今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

東京マラソン

2010-02-28 | 行事
2010年2月28日の今日、東京マラソンが行なわれる。
東京マラソン(Tokyo Marathon)は、2007(平成19)年に始まった東京で行われるマラソン大会であり、今回は第4回大会となる。大会の正式名称には末尾に開催年が付され、今大会の名称 は、「東京マラソン2010 」(英文名:Tokyo Marathon 2010)。毎年2月か3月に開催されている。
2007年度の第1回大会まで東京都心部で行われていたマラソン大会には、世界選手権を目指すエリートランナー向けのフルマラソンである東京国際マラソン(男子)・東京国際女子マラソンと一般の市民ランナー・障害者向けの10kmロードレースである東京シティロードレースの2つがあったが、それらを一つにまとめた上で、ニューヨークシティマラソンロンドンマラソンボストンマラソンに匹敵するような市民参加型の大規模シティマラソンとして計画された。
もともと、都市民主導のNPO法人主催による、「歩道を使い、信号を遵守する」という形の市民マラソン大会「東京夢舞いマラソン」が2001年から行われてきたが、それを、都心部の公道を使用した大規模なマラソン大会として行いたいとのを希望があったものを、東京マラソンという形で実現させたものであるが、主導的役割を果たした東京都、特に、石原慎太郎東京都知事は東京マラソンの実現にあたっては東京オリンピック構想(以下参考の※:「[東京都]東京オリンピック基本構想懇談会報告について」も参照)へのアピールも兼ねていたようだ。主催者として日本陸上競技連盟と共に東京都が名を連ねているのにはこのような一面もあるという(Wikipedia)。
オリンピックでもマラソンは注目度の高い人気競技であり、1964年(昭和39年)の東京オリンピックで、円谷幸吉が3位に入り、つづく、1968(昭和43)年のメキシコオリンピック君原健二が2位になるなど、日本の男子マラソンは世界最高記録保持者や著名なレースで優勝や上位入賞するなどにより、男子マラソン界が盛り上がった時代があった。一方日本人女子マラソン選手は、1992(平成4)年バルセロナ五輪で有森 裕子が銀メダルを獲得し、次の1996(平成8)年アトランタでも続いて銅メダル を獲得する快挙をなすと、2000(平成12)年シドニーには、高橋尚子がオリンピック新記録で、日本の女子陸上競技として初の金メダルを獲得。2004(平成16)年アテネでは、野口みずきが高橋に続いて金メダル獲得するなど、オリンピック他世界的な競技大会で活躍。男子選手が低迷するするなか、女子マラソンは諸外国と比べても最も選手層が厚いといわれるほどの全盛時代を迎えた。それが、日本人のマラソンへの関心をますます高め、その上、近年の健康志向の高まりとともに、ウオーキングやジョッギングなどからハードなスポーツであるマラソンも、今までの見るマラソンから、市民が参加するマラソンとなってきた。
わが地元兵庫県の篠山市内で、1981(昭和56)年以来3月に開催されている篠山ABCマラソン大会など、従来から市民ランナーが参加できるマラソン大会は日本にも多く存在している(日本国内の主な市民マラソン大会参照)が、2007年から東京マラソンが日本陸連公認の大会としては初めて市民ランナーにも開放され、参加人員も3万人規模の大会として成功を収めた。それまで、一般人がこのように大多数参加する大規模な大会は日本にはなく、国外で、日本人が最も多く参加していた大会は、アメリカ合衆国ではニューヨークシティーマラソン、ボストンマラソンシカゴマラソンと並ぶ「全米4大マラソン大会」(規模としては3位)の一つであり、ハワイ州オアフ島ホノルル市で、毎年12月第2日曜日に開催される「ホノルルマラソン」であった。
当大会では、日本人ランナーも、アメリカ合衆国の観光ビザ取得が免除されたバブル景気期(1989年)以降1999年と、アメリカ同時多発テロ事件の影響で1万人を下回った2001年以外は全参加者の半数以上を占めており、冠スポンサーの日本航空(JAL)は、大会開催に合わせツアーを企画し多数の臨時便を運航している。一応今年も「JALホノルルマラソン2010」は12月12日(日)に開催されル予定になっている(以下参考の※:「JALホノルルマラソン公式HP」参照)。ただ、JALは、今年(2010年)1月19日、長年の経営不振・債務超過を理由に、会社更生法の適用を申請し、国の管理下で再生を目指すことが決まった。負債総額は過去最大の2兆3000億円超。これを受け、企業再生支援機構主導のもと再建を図ることとなった。企業再生支援機構は、再建計画を発表し、3年で再生する方針を示すと同時に、3年後までに国内17路線、国際14路線から撤退するというが、「JALホノルルマラソン2010」もどうなる頭内が、ドル箱路線だから、今までどうり続けるだろうと思うよ。
公道を使用する市民マラソンは、交通規制を伴う競技であり、また参加者が多いので競技時間が長く、交通規制の時間が長くなる。それゆえタイムによる足きりによって(「東京マラソン2010では、6時間40分以内に完走)することを条件に参加者を絞り込んだり、規定の時間内にポイントを通過できなかった場合には続行不可能としたりすることによって、交通規制の時間を明確化している。大都市東京での市民マラソンは、当日は周辺の商売やイベントは勿論、近距離の移動などにも不便を強いられることは多いが、それでも「たった1日だけだから」と寛容に対処し、今では沿道での応援などで盛り上げる市民も多い。
