今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

芙美子忌

2011-06-28 | 記念日
今日・6月28日は、作家・林芙美子の1951(昭和26)年の忌日である。
林芙美子は明治、大正、昭和初期の日本の女性が未だ多くの制約に縛られ、社会的な地位も低い時代に、身をもって道を開いた先駆者の一人といえる。その作品は当時の庶民の女性達の姿と息吹をつぶさに語っており、日本文学史に輝く業績を残した。
1930(昭和5)年、27歳の時、自らの日記をもとに放浪生活の体験を書き綴った自伝的小説『放浪記』(これ以降も出てくる彼女の作品は参考に記載の※1:青空文庫を参照されると良い)がベストセラーとなり、文壇にデビューした彼女は、人気女流作家となってからも執筆依頼を断らず、締め切りに追われるままに書き続け、敗戦後も『うず潮』や『浮雲』『茶色の眼』などを発表し常に女流作家の第一線で活躍し続けたが、心臓を患っていた彼女は、主治医の忠告を聴き入れず、朝日新聞に『めし』を連載執筆中の1951(昭和26)年の6月26日の夜分、『主婦の友』の「私の食べあるき」という連載記事のため料亭を2軒回り、帰宅後に苦しみ、翌27日払暁、心臓麻痺で急逝した(※2)。
流行作家が花の盛りの続くさなか48歳という若さで生涯に幕を閉じたわけだが、彼女の余りの多忙さに、当時作家たちの間では、「林芙美子はジャーナリズムに殺された」という話が流れていたという。

「私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。

更けゆく秋の夜 旅の空の
侘(わび)しき思いに 一人なやむ
恋いしや古里 なつかし父母

私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物(ふともの=綿織物・麻織物など、太い糸の織物の総称)の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処(ところ)であった。私が生れたのはその下関の町である。――故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。それ故、宿命的に旅人である私は、この恋いしや古里の歌を、随分侘しい気持ちで習ったものであった。――」・・・・・『新版 放浪記』はこのような書き出しで始まっている。
ちなみに、ここに引用されている「更けゆく秋の夜 旅の空の・・・」の歌は、私なども学校で習ったので、よく知っている歌であるが、これは詩人である犬童球渓が1907(明治40)年に訳詞をした翻訳唱歌「旅愁」である(原曲はジョン・P・オードウェイ(John P. Ordway)による“Dreaming of Home and Mother”〔家と母を夢見て〕という作品。※3参照)。
林芙美子はもともと詩人であり「秋沼陽子」の筆名で、地方新聞に詩や短歌を載せていた。冒頭にこのような歌を引用し、「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。」と続け、「それ故、宿命的に旅人である私は、この恋いしや古里の歌を、随分侘しい気持ちで習ったものであった。――」と綴ってゆく技法は、彼女が詩人である証でもあり、この小説には彼女のつくった短歌が多く挿入されている。
この導入部には、彼女が1903(明治36)年12月31日、山口県下関生まれと明確に書いているのだが、実際には旧門司市大字小森江555番地(現:北九州市門司区小森江2丁目2-1)に生まれ、出生地は付近の人の証言や除籍簿謄本発見により、現在の神鋼リードミック株式会社(※4)内にあったブリキや板屋忠嗣の2階で誕生したとするのが通説となっているようだ。このことは又後に触れる。
出生地には「林芙美子生誕地記念文学碑」が建てられおり、碑には、1933(昭和8)年出版の第二詩集『面影』に収められている詩「いづくにか吾古里はなきものか・・・」(「草紙の詩」)が刻まれている(※5参照)。
しかし、彼女が下関生まれとしたのにはそれなりの理由があるのだろう・・・・。
