今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ヒョロ松さん

2013-05-30 | 歴史
朝日小学生新聞に連載の、漫画家・やなせたかしさんの「メルヘン絵本」(※1)で、「ヒョロ松さん」と呼ばれる一本松が、枝をふるわせて歌っている絵が掲載されたのは今からちょうど2年前(2011年)の今日・5月30日のことであった。
(冒頭の画像が、2011年5月30日付朝日小学生新聞に掲載されたやなせたかしさんの連載「メルヘン絵本」の絵。6月14日付朝日新聞朝刊掲載分を借用)。
このヒョロ松さんが歌っていたのが、やなせたかしさん自身の作詞、作曲による「陸前高田の松の木」であった。
(一番)
陸前高田の松林
うす桃色のかにの子は
ハサミふりふり歌うのさ
ここで生まれたいのちなら
陸前高田の松の木は
みんなのいのちの友だちだ
★ぼくらは生きる 
負けずに生きる
生きてゆくんだ
オー オー オー
(4番まである★は繰り返し)

アンパンマンの原作者やなせたかしさん(当時92歳)が、2011(平成23)年3月11日(金)に発生した東日本大震災東北地方太平洋沖地震)による津波で、岩手県陸前高田市の名勝・高田松原に1本だけ残った松の木を見て歌を作ったもの。

高田松原には震災前、海岸沿いに約7万本の松の木があった。だが津波に襲われ、残ったのは1本だけ。大切なものを失った被災者のあいだで、いつしか「奇跡の一本松」と言われるようになった。

●(上掲の画象は、「奇跡の一本松」として復興のシンボルになった1本の松。背後に見えるのは被災した陸前高田ユースホステルの建物。2011年5月6日撮影。Wikipediaより)

今にも倒れそうな一本松。やなせさん自身も当時92歳になり、学校の同級生は2人しか残っていない。「あとは全部死んでしまった。漫画家の仲間もほとんどいなくなった。わずかに3歳下の水木しげるがいるだけ。僕自身も病気が多く余命はわずかだと思う」。生き残った松が、自分自身と重なったという。
そういえば、NHK総合テレビ『爆笑問題のニッポンの教養』に出演したやなせたかしさんが、ぬいぐるみで埋め尽くされたアンパンマン部屋を訪ねてきた爆笑問題太田光田中裕二)を相手に、「奇跡の一本松」の応援歌ともいうべき「陸前高田の松の木」を大きな声で熱唱していたのを思い出した(放送日:2011年12月1日[木)]22:55~23:25.。2011年9月1日放送分のアンコール放送分)。以下でそのシーンが見られるが、4番の歌詞を歌っている。

「陸前高田の松ノ木」やなせたかしSings~IMG

太田や田中が言っていたように、やなせの作品が常に「生きていく」ということをテーマにしていること、また、やなせも作品を作る理由は、人を喜ばせると自分がうれしいからだと語っていたが、それが、彼の作品が子供達だけでなく誰からも、愛し続けられている秘訣なのだろう。
私の地元、神戸ハーバーランドにも先月神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール(※3参照)がオープンしたがちびっ子たちで大賑わいであった。

高田松原の約7万本の松の中で震災の津波に耐え唯一流されずに残り、震災で何もかもなくした同じ境地の地域の人々の祈りや希望を込め、「奇跡の一本松」と名付けられた松の現状は地盤沈下により根元は塩水に侵され厳しい状況にあった。そして、葉の緑も日増しに薄くなり、赤茶けていく。保存を望む地元の人たちは、「なんとか生き抜いてもらいたい」と木の周りに防潮柵を作ったり、活性剤を与えたりと、いろいろ努力をしたようであるが、哀しいかな立ち枯れてしまったようである。
これに対し、陸前高田市は復興のシンボルにしようと長期保存を決定。昨・2012(平成24)年9月から根元と幹、枝葉に切り分けて、復元が進められていた。
作業では、高さが27メートルもある一本松を根元から切り倒し、幹を5分割にして、その芯をくり抜く。そして、防腐処理をしたうえで、金属製の心棒を幹に通してモニュメントにするといったもので、震災2周年の節目になる今年・2013(平成25)年3月11日には、元の場所でお披露目したいとの考えだったようだ。
しかし、3月6日に復元で、特殊な樹脂を使って再現した枝葉のレプリカを取り付けが行われたが、市民から「立ち姿が以前と違うのではないか」と指摘があり、取り付けミスが発覚、接続部の特殊な金具は再利用できないため、新たに作り直すことになったが、22日に現地で予定していた完成式典には間に合わず完成は6月末になるとの発表があった(3月21日、※4参照)。
この「奇跡の一本松」の保存工事には、1億5000万円もかかるらしく、このような費用をかけて保存工事をすることには、当初より地元住民の間でもいろいろと賛否が分かれ、論議されていたようである(※5参照)。

私の地元神戸兵庫県南部地震阪神淡路大震災)に見舞われ街の大半が崩壊した。そして、神戸のシンボルでもある港が破壊されたが、メリケンパークには神戸港の復旧・復興に努めた様子を後世に伝えようと、メリケンパークの岸壁の一部・約60メートルを被災当時のままの状態で保存した「神戸港震災メモリアルパーク」などが設けられている(ここ参照)。
このような災害についてのメモリアルをどのような形で後世に伝えていくかはに関しては、私達部外者(県外の者)が、とやかくと意見を挟むことではないので、その有益性などについては、地元住民の間十分に話し合って決めるべきことだろう。

岩手県陸前高田市は、今年3月27日の記者会見で、修復作業が進められている「希跡の一本松」を顕微鏡で調べた結果樹齢173年と判明したと発表している。この一本松は1896(明治29)年の明治三陸地震、1933(昭和8)年の昭和三陸地震の2度の大津波に遭いながら、生き抜いた古木。樹齢の判定は難しく、173年より数年古い可能性もあるといい、再鑑定を進めているようだ。地元の市民団体などには260年とする説もあるようだが、これは見間違いによるもののようだ(※6参照)。

いずれにしてもこの「一本松」は陸前高田の地にあって、度重なる震災と津波を経験しそれを乗り越えてきた松であることに間違いはない。
岩手県陸前高田市は、太平洋に面した三陸海岸の南寄りに位置する。旧陸前国気仙郡に属し、隣接する同県大船渡市や宮城県気仙沼市とともに陸前海岸北部の中核を成す都市である。

かつてこの地に存在していた松原(「高田松原」)が広がっていた地域は、旧高田村(高田町)と旧今泉村(現:気仙町)にまたがっており、もともとは木一本ない砂原で、潮風が巻き上げる砂塵と高潮とにさらされ、背後にある農地は収穫のない年もしばしばという有様であったようだ(※7参照)。
それを、江戸時代の寛文年間に高田の豪商・菅野杢之助が私財を投じて植林し、その後、享保年間には松坂新右衛門による私財を投じての増林が行われ、以来、クロマツアカマツからなる合計7万本もの松林は、仙台藩・岩手県を代表する防潮林となり、また、その白砂青松の景観は世に広く評価され、
「東北地方稀ニ見ル壯大優美ナル松原ニシテ前ニ廣田灣ヲ控ヘ後ニ氷上山、雷神山等ノ翠巒ヲ繞ラシ山紫水明ノ一勝區ヲ成セリ樹種ハ黒松ヲ主トシ林相整美樹下荊棘ノ繁茂スルモノナク境地清淨ニシテ林内ノ逍遙ニ適ス 」・・と、史蹟名勝天然紀念物保存法による天然記念物に指定されていた(※8参照)。

●(上掲の画象は、震災被害を受ける前の高田松原(2007年6月3日撮影。Wikipediaより)

高田松原の防潮林はたびたび津波に見舞われ、同時に津波被害を防いできた。
近代以降で代表的なものとしては、1896(明治29)年6月15日の明治三陸津波、1933(昭和8)年3月3日の昭和三陸津波、1960(昭和35)年5月24日のチリ地震津波がある。
しかし、2011(平成23)年3月11日の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)で、高田松原は10メートルを超える大津波に呑み込まれ、ほぼ全ての松がなぎ倒され壊滅した。
『宮城県昭和震嘯(しんしょう)誌』(※9参照)から三陸地方の津波の歴史を詳しく解析しているものがある。それが以下の論文だ。

三陸地方の津波の歴史 その1 首藤伸夫
三陸地方の津波の歴史 その2

●(上掲の画象は、昭和8(1933)年3月3日午前2時30分岩手県東方沖でマグニチュード8.1の地震が起こり、三陸海岸を中心に最高28,7mの津波を起こした「昭和三陸津波」は、1896(明治29)年の「明治三陸津波」以来の37年ぶりの大惨事となった。写真は岩手県宮古町。『朝日クロニクル週刊20世紀』1933-34年号より借用。)
『宮城県昭和震嘯誌』には、三陸地方の津波の歴史(原文)について以下のように記されているそうだ。([ ]内の数字は西暦年)
「三陸沿岸」に於て、從來、記録又は據(よ)るべき口碑(石碑のようにながく後世にのこる意。古くからの言い伝え。)により、「地震に伴ふ津浪」の起りしものを次に列擧せん。(備考)括弧内の年代は昭和八年よりの逆算數なり。
(一)貞觀十一年五月二十六日[869](一千六十四年前)三代實録陸奥國大地震家屋倒潰、壓死者多く、津浪は城下(多賀城か)に追つて溺死者千人餘資産苗稼流失す。
(二)天正十三年五月十四日[1585](三百四十八年前)(口碑)宮城縣本吉郡戸倉村の口碑に海嘯ありしを傳ふ。(参考 同年十一月二十九日、畿内・東海・東山・北陸に大震ありて死者多し。)
(三)慶長十六年十月二十八日[1611](三百二十二年前)御三代御書上陸奥國地震後大津浪あり。伊達領内にて男女一千七百八十三人、牛馬八十五頭溺死す。又現在の陸中山田町附近・鵜住居村・大槌町・津輕石村等にも被害多し。
(四)元和二年七月二十八日[1616](三百十七年前)「三陸地方」強震後大津浪あり。
(五)慶安四年[1651](二百八十二年前)宮城縣亘理郡東裏迄海嘯襲來す。(口碑)
(六)延寳四年十月[1676](二百五十七年前)常陸國水戸、陸奥國磐城の海邊に津浪ありて人畜溺死し、屋舎流失す。
(七)延寳五年三月十二日[1677](二百五十六年前)(口碑)陸中國南部領に數十回の地震あり、地震直接の被害なきも、津浪ありし宮古、鍬ケ崎、大槌浦等に家屋流失あり。
(八)貞享四年九月十七日[1687](二百四十六年前)宮城縣内、鹽釜をはじめ宮城郡沿岸に海嘯あり、その高さ地上一尺五、六寸にして、十二、三度進退す。
(九)元祿二年[1689](二百四十四年前)陸中國に津浪あり。(口碑)
(十)元祿九年十一月一日[1693](二百三十七年前)宮城縣北上川口に高浪襲來、船三百隻を流し、溺死者多し。《首藤註:高潮か?》
(十一)享保年間[1716~1735](二百十七年、百九十八年前)海嘯あり、田畑を害せしが、民家・人畜を害ふに至らず。
(十二)寳暦元年四月二十六日[1751](百八十二年前)高田大地震の餘波として、陸中國に津浪あり。
(十三)天明年間[1781~1788](百五十二年 - 百四十五年前)海嘯あり。
(十四)寛政年間[1793-](凡百四十年前)「三陸沿岸」に地震・津浪あり、宮城縣桃生郡十五濱村雄勝にて床上浸水二尺。
(十五)天保七年六月二十五日[1836](九十七年前)東藩史稿仙臺地方大震ありて、牙城の石垣崩れ、海水溢れ、民家數百を破りて溺死者多し。
(十六)安政三年七月二十三日[1856](七十七年前)宮城縣桃生郡十五濱村雄勝「先祖代々記」正午頃「三陸地方」に地震あり、次いで大津浪起り、現在の宮城縣桃生郡十五濱村雄勝にて床上浸水三尺、午後十時頃迄に十四、五度押寄す。人畜の死傷は凡んどなかりしが、北海道南部にては、かなりの被害ありしものの如し。
(十七)明治元年六月[1867](六十六年前)宮城縣本吉郡地方津浪あり。
(十八)明治二十七年三月二十二日[1894](三十九年前)午後八時二十分頃岩手縣沿岸に小津浪あり。
(十九)明治二十九年六月十五日[1896](三十七年前)午後七時半起れる海底地震によりて、「三陸沿岸」は、午後八時十分頃より八時三十分頃迄に於て大津浪襲來し死者二萬千九百五十三人、傷者四千三百九十八人、流矢家屋一萬三百七十棟、内、宮城縣死者三千四百五十二人、傷者千二百四十一人、流失家屋九百八十五戸
(二十)大正四年十一月一日[1915](十八年前)「三陸沖地震」によるものにして宮城縣志津川灣に小津浪あり。
(廿一)昭和八年三月三日[1933]午前二時半頃起れる外側帶性地震は、約三十分後、「三陸」及北海道日高國の沿岸に津浪を伴ひ、そのため、六十七町村は被害をうけ、死者千五百二十九人、行方不明者千四百二十一人、負傷者千二百五十八人を出し、流失・倒潰家屋七千二百六十三戸を生ぜり。・・・と。
海嘯(かいしょう)とは、河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象であり、潮津波(しおつなみ)とも呼ばれる。昭和初期までは地震津波も海嘯と呼ばれていたようだ。
「三陸地方に於ける既往の震嘯は、前述の如くなるが、その中、代表的のものを次に掲げん。」・・・として、
(一) 貞觀十一年の震嘯陸奥國地大震動。(二) 慶長十六年の震嘯。(三) 安政三年の震嘯。それに、 (四) 明治二十九年の震嘯・・・を挙げている。この津波の内容や被害の詳細等は上記論文参照。

「三陸地方」とは、東北地方の太平洋岸の名称であり、この地域は地理学的にはその成立に複雑な歴史が絡んでいるが、通常3つの陸の付いた国陸奥陸中陸前の3国全域を指すことよりも、この3つの令制国にまたがる海岸三陸海岸地域を指すことが多い(詳しくは、Wikipediaの三陸海岸また、参考の※10を参照)