国際陸上競技連盟が2008年から、マラソンなど世界のロードレースに格付け制度を導入した。現在は、ゴールドが最高ランクで、シルバー、ブロンズと3段階に分かれている。大会主催者側が申請し、国際陸連が毎年審査するようだが、設けられた目的は、レースにはくをつけ、優秀な選手を集めて国際的に商業化を進めるところに狙いがあるようだ。
都民やボランティアの協力により大成功した、東京マラソンは、2009年、最高位の「ゴールド」にランクアップされた(前年にシルバーラベルを受賞)。 これは、ニューヨークシティマラソンやロンドンマラソン等と同じ「市民参加型の大規模レース」としては日本唯一のゴールドラベルとなるものである。「市民参加型」以外にも対象を広げると、日本最古のマラソン大会である「びわ湖毎日マラソン」に次いで国内2番目の認定になる。
ゴールドラベルを取得する条件は大会規模、出場選手、運営能力などに応じて審査しているようだが、以下参考の※:「[東京都]東京マラソンが国際陸連ロードレースラベリングで「ゴールドラベル」を取得!」に掲載されているところによると「トップ選手を男女5人以上招待すること」や「5カ国以上でテレビ中継されること」等の基準を満たす必要があるようだ。
男子フルマラソン(選考会の部)については、東京国際マラソンの後継大会として位置づけられており(東京国際マラソンは2006年の第27回大会で終了)、世界陸上選手権をはじめとする国際大会の代表選考レースとなっており、今大会、男子は、11月に中国・広州で行われる2010アジア大会の代表選考会も兼ねており、昨年の世界選手権ベルリン大会6位の佐藤敦之(中国電力)、前々回大会で日本人最高の2位に入った藤原新(JR東日本)ら8人が出場する。海外からは、前回優勝のサリム・キプサング(ケニア)、出場選手中、最高の2時間6分48秒の自己記録を持つラシド・キスリ(モロッコ)ら9人が参戦するが、日本人選手はどれだけ活躍できるのだろうかね~・・・。
一方、女子フルマラソンについては、2008年(第30回)まで東京国際女子マラソンが東京マラソンと平行して行われていたが、2009年からは東京国際女子マラソンの事実上の後継大会として横浜国際女子マラソンが開催されるため、東京マラソンは事実上のオープン大会となっている。
この東京国際女子マラソンは、1979(昭和54)年に世界で初めて、女性だけの国際マラソン大会として始まったものであり、東京国際女子マラソンの歴史は、日本の女子マラソン成長の記録でもあった。世界の強豪がその実力を見せ付ける中、第5回に佐々木七恵が初優勝をした後徐々に力をつけ、第30回までのうち日本選手の優勝は11回。特に、最後となる2008年の第30回大会では、2005年高橋尚子、2006年土佐礼子、2007年野口みずきに続き、尾崎好美優勝し、日本勢4連覇の快挙を果たした。
東京マラソンでの女子フルマラソンには、昨・2009年に続いて2連覇を目指している那須川瑞穂や、昨年の北海道マラソン2位の尾崎朱美(現姓・石毛)らが招待されている。
しかし、伝統ある東京国際女子マラソンが、東京マラソンからはずされてからは、私など、何時も負けてばかりいる男子マラソンと市民参加マラソンが中心になってからは、余り、テレビなども見る気がしなくなった。大勢の市民参加型のオープンマラソンは、一部名のある選手が参加してはいるもののこのようなマラソンはあくまで、参加した人達が楽しむその土地のイベントに過ぎないから・・・。都民の人達は大いに楽しまれると良いでしょう。
(画像は、2008年第2回東京マラソン で、銀座を走る市民ランナー。Wikipediaより)
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東京マラソン:参考

2010-02-28 | 行事
参考:
東京マラソン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%BD%E3%83%B3
※:日航、3年で再生の方針~企業再生支援機構〔日テレニュース〕
http://www.news24.jp/articles/2010/01/20/06151925.html
※:[東京都]東京オリンピック基本構想懇談会報告について
http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2006/02/20g2h500.htm
※:東京がひとつになる日。 | 東京マラソン2010
http://www.tokyo42195.org/
※:JALホノルルマラソン公式HP
http://www.honolulumarathon.jp/
質問なるほドリ:マラソン大会の国際的格付けって?(毎日 JP)
http://mainichi.jp/select/wadai/naruhodori/news/20100127ddm003070028000c.html
TVasahi・東京国際女子マラソン2008
http://www.tv-asahi.co.jp/sch/roadrace/tokyo/pc/top/index.html
※[東京都] 東京マラソンが国際陸連ロードレースラベリングで「ゴールドラベル」を取得!