鹿児島の桜島の南岸に古里温泉というのがあるが、芙美子の母キクは、鹿児島の桜島で家庭を持っていたらしいが、実家の宿屋に逗留していた愛媛県周桑郡吉岡村(現・東予市)生まれの行商人(扇屋という屋号の雑貨商の長男)で22歳の宮田麻太郎と恋仲となり結ばれるが、麻太郎はキクよりも14歳も年下の男であり、他国者と一緒になったということで鹿児島におれなくなった2人が、門司に出てきて芙美子(戸籍上:フミコ)を生んだが、麻太郎が認知せず私生児として届けられたことから、娘は林フミ子として、母方の叔父の戸籍に入ったようだ。
入籍する気はないまま、3人の生活は続いたが、1910(明治43)年事業に成功していた父麻太郎が、別の女・芸者(おハマ)に靡(なび)き同居させたことから、母親キク当時43歳は8歳の芙美子を連れて20歳も年下の男・沢井喜三郎(麻太郎の下で番頭をしていた)と一緒になり家を出る。このキクさんは多情な女のようで、成長した後に男遍歴をする芙美子もこの母の血を確り継いでいるようだ。
家を出た後、喜三郎が芙美子の養父となり、一家は九州一円を行商しつづけ、毎晩が木賃宿の暮らしであったことから、幼い少女の心に大きな傷が残され、林芙美子に故郷がなかったというのであろう。故郷だけではなくて、芙美子は、小学校も転々と転校を重ねることとなり、4年の間に、7度も学校をかわったため親しい友達が一人も出来なかった彼女は、直方の炭鉱町に住んでいた12歳のとき学校へ行くのが厭になり小学校をやめてしまい幼いながら色んな仕事をしていたという。
その後、直方を離れた芙美子親子は、1916年(大正5年。芙美子13歳の時)広島県尾道へ辿り着く。
この尾道で再び小学校に編入した芙美子はそれまで各地を転々とし、あまり教育を受ける機会がなかったにも拘らず、優れた文才を発揮し始めたという。
翌・1918(大正9)年、2年遅れで小学校を卒業(15歳のとき)することになるが、彼女の文才を認めた訓導の勧めで尾道市立高等女学校(現・尾道東高校)に進学。ここで文学の手ほどきを受け、18歳のときから『秋沼陽子』の筆名で、地方新聞に盛んに詩や短歌を投稿、また絵にもその才能を見せた。女学校時代の芙美子は、明るく才気ある少女で周りには絶えず笑いの輪ができていたという。また、文学少女の彼女は女学校在学中に、最初の恋人となる東京の大学に通っている因島出身の岡野軍一(『放浪記』には“島の 男”として登場)と出会った。
2人は小説のような恋愛の虜になり淡いときを過ごした。親友たちに恵まれ、少なくともこの尾道にいたころだけは彼女にとって弾けるような生き生きとした時代であったようだであり、後年もしばしば「帰郷」している。
この時期のことは短編『風琴と魚の町』(※1:青空文庫参照)に鮮やかに記されている。
1922(大正11)年、女学校を卒業した彼女は、大学に通う恋人を追って上京し彼と同棲。生活費を懸命に稼ぐ。しかし、翌年岡野は大学を卒業すると、因島へ帰ってしまい、親が反対し婚約が解消され、結局2人の恋は実らなかった。
9月の関東大震災で、芙美子親子の3人は暫く尾道や四国に避けていたが、彼女は再び東京で放浪生活を始めることとなる。
生きる目的を見失った彼女は、そんな寂しさを紛らわすために日記をつけ始める。この頃から筆名に『芙美子』を用い始める。
困難な生活の中で、文筆がはじめて彼女の心の支えになっていく。
俳優田辺若男と結婚し田辺氏の紹介で萩原 恭次郎岡本潤壺井繁治アナキストを紹介される。
この頃は一番苦しいときでカフェーに住み込んだりして暮していたが厭になると、平林たい子の住んでいる酒屋の2階へ転がり込んで2人で住んだりしていたこともあるという。
田辺には同棲2~3ヶ月で去られ、詩人の野村吉哉とも同棲をするなどしていたが、1926(昭和元)年、23歳の時、画家修業中の手塚緑敏と内縁の結婚(事実婚的同棲)。正式に婚姻届を出したのは、敗戦前年の1944年になってからのこと。緑敏が林家に入る形をとり、以後、林緑敏と名乗った)により、同郷の恋人との婚約解消後、男遍歴の激しかった芙美子のアナーキーな生活はここにようやく安定を得た。緑敏はそれまでの男と違って、性格も穏やかで、その懐に飛び込んでゆけたようだ。