当海岸は1896(明治29)年6月15日に発生した地震に伴って、本州における当時の観測史上最高の遡上高(そじょうこう。※11参照)である海抜38.2mを記録する津波(明治三陸地震参照)が発生し、甚大な被害を与えた。
しかし、当海岸全体を指す言葉が無かったため、この地震・津波の報道では当初様々な呼称が用いられていたが、やがて「三陸」という言葉が用いられるようになり、当海岸は以降「三陸海岸」と呼ばれるようになったという(※10を参照)。
よって、一般的には、北上山地が太平洋と接する海岸線を指す。すなわち、青森県南東部の鮫角から岩手県沿岸を経て宮城県東部の万石浦まで、総延長600km余りの海岸を言うそうだ。
海岸中部の岩手県宮古市には本州最東端の魹ヶ崎があり、同市を境に北部は海岸段丘が発達し港に適した場所が少ないため、農業・牧畜などが盛んである。
一方宮古市よりも南では、隆起速度を上回る海面上昇により相対的に沈水し、リアス式海岸となっている。そのため、水深の深い入り江が多く、天然の良港となって漁業が盛んである。世界三大漁場三陸沖」には、この南部の漁港から主に出漁する。
海岸沿いには国道45号八戸線三陸鉄道北リアス線南リアス線山田線大船渡線気仙沼線が通っている。海岸沿いには多数の景勝地があり、遊覧船が就航されている所もあり、観光地としても知られている。
1933(昭和8)年の昭和三陸地震からは、78年後の2011(平成23)年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震。それから、2年を経過した今年、NHK連続テレビ小説・第88シリーズ「あまちゃん」は、前半の「故郷編」では東北地方・三陸海岸にある架空の町・岩手県北三陸市が舞台となっている。
時代は2008年の夏休み。引きこもりがちな都内の女子高生(ヒロイン・アキ)が夏休みに母の故郷である北三陸母に連れてこらて祖母と出会う。現役の海女を続ける祖母は、人生で初めて出会った「カッコいい!」と思える女性だった。
厳しく切り立ったリアス式海岸の海に、恐れもせず潜っていく祖母の姿に衝撃を受け「私、海女になりたいかも・・・と海女にチャレンジ」。やがてアキは地元アイドルとして町おこしのシンボルになっていくらしい。
同じ東北(宮城県)出身の脚本家宮藤官九郎は、「小さな田舎の、地元アイドルによる村おこし」をテーマーに書こうと思ってい居る中で岩手県久慈市小袖海岸の「北限の海女」や、三陸鉄道北リアス線(岩手県宮古市の宮古駅と久慈市の久慈駅とを結ぶ)を使った町おこしなどの存在を知り、これらをストーリーの軸に決めたという。
最終盤では、劇中劇として2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)発生の場面を盛り込むそうだが、当初より、NHKや宮藤の頭の中には、2年前の3月11日の地震と津波による災害からの復興への応援歌として作ろう・・・との考えがあったのだろうと思われる。舞台となっている小袖海岸の風景は実に美しい。以下で見れる。

あまちゃん ロケ地 小袖海岸YouTube

また、過去に津波の被害を受けた三陸沿いの津々浦々には約200基もの津波に対する備えや警告の石碑(災害記念碑)がさまざまな形で建てられ、今も多く残っている。その一部は、以下でも見ることができる。

It happened that | 大震嘯災記念A
http://happenlog.blog73.fc2.com/blog-entry-290.html
It happened that |大震嘯災記念B
http://happenlog.blog73.fc2.com/blog-entry-894.html

未曾有の大災害を引き起こした津波の恐ろしさを未来に残そうとした先人達の教訓・・・。
約3千人の犠牲者が出た1933年3月3日の昭和三陸沖地震から数えて78年後の2011年3月の東北地方太平洋沖地震ではどれだけの人たちに先人の教えが守られたのだろうか。これら先人の記念碑は、海の景色に溶け込む単なるオブジェであったのか・・・。
それから2年経った、今年3月で、昭和三陸沖地震から80年目になる。今一度、昭和三陸沖地震の結果を振り返り、何が問題であったのかを反省しなければ、また同じことを繰り返すことになるだろう。

上記論文に見られるように、昭和三陸地震は、岩手県上閉伊郡・釜石町(現・釜石市)の東方沖約 200 kmを震源として発生した地震であり、気象庁の推定による地震の規模はM8.1(※12の過去の地震・津波被害
参照)。金森博雄の推測はMw8.4で、アメリカ地質調査所 (USGS) もこれを採用しているという。
震源は日本海溝を隔てた太平洋側であり、三陸海岸まで200km以上距離があったため三陸海岸は軒並み震度5の強い揺れを記録したが、明治三陸地震の時と同じく地震規模に比べて地震による直接の被害は少なかった。その一方で、強い上下動によって発生した大津波が襲来し被害は甚大となった。
最大遡上高は、岩手県気仙郡綾里村(現・大船渡市三陸町の一部)で、海抜28.7mを記録した。 第一波は、地震から約30分で到達したと考えられる(上掲1の論文Page 5には明治と昭和の津波について、各地の遡上高比較も記載されているので参考にされるとよい)。
この地震による被害は、死者1522名、行方不明者1542名、負傷者1万2053名、家屋全壊7009戸、流出4885戸、浸水4147戸、焼失294戸に及んだ。行方不明者が多かったのは、津波の引き波により海中にさらわれた人が多かった事を意味する。
特に被害が激しかったのは、岩手県の下閉伊郡田老村(現・宮古市の一部)で、人口の42%に当たる763人が亡くなり(当時の村内の人口は1798人)、家屋も98%に当たる358戸が全壊した。津波が襲来した後の田老村は、家がほとんどない更地同然の姿となっていた。
震災から約4ヶ月後の同年6月30日、宮城県は「海嘯罹災地建築取締規則(昭和八年六月三十日宮城縣令第三十三號)を公布・施行した(※13参照)。
当条例は、津波被害の可能性がある地区内に建築物を設置することを原則禁止しており、住宅を建てる場合には知事の認可を必要とし、工場や倉庫を建てる場合には「非住家 ココニスンデハ キケンデス」の表示を義務付けた。違反者は拘留あるいは科料に処すとの罰則も規定された。
1950(昭和25)年に建築基準法が施行され、災害危険区域を指定して住宅建築を制限する主体は市町村となったため、当条例は既に存在していないとの説があるものの、廃止された記録もないため、現行法上の有効性は不明。なお、県内では現行法に基いて仙台市・南三陸町・丸森町が災害危険区域を条例で指定しており、沿岸自治体の仙台・南三陸の2市町のみが県の当条例を一部引き継いでいるとも見なせるが、現行法で認める違反者への50万円以下の罰金が3市町の条例ではいずれも規定しておらず、罰則規定については引き継がれなかったと言える。・・・と指摘している。
また、1964(昭和39)年の新潟地震を契機として、1972(昭和47)年に防災のための集団移転促進事業に係る国の財政上の特別措置等に関する法律(※14)が公布・施行され、災害危険区域からの防災集団移転促進事業(※15)の財政的な裏付けがなされた。
ただし、同事業における補助金は事業費の3/4の充当であるため、事業主体の地方公共団体が事業費の1/4を負担しなくてはならないこと、平時において移転促進区域内の住民の同意を得て全住居の移転を達成しなくてはらないことなど実施にはハードルが高く、2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)以前に県内で同事業が実施されたのは、1978(昭和53)年6月12日の宮城県沖地震後に仙台市の27戸が移転した例のみに留まっている(※16)という。・・・「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということか。
また、津波の襲来により多くの死者を出し、家がほとんどなくなった田老村では、1982(昭和57)年までに海抜10m 、総延長2433mの巨大な防潮堤が築かれた。そして、1958(昭和33)年に完成した1期工事の防潮堤は、1960年(昭和35年)5月23日に発生・来襲したチリ地震津波の被害を最小限に食い止める事に成功した。これにより、田老の巨大防潮堤は全世界に知れ渡った。
この巨大防潮堤は田老の防災の象徴ともなっていたが、自然の及ぼす力は人智を超えている。今回の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)では「想定外」の大津波となってこの防潮堤を越えて町内を襲い、全域を壊滅状態にしてしまった・・・・。
このような立派な堤防で津波に抵抗しても津波は防げなかった。今後、どれだけ巨大なものを作るのだろうか。今回の津波以上のものを防止しようとするともう、箱の中に閉じこもったような生活をしなければならないだろう。まずは、高台へ移転するのが優先されるべきなのだろうが・・・。
しかも、今回の地震と津波は福島第一原発炉心溶融と建屋爆発事故も発生させ、その放射能汚染が、2重の災害(被害)をもたらすことになった(詳しくは福島第一原子力発電所事故を参照)。

「海辺に住むな」「高台に逃げろ」「此処(ここ)より下に家を建てるな」という先人たちの残した警告や教訓。中には、不便を承知で本気で高台へ移転した人たちも多くいた。また、当時は、海岸近くに住宅は建てず、高台に家を構えた人もいたが、代替わりするうちに堤防の与える安心感や、漁など海に近いところの利便性を求めて低地へ移る人も増え、前段でも挙げたようなな法律も形骸化し、結果として、東日本大震災では約1万9000人もの人たちが死亡したり行方不明になったりしてしまったが、先人の警告や守り続けた人たちは、助かり明と暗に分かれることになっている。
先人たちが残したものは石碑だけではない。以下参考に記載の「※17:記者の目:震災1年 風化繰り返した過去の悲劇」には以下のように書かれている。
1933(昭和8)年の昭和三陸津波の後、宮城県では、震災を永久に記録しようと、全国から寄せられた義援金をもとに、県内32カ所に復興記念館が建てられ、震災資料の展示や記念行事を行うほか、講演や教育の場としても地域住民が利用できた。だが老朽化による取り壊しで、2011年3月の震災前に残っていたのは5館のみであったという。
この記念館の現状を調査した気仙沼市の白幡勝美教育長は「(教訓の)風化の早さを物語っている」と残念がる。そして、震災で今は1館を残すだけであり、その最後の1館も、津波の常襲地帯、唐桑(からくわ)半島にある宿(しゅく)集会所であり、老朽化した集会所で取材をした毎日新聞の記者が驚いたのは、震災資料が一切残されていないことだという。戦後、家政学校や商工会事務所として利用され、いつまで展示されていたのかすら定かではない。取り壊されなかったのは、代わりの集会所がなかったからだからという。・・・と。これを読んで私も、地元民の、防災意識の欠如の驚かされるばかりである。
こうした事例から、失敗学を提唱する畑村洋太郎は、「失敗は人に伝わりにくい」「失敗は伝達されていく中で減衰していく」という、失敗情報の持つ性質を見出している(※18、※19参照)。

昨年の1月、このブログ辰年に思うでも書いたので、詳しくは書かないが、防災に関する文章などによく用いられる物理学者(地震研究者)にして随筆家であった寺田寅彦も、「災害は忘れた頃にやって来る」との明言を吐いたとされるが、人の記憶は時の経過とともに忘れ去られる。
四季に恵まれた日本ではあるが、日本列島の生い立ちから地核変動による、地震が多く、地震大国とも言われる。そして、ここのところ、周期的大地震が頻繁しているのであるが、10年、50年が過ぎれば、先にも書いたように、悲惨な惨事についての伝承、語り伝えも途絶え、曖昧になり、忘却の彼方に遠ざけられてゆくことになる。
いくら先人が警告のための記念碑を建てても、人は時と共に語り伝えることを止め、そのうち記憶は薄れ、かって先人が味わった苦悩や苦痛、悲しみを忘れて、同じ事を何度でも繰り返す。自分たちのご先祖達にも津波によって家屋を破壊され、生命を失った者がいたはずだろうに・・・・。
同じ過ちを繰り返す、愚かな人間のともいうべきか・・・。

1995年(平成7年)1月17日(火)に、私が経験した阪神淡路大震災のような直下型地震は、繰り返し周期が1000年から10000万年という長期に及ぶものが多く、将来の発生を予測するのはほとんど不可能だそうである。一方、東北地方太平洋沖地震のような海溝型地震は、繰り返し周期も短く、最短で10年、長い場合でも500年であるという。
また、阪神淡路大震災はキラーパルス(※20参照)が卓越していたため家屋の倒壊による甚大な被害を出した。逆に、東北地方太平洋沖地震はキラーパルスはあまり含まれていなかったため、阪神淡路大震災のような建物の倒壊による圧死は少なかったが、地震動の長さ、余震、津波により甚大な被害を出した。V字型の湾や岬の突端、リアス式海岸などの複雑な地形などでも波が高くなる。また川を遡上して内陸数kmまで到達する場合もある。2011年の東北地方太平洋沖地震が津波被害の典型的な事例であるという。(全体のことは、※21:「地震の基礎」を参照)。
三陸海岸は津波の発生し易い地形であり、それは歴史が証明していることである。津波対策こそ重要ということだろう。今度こそ、震災の悲劇と、その教訓を忘れないで、備えを十分に立てておくべきではないか。

政府の地震調査研究推進本部の予測によると、2010年1月1日からの発生確率は30年以内で 60 - 70 % 、50年以内で 90 % 程度以上とされていると発表されていた。
また、政府の地震調査委員会は今年3月11日、日本周辺で起きる地震の発生確率を、今年1月1日を基準として計算した結果を発表、東南海地震の今後30年以内の発生確率が、昨年の「70%程度」から「70~80%」に上昇するなど、一部地域でわずかに上昇した。また南海地震(30年以内)は「60%程度」で変わらなないといわれていた(※22参照)。
しかし、南海トラフ巨大地震の対策を検討していた国の有識者会議は、今月28日、地震予知が現状では困難と認め、備えの重要性を指摘する最終報告をまとめたと、昨日・5月29日にマスコミは一斉に報じていた(※23参照)。
そして、家庭用備蓄を「一週間以上」とすることや、巨大津波への対応を求めている。古谷圭司・防災相は今年度中に国の対策大綱をまとめるとの方針も示した。
もともと地震予知の手がかりとなる前兆を確実に観測できた例が過去に一つもないところに、今回の東日本大震災が起きている。歴史的な事実からある程度の地震の周期的なことは推測できたとしても、地震が発生する数時間から数日前に起きる前触れ的なプレートの動きをとらえた確度の高い余地は「困難なこと」であった。
東海地震の予知のために24時間体制の監視などをしていたが、阪神淡路大震災、その他東日本大震災発生までに大きな地震が数多く起こっている。そんなこともあり、研究が進めば進むほど予知の難しさがわかったという。