http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2009/09/20j9g200.htm
国際陸上競技連盟 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%99%B8%E4%B8%8A%E7%AB%B6%E6%8A%80%E9%80%A3%E7%9B%9F
東京国際マラソン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%BD%E3%83%B3
東京国際女子マラソン大会
http://tokyowomensmarathon.com/

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時を待つ心

2010-02-26 | ひとりごと
PHP:松下幸之助 [一日一話]の今日の題目は、「時を待つ心 」について、語られている。短い文なので先ずは読んでみてください。
「PHP:まつした幸之助 [一日一話] 」 http://www.php.co.jp/fun/matsushita/?02-26
「時(とき)」と言う言葉は、広辞苑にもあるように、「時の流れ」などのように、過去から未来へと流れ行く月日の移りゆきや”時間”・”時候”・”季節”を表すのに使われるほか、「時のなりゆき」「時に合う」「時を得る」などのように”時世”の意味や「時が解決してくれる」などのように”時分”や”時期”の意味にも使われる。、また、「国家存亡の時」、「時に望む」と言えば、特に大切な時期や重大な時期に使われるし「時が来るまで待つ」と言う場合には”良い機会””好機”が来るのを待つ場合に使われることが多い。そのようなことから、松下幸之助[一日一話]」の今日の題目の「時を待つ」・・では、時機を待つ。好機が来るのを待つという意味で使われている。要するに、何事を成すにも「時」というものがあり、この時というものは、人の力ではどうにもならないの力によるものであるから、時機を待つしかない。人の一生、良いときもあれば悪いときもある。悪い時は天が与えた試練の時と認識し、 悪あがきせずに時機のくるのを待ち、その時のために今出来ること、なすべきことをきっちりとして力を蓄えておきなさい。そういう試練を耐え偲んで人も会社も成長する・・・と言うことだろうと、理解はしているのだが・・・。しかし、言うは易し行いは難し・・・というべきか・・・・。
儒教経書四書の一つ『孟子』の巻第十二 告子章句下15章で、民間人から古代の君主で聖王と呼ばれるまでになった(しゅん)や、道路工事の人夫から武丁を補佐し衰えた(いん)を復興させた殷の賢相・傅説(ふえつ)などの成功者の例を引き、「天が地上の人に大任を下そうとするときには、必ずまずはその人の心を苦しめるものなのだ。肉体を苦労させ、餓えに苦しませ、しようとすることをしくじらせる。こうやってその人の心をゆさぶって忍耐強い性根を築かせ、それまでできなかったことまでもできるように力をつけさせるのだ。」としている。(当孟子の言葉の解説は、以下参考の※:孟子を読む〔鈴本仁:『孟子』の原文と訳〕を引用させてもらっている)。要するに、今までにできなかったこともできるようにするための試練が与えられているということだろう。仏教には「四苦八苦」と言う言葉がある。釈迦は、この世はすべての世界(一切皆苦)であると説いており、人生は何をするにもすべて苦しみとの闘いであり、四苦に耐え八苦を忍んで生きるところにこそ、人生の意義と価値がある・・・・と説いているのである。
人生における苦しみや悩み。「苦」はすべての人生の根本問題であり、苦を知り体験することによって、人間の生命。即ち、生きる事や生きている状態、存在する状態。対義語は。仏教で四苦の一つ)がより深く明らかになる。この苦の問題に正面から取り組むのが宗教であるともいえる。先にも書いたように「仏教では、この世は『苦』であると説く」と聞くと、日本語の"苦"を思い浮かべてしまうだろうが、釈迦の説く「苦」は、現代語の「苦」とは別物である。苦には、肉体的な苦痛と、精神的な苦痛とがあるが、仏教で説く「苦」とは「思うようにならない苦しみ」という程の意であり、ここでは、精神的な苦痛を、哲学的意味をもった「苦」として表現している。つまり、仏教は迷いの存在、あるいは人間のもつ自己矛盾・自己否定のあり方を、苦の根底に据えているのであって、悟り(さとり。覚りとも書く)を得たからといって、病気や肉体的な苦痛が無くなる訳ではない。
「苦痛」というのが肉体的感覚であるのに対して、人間の生存そのものが苦であるという意味では精神的苦痛は、生を受けた人間に与えられた「試練」と受け止めるべきなのだが、この「試練」というものは、本人が、それをどうとらえるかといった認識(考え方)の問題である。現実の日常生活は「苦痛」に満ちたものだが、それをただ「苦痛」としてのみ受け止め、もがき苦しむか、それとも、それを天から与えられた「試練」と受け止め、それを乗り越え、克服することによって、自分の価値を高めようとするかは、本人の意思次第・・・と言うことになる。
