠一夫(1920年3月20日 - 2007年6月17日)は、香川県丸亀市出身で、旧制高松中学(現・香川県立高松高等学校)卒業後、戦時中のことでもあり、職業軍人の道を歩むが、戦後、ノンプロの広島鉄道局から、1949(昭和24)年 に原爆投下による壊滅的被害からの復興を目指し設立された、プロ球団「広島カープ」に、翌・1950(昭和25)年に入団。新人ながらレギュラーとして活躍し、打率こそ2割1分9厘に終わったものの、本塁打は白石勝巳を1本上回る21本、72打点でチーム二冠王となっという。
それが、何故かは知らないが、1年で広島を退団し、地元で友人と醤油製造に従事していたそうだが、読売ジャイアンツから熱心な勧誘を受け1951(昭和26)年6月に入団したそうだ。
当時の巨人外野陣には青田昇与那嶺要南村侑広岩本尭らがおり、控えに回ることが多く、やがて代打の切り札として存在感を高めていったという。
1956 (昭和31)年の今日・史上初の代打逆転満塁サヨナラホームランを放った翌・1957(昭和32)年に現役を引退したらしい。この瞬間は本人にとっても、生涯最も輝いた一瞬だったろう。
1956 (昭和31)年3月25日の劇的な試合のことについては、以下参考に記載の※:「雑記録・Data021 樋笠の代打逆転満塁サヨナラ本塁打」が詳しく書いているので見られると良い。ここでは、この試合での本塁打を「「釣り銭なし代打逆転満塁サヨナラ本塁打」と呼んでいる。”釣り銭なしとは、3点差をぴたり逆転したという意味で、同じ代打逆転満塁サヨナラ本塁打を打った藤村富美男(阪神・56年、0 ―1のとき)、広野功(巨人・71年、3 ―5 )、柳原隆弘(近鉄・84年、1―2)、藤田浩雅(阪急・88年、6―7)の4人は、ぴたりではない。”ことから、画期的なものだとしている。確かにドラマチックな出来事だと言えるだろう。やはり、野球でのホームランの魅力は大きいね~。
よく野球は、ドラマだ。9回までは序章に過ぎない、9回の幕が下りたときどのような結末が待っているか。最後の最後に、1発のホームラン、いや、1発のヒットでも、はたまた、エラーなどが、劇的な結末を作り出す・・・。だから、新しいスポーツが次々と現れても根強い人気があるのだろう。
特に、私は、高校野球はただの野球ではなく、ドラマ・・・それも感動のドラマ!だと思っている。高校野球は、負ければ終わりのトーナメント・ゲーム。1915(大正4)年に第1回大会が開かれて94年、73校だった参加校は「2009年 夏の甲子園」(第91回全国高等学校野球選手権大会)の場合4,041校にもなっている。 甲子園へ出場するためにはその前に地方大会を勝ち抜いてこなければならないが、私のいる兵庫県の場合兵庫予選への参加校は164校もある。その中を勝ち抜いてきて、やっと、本番の甲子園での全国大会に出場が出来る。
高校野球は、チームとチームの戦いと言うよりも、県対抗の要素が強く、県選出の代表校には出場校からの応援だけではなく出場県の県民の期待がぐっと背にかかってくる。勝ち進めば勝ち進むほどに期待は大きくなり、選手へのプレッシャーも重くなるだろう。各チームともに投手など、プロ野球のように交代要員が十分に居ないため、試合数が進むにつれ、疲労困憊、技術もさることながらただただ精神力の戦いとなり、終盤はまさに修羅場とも化す。甲子園まで勝ち進む投手は"投球過多"となりがちであることから、1993(平成5)年から投手の肩・ひじ診断が実施されるようになった。その波瀾に富んだ試合の幕切れは劇的である。冒頭掲載の画像は、1933(昭和8)年8月19日に行われた第19回全国中等学校優勝野球大会(今の高校野球)準決勝で、中京商業と明石中学が延長25回に及ぶ熱戦を繰り広げ、延長25回裏、中京商業が無死満塁から大野木が2塁ゴロ、本塁への返球がやや高く3塁走者が生還、1-0で、サヨナラ勝ちした場面である。中京・吉田投手は336球、明石・中田投手は247球を投げた。今も球史に残るドラマチックなゲームであった。勝った中京は翌日の決勝戦で平安中学を2-1で破って優勝している。(画像は、アサヒクロニクル「週間20世紀」より)。