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●(上掲の画像は、内閣府の有識者会議の試算結果から示された被害者数等の状況。都府県別のそれぞれの最悪のケース。全体値は合計が最悪になるケース。画像は5月29日朝日新聞朝刊より。)
たかじんのそこまで言って委員会に出演していた地震学者であり、東大教授のロバート・ゲラー氏は、「地震は、予測できるものではない」。「大地震の前には前兆現象が起きるという仮説のもとに予知の研究は行われてきた。だが、100年探しても前兆現象は見つかっていないのだから、地震学者は地震予知という幻想を捨てて、本来の基礎研究を行うべきだ。」・・・・と、前々から言っていたよ。今更政府がそんな当たり前のことを発表するなんて相当遅れているということだ。
もし。今回言っている南海トラフ巨大地震が明日にも来るなどと言われると、どう対処すればよいのだ。それこそパニックを引き起こし大騒ぎになるだけでなくいろんな問題が生じるだろう。
地震大国に居住している以上、地震との遭遇は、避けられないものと覚悟をし、インフラなどは国や地方がやるとしても、一週間ぐらい生き延びれるだけの食料や防災用品の準備、避難場所の確保等は各人がそれぞれの責任で用意しておかなければいけないだろう。
2年前の東北の地震にしても、それまでに、阪神淡路大震災や新潟県中越地震など大きな地震が発生し、大きな被害が出ているにかかわらず、数日分の飲料水の準備さえしておらず困った困ったといっている人を、テレビの報道などで見たが、まるで、よその地で起こった震災の被害等は、対岸の火事のように見ていたのだろう。
被害にあえば、困った困ったと泣き言を言いながら肝心の予防はしない。そんな人は、今度の震災でひどい目にあうだろう。肝に命じておかなければいけないと思う。
同じ1年と言っても、自然界におけえる時の間隔は我々人間の1年とは全然違う。30年以内といっても極端に言えばもう明日のことかもしれない。本当に30年後なら、おそらく私は生きてはいないので関係はない。もう、先の短い私の年代になると、30年以上も住んでいる家が倒壊しようが、倒壊した家で圧死しようがいずれ死ぬ身、どちらでもよいと思っている。
仏教では、今は末法の時代だという。世の中も荒んできたし、資本主義経済も行き着くところへ来たようで、住みにくい世の中になってしまった。私だけのことなら、なるがままに任せようと思う。
しかし、災害に遭っても不幸にして助かってしまったり、私が大けがをして、歳とった家内に世話をかけるのは心苦しい。そのために、住まいの防災対策についても最低限は講じてある。
わが身のことについては来るなら来いという感じなのであるが、息子や孫の行く末を考えると可愛そうだ。そのため毎日ご先祖様のご加護をお祈りはしているのだが・・・・。

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ヒョロ松さん 参考

2013-05-30 | 歴史

参考:
やなせたかしのメルヘン絵本
http://www.anpanmanshop.co.jp/merchen02_htm/ew_yanase.htm
※2:爆問学問(爆笑問題のニッポンの教養) | 過去放送記録 - NHKオンライン
http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/
※3:神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール
http://www.kobe-anpanman.jp/
※4:「奇跡の一本松」完成は6月末 枝葉復元やり直しで ― スポニチ Sponichi
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/03/21/kiji/K20130321005445520.html
※5:サイボーグ化される「奇跡の一本松」 1億5000万円もの費用に疑問の声 .
http://www.j-cast.com/2012/08/31144830.html?p=all..
※6:【東日本大震災】一本松の樹齢173年 さらに古い可能性も 京大が鑑定
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130228/wlf13022809460009-n1.htm
※7:いわて復興偉人伝 - 岩手県立図書館
http://www.library.pref.iwate.jp/0311jisin/ijinden/09.html
※8:高田松原 文化遺産オンライン
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=209470
※9:宮城県昭和震嘯誌 ‐ 【津波ディジタルライブラリィ】
http://tsunami-dl.jp/document/035
※10:地名「三陸地方」の起源に関する地理学的ならびに社会学的問題 (PDF)(岩手大学教育学部 )
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1626/1/erar-v54n1p131-144.pdf

※11:補足:津波の「遡上高」とは:イザ!
http://yanagihara.iza.ne.jp/blog/entry/2206602/
※12:気象庁 |地震・津波
http://www.seisvol.kishou.go.jp/eq/index.html
※13:過去に行われた建築規制と現在の建築基準法による措置(Adobe PDF)
http://www.bousai.go.jp/kaigirep/chousakai/tohokukyokun/6/pdf/4.pdf#search='%E6%B5%B7%E5%98%AF%E7%BD%B9%E7%81%BD%E5%9C%B0%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%8F%96%E7%B7%A0%E8%A6%8F%E5%89%87'
※14:防災のための集団移転促進事業に係る国の財政上の特別措置等に関する法律(総務省法令データ提供システム)
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S47/S47HO132.html
※15:防災集団移転促進事業(国土交通省)
http://www.mlit.go.jp/crd/city/sigaiti/tobou/g7_1.html
※16:防災集団移転促進事業実施状況 (PDF)(国土交通省)
http://www.mlit.go.jp/crd/chisei/boushuu/boushujoukyou.pdf
17:記者の目:震災1年 風化繰り返した過去の悲劇=熊谷豪- 毎日jp
http://mainichi.jp/opinion/news/20120314k0000m070124000c.html
※18:失敗学のすすめ、畑村洋太郎
http://www21.ocn.ne.jp/~smart/sippai1205.html
※19:失敗学 実践講義 (畑村洋太郎著 講談社): 石見太郎のブログ
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=3928344
※20:キラーパルスについて
http://www.kz.tsukuba.ac.jp/~sakai/070720.htm
※21:地震の基礎 - FC2
http://earthx.web.fc2.com/jisin1.html
※22:東南海地震の発生確率「70~80%」に上昇 政府の地震調査委
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20130112/dms1301121437005-n1.htm
※23:南海トラフ地震、予知困難と報告 - goo ニュース
http://news.goo.ne.jp/topstories/politics/35/d3ac30643b5cd1dc32712b139b266a46.html?fr=RSS
寺田寅彦の伝説の警句 天災は忘れた頃に来る
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/torahiko/torahiko.htm
青空文庫作家別作品リスト:No.42作家名: 寺田 寅彦
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person42.html
宮 城 県 災 害 年 表(Adobe PDF)
http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/88404.pdf#search='%E8%B2%9E%E8%A7%80%E5%8D%81%E4%B8%80%E5%B9%B4+%E9%9C%87%E5%98%AF%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%9C%8B%E5%9C%B0%E5%A4%A7%E9%9C%87%E5%8B%95'
NHK総合テレビ『爆笑問題のニッポンの教養』“ 君もアンパンマンになれる!”
http://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/info/57328/index.html
南三陸地域を襲った 大津波災害から立ち上がる 3月11日 ... - 近代消防社(Adobe PDF)
http://www.ff-inc.co.jp/PDF/kinsy_11_09_A.pdf#search='%E4%B8%89%E9%99%B8%E3%81%AE%E5%9C%B0+%E6%B4%A5%E6%B3%A2+%E8%AD%A6%E5%91%8A%E3%81%AE%E7%A2%91'


伊達巻の日

2013-05-24 | 記念日
日本記念日協会の今日・5月24日の記念日に「伊達巻の日」がある(※1)。記念日の由緒を見ると以下のようにあった。
厚焼きや玉子焼きをはじめとする寿司具全般のトップメーカーで、大阪府吹田市にある株式会社千日総本社(※2)が制定した日。
戦国の武将として名高い伊達政宗公の命日(5月24日)を由来として、華やかで洒落た滋養豊かな卵料理である伊達巻を、日本の食文化として広く後世にに伝えていくことを目的としている。伊達巻はおせち料理や大阪寿司の一品として欠かせない食べ物。・・・と。
伊達巻(だてまき)は、卵料理のひとつであり、伊達巻き卵とも呼ばれる。伊達巻は一般的には白身魚やエビの擂り身に溶き卵と出汁を加えてよくすり混ぜ、みりんや砂糖で調味してふんわりと焼き上げ、熱いうちに巻き簾(まきす)で巻いて形を整えたものである。
●上掲の画像参照。
確かに日本の正月の晴れやかな御節料理には欠かせない一品である。伊達巻は甘めの味付けなので大人だけでなく子どもにも大人気の一品である。
家庭で作る場合は、すり身の代わりに、入手が容易(たやす)く同じ原材料を用いた魚肉練り製品のはんぺんを代用とすることがある。昔私の母や子供が好きだったので家人が作っていたことがあるので、聞いたところ、はんぺんと卵をフードプロセッサーにかけ液状にし、好みでみりん、砂糖、塩などで味を整える。
はんぺんの比率が高いほど、フワフワと柔らかな食感に仕上がり、卵の比率が高いほど、しっかりとした弾力のある食感になるそうだ。味を整えたら、フライパンで焼く。この時、少し焼き色をつけると巻いた時に綺麗な渦巻きを表現することが出来る。両面焼いたら、巻き簾で巻き、そのまま冷まして形を整えればよいという。
ただ、焼き加減が大切なので注意が必要だという。作り方の基本は同じだが、それぞれの家庭でいろいろと工夫がされていることだろう。伊達巻は素人がきれいにおいしく作るにはちょっと手間がかかるし難しいので、卵焼きや、だし巻を代わりに使用する場合もある。

伊達巻の由来は諸説あるようだが、最も有力な説としては、「豪華」、「華美」、「魅力的」、「見栄」、「粋」などの意味を表す用語「伊達」という言葉からきているようだ。
もともと中国から伝わった五節供の行事に由来する「おせち」(「御節供」の略)は、人日の節句の正月料理を指すようになってくるが、この正月料理は江戸時代の武家作法が中心となって形作られたといわれている。
江戸時代、すでに、関西では「蓬莱飾り」、江戸では食積(くいつみ)などと称し、現在の「おせち」の原型となる風習が存在しており、歳神様三方などで、めでたい食べ物などを床の間に飾り、また年始の挨拶に訪れた客にも振舞ったり家族も食べたりしていた。
そのことは、明治30年代、日清日露両戦争の狭間にあって、社会の大枠がようやく定まりかけたこの頃、東京の暮らしもまた大きな変遷を遂げていたようだが、お節料理も同様であろうが、まだまだ江戸時代の色彩を色濃く残していただろうとは思う。
当時に発行された平出鏗二郎 著『東京風俗誌 中の巻』(明治34年。参考※3参照)の“年中行事 第一節・一月”のところには、古のごとくとはいかないがと断ったうえで、復興した正月料理のことが以下のように記されている(但し漢字等は読みやすいよう、現代使用のものに書き換えてある)。
「家々にては、一日より三日に至るまで、朝毎に若水を汲みて雑煮餅を煮る、朝餉(あさげ)に喰らうなり、その煮方の国々によりて異なるが、中に、都はなべて煮出しに芋、大根、菜などを加え、餅を焼きて煮るなり、また、御節と称(とな)えて、大根、人参、八ツ頭(里芋)、牛蒡、蒟蒻、焼豆腐、青昆布、ごまめなどを喰らい、鹽引(しおびき)の鮭を善に供ふるを習いとす。その他、食積(くひつみ)とて鰊(ニシン)の子(=カズノコ)、煮豆、昆布巻、ごまめ、たたき牛蒡などを煮、重箱に詰めて備え、善の物にもし、年賀の客にも進む。文蛤(ハマグリ)の吸い物是も例なり、屠蘇の酒は多く、味醂(みりん)を用いて、屠蘇散(とそさん。屠蘇参照)を浸す。」・・・と。
この様に、江戸時代〜明治時代には、正月重詰料理と正月節料理の2つがあり、煮物を「御節」といってお膳料理として家のものが食べ、鰊の子など重詰めしたものを「食積」と呼んで、客にも出していたようだ。
それが、重箱に本膳料理であった煮染(にしめ)を中心とした料理が詰められるようになり、食積と御節の融合が進み、現在では重箱に詰めた正月料理を「御節」と呼ぶようになっているが、重箱に御節料理を詰めるようになったのは明治時代以降のことと言われている。
この現代のお節料理の昆布巻き煮豆ごまめ(田作)、たたき牛蒡など総じて地味な色合いの料理の中にあって、伊達巻は鮮やかな黄色で存在感を発揮しており、華やかの言葉にも十分納得が出来る。また、伊達巻は巻物の形に似ているため、学問の発展を願って食される役割を持つおせち料理でもある。
お節料理の華・伊達巻にとってもっとも大切なことは、ふっくらとした焼き方であろうが、今日の記念日を設定した千日総本社HPを覗いてみると、“せんにちのこだわり”として、「せんにちの玉子焼のライバルは家庭で作った玉子焼です。機械化が進んだ現在でも一本一本玉子焼きに人が箸を入れふっくらと焼き上げることにこだわっております。手作りの玉子焼き本来の味・食感・風味をそのままに、差別化できる商品づくりに没頭してきました。・・・」とあった。会社の設立年月日は、平成25年4月1日となっているから、先月に出来たばかりの会社であり、この記念日はその広告ということか・・・。しかし、せっかくだから、同社HPより、同社自慢の厚焼(伊達皮 ・伊達巻 ・巻芯用厚焼 他)写真を紹介させてもらおう。
●以下の画像がそれだ。