昔から、『楽は苦の種、苦は楽の種』と言う諺もあるが、これは、「苦は楽を、楽は苦をそれぞれそのうちに含み持っている」ということであり、楽もそれが崩れた後には苦を味あわなくてはならず、苦はそれを忍べば後で楽ができる。今の苦労は、将来の楽に繋(つな)がるものなのだから耐え忍ばなければいけない。
昔は、子供の教育でも「可愛い子には旅をさせろ」とよく言っていたものだ。これは何も、一人で旅行をさせろということではない。昔は、今とは違って旅行は非常に危険なものであった。そんな旅行を経験させろと言うことは、本当に子供を愛しているのであれば、甘やかさないで、今の内に少しは辛いことや苦労を経験させた方が本人のために良い・・・と言うことであり、大店(おおだな)のぼんぼん(上流家庭や金持ちの子供をこう呼んだ)でも自分の店には置かず、他所の店で、丁稚の仕事から体験させて、ある程度の経験を積まなければ自分の店に入れなかったものだ。だから、どんな財産がある大店のぼんぼんでも、お金の値打ちやその大切さ、また、働いている貧乏な人達の苦労や悩みも知っている。だから、自分が店の跡を継いで大勢の人を使い、商いもしっかり出来たのだろう。だから2世だからといってぼんやりとした人はいなかった。しかし、戦後は、第二次世界大戦での敗戦による惨めさを経験してきた世代は、逆に、自分の子には、自分が味わったと同じ苦労をさせたくないと甘やかしに甘やかして育ててきた人が多いようだ。だから、ちょっとした苦も耐えられない人が多く育ったようだ。
今の時代は、戦中、戦後世代が、どん底の生活から抜け出したいがために必死に休みも取らず、働きに働き続けて、近年の経済成長を支えてきたのは良いのだが、それも、いつしか、バブルに翻弄され、物事の正しい判断が出来なくなり、戦後の誤った思想を持った教育者や親たちにより、子供たちへのまともな教育もしてこなかったことなどが、今の歪んだ社会を作り出してきているようにも思われる。政治も経済の世界も、2世3世がはびこり、そんな2世3世が、かっての大店の子の様な下積の苦労もせずに、とんとんと、おぼんぼんのままで親の跡を継ぐ、世襲社会を作りだしている様に思われる。そして、そんな世襲議員が、今、日本の政治も動かしている。ハトポッポのような苦労知らずの世襲議員が、今、一国の首相となっているが、その人の金銭感覚では親からの毎月の数千万円の相続も全く知らなかったそうだ。お金を腐るほど持っている人の金銭感覚がどのようなものか庶民には分るよしもないが、そんな金銭感覚のない人が、毎日の食時を作るのにスーパーのチラシを見て、野菜が何十円安いからとあちこち駆けずり回っている庶民の願いごとなど判るはずもなかろう。いずれにしても、これからの日本の社会は、暫くは、渾沌とした時代が続くだろう。ここのところは、暫く、「時を待つ・・・」より、仕方がないかもしれない。その時の為に、ここは、じっと耐え忍び、その時の為に、じっくりと力を蓄えておくようにしなくてはならないだろうね~。
最後に、一言。今の時代、かっての謙虚な日本人とは違って、物欲や我欲が深く、人のことよりも己の我を通すことばかり考えている人達が非常に増えている様に思われる。仏教は、根本的には生きていること自体が苦であるという形而上学的な考え方をもととして、人間の「自分が・・・自分が・・・」という「我執こそが苦の根本」であるとしていることを承知しておいた方が良いだろうね~。
(画像は、孟子。Wikipediaより)
参考:
※:PHP:まつした幸之助 [一日一話] 2月26日
http://www.php.co.jp/fun/matsushita/?02-26
※:孟子を読む〔鈴本仁:『孟子』の原文と訳〕
http://suzumoto.s217.xrea.com/website/mencius/mencius.html
中国史関連書籍解説【Kouta!sHP】
http://homepage2.nifty.com/kouta_idx/CB_index_Init.htm
苦-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%8B%A6/
聖書研究 用語の解説 >用語(苦、苦難)
http://homepage3.nifty.com/IUCC/kuru.html
人生の格言
http://kuroneko22.cool.ne.jp/one's-life.htm
松下幸之助 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E5%B9%B8%E4%B9%8B%E5%8A%A9
孟子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90
一切皆苦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%88%87%E7%9A%86%E8%8B%A6
世襲 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%A5%B2