これは、4年に1回開催されるオリンピック大会などでも同じと・・・言うよりも、桁違いに大変なことだろう。一部の競技を除き殆どの競技は毎年行なわれる世界選手権大会などと違って、4年に1度開催されるオリンピック大会は、各選手が鍛えた技を競うために参加する事に意義のある競技会と言うよりも、国家の名誉と威信を賭けた国対国の競技会といったようなものになっている。今や、オリンピックへ出場するような選手には、相当な強化費用を国が支援したり、オリンピックの成果に応じてそれ相応の報酬や年金、その他経済面での待遇をしている国が多くなってきているようだ。要するに、国の名誉と威信の為に国を挙げて選手の強化をしているのである。しかし、日本の国では、スポーツはスポーツとしての理想論のもと、これら出場選手にたいして、強化費用などへのろくな支援もしておらず、選手たちは家族や個人的な支援者の協力に頼らざるを得ない環境の中で、中にはアルバイトをしながら生活面で相当な負担を負いながら、メダルを目指して4年間その日の為に切磋琢磨している。そのような中でも、出場する選手には、メダルへの過大な期待が寄せられる。
物凄いプレッシャーの中で、大会で行なわれるたった1度の競技で、4年間の努力と苦労が報われるか否か・・・? 大会本番になれば、もう、偶然はない。4年間この日のために練習してきた成果を出し切るのみ、正に、技術力以上に精神力と精神力の戦いが繰り広げられる。そこに起きる悲喜劇は・・・。正にドラマチック(劇的。波瀾に富んだ)な舞台(競技)が、見ているものの感動を呼ぶ。
今年2月に「バンクーバーオリンピック」がカナダで開催された。この大会でのフィギュアスケートの女子シングルスでは、韓国の金 姸兒(キム・ヨナ)と日本の浅田 真央は、年令も同じ19歳、実力も伯仲した良きライバル。しかし、両名ともに国民からは、ただのメダルではなく金メダルの獲得を期待された者同士の対決となるだけに、他の選手以上にプレッシャーを受けただろう。ショートプログラム(SP)では、日本の浅田が五輪のSPで史上初となるトリプルアクセル(3回点半)ジャンプを成功させ、何のミスもなく演技を終了し、今期自己最高の73、78点を獲得。これで、SPは浅田がトップだろうと思っていると、浅田の直後に滑った、金がトリプルアクセルはやらなかったが、3回転トーループの2連続ジャンプなどを完璧に決め、自身がもつ世界歴代最高を更新する78,50点を出し首位に立った。浅田も金もミスはなく。フリーを得意とする浅田は、今までもSPでは差をつけていた金の完璧な演技に4,72の点差をつけられてはいたものの、これくらいの差はフリーが得意の浅田にとって、逆転の可能性は大であった。フリーの演技に期待が高まったが、フリーの滑走順は、SPとは逆で、先に金が滑り、その直後に浅田が演技した。
フリーの演技でも金は、SP同様失敗の確率の高いトリプルアクセルは避け、表現力に重点を置きミスのない完璧な演技を終了した。得点は金本人も驚く、フリーの自己ベスト133,95点をはるかに上回る150,06 点を獲得。その直後に浅田が演技。「鐘」の重厚な調べにあわせ、最初のトリプルアクセルは綺麗に成功、続いて跳んだアクセルは2回転ジャンプを後ろにつける連続ジャンプ、これも見事に決めた。この2つのジャンプを決めれば後は要素をこなして行けば順調に最後まで行けると誰しも思った。
だが、その後の3回転ー2回転―2回転の3連続ジャンプの1つ目のジャンプが回転不足と判定。リンクの中央で跳ぶはずだった3回転ローループは跳ぶ直前にエッジ(刃)が乱れ中途半端な1回転ジャンプになってしまった。その後の演技は無難にこなしたが、結局金の得点を上回れず、2位となってしまった。3回転トーループは普通だったらなんなく跳べたはずのものが、後半になって足に疲れが出てきて飛べなかったと後で述べている。豊富な練習をこなしてきた彼女が疲れを感じるのは極めて珍しいことだが、本人も後半になって緊張が出てきたようで・・悔しい・・・と涙を流した。
フィギュアスケートで、芸術性を訴える上においては、演技のための選曲が重要だという。金選手は、曲に乗ってミュージカル的な動きの出来る軽快で踊りやすい曲を選んだのに対して、浅田が選んだのは、ロシアの作曲家・セルゲイ・ラフマニノフ前奏曲「鐘」であった。東京交響楽団の正指揮者である飯森範親さんはこの曲を「全体が響き」を主にした重厚な音楽で、「こうした音楽に動きを付けて踊るのは、表現力がよほどないと対応できない。浅田選手の内面性がアピールできる曲だと思う」と述べていたよう(2月26日朝日新聞)だが、関係の中には、曲が暗過ぎること、五輪開催地の北米ではあまり理解されないと危惧する人達も多くいたようだ。不振だった1昨年のフランス杯(2位)と昨年のロシア杯(5位)を終え、浅田の名コーチであるタチアナ・タラソワも、昨季から温めていたもう1つの候補曲・フランツ・リスト作曲の「愛の夢」に変えようかと迷ったらしい。この曲は、優しい曲であるが、生まれつきの負けず嫌い浅田は、どうしても「鐘」のままいきたとやる気に火が付いたという。浅田は昨年12月の全日本選手権まではジャンプが跳べスランプに陥っていた。そんな、浅田は、バンクーバーの舞台で、オリンピックでは誰も跳んでいないトリプルアクセル(3回点半)を決め、あえて、難しいといわれる「鐘」で演技し、栄光の「鐘」を鳴らしたかったのであろう。