ところで、江戸の「にぎりずし」に対して、大阪など近畿地方では「大阪寿司」として、花見や観劇用に厚焼や穴子、えびなどを寿司飯とともに木枠の押し型に美しく敷き詰めて整形した大阪の伝統の味「箱寿司」(押し寿司)や伊達巻が主流であった。
幕末の嘉永六年(1853)版・ 喜田川守貞著『守貞漫稿』後集巻1の「鮨」のところに鮨のことが以下のように書かれている(※4:国立国会図書館デジタル化資料 - 守貞謾稿後集巻1 [50]参照)。
「鮨賣〈中略〉 因曰、京坂ニテハ、方四寸許ノ箱ノ押ズシノミ、一筥四十八文ハ鳥貝ノスシ也、又コケラズシト云ハ、雞卵ヤキ、鮑、鯛ト並ニ薄片ニシテ飯上ニ置ヲ云、價六十四文、一筥凡十二ニ斬テ四文ニ賣ル、又筥ズシ、飯中椎茸ヲ入ル、飯二段ニナリタリ、又淺草海苔卷アリ、卷ズシト云、飯中椎茸ト獨活(ウド)ヲ入ル、京坂ノ鮨、普通以上三品ヲ專トス、而モ異製美製ヲナス店モ稀ニ有レ之、又鮨ニハ、梅酢漬ノ生姜一種ヲ添ル、赤キ故ニ紅生姜ト云、又江戸ニテ原ハ京坂ノ如ク筥(ハコズシ)、近年ハ廢レ之テ握リ鮨ノミ、握リ飯ノ上ニ雞卵ヤキ、鮑、マグロサシミ、海老ノソボロ、小鯛、コハダ、白魚、鮹等ヲ專トス、其他猶種々ヲ製ス、皆各一種ヲ握リ飯上ニ置ク、〈中略〉又因云、文政中、大坂道頓堀戎橋南ニ、江戸ノ握リ鮨ヲ學ビ製シ賣ル、今ニ至リテ此一戸アリ、天保中、尾ノ名古ヤニモ傳製之店ヲ開ク、後世三都トモニ、此製ヲ專用スルコトニ成ル歟、〈下略〉」
江戸の鮨と言えば、握った酢飯に魚をのせる生鮨を思い起こすが、幕末の喜田川守貞が、もとは京阪のように箱鮨で、握り鮨はこの頃になってからであると言うように、その原型は大阪の箱寿司であった。
江戸の末期に現れた、その「握り鮨」とは、握った飯の上に、玉子焼き・鮑・鮪刺身・海老そぼろ・子鯛・こはだ・白魚・蛸をのせたものともあり、ほぼ今の鮨と同様の種物だが、大きく異なるのは、酢と塩で〆たもの、焼き物、煮たもので、生ではなく、鮪も醤油に漬けた「づけ」であった。
今日と同じ物は、玉子焼き・こはだ・穴子くらいであろうか。小さな白魚などは、干瓢で縛るとある。海苔ではなかった。
また、同誌に、大阪の「コケラズシト云ハ、雞卵ヤキ、鮑、鯛ト並ニ薄片ニシテ飯上ニ置ヲ云、」とあるが「コケラズシ」は「箱ずし」のことであり、コケラとは木屑のことだが、この場合は、飯に混ぜ込む魚の切り身を「コケラ板」(屋根葺き板のこと)を葺くのに似ているので、そのように見立てたものと聞いたことがある。
鮨は図入りで解説しているがその掲載図では、箱ずしの枠は四寸(約12センチ)四方で、中央と四隅には卵が配されている。

●上記のものは、浮世絵に描かれた寿司と海苔巻きであり歌川広重の団扇絵「鮨」。江戸後期の作品である。
海老の握りや太巻きの海苔巻寿司と共に少し厚めの玉子焼きで飯をまいた寿司が見られる。海苔で巻く、現在の巻きずしの起源は江戸時代らしいが、はっきりしないようだ。巻くということでは海苔以外にも昆布、湯葉なども使われる。江戸時代玉子巻きというのがあり、これは薄焼き玉子で巻いたもの。それがこの画のようなものか?
大阪では、これよりも厚焼き玉子(伊達巻)で飯を巻いた鮨も伊達巻(寿司)と言っている。伊達巻寿司は、大阪地方の郷土料理であり、伊達巻の中には通常高野豆腐、 椎茸、おぼろ、かんぴょうなどとともに酢飯を巻き込んだ寿司だが、具や飯の分量は地方によって異なる。
この伊達巻寿司、千葉県銚子市の郷土料理でもあるらしい。銚子市の伊達巻寿司がどんなものかは知らなかったので、検索してみると銚子駅から徒歩5分ほどのところにある「大久保」という名の鮨店が、銚子名物・伊達巻鮨の元祖として知られるお店だと紹介していた。以下参考。

ただいまに生きる: 銚子『大久保』さんで、銚子名物「伊達巻鮨」とご対面。

大阪の寿司屋などで見られる伊達巻(寿司)とは違って、銚子名物の伊達巻寿司は、太巻き寿司の上に卵とダシだけで焼き上げた超厚焼きの玉子を乗せたもので、大阪の伊達巻とは比べ物にならないくらいの「巨大な巻いていない伊達巻」と言った感じのものである。
味は、厚焼き玉子と呼ぶにはおよそ似つかわしくない菓子チックな甘い味付けと滑らかな舌触りは、まるでプリンのようだと紹介している。そして、伊達巻寿司は「大久保」の初代店主が考案したものだというが、何時ごろ考案のものかはよく知らないが、Wikipediaの寿司のところでは、明治初期に考案と書かれている。
大阪の伊達巻寿司もいつ考え出されたのかは知らないが、広重の絵に少し厚めの玉子で巻いた伊達巻寿司に近い玉子焼きが見られるので、幕末頃には伊達巻寿司に近いものは造られていたのだろうと想像している。
大阪など戦前は盛んだった玉子巻きや伊達巻きの寿司は近年の江戸前寿司の流行と共に廃れてきており、その派手さからもてなし用のすしの一品として盛られていることが多い。
さて、伊達巻という名前の由来についてだが、一般に、・伊達政宗の好物だったことから伊達巻と呼ばれるようになったという説 、・普通の卵焼きよりも味も見栄えも豪華なために、洒落て凝っている装いを意味する「伊達もの」から伊達巻と呼ぶようになったという説 、・女性用の和服に使われる伊達締めに似ていることからこう呼ぶようになったという説 などがあるが、見栄えも豪華なため「伊達もの」から伊達巻と呼ぶようになったという説が多いことは先に書いたとおりだ、いずれにしても、どれもが伊達氏とのかかわりは深い。
伊達 政宗は、誰もが知っているように出羽国陸奥国の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主である。伊達氏第16代当主・伊達輝宗最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男として生まれた。
伊達氏は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、その出自は常陸国伊佐郡、あるいは下野国中村荘と伝えられ、藤原北家魚名流藤原山蔭の子孫であるとしている。
始祖は、伊達常陸介藤原宗村で、宗村が、文治5年(1189年)源頼朝藤原泰衡追討の砌(みぎり=おり)、奥州伊達郡石那坂(石那坂の戦い参照)にて佐藤基治を討ちたる勲功によりて奥州伊達郡を賜り氏と為す(※5参照)。・・・としている。
ただし、どの戦国武将の家系にもよく見られることではあるが、伊達氏の出自が藤原北家であるというのもあくまで自称に過ぎないとする説もある(※6)が、ここでは、一応その出自を正しいものとして話を進めることにする。

●上掲の画象が菊池容斎筆による伝記集『前賢故実』巻第四に描かれた藤原山蔭の肖像画である」(画像は、巻第4の目次より藤原山蔭のところにあり)。
藤原山蔭(四条中納言)は、四条流庖丁式の創始者として知られている。
四条流の起源について
古事記』の景行天皇の段には
「此の(景行天皇の)御世に、田部を定め、又東(あづま)の淡水門を定め、又膳大伴部(かしわでのおおともべ)を定む。」・・・とあり(※7:『古事記傳』26参照)、
日本書紀』景行天皇53年10月の条には、
「(景行天皇は)上総国(かみつふさのくに)に至りて海路より淡水門を渡りたまふ。是の時に、覚賀鳥(かくかのとり。ミサゴのこと)の声聞ゆ。其の鳥の形を見さむと欲して、尋ねて海の中に出ます。仍(よ)りて白蛤(うむき)を得たまふ。是に、膳臣(かしわでのおみ)の遠祖、名は磐鹿六雁(ガマ)を以て手繦(たすき)にして、白蛤を(なます)に為(つく)りて進(たてまつ)る。故、六雁臣の功を美(ほ)めて、膳大伴部を賜ふ」・・・とある(※8『日本書紀』巻第七参照)。
更に、延暦8年(789年)に磐鹿六雁命の子孫である高橋氏が朝廷に奉ったとされる「高橋氏文」(たかはしうじぶみ)には、さらに詳細に記述されており、
景行天皇が皇子日本武尊(やまとたける)の東国平定の事績を偲び、安房の浮島の宮に行幸された折、侍臣の磐鹿六雁命が、弓の弦をとり海に入れた所堅魚(かつお)を釣りあげ、また砂浜を歩いている時、足に触れたものを採ると白蛤(=はまぐり)がとれた。
磐鹿六雁命はこの堅魚と白蛤を(なます)にして差し上げたところ、天皇は大いに賞味され、その料理の技を厚く賞せられ、膳大伴部(かしわでのおおとものべ)を賜った。・・・とある(参考の※9参照)。
日本の律令官制において朝廷の料理は宮内省に属した内膳司が司っていたが、山蔭は内膳職とは関係がなく、単に料理法や作法に通じた識者として指名されたものか。
9世紀の段階で、唐から伝えられた食習慣・調理法が日本風に消化されて定着しつつあったと思われ、これまで磐鹿六雁命の末裔高橋氏が執り行っていた庖丁式を、光孝天皇の命により今までとは別の新たな庖丁式(料理作法)を編み出し、それらをまとめて故実(有職故実参照)という形で山蔭が結実させたものであろう。これにより、山蔭は「日本料理中興の祖」とされている。
この功により、六雁命の子孫たちは、未来にわたって膳職(大膳職参照)の長官、上総国の長官、淡国(安房国)の長官と定められて、その地位には他の氏の者を任命されることはせずに、治めさせられ、もし、膳臣の一族に世継ぎがないときには、天皇の皇子を継がせ、他の氏を交えず、皇室の食事を司るよう賜った。・・・という。
当文書は、律令時代に入って高橋氏と並んで内膳司に奉仕する阿曇氏に対し、高橋氏の優位を主張したものであることから多少の誇張はあるだろう。
この安房国(千葉県南房総市(【旧千倉町】)には、高家神社があり、『延喜式』に登載されている式内社で、旧社格郷社である。「料理の祖神」磐鹿六雁命を主祭神としている。
社名は、「高家」と書いて「たかべ」と読み、祭神・磐鹿六雁命を高倍神ともいう。当社の創建の由緒は不詳らしいが、同社由緒書では、磐鹿六雁命の子孫の高橋氏の一部の者が、祖神に縁のある安房国に移り住み氏神として祖神を祀ったのではないかとしている。
現在の所に祀られたのは江戸時代初頭のことらしい。料理関係者や醤油醸造業者などから崇敬されているようだ。(詳しくは参考※10:「延喜式神社の調査」の安房国式内社:高家神社を参照)。
ところで、前段にも書いたように、景行天皇が東国巡行で安房の水門に渡ったとき、磐鹿六雁命は堅魚や蛤を膾にして 奉功したことにより膳大伴部の官職を賜ったが、房総半島沿岸部周辺などに伝わる郷土料理にたたきの一種「なめろう」がある。

●上掲の画象はアジの「なめろう」。Wikipediaより。
青魚三枚におろし・もしくは青柳 (あおやぎ=バカガイ)を捌いた上に味付けの味噌・日本酒とネギ・シソ・ショウガなどを乗せ、そのまま、まな板の上などで、包丁を使って粘り気が出るまで細かく叩いたものであり、名称の由来については、叩いたことによる粘り気の食感からと、料理を盛っていた皿についた身まで舐めるほど美味だったからという説などがあるようだ。
そして、「なめろう」には漁師が沖の漁船上で作っていた料理であることから、「沖膾」(おきなます)という別名もあるのだそうだ。
そうすると、記紀に出てく「蛤の膾」も安房の沖で漁師が捕れ立ての魚介を船上で粗造りをしていた漁師料理の一種「沖膾」のようなものであったかもしれない。
そう考えると、伊達の先祖である磐鹿六雁命がその美味しさを知っていて景行天皇に「沖膾」を造って差出したら、その料理の美味さと調理の技が気に入られて膳大伴部の官職を賜った・・と考えられなくもない。
そして、古代の安房国は、豊かな漁場に恵まれていたことから御食国に任じられ、皇室や朝廷の御饌を担当することになった。
高倍神社は宮中大膳職坐神三座(御食津神社火雷神社、高倍神社)の一つであり、磐鹿六雁命は、大いなる(かめ=べ)に例え、尊称を高倍神とし宮中醤院で醤油醸造・調味料の神として祀られているという。
醤油のルーツは、古代中国で生まれた「醤(ジャン)」からといわれている。食物を塩漬けして発酵させたもので,肉醤、草醤、穀醤などがあった。
肉醤塩辛魚醤草醤漬物穀醤醤油味噌の原型で、それが日本に伝来して「(ひしお)」と呼ばれていた。
安房から宮中に入った六雁は膳大伴部の職に就いたが、「大宝律令」の制定時から、この職は天皇の食事を掌る内膳司と、饗膳の食事を掌る大膳職に分割された。ただし、主食については大炊寮が掌っており、大膳職は、調味料などの調達・製造・調理・供給の部分を担当していた。
養老令』によれば、醢(肉や魚を塩辛状にしたもの)、醤・未醤(みそ)などの調味料、菓(くだもの)、雑餅(雑穀などの餅製品)などを供給し、管下の組織として菓・餅類を扱う「菓餅所」と醤・未醤を扱う「醤院」が設置された。
そこに「主醤」(ひしおのつかさ)という官職がつくられ、六雁は、主醤として、日本料理の基礎をなす醤油醸造を行っていたとされている。味噌は当時「未醤」(みさう・みしゃう)と書き、主醤が扱っていたことから味噌も醤の仲間とされていたことがうかがえる。
このようなことを由緒として、醤油醸造会社などは磐鹿六雁命を日本料理の始祖「高倍神」としてお祭りしているようでもある。
どうもここのところ、激しい温暖さから少々グロッキー気味の中で伊達巻と伊達氏の関係から、落ちのない変な方向へ話が進んでしまったが、もともと、余り面白い話題もないネタを書いているうちについこうなってしまった。お許しください。
銚子の町は全国屈指の漁港の町であり、江戸時代に利根川水運が開発され、醤油醸造業と漁業で発展してきた。そして、江戸時代には今の千葉県の中ではもっとも大きな町として栄え、銚子で獲れた魚は江戸まで運ばれ、「江戸前」の味を支えていた。
これは、昭和の初期まで続き、銚子の町はとても活気があったようだ。しかし、私が、現役の昭和40年代ごろ、銚子へも時々出張していたが、当時は、本当にさびれていたので、用を済ますと、銚子には止まらずすぐにほかの街へ移り、そこで宿をとったりしていた。
だから、銚子の伊達巻寿司も食べたことがないのだが、今思えば、惜しいことをしたものだ。時代は変わり、今は、けっこう開けていることだろう。銚子の街の寿司屋は江戸前が基本だが、近海でとれた新鮮なネタを使ったものが食べられるようだ。
もし行く機会のある人は、ここで書いたとりとめのない話など思い起こしながら一度味わってみるとよいだろう。