画家の緑敏は、結婚後は自分の仕事をセーブし、もっぱら彼女が執筆活動に専念できるようサポート役に回り、彼女の死を見届けるに至った。いわば、彼女の秘書役に徹して芙美子の文学を開化させた影の功労者でもあったといわれている。この辺の事情は、『文学的自叙伝』に、『清貧の書』(この中に出てくる画家の夫与一は、3人目の男で最後の夫手塚緑敏との新婚生活をつづったもの)には芙美子の心情が見事に描かれている。
最も、結婚しても生活は以前より何層倍も辛く、米の買える日が珍らしい位で苦しく、作品が直ちに売れたわけではない。
この頃、彼女はもう詩が書けなくなっており、文芸戦線から退いて、孤独になって雑文書きに専念していたようだが、そんな彼女にチャンスが到来した。
1928昭和3)年7月創刊の『女人芸術』の第2号に詩「黍畑(きびばたけ)」が掲載され、それが主宰者・長谷川時雨の夫である雑誌のスポンサーでもある三上於莵吉の目に留まった。
「黍畑」は“二十五の女心の迷い“を訴えた作品であるが、これは後に詩集『蒼馬を見たり』の冒頭に自序として掲載されている。※1:青空文庫にあるので参照されると良い)。
三上に次作を要求された芙美子が数年前から雑記帳に書き溜めていた日記を送り、同年『秋が来たんだ―放浪記―』(放浪記〔初出〕。※1:青空文庫参照)と題して10月号から掲載された(期間は1928〔昭和3〕年10月号~1930〔昭和5〕年10月号迄)。
この日記スタイルの作品は、連載を重ねるごとに評判が上昇し、『女人藝術』に連載されている途中の、1930(昭和5)年7月に改造社から単行本化された。これが好評を得たことから、その後の連載分に書き下ろしを加えて、『続放浪記』が同年11月、同社から刊行される。
1939(昭和14)年には、「決定版」を謳って新潮社から刊行された際、改造社版より10年の歳月が経っており、作者は最初の放浪記時代とは違って食べるものも不自由しなくなったし、旅行も自由に出来るようになっている流行作家となっているので、彼女自身がこの作品を現在の目から見て不備だったところを大幅に書き直したようである。さらに、1946(昭和21)年5月からは、『日本小説』に第三部の連載が始まった。現在流布している『新版放浪記』は、改稿後の第一部、第二部に、第三部を加えたものである。一方青空文庫に掲載されている『放浪記(初出)』は、「女人藝術」に連載されたものをまとめた、同作品の原型だそうであり、その両方が読めるので、比較して読み比べるのも面白いだろう。
初版本は、観念的な言葉は極力避け、漢字より片仮名を多用して、日記形式のセンテンス(文)を短くした文章が特徴であるが、それは、彼女がカフェーで働きながら、寸暇を惜しんで書き付けたという執筆事情によるのだろうが、その分、人間林芙美子が生き生きと描出されている。又、決定版と比較すると表現も稚拙で、作者の若さゆえのセンチも鼻につくところがあるが、それが、欠点を越えて、主人公(作者でもあり)の“生”と“性”と対決する真摯な姿が結果的には、読者の胸を打ち親しみ深いものとなったようだ。
しかし、決定版では、説明不足の描写は整えられるが、逆に初版本で躍如としていた生の彼女ははるかに後退してしまっているといえるだろう。
タイトル『放浪記』の意味するところも、主人公が、あてどもなく職を転々と変えては生活の苦労をする、この苦労に耐えかねて、時には母のいる故郷に無けなしの金をはたいて旅行をし、心の充電をする。・・・そのような姿を描いているのが”放浪”なのだが、初刊本では、この”放浪”という意味そのものがダイレクトに使用されている。のみならず、”放浪”の意味は、”男に放浪”することでもある。
この作品『放浪記』は、“生”と“性”の”放浪”が繰り返し表現されながも、作品世界はそのような暗い雰囲気を濃厚にしていない。その理由は、主人公の楽天的な性格もその1つであるが、最大の理由は彼女に”物を書き、読む慰み”、言い換えれば文学に執着する心が強く存在していたことが、堕落しがちな彼女を救い、作品世界に向日性を付与しているからであるからではないかと言われている(※6)。
生前、芙美子が好んで色紙に書き残した「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」という箴言(しんげん=戒めや教訓となる短い言葉)も、「書き続けることの業」をこのように思っていた実感なのかも知れないし、「男に放浪し、職業に放浪する私」を書いた芙美子自身が自分へのイメージを「苦しいことばかり多い中を生き続けている」という装いにしたいが為のエピグラフだったのかも知れない。『放浪記』により、大衆の熱狂的な支持を得た林芙美子は、その反面、彼女の成功を妬んで、悪口を言触らす旧知の人々に苦しめられることにもなり、彼女にはその死以後まで“放浪者”としてのイメージがついてまわった。