バブル経済 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%96%E3%83%AB%E7%B5%8C%E6%B8%88
教育 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2
丁稚 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%81%E7%A8%9A


不器男忌(俳人・芝不器男の忌日)

2010-02-24 | 人物
今日・2月24日は、27歳で夭逝した俳人・芝不器男(しば ふきお)の1930(昭和5)年の忌日である。
「あなたなる夜雨(よさめ)の葛(くず)のあなたかな」(芝不器男)
朝日クロニクル「週間20世紀」(ふるさとの100年)の「ふるさとを詠みふるさとを歌う」と題して、短歌100年の歴史の中から忘れがたい名句、名歌、和歌を選んだというものの中に、室生犀星の「ふるさとに身もと洗はる寒さかな」の句に続いて、芝不器男の上掲の句が掲載されていた。
芝 不器男は、1903(明治36)年4月18日愛媛県北宇和郡明治村(現・松野町)にて芝家の四男として生まれ、鬼北盆地の豊かな自然の中に育った。不器男は本名。彼は、故郷の自然や家族を多く俳句に詠み望郷の俳人と呼ばれている。上掲の句同様に永遠なるものへの郷愁がこもる「永き日のにはとり柵を越えにけり」の句や、「ふるさとの幾山垣やけさの秋」といった透明感のある素晴らしい句がある。
不器男は、旧制松山高校を経て、1923(大正12)年、東京帝国大学農学部林学科に入学するが、同年、夏期休暇で愛媛に帰省中に関東大震災が起こり、以後、東京へは行かず、姉の誘いで長谷川零余子(はせがわ れいよし)が主宰する「枯野」句会に出席し句作を始める。この当時、号は、芙樹雄または不狂としていたそうだ。1925(大正14)年、22歳のとき、東京帝大を中退し、東北帝国大学(現:東北大学)工学部機械工学科に入学。兄の勧めで吉岡禅寺洞(よしおか ぜんじどう。 以下参考の※:「福岡文学散歩(8) 吉岡禅寺洞【福岡市総合図書館】」参照)主宰の俳句雑誌『天の川』へ投句を開始。このとき、禅寺洞に勧められ、号を本名の不器男に改号。翌・1926(大正15)年には、「天の川」で頭角を現し、俳誌の巻頭を占めるようになったという。同時に、高濱虚子の主宰する俳句雑誌『ホトトギス』への投句を始め、1927(昭和2)年、同誌で、虚子より、最初に叙情味豊かな万葉調(『万葉集』にみられる特徴的な歌調)の句により激賞され、注目を浴びたのが、上掲の『ホトトギス』1月号の入選作「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」である。
不器男は東北帝大時代、仙台に下宿していたが、この句は夏休みに故郷へ帰省後、再び仙台に戻る途中夜汽車の窓から雨に濡れた葛を見て物寂しさをおぼえ、詠んだ句だそうで、「あなたなる」とまずそのはるか かなたにある故郷に思いを馳せ、そこに夜雨の降っている葛を描きだし、さらに、そこに住む母をはじめとする家族にも思いを馳せ、故郷と自分との距離を改めて認識したのだろうという。「あなた」の繰り返しが、そのような効果をもたらしている。虚子は『薄明るく浮かんだ夜雨の葛の前後の非常に長い部分は唯真暗で、一面に黒く塗ってあるばかりといったようなものでその黒い部分は故郷を思いやった情緒である』とこの句を絵巻物に例え賞賛したという(以下参考の※:「四国いしぶみ物語」のここ参照)。
この後、冬季休暇で仙台から故郷に帰省したのち、二度と仙台には帰らなかったため、同年授業料の滞納で東北大学を除籍されたという。
1928(昭和3)年、伊予鉄道電気副社長・太宰孫九の長女文江と結婚し、太宰家のの婿養子となり順風満帆かと思われたが、翌・1929年(昭和4)年睾丸炎を発病し、入院治療を受け12月に退院するも、1930(昭和5)年1月病状が悪化し、2月24日福岡市薬院庄の仮住まいで26歳10ヶ月の短い生涯をとじたという。
没後『不器男句集』(1934)が刊行されている(以下参考のここ参照)。
1988(昭和63)年松野町が生家を改装し、「芝不器男記念館」を開館。不器男の句碑17を巡る散策路「俳句の小径」も設けられているようだ(松野町公式ホームページ参照)。
「天才は、天性の才能。生まれつき備わった優れた才能。又、そのような才能を持っている人(『広辞苑』)をいうのだろうが、そのような「天才は夭折(年若くて死ぬ。若死に)する」などとよく言われるが、虚子に叙情味豊かな万葉調の句によりその早熟の才能を認められ、「ホトトギス」などに優れた作品を発表して、全国的に新進作家として注目されたにもかかわらず、病のためわずか27歳にもいたらぬ年令で夭折した不器男もやはり、天才的な文人と言うべきか?・・・他にも、30歳以下で死去した日本の文人として、石川啄木 (結核により死去。26歳。)や、 金子みすゞ (1930年に服毒自殺。26歳。) また、新美南吉 (喉頭結核によって病死。29歳。)などの名が思い出されるが、どうして、そのような天才的と言われる人達が若くして死んでしまうケースが多いのだろうか・・・?