参考:
※1:日本記念日協会 今日の記念日
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:(株)せんにち
http://sennichi.jp/
※3:近代デジタルライブラリー - 東京風俗志. 中
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992087
※4:国立国会図書館デジタル化資料 - 守貞謾稿. 巻1,3-16,18-30,後集巻1-4
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2610250
※5:日本氏族大鑑
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/index.html
※6:戦国大名の家紋
http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/buke_kz.html
※7:『古事記傳』(現代語訳)-雲の筏
http://kumoi1.web.fc2.com/CCP050.html
※8:日本書紀の原文(漢文原文)
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※9:高橋氏文|天璽瑞宝
http://mononobe.digiweb.jp/siryou/takahashi.html
※10:延喜式神社の調査
http://www.geocities.jp/engisiki/index.html
延喜式神名帳 目次index - 神奈備にようこそ
http://kamnavi.jp/en/
ほしひかる麦談義:第31話 料理祖神、磐鹿六雁命の膾料理 ~ 安房、高家神社 ~
http://fv1.jp/hoshi/200901.html
安部氏族を祀る神社 - home.ne.jp
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-3-7.htm
古代豪族
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7.html
食べログ千葉・大久保
http://r.tabelog.com/chiba/A1205/A120501/12005189/
世界帝王辞典>家系リスト
http://reichsarchiv.jp/家系リスト
藤原山陰 とは - コトバンク - kotobank
http://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B1%B1%E9%99%B0
蓬莱飾り - のしあわび本舗 兵吉屋
http://hyoukichiya.com/hosai.html
藤原山蔭 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B1%B1%E8%94%AD

お茶漬けの日

2013-05-17 | 記念日
今日・5月17日は「お茶漬けの日」だそうである。
お茶の製法を発明し、煎茶の普及に貢献した永谷宗七郎の子孫にあたる永谷嘉男が創業した株式会社永谷園が制定。永谷園は1952(昭和27)年に画期的なインスタントのお茶漬け商品「お茶づけ海苔」を発売し、お茶漬けをさらに身近な食べ物とした「味ひとすじ」の理念を持つ食品メーカー。「お茶づけ海苔」は2012(平成24)年に発売60周年を迎えた。日付は永谷宗七郎の偉業をたたえ、その命日(1778年5月17日)に由来する。
若いころ相当な呑兵衛であった私など、夜の食事にご飯を食べることはなかった。この習慣は飲み過ぎ肝臓を悪くしてしまった今でも変わらず、胃の休養のため週一の「飲マンデー」以外は、ご飯は食べず、晩酌のみである。ただし、酒が飲めなくなると困るので、今はお酒は最低限に控えている。
そんな私は、若いころは、しょっちゅう、大坂の会社の呑兵衛仲間とキタやミナミで、また、時には、深夜に、大坂から地元神戸・三宮の飲み屋街にまでタクシーを飛ばして行きつけの店を梯子していたが、さすが、深夜を過ぎて、おなかが減った時などには、よく「お茶漬け屋」に寄ったものだ。
夜食として食べるには、温かくて手軽に食べられ、消化もよさそうな物として、真っ先に思い付く食べ物の一つが「お茶漬け」ではないか。お茶漬けというと、その名の通り、ご飯に熱いお茶や白湯をかけた物や、また、冷めて固くなったご飯を食べやすくし、手早く食事を終える工夫と言った感じのものであるが、世代によってはお茶漬けに対するイメージも異なるだろう。
お茶漬けと言うと私など、すぐに思い出すのが小津安二郎監督映画の「お茶漬の味」(1952年松竹製作、白黒映画)である。同年の毎日映画コンクール佐分利信が男優主演賞を受賞している。

●上掲の画像は映画「お茶漬の味」のポスターである。
映画は、地方出身の素朴な夫(佐分利)と夫にうんざりする上流階級出身の妻妙子(木暮実千代)。この生まれも育ちも価値観も異なる夫婦が、そのギャップに悩みつつ、和解するまでを描いたものである。ちょっとあらすじを書くと以下のようなものである。
妻の妙子が夫佐竹茂吉と結婚してからはもう7・8年になる。信州(長野県)の田舎出身の茂吉と上流階級の洗練された雰囲気で育った妙子は、初めから生活態度や趣味の点でぴったりしないまま今日に至り、そうした生活の所在なさがそろそろ耐えられなくなっていた。
妙子は、学校時代の友達や、長兄の娘節子などと、茂吉に内緒で修善寺などへ出かけて遊ぶことで、何となく鬱憤を晴らしていた。一方の茂吉はそんな妻の遊びにも一向に無関心な顔をして、相変わらず妙子の嫌いな「朝日」(タバコ)を吸い、三等車に乗り、ご飯にお汁をかけて食べるような習慣を改めようとはしなかった。
茂吉と妙子の溝は深まるばかり。妙子が同級生の住む神戸へ旅行している間に、茂吉の海外出張が決まり、妙子に連絡がつかないまま茂吉は日本を発ってしまう。その後、妙子は家に帰ってきたが、茂吉のいない家が彼女には初めて虚しく思われた。しかし,その夜更け、思いがけなく茂吉が帰ってきた。飛行機が故障で途中から引き返し、出発が翌朝に延びたのだとという。
腹が減ったから何か食べようと普段はお手伝いに任せている台所に行き、「お茶漬け」の用意をする二人。食事の準備などほとんどしたことのない妻が糠(ぬか)味噌に手をいれ香の物を取り出す。そして夜更けた台所でひっそりと食事をする二人。手にまだ残る糠の匂いが気になる妻、それを嗅いでみる夫、二人のささやかな会話。
最後に「夫婦とはお茶漬の味なのさ」・・・と、妙子を諭す茂吉。この気安い、体裁のない感じに、妙子は初めて夫婦というものの味をかみしめるのだった。その翌朝妙子一人が茂吉の出発を見送った。茂吉の顔も妙子の顔も、別れの淋しさよりも何かほのぼのとした明るさに輝いているようだった。
この映画、昭和20年代当時の風俗をふんだんに盛り込んでいるのも特徴。「お茶漬けの味」は現在の社会が忘れそうになっている大事な何か・・そう、「夫婦の絆.」について・・教えてくれているように思われるのだが・・・。ラストの「お茶漬」のシーンが、如何にも小津作品らしい。この前に、ご飯にみそ汁をかけて食べる茂吉に、妙子が腹を立てるシーンがある。「汁かけ飯」とでも言おうか、これは、私の祖父もよくしていた。祖父は徳島の出だが、よくご飯の上に味噌汁などをかけて食べていた。このような汁をかけた飯は、まるで猫の餌のようなので、それを蔑して「ねこまんまと」などと呼ぶ地方は、西日本には多くみられるようだ。爺さん子の私などがそれをしようものなら、躾に厳しい父親から「品がない」と怒られたものだ。かける汁は味噌汁が 多いが、すまし汁や豚汁など、味噌汁でない汁をかけてもねこまんまと呼ばれる。汁をかけるのは「欠ける」に通じるので、身内に不幸がある、というようなはなしも聞いた記憶がある。
我々のような一定以上の年代の者には、お茶づけと言えば、ご飯にお茶をかけただけの物や、佃煮や漬物などの具材をほんの少し乗せたご飯にお茶をかけた物というイメージが強いが、今時の若い世代でなどでは、永谷園など、市販の粉末のお茶漬けの素などをご飯にかけたものを思い出すのではないかと思われるほど、今は、色々な「お茶漬けの素」が発売されている。
「飯」(めし)は、イネ科の米、麦、あるいはキビ亜科の穀物に、水を加えて汁気が残らないように炊いた、あるいは蒸した食品であり、また、食事の別名でもある。この言葉は「召す」の連用形「召し(めし)」が名詞になった語で「召し上がる物」という意である。丁寧語で「御飯」(ごはん)と呼ばれるものは、現在では特に米を炊いた食品を指す言葉となっている。
人は生米等のβデンプン(デンプン参照)をほとんど消化できず、食べてもうまみを感じないが、炊飯の加水と加熱により、デンプンの状態に変化が生じ、糖がたくさん繋がった高分子 の固い状態から、単分子化して間に水分が入り込み、ふっくらとした柔らかい状態にする事で美味しいご飯として食べる事ができるようになるのだそうだ。
つまりβ化していたデンプンをαデンプンに変化(α化)した事によって、固い米から柔らかく消化吸収に適したご飯が炊き上がっていたのだが、その状態は永続的なものではなく、温度が下がる事で単分子間に入り込んでいた水分が抜け、α化していたデンプンはまたβ化していき、ご飯は固いパサパサした食感へと変化していってしまう。
そのため、β化したデンプンを再びα化させるには温度を上げる事も効果的で、水よりもお湯をかけた方がより冷ご飯は食べやすくなり、お湯をかけたご飯は「湯漬け」と呼ばれているが、古くから食べられていたのは、この白湯を掛けたもの、いわゆる湯漬けである。
日本への稲作、米食文化伝来とともに始まったであろうと考えられているが、当時の記録などは発見されておらず、実際、いつ頃から始まったのかは定かではないが、例えば、乙巳の変の折、最初に蘇我入鹿の暗殺を命じられた者(子麻呂等)が、宮中に赴く前、水をかけた飯を飲み込んだ、という逸話がある。
日本書紀』巻廿四(※1参照。)皇極天皇四(六四五)年六月戊申の条に、
「子麻呂等。以水送飯。恐而反吐。」
訳:「子麻呂等、水を以(も)て送飯(いひす)く。恐(おそ)りて反吐(たまひいだ)す(※2参照)。
・・・とあることからも、相当古くから存在したであろうことは伺い知ることができる。
そして時代が下った平安時代には、『枕草子』(三巻本※3参照)の189 条「宮仕人のもとに来などする男の」には、以下の記載がある。
「宮仕人のもとに来などする男の、そこにて物食ふこそいとわろけれ。食はする人も、いとにくし。思はむ人の、「なほ」など心ざしありて言はむを、忌みたらむやうに口をふたぎ、顔をもてのくべきことにもあらねば、食ひをるにこそはあらめ。
いみじう酔(ゑ)ひて、わりなく夜ふけて泊まりたりとも、さらに湯漬をだに食はせじ。心もなかりけりとて来ずは、さてありなむ。
里などにて、北面より出だしては、いかがはせむ。それだになほぞある。」
意訳:「宮仕えしている女房の局を訪ねて来たりする男が、女の部屋で食事をするなんてのは、全くみっともない。食べさせる女房も、実に腹立たしい。愛する女が、「ぜひに」などと、心をこめてすすめるのを、忌み嫌うかのように、口をふさぎ、顔をそむけるわけにもゆかないので、やむを得ず食べているのでしょうがねぇ。男がひどく酔って、どうしようもなく夜が更けてしまって泊まったとしても、私は、決して湯漬さえ食べさせません。「気の利かない女だ」と思って、来なくなるなら、それはそれでいいのです。」
と、・・・、「湯漬け」が登場するが、恋愛感情で訪れた男が、食事をするのが清少納言には相当お気に召さなかったようだ(※4参照)。
また、『源氏物語』五十二条「蜻蛉」(かげろう)に、夕暮れの宮中で薄絹の着物をまとった女性たちが、氷室から取り出した氷をかち割って紙に包み、胸や額などに押し当てて涼をとっているくだりが描かれている(※5の第五章・第一段・第三段 「小宰相の君、氷を弄ぶ」参照)。
同じく源氏物語第26条「常夏」(とこなつ)には、光源氏の息子・夕霧が友達たちと水飯をかき込んでいるそばで光源氏がお酒を楽しんでいる場面がある(参考※5の第一章、第一段。1.1.3参照)。この様に、平安時代から、夏には氷水をご飯にかけて食べる(水飯=すいはん)、その他の季節には湯をかけて湯漬にする習慣が多くあったことを示している。
さらに、『今昔物語』(※6の「三条中納言、水飯を食う語」参照)や『宇治拾遺物語』(※7の巻第七ノ三 「三条中納言水飯の事」参照)には、肥満に悩んだ三条中納言(藤原 朝成)が医師に相談したところ、湯漬けや水飯でカロリーを制限するように薦められるが、しばらくして、朝成から少しもやせないので、食事を見てほしいとの連絡があり家に出かけた。
すると、中納言朝成の食事の様子はお椀にご飯を大盛りにし、水を少しかけ。水飯をかきこみ。鮎の熟れ鮨や、干瓜を数個ずつ頬ばり、何杯もお代わりするというものであり、医師はあきれて逃げ出してしまったという逸話が登場している。
この時医師は、ご飯の分量を水で増やし満腹感を得させる目的で「水漬け」や「湯漬け」をとるよう指導したものだが、1 杯のお椀のエネルギーが少なくても,何杯も食べれば効果はないのは当然のこと。医師があきれるのは当然であるが、結構こんな人多いのかもしれない。日本での文字となっている肥満治療の最古のもののひとつではないかといわれている。
私たちが子供の頃もそうであったが、湯漬けと水飯が広く食べられていた当時、炊いた飯は、おに移してから食すのが一般的であった。現在のように炊き上がった飯を保温する技術は無く、炊き立ての飯も時間の経過とともに冷える一方であった。前段でも書いたように、温度の下がった冷や飯は、水分も減少し、何よりデンプンの老化が著しいために、炊き立ての食感は失われてしまう。この冷えてしまった飯を美味しく食べる手段としても、特に熱い湯を掛けて飯を暖めたり、水分を補う湯漬けは非常に有用であったことだろう。
湯漬けと水飯は、何も身分の低い者だけが食べたわけではなく、古事類苑の飮食部/の段には足利幕府(室町幕府)時代ニハ、酒宴ノ後ニハ多ク湯漬ヲ用イルヲ例トシ・・・」(※8参照)・・との記載が見られるように、鎌倉時代から戦国時代末期まで、特に冬季において武士は湯漬けを常食としていたようだ。
例えば、足利義政は、昆布や椎茸で出汁を取った湯を、水で洗った飯にかける湯漬け(現在で言う出汁茶漬け)を特に好んだとされる(NHK教育『歴史に好奇心 あの人は何を食べてきたか(2)足利義政の湯漬け』)。
また、永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦い前夜、今川義元軍の尾張侵攻を聞き、清洲城織田信長は、まず幸若舞敦盛』の一節を謡い舞い、陣貝を吹かせた上で具足を着け、立ったまま、湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣したという有名な伝記(『信長公記』)がある。当時、出陣前には、米飯に熱めの湯をかけた湯漬けを食べるのが武士の慣わしでもあった。何よりも、手早く食べられるところから武士が湯漬けを好んだのだろう。
このように、公家・武家を問わずに湯漬けが公式の場で食されることが多かったために有職故実の書でも湯漬けを食べるための礼儀作法について記されているものがある。鎌倉時代の永仁3年(1295年)前後に書かれたとされる有職故実的な料理書『厨事類記』(『群書類従』に収録されている。通し番号861、飲食部巻364)の中には「湯漬菜一種」とあり(p.0377 参照)、湯漬けには香の物や豆醤(まめびしお)、焼味噌などを1品合わせて出すべきことが記されている。また、江戸時代の文化9年(1812年)に書かれた『小笠原流諸礼大全』には湯漬は最初は香の物から食し、中の湯は御飯を食べている際にはすすらずに食後にお茶ばかりを受けて飲むことなどが記されている(Wikipedia)という。
近・現代では、作家・林芙美子が随筆『朝御飯』において「「飯」を食べる場合は、焚きたての熱いのに、梅干をのせて、冷水をかけて食べるのも好き。」と書いている(※9参照)。
こう見てくると、「お茶漬け」は、この湯漬けの白湯(さゆ)のかわりにお茶を使ったに違いないと思われるかもしれない。しかし、、現代の茶漬けに』見られるようないろんな物を飯の上にのせる茶漬けがあるということは、むしろ、もともとお茶に、さまざまな具やお米を混ぜて煮る、・・という食べ物があって、それのインスタント版としてお茶漬けが生まれたのではないかと、考えることもできるようだ。
室町時代末期頃には芳飯(ほうはん)という料理が出現したという。苞飯,法飯,餝飯などとも書き、江戸前期の食物本草書『本朝食鑑』(※10)は、これはもともと僧家の料理で、飯の上に、野菜や乾魚を細かく切って煮たものあるいは焼いたものをのせ、汁をかけて食う、としている(※8:古事類苑全文データベース飲食部五飯p415 参照)。
そして、江戸時代初期のレシピ集である『料理物語』には、「奈良茶飯」というものが出ているが、これなど、小豆や栗などを米と一緒にお茶で煮込んだもので、江戸時代に川崎宿にあった茶屋「万年屋」の名物となった。