フリー百科事典ウイキペディア(Wikipedia)の林 芙美子の解説では、冒頭には、「物心ついた小学生時代に貧しかった生い立ちからか、底辺の庶民を慈しむように描いた作品に、ことに名作がある。」・・・と書かれているが、確かに、『新版 放浪記』第一部:放浪記以前にも、8歳のとき、家を出た後、母と養父の3人で、九州一円を行商しつづけ、毎晩が木賃宿などを転々する悲惨な幼女時代だったことが書かれている。
だが、実際には、“芙美子の幼年から少女時代は、『放浪記』に書かれているような悲しい生活ではなく、実父の宮田麻太郎は、なかなか商才のある人で羽振りもよく、一家の生活は、経済的にかなり恵まれていた。し芙美子も可愛がっていたようだ”・・とするのは、芙美子の出生地が下関生まれでなく門司生まれであると立証した門司文化団体連合会会長の井上貞那氏であり、井上氏の義母佳子さんが芙美子と幼いときから姉妹のように仲良しであったという。
この佳子さんの父の横内種助が井上氏の義理の祖父になり、この種助氏が芙美子の実父の宮田浅太郎と親しい縁があって、彼女の誕生のこともよく知っていたというのである。そのことは、私が現役時代の最後に福岡で仕事をしていたときに、取引銀行であった福岡シティー銀行で手に入れた北九州に強くなろうシリーズNo2として同行が発行していた“林芙美子の実説「放浪記」”という小冊子に書かれていた。
その小冊子が以下の画像である。ネットで検索すると、同じ内容のものがアップされていた。それが以下参考に記載の※7「林芙美子の実説「放浪記」」なので詳しいことを知りたければそこを参照されるとよい。

芙美子は尾道女学校を卒業し少なくとも尾道時代は仕合せだったというが、当時、昔の高等女学校をアルバイトをして卒業などと言っているが、とっても木賃宿で生活しているような人が通えるなど考えられず、井上氏は、恐らく、実父の麻太郎からの仕送りがあったのだろうといい、“『放浪記』は事実のままもあるが昇華させている事も多い。文学作品だからフィクションも多いのです。”・・・と言うが、小説などと言うものはもともとそういうものだろうと私も思う。
ただ、実母のキクが芙美子の出生地については口をつぐんで何も語らないので何かキクさんだけの秘め事があるのだろうと推測している。甲斐性もあるが良く遊びもした実父の麻太郎に惚れて追いかけてきた芸者(おハマ)を、世帯が2つだと不経済だから一緒でも良いと自分たちの本宅に住まわせてしまったのは太っ腹な母キクだったそうだが、そのために、次第に、14歳も年上のキクが麻太郎に疎まれるようになり、キクに同情していた番頭の沢井喜三郎(後の養父、キクより20歳も年上)に因縁をつけて2人が良い仲だといって追い出してしまったという(キクと喜三郎の間は同情だけだろうか?)。それで、芙美子も2人について出てゆくことになったが、その後、長崎と佐世保でうまくいかなかったので、1年後の1911(明治44)年には、出生地の門司とは対岸(関門海峡の北岸に面した)の山口県の下関へ帰り、古手屋(古着や古道具を売買する店)をはじめそれなりの生活はしていたようで、よく海をわたって、実父とおハマさんのいる門司の家へ遊びにきていて、佳子さんとも遊んでいたということが書いてあったが、これなど読んでいると、多感な少女が実の父が芸者を家に入れ母親を追い出した門司より、養父と一緒に住んでいた楽しかった思い出のある下関を出生地としたかったのかも知れない(ただ2年ほど後には少々お人好しの喜三郎は貸し倒れが重なってどうにもならなくなり、下関から親子3人行方が知れなくなるのだが・・・)・・・。それは、さておき、この昭和中期の小説を読んだことも無い人たちでも、今日知らない人がいないほど有名にしたのは、演劇界の帝王といわれていた菊田一夫脚本、森光子主演の舞台『放浪記(戯曲)』ではないか。