今日、私が、27歳で夭逝した俳人・不器男のことを書いたのは、彼自身のことやその詩のことよりも、彼の本名である「不器男」という名前に興味があったからだ。彼の本名「不器男」と言う名は、『論語』の「子曰、君子不器」(君子は器ならず)から命名されたものだそうだ。この言葉は、『論語』為政(いせい)篇第二-12に、出てくるが、ここで、孔子は、「不器」について『君子(できた人物)というものは、用途の限られた器物のようなものではない」といっている。ようするに、何か特別なことが出来るとか、色々のことが出来る人をさしているのではない。
西欧のルネッサンス時代のミケランジェロのような巨匠は、絵画や彫刻といった1つの作品の枠を超越した広く深い知識を持っていた。バチカンシスティナ礼拝堂の壁画などを描いたミケランジェロは、『サン・ピエトロ大聖堂』の設計者でもある。又、ルネサンス期を代表する芸術家・レオナルド・ダ・ヴィンチは、絵画、彫刻、建築、土木、人体、その他の科学技術に通じ、極めて広い分野に足跡を残しており、彼の残した遺稿の中には飛行機についてのアイデア、までも含まれており、正に、万能の天才という異名で知られている通りである。ただ、これらの天才的巨匠にしても、1つの技能を修得するには、その基本原理を学習し、それをたゆまず応用し続けることでなすべきことが可能になった。トーマス・エジソンの名言に「天才は1%のひらめきと99%の努力のたまものである」というのがあるようだが、もって生まれた才能も努力がなければ光らないのだ。
芝不器男や石川啄木達の素晴らしい詩や句を書く特殊な能力、それに、ルネッサンス時代の巨匠のように、多方面に、しかも、超人的な仕事をする能力であっても、それが、君子の条件ではない。孔子は、君子としての本質は、そのような能力以上に人を愛し、人の上に立つにふさわしい性(道徳をわきまえた正しい品性。道徳心。道義心。)を備えた人格者だといいたいのだろう。因みには、具体的には仁・義・礼・智・信の五徳をいう。
「君子不器」の次、『為政篇第二-13では、弟子の中で最も議論に強かったと言われる子貢(しこう)の君子についての質問に対して「先行其言、而後従之」(先ずその言を行う、而【しこう】して後これに従う)。つまり、「まず言いたい事柄を実行し、その後で、自分の主張を述べる人こそ君子である」・・と指摘し、言葉だけで有能さを示す「弁舌の徒」では社会からの信用や支持が得られ難いので、自分自身が民衆に期待することを率先垂範して行い「有言実行」をすることが必要だと諭している。
この『論語』為政篇の最初・・第一-1では、「子曰、為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之。」つまり、『政治を行うのに道徳(人徳)をもってすれば、まるで北極星が天の頂点にあって、周囲の星々が北極星の周りをめぐるように上手く民衆を治められるだろう。』・・・と言っている。
今の日本の政治家などには、御願いだから、少し「論語の勉強とその実践をしてくださいよ」・・・言ってやりたいものだね~。それにしても、俳人・不器男の親は、不器男に何を託して、論語から、このような名前を付けたのだろう・・・?夭逝した不器男は天才的俳人として評価されているが、本当は、このような一俳人に留まらず「君子」として、日本のためにもっともっと、大きなことをしてもらいたいと考えていたのではないのかな?・・・と、私は思っているのだが・・・。
『論語』については、以下の解説を参考にさせてもらった。非常に分りやすく、詳しく書かれているので、興味のある人は、一読されると良い。
「論語学朋塾・みちしるべの会」 ⇒  http://www.powbig.com/index.html
(画像は、芝不器男。愛媛県松野町公式ホームページ掲載分より借用)
参考:
※:福岡文学散歩(8) 吉岡禅寺洞 【福岡市総合図書館】
http://toshokan.city.fukuoka.lg.jp/docs/bungakukan/html/arekore.html
※:四国いしぶみ物語
http://www7a.biglobe.ne.jp/~gucci24/
愛媛県松野町公式ホームページ
http://www.town.matsuno.ehime.jp/
芝不器男
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/fukio.htm
※:「論語学朋塾・みちしるべの会」
http://www.powbig.com/index.html
※:Web漢文大系
http://kanbun.info/index.html
ルネサンス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%8A%B8%E5%BE%A9%E8%88%88
芝不器男 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E4%B8%8D%E5%99%A8%E7%94%B7
万葉集 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89
天才 - Wikipedia
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室生犀星 - Wikipedia
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トーマス・エジソン - Wikipedia
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おでんの日

2010-02-22 | 記念日
日本記念日協会の今日2月22日の記念日に「おでんの日」があった。
記念日の由来をみると、”「クチこみラジオ越後じまんず」(DAN番組制作実行委員会)が制定した日。新潟のおでんをPRするとともに、オリジナルおでんの開発や全国おでん合戦開催などを行う。日付はアツアツのおでんは「ふーふーふー」と息を吹きかけて食べることから、2(ふー)と22(ふーふー)の2月22日としたもの”・・・とあった。
私は関西の人間なので「クチこみラジオ越後じまんず」と言うのが、どんな番組なのか、又、「新潟のおでん」というものが、どんなものかも良く知らない。NETで検索しても良く分らなかった。