●上掲の画象が奈良茶飯。『江戸名所図会』より。この図は、『東海道中膝栗毛』において弥次さん喜多さんが奈良茶飯を食べたと記されている川崎の亀屋万年堂で、ここの奈良茶飯は有名であった。江戸名所図会には、挿図のみが掲載され、記事がないが、当時は説明を要しないほど知名度の高い旅館兼茶屋であり、歌「お江戸日本橋」にも「(前略)六郷(ろくごう)わたれば 川崎の万年屋(後略)」とうたわれた。

お江戸日本橋 【童謡とわらべ歌】 - YouTube

奈良茶飯は、元来は奈良の興福寺東大寺などの僧坊において寺領から納められる、当時としては貴重な茶を用いて食べていたのが始まりとされている。本来は再煎(二番煎じ以降)の茶で炊いた飯を濃く出した初煎(一番煎じ)に浸したもので、茶粥のようなものであった(※11参照)。
わが国のお茶は、遣唐使が往来していた奈良・平安時代に、留学僧が、唐よりお茶の種子を持ち帰ったのが始まりとされているが、平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されているのが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれている(※10:「お茶街道」・ お茶の書物と記録2 参照)。しかし、このころのお茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などのごく限られた人々だけが口にすることができたものであった。
このお茶の栽培は鎌倉初期に栄西(えいさい)禅師が南宋)から帰国する際、茶を持ち帰り、その種子を佐賀県脊振山に植えたのが始まりだといわれている。
その後、京都の明恵(みょうえ)上人が栄西より種子を譲り受け、京都栂尾(とがのお)に蒔き、宇治茶の基礎をつくるとともに、全国に広めたとされている。
南北朝時代の成立になるとされる『異制庭訓往来』(Wikipediaでは虎関師錬著とされるが疑問あり)には以下のように書かれている。
「我が朝の名山は梶尾を以て第一となすなり。仁和寺・醍醐・宇治・葉室・般若寺・神尾寺は是れ補佐たり。此の他、大和室尾・伊賀八鳥・伊勢河居・駿河清見・武蔵河越の茶、皆是れ天下指言するところなり。仁和寺及び大和・伊賀の名所を処々の国に比するは、瑪瑙を以て瓦礫に比するが如し・・・。」(※11:「お茶街道」お茶の歴史年表参照)とある。
また、「分類草人木」に宇治七名園の存在が記されており、宇治七園までの流れと当代の茶風を説き、茶道具の名が出てくることから、 この当時、既に、今日で言う抹茶を用いた喫茶法が行われていたことが判るという。
栄西は『喫茶養生記 』の中で茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用などを説いているが、その栄西が宋で身近に体験した抹茶法は、お茶の葉を蒸して乾燥させるという単純なものであり、これが日本国内に普及し、のちに茶の湯(茶道)となった。
しかしその一方で、新しいスタイルとして、庶民にも取り入れられたのが「振り茶」(※12参照)だという。「振り茶」とは、手製の茶筅(ササラ)で煎じ茶をかき混ぜ、泡立てて飲むお茶のこと。この泡立てたお茶に、色んな具を入れて食べたり、女性が集まってこのお茶を囲んで飲みながらワイワイ騒ぐなど、日本全国に普及していったそうだ。
この振り茶、現在でもその習慣が残っており、島根のぼてぼて茶や、香川のボテ茶、沖縄のぶくぶく茶などに見られる(※13:参照)。私は、香川のボテ茶、沖縄のぶくぶく茶は知らないが、松江へ行った折にぼてぼて茶はいただいたことがある。そして、記念にぼてぼて茶碗を一つ、買って帰り、家で真似事をして楽しんだのを思い出す。
●以下の画像が、その時買って帰った「ぼてぼて茶碗」である。

江戸時代前期にはまだ、今一般的に言われているところのおをかけて食べるお茶漬けは出てこない。「お茶」を使った、お茶漬けのはじまりは番茶煎茶が庶民の嗜好品として普及する江戸時代中期以降を待つ事になる。
煎茶には旨味成分のグルタミン酸ナトリウムが含まれる事や、お茶特有の風味や色合いが加わる事で、白湯をかける湯漬けよりも数段美味しくなるが、このころ庶民においては、番茶をかけるのが一般的であった。
今日の茶漬けのはじまりは、当時商家の奉公人らが、忙しさから仕事の合間に食事を迅速に済ませる為にご飯にお茶をかけてかき込んだことからだと言われているようだ。奉公先での質素な食事の中で漬け物は、奉公人にとって自由に摂れるほぼ唯一の副菜(おかず)であり、これだけは、巨大な大鉢などに山のように盛られることが多かったという。そのことも茶漬けという食形態の定着に大いに関係したと推測される。
江戸では屋台と惣菜の移動販売の外食文化が進むが、江戸での固定の料理店の最初は、承応2年(1654年)の明暦の大火から元禄期のいずれかの頃、浅草金龍山(浅草寺)門前の「茶屋」とされているようだが、この茶屋は茶漬屋で奈良茶を提供していたものらしことが守貞謾稿に書かれている。(※8:「古事類苑」の四・飮食部/料理下守貞謾稿・五生業p332参照)。
しかし、「奈良茶」と言えば、奈良茶粥・奈良茶飯等が知られるが、ここで供された「奈良茶」は、それらとは異なり、ここで供された「奈良茶」は茶飯・豆腐汁・煮豆等でととのえた、今日で言う定食のようなものであったようだ(※14も参照)というから、川崎宿の万年屋と同じようなものだろう。
その後、元禄時代には、お茶漬けを専門的に食べさせる「茶漬屋」も登場し、庶民のファーストフードとして親しまれるようになり、一つの料理として成立したという事らしい。1952(昭和27)年には、具やお茶、出汁を粉末化したインスタントのお茶漬けの素・永谷園の「お茶づけ海苔」が考案され、今日のお茶漬け事情を迎える事となる。
これらは乾燥させた具(かやく)と茶(抹茶)や出し汁の粉末を混ぜたもので、小袋に入っており、袋の中身をご飯の上にかけて湯を注ぐとそのまま茶漬けになるという簡便な製品である。
お茶漬けはさまざまな地域で、その地の特性を活かした具材が使われ、非常に多くのバリエーションが存在する。不思議な事に日本と同じく米を主食とし、お茶を好む中国ではお茶漬けという食習慣は見られないそうだ。あっさりしていて、食欲のない時でもサラサラと流し込めるお茶漬け、これも、日本固有の食文化といえるようだ。
そんなお茶漬けを愛し、ひとつの「料理」として見ていた人がいる。芸術家にして料理家・美食家として有名な北大路魯山人(1883~1959)である。そして、魯山人はお茶漬けについての随想を多く書き遺している。『お茶漬けの味』の中では以下のように言っている。
「さて、お茶漬けの話だが、これにしてもそれぞれ段階があって、ただ飯の上に塩と茶をかけて美味い場合もあるし、たい茶漬けが美味い場合もある。体の状態によって、時々の好みが変ってくる。たい茶漬けが今日美味かったからと言って、明日も明後日もつづけたらどうであろうか。要は、正直に自分の体と相談して、なにを要求しているかを知るべきである。うなぎがいいか、牛肉がいいか、あるいは沢庵の茶漬けか、その時々の状態によって、好むところのものを食しておれば、誠に自然で美味を感じる。が、これを自然にやらないで、「高いものは美味そうだ」「安いものは食いたくない」と言って選択しているのを見聞きするが、こんな考え方は、茶漬けであっても一考を要する。茶漬けを食いたいと要求する肉体が、自分の好きな茶漬けを食えたらこんな幸せはあるまい。これがすなわち栄養本位と言えよう。この理論は茶漬けにかぎらず、どんな場合にも成立する。」・・と。
他にも『京都のごりの茶漬け』『車蝦の茶漬け』 『塩昆布の茶漬け』『塩鮭・塩鱒の茶漬け』 『てんぷらの茶漬け』 『納豆の茶漬け』
『海苔の茶漬け』『鱧・穴子・鰻の茶漬け』『鮪の茶漬け』 など、以下参考の※16「青空文庫」で読めるので興味のある人はお読みになるとよい。
(冒頭の画像は茶漬け 『地口絵手本』NHKデーター情報部編『ヴィジュアル百科江戸事情』第一巻生活編より。)。

参考:
※1:日本書紀、全文検索
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※2蘇我入鹿暗殺事件
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/27.htm
※3:枕草子(三巻本)
http://www.geocities.co.jp/hgonzaemon/makurasannkan.html
※4:宮仕へ人のもとに
http://blog.goo.ne.jp/miyabikohboh/e/b077068b8b57255c7316e5bbcf93c8d9
※5:源氏物語の世界:渋谷栄一著
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/
※6:かたかご ・今昔物語( 原文 / 現代語訳 )
http://yamanekoya.jp/konzyaku/index.html
※7:日本古典文学摘集 宇治拾遺物語
http://www.koten.net/uji/
※8:古事類苑全文データベース:国際日本文化研究センター
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/
※9:林芙美子 朝御飯 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000291/files/45307_18535.html
※10:本朝食鑑 - 国立国会図書館
http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E6%9C%AC%E6%9C%9D%E9%A3%9F%E9%91%91+
※11:料理物語-茶之部
http://marchhare.jimdo.com/%E8%8C%B6%E4%B9%8B%E9%83%A8/
※11:「お茶街道」
http://www.ochakaido.com/index.htm
※12:日本の喫茶文化:振り茶
http://www.o-cha.net/japan/dictionary/japan/culture/culture04.html
※13:『第2回世界茶文化学術研究会公開シンポジウム』~喫茶養生記と宋代の茶文化
http://ameblo.jp/ochafestival2013/entry-11371934876.html
※14:浅草池波正太郎参り
http://tuesdayxx.exblog.jp/19840411/
※15:作家別作品リスト:No.1403北大路 魯山人 
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1403.html#sakuhin_list_1
※16:「青空文庫」:作家別作品リスト:No.1403北大路 魯山人 
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1403.html#sakuhin_list_1
茶の湯の歴史
http://wa.ctk23.ne.jp/~take14/History_of_tea_ceremony/rekisi_1.html
故実書年表
http://www.kariginu.jp/monjo-history.htm
永谷園HP
http://www.nagatanien.co.jp/
茶漬け - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E6%BC%AC%E3%81%91