大阪でお笑いの世界で知られていた程度の森光子が出演していた大阪テレビの「ダイラケのびっくり捕物帖」が、1958(昭和33)年春から、日本テレビによって東京でも放送された。これが、日本の民間テレビ局の上方コメディ番組としては初の全国ネット番組となり、これにより、光子の名も初めて東京で知られるようになる。
そして、幸いにも、この年の夏、光子は「びっくり捕物帖」で共演していた中田ダイマル、ラケットと、大阪の梅田コマ劇場(現:梅田芸術劇場の前身)で、トリオを組んだ「あまから人生」という舞台に出演中の演技を、翌月公演の打ち合わせで梅田コマ劇場に出張していた菊田が仕事を終え、あわただしく飛行機で帰るところ、空港へ向かうハイヤーの到着が遅れ、時間つぶしに3分間だけ客席の後ろからステージを覗きに来ていたその目に留まった。
そのようなことから。1958(昭和33)年に誘われて東京・日比谷の芸術座の舞台(「花のれん」)を踏んだのがきっかけで、光子の東京進出と舞台女優としての道が開けた(※8、※9参照)。
その恩師でもある菊田に『放浪記』 の主役に抜てきされて芸術座で 『放浪記』 が初上演されたのが1961(昭和36)年もことであった。
作家・芙美子が尾道から上京し、貧困の中で、恋をして、棄てられながら、詩と小説を書き続け、人気作家へたどり着くその波乱の半生を、かって、身近に接した経験を持つ劇作家・菊田が自らの視点で劇化した舞台である。哀歓とリアリティーが各場面でにじみ出るこの舞台劇は、初上演から大好評を博し、初演は7ヶ月のロングラン上演となった。
森光子は初演のこの演技により芸術祭賞文部大臣商を、テアトロン賞(※10参照)を受賞し、彼女自身の芸能活動の代名詞的な役どころとなった。

上掲の画像は、1961(昭和36)年初演の森光子である。画像は、2008年10月23日~11月4日、フェスティバルホールでの『放浪記』上演広告特集記事からのものであり、同年4月27日朝日新聞広告面より抜粋したものである。
この時、彼女は既に41歳。しかし、若く見えるよね~。なんでも、梅田コマ劇場で「あまから人生」に出演中の森を見たとき、菊田の目には当時38歳の光子が10代に見えたというらしいので、これは驚きだね。
この初演以来、『放浪記』は森光子の代表作となり、以後芸術座で公演を続け、1973(昭和48)年菊田が死去すると、1981(昭和56)年から三木のり平の潤色・演出により受け継がれ、1990(平成2)年9月23日に通算上演回数1,000回を突破した。冒頭に掲載のものが芸術座での1000回公演を行なった時の芸術座のチラシ(マイコレクションより)である。
このときは9月1日~12月27日の4ヶ月間の長期公演である。チラシ中央には芙美子の言葉「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」が記載されている。
初演の舞台で森光子が冒頭に「花の命は短くてーー」の一節を朗読し、今日までこの言葉が受け継がれている。『放浪記』は森光子の「でんぐり返り」がある舞台作品としても有名であったが、体力も衰え、2008(平成20)年の舞台(この時88歳)では、それまでのでんぐり返しを取りやめ、万歳三唱にしたが、その後も公演は続けられ、2009(平成21)年5月9日の彼女の89歳の誕生日には2000回公演を達成し、千秋楽時点で2017回に及んでいる。なお、2005(平成17)年の公演を最後に芸術座劇場が閉鎖されたため、2008年はシアタークリエ、2009年は帝国劇場にて上演されている。
最後になったが、森光子による初期の『放浪記』の舞台冒頭で朗読された『花の命は短くてーー』は、原作にも見られない言葉であり、長い間原典が謎とされていたものだが、今では、林芙美子より友人の『赤毛のアン』の翻訳で知られている村岡花子に贈った未発表の詩であったことがわかっっている。
それは、村岡花子のお孫さんである恵理さんによる村岡花子の評伝『アンのゆりかご』が出版された中にも、原稿用紙に万年筆で丸いクセのある字で書かれた直筆の詩を額装して花子の書斎の壁に飾られていたことが書かれており、現物が、村岡花子記念館にも展示されているが(※11)、その詩は、恵理さんが、北九州市立文学館に調査を依頼し、全集未収録の直筆作品と確認されているようで、又、知られている言葉は、その12行の詩の一部であるようだ(※12)。その詩を以下に抜書きしておこう。

風も吹くなり