浅田自身も個々の細かい技術力では金が、勝っていることを認めており、試合後の表彰台ではライバルの金を讃え、抱き合う姿(冒頭右画像。2月27日朝日新聞より)が美しい。
バンクーバー・オリンピックでは、金が敢えて高難度のジャンプのリスクををさけて、無難に演技全体の完成度を高めて点数を稼いだのに対して、女子ではオリンピック史上初となるトリプルアクセルジャンプに、挑戦しSP、フリーで3度も成功させた浅田の快挙は、今後も歴史に残ることだろう。また、フリーでは、軽快で踊り安い曲を選ばず、敢えて踊るのには難しい曲を選び芸術性の高い演技で挑戦した根性も立派なものであり、勝負には負けたといってもこれは大いに評価した。まだ、19歳と若く次のオリンピックに期待したいところだ。
しかし、今年のフィギュアアスケートの採点を見ていて気に成る事がある。男子フィギュアでもそうであったが、敢えて難しいジャンプを跳んで勝負するよりも、無難なジャンプで演技力で勝負したエバン・ライサチェック(米)が高得点を得て、金を獲得しているが、4回転ジャンプを軸にした演技で金を狙ったエフゲニー・プルシェンコ(ロシア)もこれが余り評価されず2位(銀メダル)となったが、彼が、「4回転を跳ばないのは男子フィギュアーじゃない。」といっているように、このような採点基準は、今後のフィギュアスケートの演技に随分と影響を及ぼすことになるかもしれない。フィギュアーがスポーツであるにもかかわらず、今回のように、難易度の高い演技への挑戦が余り評価をされないようであれば、どの選手も、難易度の高いジャンプへの挑戦を控え、無難なジャンプの完成度を高めることに取り組むようになり、フィギュアスケートが、スポーツとしてよりも、氷上での演技力を競うショー的なものになってしまわないかと心配されるのだが・・・。国際スケート連盟(ISU)も技術力と演技力の採点基準の見直し等も考えていると聞くが、よく検討して欲しいものだ。
兎に角、冬のオリンピックの花とも言えるフィギュアで、日本勢は男子3名、女子3名、全員が入賞するといった快挙を成し遂げた。本当に素晴らしい競技を見せてくれた彼・彼女等にに感謝したい。
(冒頭の画像左は、1933(昭和8)年8月19日に行われた第19回全国中等学校優勝野球大会の延長25回裏、中京商業勝利の瞬間。アサヒクロニクル「週間20世紀」より。右は、バンクーバーオリンピック、フィギュアの表彰台でライバルの金と抱き合う姿浅田。2月27日朝日新聞より)
参考:
雑記録・Data021 樋笠の代打逆転満塁サヨナラ本塁打
http://www.yomiuri.co.jp/adv/giants_server/thats/data021.htm
激闘の記録と栄光の記録
http://www.fanxfan.jp/bb/
高校野球-info - 高校野球情報サイト
http://kousien.info/
樋笠一夫-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E7%AC%A0%E4%B8%80%E5%A4%AB
冬季オリンピック - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%AC%E5%AD%A3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF
鐘 (ラフマニノフ)-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%90%98_(%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%8E%E3%83%95)
フランツ・リスト - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html