1937年大阪・御堂筋の拡張工事が完了。幅5.5mの道路を44mに拡幅

2013-05-11 | 歴史
御堂筋(みどうすじ)は、大阪府大阪市の中心部を南北に縦断する国道であり、現代の大阪市における南北幹線の基軸である。
大阪市は大阪府のほぼ中央に位置する市で、同府の府庁所在地であり、政令指定都市に指定されている。
1889(明治22)年4月1日の市町村制開始の際に市制施行した日本の最初の市である。そして、日本を代表する商業地であるが、観光地としても栄えている歴史ある都市である。
大阪市は24区にわかれており、区の数は日本最多である。
エリアは、梅田天満福島など、JR大阪駅梅田駅)を中心とした大阪市街地北部を総称した「キタ」と呼ばれるエリア、心斎橋難波阿倍野周辺など大阪市街地の南部を総称して「ミナミ」と呼ばれるエリア、そして港区ユニバーサルスタジオから安治川(大阪府大阪市西区にある地名)を隔てて南に位置するエリア天保山の3つのエリアに分類される。
御堂筋は、大阪市の中心部である「キタ」のJR大阪駅前から淀屋橋本町・心斎橋を経て「ミナミ」の南海難波駅前間を貫く目抜き通りにあり、全長は約4km、幅員44m、片側6車線の道路であり、大阪駅に近い梅田新道交差点より北側は国道176号線、南側は国道25号線に指定されている。
尚、梅新南交差点より南側は南行きの一方通行である。地下には大阪市営地下鉄御堂筋線が敷設されている。
街路樹のイチョウでも有名な、大阪を代表する道路である。

大阪が位置する上町台地は、古代には「難波潟」(難波江に同じ、難波津のあるところ)と呼ばれる湿地に突き出した半島状の陸地で、「浪速(なみはや、なにわ)」、「難波(なにわ)」、「浪花(なにわ)」、「浪華(なにわ)」などと称されてきた。
縄文時代のころにあたる約7000年前、現在の上町台地は、海の中にある半島のかたちで存在していたことがわかっており、その範囲は、天満橋あたりを北端として、南にある四天王寺(天王寺区)、そこからさらに南西にある住吉のあたりまで、大阪市内をざくっと縦断していた台地であった。
そのように海に囲まれたところだったがゆえに、上町台地は外敵も侵入し難くく、水資源も豊富で、植物や動物、そして人間にとっても比較的生活しやすい環境だったのではないかといわれており、そのため、最初に日本列島あたりへ人々がやってくるとすぐにここで生活する人々が現れたみたいである。
その後、農耕文化が広まって一帯に集落もできてきたりするが、7世紀以降、国際交易が盛んになるなかで、海に囲まれたこの上町台地が重要な位置を占めるようになる。
難波津や住吉津(津は港のこと)を通じて物資や技術、文化が入ってくるようになり、時の天皇がここを拠点に中国大陸や朝鮮半島との交流を行ったり、聖徳太子が中国からやってきた仏教の興隆を願って日本で初めてのお寺・四天王寺を建立したりした。
そして645 (大化元) 年には難波京(難波宮)が営まれることにもなった。
都としての難波宮の存在は長くはなかったが、国際交易港・国内の物流の要所としての上町台地の役目は時代を経ても変わらず、織田 信長の死後その領土を継承した豊臣秀吉は、1583 (天正11)年、この上町台地の北端に位置する、石山本願寺の跡地を 直ちに、総石垣づくりにした大阪城を構えることとなった。
その一方、城の南、上町台地に続く玉造には大名邸や武士住宅を集中させて防御を固め、城の西側、既成市街地には町人を呼び寄せて多くの町屋を造り、北の天満本願寺寺内町とした後、寺町に変えた。
1598(慶長3)年、秀吉は、死に臨んで、惣構(そうがまえ)の}普請を指示、台地の南側に、空堀(惣構)を儲け、惣構内の町屋を東横堀(惣構)外の船場に出し、人質を住まわせる大名邸を造っている。
秀吉の没後は、筆頭の大老徳川家康が西の丸に入って政務をみ、そこにも天守を建てた。また、関ヶ原の戦いの際には西軍の主将となった毛利輝元が西の丸に入った。


上掲の画象は、その頃の大坂の景観であり、北から南を願望したものである。画像・文などは、私の蔵書『週刊朝日百科 日本の歴史』27号から借用した。字が小さく見難いので、赤で四角く囲っているものがあるが、大阪城に近いところの南北の筋が谷町筋である。それに並行して、右の方の南北に走っているのが御堂筋、その右上下に南御堂、北御堂が見られるだろう。詳しくは、拡大画像を見られるとよくわかる。
以下の画像、向かって左部分をクリックするとその部分の拡大画像が、右部分をクリックすると右部分の拡大画像を見ることができる。

このように大阪は、大阪城築城とほぼ同時期に、船場地区を中心に御堂筋周辺の開発も始まり、街区は基本的に42 の正方形で、街路は碁盤目状に直交している。船場の街並みは、大坂城の西に位置することから東西方向が竪(たて)となり、東西方向の街路を通(とおり)と称し、計23本。当初の幅員は4.3間に設定されていた。一方、南北方向は横(よこ)となり、南北方向の街路を筋(すじ)と称し、計13本。当初は補助的な街路とされたために幅員は3.3間と通に対して狭く設定されていた(参考※1参照)。
町割りは基本的に通に沿った両側町で、東から丁目数にして5程度の町が多かった。ただし、西横堀筋は全て南北方向の横町割りで、渡辺筋や御霊筋にも横町割りが見られた。明治以降に通と筋の主従関係が逆転したが、東西方向の竪(縦、たて)町割りは依然健在で、平成以降は竪町割りに統一されているようだ。
筋と通のことについては、大阪市内の筋・通一覧および、参考※2:「大阪市立図書館」の調べる・相談する>おおさか資料室>よくある質問>“通り”と“筋”を参照されるとよい。

御堂筋の名は、上掲の図、また、※1の宝暦大阪図(1759年=宝暦9年)にも見られるように、道路脇にある通称北御堂(正式名称本願寺津村別院)と通称南御堂(正式名称:真宗大谷派難波別院)を繋ぐ道であることに由来するといわれている。
浄土真宗本願寺派と大坂との関係は古く、本願寺の蓮如が1496(明応5)年に石山御坊(後の石山本願寺)を現在の大阪城の地に建設したのが始まりとされる。
織田信長との「石山合戦」のあと焼失し、1951 (天正19 )年には豊臣秀吉の寄進により京都に本山が移転する。津村別院は当初、「津村御坊」の名で1597(慶長2)年に造られた。
難波別院は浄土真宗真宗大谷派と呼ばれる宗派であり、1596 (文禄5 )年、真宗大谷派の開祖である教如が、現在の北区の天満橋天神橋の間に位置する「渡辺の地」に大谷本願寺を開創したことに始まる。
しかし、1583 (天正11 )年、豊臣秀吉が石山本願寺跡に大阪城を築城。城下町を整備していくにあたり、石山本願寺に隣接して建っていた大谷本願寺は、秀吉の命により1598(慶長3 )年現在地に移転した。
江戸時代は、これら南北の御堂を併せて「御堂さん」として親しまれていたそうだ。そして、大阪を南北に貫く現代の御堂筋の名づけ親は関一(せき はじめ)元大阪市長だそうである。この御堂筋とは切っても切れない関係にある関一市長のしたことはこの後でまた記すことにする。

Wikipediaによれば、文献上に、御堂筋の名が初めて現れるのは、1615(元和元)年、大坂夏の陣落人狩りなどを記録した徳島藩の「大坂濫妨人落人改之帳」の中で、捕らえられた男女のうち、男1人の居場所として「大坂御堂筋」と記されているのが最初だそうである。

ここに珍しい名前「濫妨人」が出てくるがこれは「らんぼうにん」のことである。
現代使われている言葉「らんぼう」を国語辞書で引くと「乱暴/濫妨」の字が出てくるが、「乱暴」と「濫妨」では、発音は同じでも意味は相当違ったものである。
戦国時代の戦場は「濫妨狼藉」と「苅田狼藉」の世界でもあった。
ここで言う「濫妨」とは、村や町を襲って家々に火をつけたり家財や人や牛馬を奪う事をさしている。戦闘の最中や直後にはこれがかならず行われていたようであった。
この濫妨狼藉の人を奪い取る目的には2つあったようだ。
一つは身代金目当てであり、村や町に多くの親族をもっている有力者やその家族であった場合は、親族が身代金と引き換えに奪い取られた人を請戻した。
そして、身代金があてにできないような人々の場合は、「人取り」(人捕り)を行ったものが自家の下人として働かせるか、もしくは「奴隷商人」などに売り渡して金に替えるかであった。
戦国期から江戸初期まで、そもそも戦場で人をさらう=略奪することがことさら“悪事”であるとは思われていなかった。人をさらって売り飛ばし、それを利益、手柄としてきた主役は、主として敵方の所謂「雑兵」(ぞうひょう)たちであった。
戦国大名の軍隊で騎乗の武士は大体1割程度であり、そのほかは、「身分の低い兵卒」・・・雑兵であった。戦国時代の戦争では、城を攻める時にはまず雑兵が敵国の村に押し入り、放火、略奪、田畑の破壊をするのが常道であったのだ。
領内が敵に濫妨されるのを防ぎ、配下の兵士に敵地で濫妨させてやることが、領主の器量の見せどころでもあったようだ。
敗戦の落人をまっていたのはこのような敵による残党狩りばかりではなかった。力尽きた彼らからめぼしいものを奪おうと落ち行く先々で土豪や庶民までもが待ち受けていた。
良く知られている山崎の合戦で敗れた明智光秀も土民の槍にかかっている。
落人の中でも、特に力のない女子や子供は悲劇であった。主人の庇護を失った子女が安寿と厨子王のような境遇に落とされたことも十分にうなずけることである。


上掲の画象1枚目は、『大坂夏の陣図屏風』(部分)に描かれている戦乱に逃げ惑う女達の姿である(週刊朝日百科日本の歴史27号より)、また、2枚目も、同じく、同屏風絵(部分)に描かれている若い娘を拐かそうとする雑兵の姿を描いている(同2729号より)。
『大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵。重要文化財)は六曲一双の屏風画である。これは黒田長政が徳川方の武将として大坂夏の陣(1615)に参戦したあと、その戦勝を記念して作らせたもので、現存する黒田家文書によると、長政自身が存命中に自ら作成を指示したとされているという。
黒田長政は播磨国姫路城で豊臣秀吉の軍師である黒田孝高(官兵衛・如水)の長男として生まれ、秀吉に仕えた戦国武将であった。
秀吉の死後、関ヶ原の合戦(1600年)では東軍として戦い、東軍勝利の立役者の一人となる。その功績で筑前・福岡藩50万石の藩主になった人物である。
「大坂夏の陣図屏風」の右隻の六曲には、徳川軍と豊臣軍の戦闘場面が描かれている。そして左隻には大坂城から淀川方面へ逃げる敗残兵や民衆、それを追いかけたり待ち受けたりする徳川方の武士・雑兵が描かれている。この左隻の中に、上記のような「濫妨狼藉の現場」が描かれているのである。
戦国時代における「奴隷狩り」や「奴隷売買」を詳述した本として、藤本久志・立教大学名誉教授の『新版 雑兵たちの戦場 - 中世の傭兵と奴隷狩り - 』(朝日選書)があり、この本の表紙に「大坂夏の陣図屏風」の画が使われており、この「大坂夏の陣図屏風」の画と共に、この本の内容から奴隷狩り・奴隷売買の部分を詳しく紹介しているのが、以下参考の※3、※4、である。興味のある人は見られるとよい。
また、『雑兵たちの戦場』の中には、以下のような興味深いことが書かれているそうだ。
“幕府は戦争が終わった後の「落人改あらため令」の中で、大坂より外で略奪した人を解放し返せ、との命令を出している。この幕令をうけた蜂須賀軍は、ただちに自軍の奴隷狩りの実状を調査し、その結果を「大坂濫妨人ならびに落人改之帳」という文書にして幕府に提出した。
この文書によると、略奪された人の数は、奉公人男 17人女33人計50人。町人男 29人女47人計76人、子ども男 35人 女16人計51人、合計男81人女96人計177人(奉公人は「武家の奉公人」の意味)と徳川幕府に報告している。
これを見ると、成年男子は全体の4分の1に過ぎず、明らかに女と子供が多数を占めている。
蜂須賀軍は「自軍の人取りはすべて戦場の行為であり、合法だ」と主張していて、それを証明するのが「濫妨人改之帳」を提出した狙いであったという。
合戦で捕獲される人間の多くが女と子供であったという傾向は、蜂須賀軍に限らず、またどの合戦かに拘わらず、大体共通していたことのようだという。男より女・子供の方が捕獲し易いことは、説明するまでもないだろう。

江戸期に入ると、住友鴻池淀屋などの豪商が活躍した。
住友・鴻池と並んで淀屋が出てくるが、淀屋は、江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商である(淀屋のこと詳しくは※5参照)。
大阪夏の陣で荒廃した町を復興させようという徳川幕府の政策のもと、材木商であった「淀屋」初代・淀屋常安が、中之島の開拓を行い、そこに大名の蔵屋敷が次々と建てられ、諸藩が自国の産品を商うことで、大阪の町が栄え、「天下の台所」と呼ばれるようになった。
常安が残した最も大きなものは、先物取引のシステムであった。徳川幕府は米経済を基盤としていたから、諸藩は米を蔵屋敷に蓄え、必要に応じて換金し、藩経済を運営していた。
しかし、取引が米問屋の間で個々に行われていたために品質や価格がまちまちであった。
常安は、これに目を付け、幕府に米市場の設置を願い出て米の取引所を開設。諸大名は、その水運の便利さと、蔵屋敷に近いこともあって、こぞって米市場へ米を持ち込むようになり、やがて米相場が立ち、米の価格の安定と品質の向上に寄与することになった。
現在の地名「淀屋橋」は、米市に集う人々のために、二代目が架けた橋に由来するそうだ。豪商淀屋が天下の台所としての大阪の基礎を築き、淀屋橋は商都大阪の中心となっていく。
淀屋は4代目淀屋重当の頃、最も繁昌したが、彼の死後米市場は堂島へ移った。
そして1730(享保15)年に幕府により先物取引が正式に承認された。堂島米会所(※6参照)は世界初の公設先物取引市場だといわれている。
そして、金融の今橋、薬の道修町などが形成され、懐徳堂適塾といった学問所ができ、活気ある街になった。