    雲も光るなり
    生きてゐる幸福(しあはせ)は
    波間の鴎のごとく
    漂渺(*)とたヾよい

    生きてゐる幸福(こうふく)は
    あなたも知ってゐる
    私もよく知ってゐる
    花のいのちはみじかくて
    苦しきことのみ多かれど
    風も吹くなり
    雲も光るなり

 (※文中の漂渺は縹渺(ひょうびょう。=幽〔かす〕かではっきりと分からない様)のこと。
この詩には、よく言われるような暗さはなく、第一次大戦後の暗い時代の東京で、露天商、女工、売子、カフエの女給などの職を転々し、飢えと忍従の逆境にあえぎながら、俳優や詩人らとの恋の遍歴もしながら、明日に向かってしたたかに生き抜いてきた芙美子の力さが窺える。そんな、芙美子は、酒を飲んで苦労の慰みにしていたことが、彼女の詩「命の酒」や「酔いどれ女」から伺える。以下参考に記載の※14:「酒の詩歌句集」の中にある林芙美子の詩を見られると良い。
参考:
※1:青空文庫:作家別作品リスト:No.291 林 芙美子
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person291.html
※2:ねえ、料理は呼吸してゐなくちやいけませんよ: 文-体・読本
http://www.asthnonclub.com/buntai/2004/06/post_137.html
※3:旅愁(ふけゆく秋の夜) 日本の唱歌
http://www.worldfolksong.com/songbook/usa/dreaming_home_mother.htm
※4:神鋼リードミック株式会社
http://www.shinko-leadmikk.co.jp/contents/development.html
※5:林芙美子生誕地文学碑- たわいもないブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/drfcr421/25171037.html
※6:KURA:「放浪記」論:その基礎的研究
http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/7343/1/AN00044182-33-mori-3.pdf
※7:林芙美子の実説「放浪記」
http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/kitakyushu/002/01.html
※8:女優 森光子 (著者:森光子)試し読み
http://books.shueisha.co.jp/i/tameshiyomi/978-4-08-781388-3.html
※9:誰か昭和を想わざる 昭和放浪記
http://www.geocities.jp/showahistory/history04/36b.html
※10:テアトロン賞とは?
http://www.geocities.jp/chiemi_eri/chiemi_sub6-02.htm
※11:映画「浮雲」
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD1486/index.html
※12: La Vie
http://duolavie.blog117.fc2.com/?mode=m&no=175
※13:おのみちだより:、「赤毛のアン」のファンの方から教えていただきました。
http://fujiwara-chaho.jp/blog_category/onomichi_monogatari/399.html
※14:酒の詩歌句集
http://www.h6.dion.ne.jp/~jofuan/myhaiku_008.htm
ポカポカ春庭の言葉と文化逍遥記 
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0506a.htm
尾道観光旅館 千光寺山荘 林芙美子
http://www.senkojisanso.com/bungaku/index.htm
「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」未発表詩全文草稿発見!