広辞苑によれば、“「おでん」は漢字では「御田」と書き、「でん」とは、「田楽」の略。①田楽豆腐。②煮込み田楽の略。豆腐・こんにゃく・里芋・大根・はんぺん・つみれなどを醤油味で煮込んだ料理。「関東炊き」「関東煮」”・・・とあるが、①②のどちらの方を言っているのだろう。日本記念日協会への登録は2007年からのようである。
①の「田楽豆腐」は、平安末期に中国より伝来したといわれる豆腐を長方形に切って串に刺し、柚子(ユズ)味噌や木の芽味噌などの香をつけた味噌を塗りつけて火にあぶって焼いた料理であり、俗に「味噌田楽」とも呼ばれている。「おでん」の原型はこの「味噌田楽」にあるといわれている。
冒頭の画像は、西川祐信画の『百人女郎品定』に描かれている田楽屋の風景。天明2年(1782年)に刊行された豆腐料理の調理方法を解説した料理本『豆腐百珍』では、どこの家庭でも作られている豆腐料理の定番としてあげられているのが、味噌田楽である。江戸では、先割れしていない串を1本使い赤味噌をつけ、上方では先割れの串2本に白味噌を使って焼いた。東海道筋川村(滋賀県栗東町)の街道筋で菜飯とともに出す田楽は名物であったという(NHKデーター情報部編・ヴィジュアル百科「江戸事情」より)。上記画像はNHKデーター情報部編・ヴィジュアル百科「江戸事情」より借用したものだが、以下早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」では、西川祐信画『百人女郎品定』がすべて見られるので興味のある人は見られると良い。当時の風俗がよくわかり面白いよ。
※『百人女郎品定』西川祐信画 
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo06/wo06_03117/index.html
又、余談だが、私は現役時代出張が多く色んな地域へ行ったが、愛知県豊橋市のなめし田楽が有名であり、美味しかったので、豊橋に行けばいつもお昼に食べていたのを思い出す。しかし、以下参考の※:「栗東市・ めがわ田楽と銘酒「菊の水」」によれば、“目川立場の名物として、江戸や京都にまでその名を広めた「めがわ田楽」。大田蜀山人は、「改元紀行」(享和元年【1801】)に「目川の立場には、菜飯と田楽ありと、今、いずくにても目川菜飯とよぶは、此の所より起これりと聴きて、伊勢屋といへる家にいりて、かの菜飯をもとむるに、田楽の豆腐あたたかにものして味よろし。」” と記しているという。ここが、菜飯田楽の発祥のように書いている。以下参考の「※:目川.おこし-やす.com」には、名物「目川田楽」のことが詳しく書かれている。
この食べ物である「田楽」と言う名が、何処からきたかと言うと、平安時代中期に成立した楽と躍りなどから成る日本の伝統芸能の「田楽」に由来する。この伝統芸能である「田楽」は、もともと、田植えの前に、農作物の豊かな稔りや、村の暮らしの平穏を祈る田遊びの“もどき”(日本の芸能において、主役を揶揄(やゆ)したり模倣したりして滑稽を演ずる役。一種の道化役)とも言えるもので、笛・鼓など楽器を使って行う田の予祝芸能であり、発生的にも呪術的な傾向が強く、特に外来の民間楽である散楽の要素が多く取り込まれている。この田遊びは、古い時代からの農耕を中心とした村落の生活や信仰が一体となって発生し、変化しながら伝えられてきたと考えられており、新井恒易(『日本の祭りと芸能』)によれば、田楽という用語そのものが中国からの移入であるという。そして中国の田楽は、田植えにかかわる秧歌(おうか。以下参考の※「秧歌 とは - コトバンク」参照)劇系の散楽の一種で、楽器には腰鼓・小鼓・拍板(ぴんざさら。以下参考の※:「浅草神社 | 三社祭 | びんざさら舞」参照)などを用い高足などもあったという。日本の田楽もその発生の初期からこれらの楽器を用いているという(以下参考の※:日本財団図書館・念仏踊りと太鼓・・・伊藤好英参照)。
平安時代に書かれた『栄華物語』には田植えの風景として歌い躍る「田楽」が描かれており、大江匡房の『洛陽田楽記』によれば、永長元年(1096年)には「永長の大田楽」と呼ばれるほど京都の人々が田楽に熱狂し、貴族たちがその様子を天皇にみせたという。その様子は、『中右記」(ちゅうゆうき)にも、「天下貴賎、毎日田楽なし、或は石清水・賀茂へ参る。鼓笛の声、道路に(み)ち溢(あふ)る。これ神明の好む所と称し、万人この曲をなす。或いはまた夢想の告ありて、にわかになす輩(やから)あり。世間妖言、人々あい好む」云々・・とある(週間朝日百科「日本の歴史」。
永長大田楽と言われるものは白河院政が始められてからちょうど10年後に爆発的に起こったものだが、実際には、突然起ったものではなく既に2年前から同様の事件は起っており、大田楽が起きるまでの社会状況を見ると、治暦・延久の後三條親政、つまり、荘園整理令など一連の国政改革が施行され、2年前から伊勢神宮の造替遷宮に要する費用の負担を京都の民衆に課し、また、造営役夫工の過酷な徴収が強行されたため、住民と政府との対立が絶えず、「緊迫した社会情勢となっていたようだ。そのことから、時の為政者たちが人々を新しい政権に結集させようと田楽躍のもつ呪術的機能を政治的目的に利用した。又、一方民衆らは政府の造営のための過酷な収奪や自然災害・疫病など、厳しい社会状況下で苦しい精神状態に置かれていたため、次第に反国家体制的な風刺歌謡でもある「童謡」の形式をもち、農耕呪術的な信仰を基盤として、都民衆を駆り立てる集団歌舞の大田楽騒動を起すことで国家の重圧から逃れ、田楽のもつ呪術的所作を利用して精神的な不安感を解消し、社会安定を望んだことが推定されるという。ここでいう「童謡」は「わざうた」と呼ばれるもので、古代、政治上の風刺や社会的事件を予言した流行歌。上代歌謡の一種で、日本書紀の「皇極紀」「斉明紀」などにも見られる。詳しくは以下参考の※:「永長大田楽における貴族と民衆(PDF)」を見られると良い。又、田楽のこと事態は、以下参考の※:「民俗芸能 田楽・秋田インターネット博物館」が詳しいよ。
平安後期には寺社の保護のもとに座を形成し、田楽を専門に躍る田楽法師という職業的芸人が生まれた。