江戸時代以来御堂筋と呼ばれていた区間は、もともと本線中の北御堂と、南御堂の門前の東側を通る在来の道(船場の淡路町 - 博労町間)においてのみで、同区間以北では淀屋橋(土佐堀川)を渡って中之島へ出る道であることから「淀屋橋筋」と呼ばれていた。
現在のように一本道ではないが大江橋(堂島川)と蜆(しじみ)橋(曾根崎川)を渡って曾根崎新地へ出ることもできた。
しかし、同区間以南では順慶町(現在の町名は南船場)通など東西方向の通が主体となり、名称らしい名称すらなく、長堀川には架橋されず末吉橋通で完結していた。
また、淡路町通との交差点では屈折も見られ、道幅は3間(約5.4m)ほどしかなく、堺筋難波橋筋心斎橋筋などと比べて見劣りのする、人通りの少ない道であった。

明治期においても東西軸である「通り」が交通の中心であったが、梅田難波に駅ができると、南北軸の必要性が高まった。
大正時代に入ると、大阪市助役から、第7代大阪市長となった關一(せき はじめ)により、大規模な都市計画事業が打ち出された。
御堂筋は、大阪の交通の根幹としてだけではなく、近代都市大阪のシンボルとして計画された。
既に大正8年から調査研究が開始されていたが、大正10年内閣で認可され、1924(大正13)年に更生第一次都市計画事業として決定した。それまで幅54mほどであった道を、幅44m、延長4370mの道路にし、しかもその下に地下鉄を建設するという大事業であった。
1926(大正15)年から地下鉄御堂筋線建設と合わせて拡幅工事が行われた。財政難と用地確保に時間がかかったこと、また技術上の困難が多かったことなどから、翌・1937(昭和12)年5月11日に完成し、ほぼ現在の姿となった。
新橋(長堀川)、道頓堀橋(道頓堀川)が架橋されたのはこの時である。また、この工事の影響で北御堂が移動し、南御堂とともに沿道に並ぶ形になったため、このときから「御堂筋」がそのまま本線の名前として採用され、使われるようになった。
また、地下鉄は、1933(昭和8)年5月20日、梅田駅(仮) - 心斎橋駅間 (3.1 km) が開業。1935(昭和10)年10月6日には、梅田駅本駅が開業。 10月30日に心斎橋駅 - 難波駅間 (0.9 km) が開業し、来たから南までつながった。
コンクリートとアスファルト全面舗装の御堂筋は、路面を、高速車道、植樹帯、緩速車道、歩道に分けられ、完成当初の車道は中央部分が「高速車道」、いわゆる側道部分が「緩速車道」として設計されており、緩速車道は牛馬車や荷車、自転車、そして人力車などの軽車両の通行に供されていた。車社会となった現代においてはその役割は変化したが、戦前の穏やかな都市の雰囲気が偲ばれる。
また、歩道と植樹帯には市内において初の街路灯が設置された。街路灯とともに美しい景観を添えるイチョウ並木は、建設当時からのもの。
1934(昭和9)年から緩速車道の分離帯に2列、歩道に2列の植樹が始まり、計928本が植えられた(御堂筋の歴史など詳しくは、参考※1:また、※7の御堂筋資料館など参照)。
奥の細道』で著名な江戸時の俳諧師松尾芭蕉
その芭蕉の終焉の地は、1694(元禄7)年10月12日、場所は大坂 南久太郎町御堂ノ前 (現大阪市北久宝寺町三丁目)花屋仁右衛門貸座敷であったという(花屋仁右衛門での臨終の様子は、参考※8のここ参照)。
また、この場所は、御堂筋拡幅により現在は御堂筋の車線上にある。そのため、南御堂の御堂筋を挟んで向かい側、車線の分離帯に「このふきん芭蕉終焉ノ地」と刻まれた碑が建てられている。以下がそれである。

また、南御堂の境内には、芭蕉生前の最後の句の1つ『旅に病で 夢は枯野を 駆けまはる』(ここ参照)の句碑がある。

上掲の図は、拡幅完成後の横断構成図。参考※1の国土交通省近畿地方整備局のものを借用。
昭和初期、大阪市長関一の計画のもと、旧来の狭い道を一気に現在の幅にまで拡張したこの工事では同時に地下鉄の建設までもが行われた。まだ、自動車時代の到来する前に、これほど巨大な道路を作ることには当初批判も大きかったようだが、関の先見性は後に高く評価されることになった。
当初より電線を全て地下に配し、イチョウ並木をつくり、周辺ビルのスカイライン(風景)100尺規制により、高さは約30m以内に制限した美しい景観をもつメインストリートとして注目を集めてきた。
現在は、ビルのスカイラインは50mに緩和され、商業施設や、オフィスビルが立ち並んでいる。また、完成時は2車線+1緩速車線の対面交通であったが、大阪万博開催を機に梅田新道以南が南行き一方通行となっている。
御堂筋のとくにミナミ近辺では、すぐ東側に心斎橋筋・戎橋筋といった繁華街が南北に平行に走り、東西には碁盤の目のようにオフィス街や、南船場・アメリカ村などのファッション街が交差し活気に溢れている。
また、近年では御堂筋沿道に、ヘンリー・ムーアや「考える人」で有名なオーギュスト・ロダン高村光太郎など内外の有名作家による彫刻27体が飾られ、通り行く人々を楽しませている(※7の御堂筋の彫刻参照)。
毎年10月には、新たな大阪のビッグイベント「御堂筋Kappo」(みどうすじカッポ=闊歩)が開催され、歩行者に開放された御堂筋(御堂筋が歩行者天国となる)では、様々な体験型イベントも開催されている。
色づいた銀杏が御堂筋を黄金色に染める11月下旬~12月上旬は、このストリートの最も美しい季節である。
大阪のシンボルである御堂筋のイチョウをイルミネーションで装飾することにより、世界に類を見ない景観を創出し、美しい光のまちとして、人々をひきつける賑わいをつくり、大阪全体の活性化を図ろうと行われてきたイベントOSAKA光のルネサンスも、2003年初開催から年々規模が拡大するに伴い来場者も増え、2010(平成22)年度開催は約286万人もの来場者があり、大阪冬の風物詩として府の内外から多くの人が来場したという。
昨・2012(平成24)年に10年目を迎えた同イベントは、2013年度より、 2015年を目途に世界的な光の祭典・フランス・リヨンのリュミエール祭(Fetes des Lumieres、フェット・デ・リュミエール。街中がイリュミネーションで彩られる。「光の祭典」参照)をめざして、中之島と御堂筋をコアプログラムとして大阪市中心部各エリアの光プログラムが一体となる『大阪・光の饗宴』として新たに発信するという(実行委員会も「大阪・光の饗宴実行委員会」に改める・以下参考の※9:「光のルネッサンス」参照)。
大阪再生のためには自治体とし出来ることの限界があり、政治を変えなくてはいけないと政治集団大阪維新の会まで立ち上げた橋下 徹 市長。
最近は、なにかと批判する人も多くなってきたようだが、私は、今の政治家の中で、身を犠牲にしてまで自分の住んでいる町のために尽くそうとする人などおそらく皆無と思われる中で、本当によくやっていると思う。よいと思うことは、どんどんやればよい。この光の祭典も是非成功させてもらいたいと願っている。
この事業の費用の半分は寄附金で賄うそうだが、世界に誇れるイベントをするため皆さんも協力してあげてください。
それを応援しようとしてのものかどうか知らないが、謎の歌が今ネット上で話題になっている。
曲のタイトルは「御堂筋を歩こう」。
元々は、昨年の1月中旬頃に何の告知も無く突如としてYouTube上にアップされていた曲だそうだ。
単に堂島から心斎橋までの地名を羅列しているだけのようにみえて、歌詞を良く聴くと人名等の隠れたキーワードが見えてくる不思議な歌だ。
歌詞、一番と二番があるが一番を引用してみよう。
(歌詞一番)
堂島川の橋もと 通る【橋下徹】船
新しい蝶【新市長】が飛ぶ
貴女が待つ1時【松井知事】に
心斎橋まで ゆっくりと歩いて行こう
幸せへの鍵は期待しないことだと
誰かが言っていたよね
淀屋橋から 土佐掘へ
北浜 今橋 高麗橋へ
二人よく歩いたね
伏見町 道修町
昔ながらの
街が変わっても
変わらないで 貴女だけは
御堂筋を歩こう

【】内の名前が読み込まれている。続いて二番もあるが、その「締め括りのメッセージ」は「街も自分も変わらないとね 御堂筋を歩こう」・・・である。
PV(プロモーションビデオ 。promotion video)も、「御堂筋イルミネーション」であり、メッセージ性も強く、また、社会風刺ともとれる意味深な曲であるが、なかなかしっくりとした味わい深い曲ではある。謎のアーティストは“ssllee”(スリー)。Wikipediaには、大阪府出身のシンガーソングライター花沢 耕太(はなざわ こうた)ではないかとあるのだが・・・その真実はよくわからない。下のYouTubeで曲が聞けるので、聞いてみるとよい。

御堂筋を歩こう / ssllee (スリー) - YouTube

御堂筋を歩こうと言えば、私などの年代の者は、先ず坂本スミ子の「 たそがれの御堂筋 」 を思い浮かべる。一番の歌詞だけを、下に書いてみる。

御堂筋の たそがれは
若い二人の 夢の道
お茶を飲もうか 心斎橋で
踊り明かそう 宗右衛門町
送りましょうか 送られましょか
せめて難波の 駅までも ウーウ
今日の僕等の 思い出を
テールランプが 見つめてる

「 たそがれの御堂筋 」(作詞:古川益雄,作曲:加藤ヒロシ)

全歌詞はここを参照⇒ 坂本スミ子/歌詞:たそがれの御堂筋/うたまっぷ

1966(昭和41)年に、フィリップス・レコード(Philips Records)より発売されたシングルである。
歌手は、「ラテンの女王」の異名も持つ坂本スミ子のゆったりとした時の流れを感じさせる曲である。
昭和40年代、若者がまだ純粋な恋に生きる時代の恋人同士が、たそがれ時の御堂筋を、ゆっくりと歩いている雰囲気、また当時の風景が蘇ってくるような曲であり、私の大好きな曲である。以下で曲を聞ける。

「 たそがれの御堂筋 」 坂本スミ子 - YouTube

私は、学校を卒業し、始めて就職をしたのが船場の中心地本町に本社を構える商社であった。
酒が大好きなので会社の呑兵衛仲間と南の宗右衛門町や法善寺横丁、また、北の新地などでよく飲み明かしたものだが、時には、恋心を抱いている会社の若い女性と二人で心斎橋でお茶を飲み、夕食をし、ダンスホールなどで楽しい時を過ごしたあと、南海沿線に住む彼女が家に帰るのに南海電車の難波駅まで送ってもいったものだ。この歌を聞くと、そんな自分の青春時代を思い出す。
初めて御堂筋のイチョウ並木の景観を見たときには感動し、季節になると梅田まで歩いたことも何度かある。その時、街路樹を歩きながら銀杏の実を拾い集めたりもしたものだが、足で踏み潰された銀杏の実は、独特の匂いがし、これにはいささか閉口したものだが、近年この実の臭いを嫌う人が多いものだから、植え替え時には、実をつけない雄株が植えられるようになっているようだ。
だから御堂筋のイチョウ並木での銀杏拾いは、近々出来なくなくなるかもしれないな~。これはこれでちょっとさびしい気もする。
この銀杏並木は、大阪府民投票の結果により、1989(平成元)年4月に大阪みどりの百選に選定されている。また、2000年(平成12年)には、大阪市指定文化財になっているようだ(※10参照)。
大坂の御堂筋は、このような銀杏並木の景観だけでなく、すばらしい歴史遺産や近代建築物群も多く残っている。
しかし、私など、若いころは、酒を飲むことしか興味がなかったので、好きな子とデートする以外は、同じ会社の呑兵衛仲間と年中キタや南の夜の街はうろつき歩いたが、昼間に、このような、歴史や文化・芸術にかかわるようなものをじっくりと見て回ったことはない。
だから、一度ゆっくりとそのようなものを見ながら、家人とでも散策をしてみたいものだと思っている。そのためには、以下参考の※7にある御堂筋ウオーキング,や※10など利用すると便利なのではないか。
皆さんも歴史ある大阪の街をゆっくりとウオーキングされてはいかがですか。
参考:
※1:3 御堂筋について(PDF:5.58MB) - 国土交通省近畿地方整備局
http://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/commu/mido/pdf/3mido-nitsuite.pdf#search='%E5%BE%A1%E5%A0%82%E7%AD%8B%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7'
※2:大阪市立図書館
http://www.oml.city.osaka.jp/index.html
※3:No.33 - 日本史と奴隷狩り
http://hypertree.blog.so-net.ne.jp/2011-07-28
※4:No.34 - 大坂夏の陣図屏風 [歴史]
http://hypertree.blog.so-net.ne.jp/2011-08-11
※5:淀屋常安
http://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/yodoya-joan00.html
※6:大江戸経済学 大坂堂島米会所
http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/doujima.html
※7:「ひと・みち・くらし」 >御堂筋情報室
http://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/commu/mido/index.html
※8:芭蕉DB:芭 蕉 年 表
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/index.htm
※9:光のルネッサンス
http://www.hikari-renaissance.com/outline/outline.html
※10:大阪市指定文化財分類一覧表
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000111912.html
大阪市HPサイトマップ
http://www.city.osaka.lg.jp/main/sitemap.html
御堂筋の歴史 - 混沌写真
http://chaos08.blog17.fc2.com/blog-entry-32.html
藤木久志『雑兵たちの戦場』読後雑感
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/read007.htm
御堂筋-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%A0%82%E7%AD%8B