http://blogs.yahoo.co.jp/dolphin_onomichi/34032680.html
林芙美子の主な年譜 - 400 Bad Request
http://park23.wakwak.com/~hotaru2/hayasifumikonenpu.html
芙美子-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%8A%99%E7%BE%8E%E5%AD%90



二葉亭四迷長編小説『浮雲』の第一篇が刊行された日

2011-06-20 | 歴史

二葉亭四迷の浮雲左から一編、ニ編、三編(画像クリックで拡大)

1887(明治20)年6月20日、近代小説の先駆とされる二葉亭四迷の長編小説『浮雲 』の第一篇(冒頭の画像)が刊行された。
明治維新後、文明開化による西欧文明の輸入と近代国家の建設が進められると、文学にも大きな影響を与え、「文学」という概念が生まれたのもこの時代である。そして、西欧近代小説の理念が輸入され、現代的な日本語の書き言葉が生み出された。
一般に、近代文学は、坪内逍遥の文学改革に始まるといわれるが、逍遥は、理論を語ったのであって、その実践応用をしたのは二葉亭四迷の『浮雲』であるとされている(四迷の『浮雲』他小説の原本等は以下参考の※1:国立国会図書館「近代日本人の肖像」で見ることが出来る)。
文芸創作に関しては、明治に入ってしばらくは、江戸時代と同様の文芸活動、つまり、戯作文学が流行していた。そして、明治10年代になってさかんに西欧小説が移入され、川島忠之助が翻訳したヴェルヌの『八十日間世界一周』(1878年)など翻訳文学が広まっていた。又、同時期自由民権運動の高まりとともに新聞・雑誌を使っての政治思想の宣伝が政治小説と言う型で書かれるようにもなった。
坪内逍遥(本名:坪内 雄蔵)は、1859(安政6)年に、尾張藩領だった、美濃国加茂郡太田宿(現・岐阜県美濃加茂市)に生まれ、1870(明治3)年に尾張藩の設立した藩校である洋学校(現・愛知県立旭丘高等学校)、東京大学予備門(のちの第一高等学校)を経て、上京し、開成学校(現東京大学の前身)に学ぶ。父は太田代官所手代だったが、母は芸術好きの商人の子で、小さい頃から本に親しみ、名古屋に一家で移住してからは貸本屋「大惣」(※2参照)の本を全部読み漁ったともいわれる江戸文学好きであったようだが、新時代の西洋重視の文化状況の中では、遅れをとっていた。
そんな彼が、西洋文学の勉強を人一倍やった末に、26歳の時、日本で初めての近代小説論『小説神髄』(1885年 ~1886年に松林堂から刊行。※3参照。逍遥の小説『小説神髄』等の原本は以下参考の※1:国立国会図書館「近代日本人の肖像」で見ることが出来る)を発表した。同書では、上巻において、「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。・・・・・・・」と、それまでの中心文学だった戯作文学や政治小説の道徳や功利主義的な面を文学から排して、小説で大切なことはまず人情を描くことで、次に世の中の様子や風俗の描写であると論じ、心理的写実主義を提唱。下巻において具体的な方法を示し、日本の近代文学の誕生に大きく寄与した(『小説神髄』の解説などについては※4、※5を参照)。
しかし、理論の実践として発表された『当世書生気質』〔1989年〕などは、それを、実現する文章としては、文体には戯作の影響が強く、内容も通俗的な側面もあったので、もう一歩新鮮さが足りず、『小説神髄』やロシア文学の影響を受けて、『浮雲』を書いた逍遥の弟分二葉亭四迷の筆力にはかなわなかった。この四迷の初の言文一致体の小説『浮雲』により、近代日本文学が成立したとされている。
言文一致とは、日常に用いられる話し言葉に近い口語体を用いて文章を書くこと、もしくはその結果、口語体で書かれた文章(口語文)のことを指し、この言文一致運動の高揚からそれまで用いられてきた文語文に代わって行われるようになった。