そして、田楽の芸の中に「高足」というものがあり、それは、白い袴をはき、その上に色のついた上着をはおった田楽法師が竹馬のような一本棒にのってピョンピョンはねたり踊ったりするものであったようだ。白い豆腐に串を打って味噌をつけて焼いたものが、田楽法師の「高足」を舞っている姿に似ているところから付いた名前が「田楽豆腐」であり、それが、略されて「田楽」となり、女房言葉で田楽の「でん」に接頭語「お」を付けて、「おでん」とよぶようになったようだ。
「田楽は昔は目で見今は食ひ」・・・。このような、古川柳に「おでん」(田楽)の成り立ちを伺い知ることができる。
串に刺した豆腐に味噌をつけた焼き料理は、箸や皿を使わずに手軽に食べられることから、一般的な豆腐料理として各地に広がり、また、食材も、豆腐だけではなく、こんにゃくや里芋・大根・はんぺん・つみしいたけなど、どんどんとバリエーションがひろがっていった。
田楽と呼ばれた料理には、具を串に刺して焼いた「焼き田楽」のほかに、具を茹でた「煮込み田楽」があるが、煮込み田楽は、上方では具を昆布だしの中で温め、それに甘味噌をつけて食した。1640年代頃(寛永年間)になると、近郊の銚子や野田で濃い口醤油の醸造が盛んになった江戸では、かつおだしに醤油や砂糖、みりんを入れた甘辛い汁で現在のように大根やこんにゃく、昆布、はんぺんなどを煮込んだ料理をつくりようになり、これを、「おでん」と呼ぶようになった。そして、単に田楽といえば味噌田楽をさすようになった。江戸の町民には振売や屋台で売られたが、焼き田楽より予め温めてある煮込み田楽の「おでん」の方が好まれたという。
関西では、今でも、「おでん」と言えば、具を昆布だしなどの中で温め、それに甘味噌をつけて喰べるもののことであり、かつおだしに醤油や砂糖、みりんを入れた甘辛い汁で煮込んだ料理は「関東煮」とか「関東炊き」と読んで区別している。
寒い冬には鍋料理の1つである「関東煮」も良い食べ物だ。しかし、同じ「関東煮」でも、関西というか、我が家の場合は、ごく薄味でつくるので、朝からじっくりと半日くらいの時間をかけて作り、いったん、火を切っておいて、夕方まで煮汁に漬け込んでおき、夕方から又煮込む。だから、食材そのものは、豆腐やこんにゃく・大根・昆布巻き・天麩羅類に、卵・筋肉・タコ・鶏肉など安いものばかりだが、手間と時間がかかるので、家人などは、余り、作るのを好まない。それに、年寄り夫婦の2人だけの家庭では、具財の種類を増やすとどうしても量が多くなり過ぎ、多く残る。そのため、もったいないから、翌日も又、食べなくてはならないことになる。だから、「関東煮」は、我が家ではなかなか食べられない料理の1つである。
(画像は田楽屋『百人女郎品定』西川祐信画。NHKデーター情報部編・ヴィジュアル百科)「江戸事情より。」
参考:
日本豆腐協会豆腐の歴史
http://www.tofu-as.jp/tofu/history/15.html
※:日本財団図書館・念仏踊りと太鼓・・・伊藤好英
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00694/contents/0019.htm
※:栗東市・ めがわ田楽と銘酒「菊の水」
http://www.shiga-bunshin.or.jp/rekisikairou/Bukaijigyou/ukiyoeroman/rittou2.html
※:目川.おこし-やす.com
http://megawa.okoshi-yasu.com/history.html
第8回 猿楽:笑い学講座:帝京平成大学
http://www.thu.ac.jp/warai/popup/rensai08.html
※:秧歌 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E7%A7%A7%E6%AD%8C
※:浅草神社 | 三社祭 | びんざさら舞
http://www.asakusajinja.jp/sanjamatsuri/binzasara.html
※:永長大田楽における貴族と民衆(PDF)
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp:8080/dspace/bitstream/10191/985/1/18_0115.pdf#search='天下貴賎、毎日田楽なし'
※:民俗芸能 田楽・秋田インターネット博物館
http://www.geocities.jp/stkyjmuseum/dengaku.html
おでん - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%A7%E3%82%93
豆腐百珍 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90%E7%99%BE%E7%8F%8D
中右記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8F%B3%E8%A8%98
味噌田楽- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8C%E7%94%B0%E6%A5%BD
「お田植え祭の伝わる里」
http://www2.cc22.ne.jp/otoya2/3-otauesai/3-otauesai.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
田植の労働促進・疲労回復のために、笛鼓を囃し歌舞を見せたことに始まる ...(PDF)
http://www.tarokaja.com/wiki.cgi?action=PDF&page=%C5%C4%B3%DA%A4%C8%A5%F2%A5%AB%A5%B7%CB%A1%BB%D5%BD%D5%C3%E9
西川祐信 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B7%9D%E7%A5%90%E4%BF%A1
大田南畝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8D%97%E7%95%9D
散楽 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A3%E6%A5%BD
日本書紀 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80