当時は四迷以外にも、多くの作家が言文一致の新文体を模索していた。ツルゲーネフらのロシア文学の翻訳を通して言文一致体を思いついたらしい四迷は、『浮雲』を書く上で、第一編を書く際には、その文体について、逍遥の考えをとり入れ、落語家の初代三遊亭圓朝の落語口演筆記を参考にしたり、徳富蘇峰の意見をきいたりもした。又、自分とは別派である山田美妙における「です・ます」調も試みてみたようだが四迷の文体には合わなかったようだ。
そんな四迷が初めて言文一致を書いたときの由来は、19年後の1906(明治39)年5月の『文章世界』に所載の『余が言文一致の由來』に書かれている。又、その2年後の1908(明治41)年6月の『文章世界』に所載の『予が半生の懺悔』には、「文章は、上巻の方は、三馬(ば)、風来(ふうらい。※平賀源内のことだろう)、全交(ぜんこう)饗庭(あえば)さんなぞがごちゃ混ぜになってる。中巻は最早(もう)日本人を離れて、西洋文を取って来た。つまり西洋文を輸入しようという考えからで、先ずドストエフスキーガンチャロフ等を学び、主にドストエフスキーの書方に傾いた。それから下巻になると、矢張り多少はそれ等の人々の影響もあるが、一番多く真似たのはガンチャロフの文章であった」・・とあり色々な試みがなされたようだ。
二葉亭四迷(本名:長谷川 辰之助)は逍遥より5年後の1864年4月4日(元治元年2月28日)、江戸市ヶ谷に生れる。父は尾張藩士・鷹狩り供役を勤めていたという。
逍遥も通っていた尾張藩藩校である洋学校卒業後、当時、ロシアとの間に結ばれた千島樺太交換条約をうけて、ロシアに対する日本の危機感を持ち、陸軍士官学校を受験するも不合格になったため、軍人となることを諦め、外交官となる決意をしたという。
そして、外交官を目指し1881(明治14)年、東京外国語学校(現:東京外国語大学)露語科に進学し、次第にロシア文学に心酔するようになるが、東京外国語学校が東京商業学校と合併し、四迷の在学していた東京外国語学校露語科は東京商業学校(現一橋大学)第三部露語科となった。四迷は、この合併に伴い東京商業学校校長に就任した矢野二郎に対し悪感情を持つようになったらしく、1886(明治19)年1月に同校を中退したという(Wikipedia。矢野二郎と矢野が校長をしていたときの状況等は※6参照)。
そんな四迷が尾張藩で先輩の坪内逍遥を訪ねたのは、同年2月のことであり、以後毎週通うようになる。そして、逍遥の援助で、同年6月『小説総論』(青空文庫のここ参照)を『中央学術雑誌』に発表(別号の冷々亭主人名義)。
これは逍遥の『小説神髄』の欠点を補い、逍遥の『当世書生気質』論の序文的な形で書かれたものであり、形(フォーム)と意(アイデア)の2つの用語を使って小説を整理した。小説は浮世の様々な形を描くことで意を直接に表現すべきものであるとしてリアリズム(写実主義)を主張し、作為的に善悪の二極を設定する勧善懲悪の物語を批判した。
そして、『新編浮雲』の第一編を刊行したのはその翌年・1887(明治20)年6月20日、四迷23歳、逍遥28歳の時であった。
『浮雲』は1887(明治20)年から1889(明治22)年にかけて発表されたが、一、二篇は、金港堂から刊行され、三篇は「都の花」(※7)に連載された。
しかし、冒頭の画像を見ると分かるように、『新編浮雲』の第一編は、坪内雄蔵(逍遥)の著作として発刊されているが、その序文には四迷の作であることが明記されている。当時まだ無名の作家であった場合など、出版社の販売上の都合などで、このような手段や合著という形をとることは珍しいことではなかったようだ。
第二編はこの翌年に、春の屋主人(春の屋は逍遥の号である)との合著という形で出版され、同年の7、8月号の『都の花』に、二葉亭四迷の名で連載中に、四迷の自信喪失で中絶している。
『浮雲』は私小説的な最初の本格的リアリズム小説だと言われている。
『浮雲』の主人公である内海文三は下級の官吏であるが、融通の利かない男である。とくに何かをしくじったわけでもないが、役所を免職されてしまうが、プライドの高さゆえに上司に頼み込んで復職願いを出すことも出来ずに苦悶する。そんな文三と、世才にたけ、出世する同僚の本田昇との社会的対立関係を、お勢をめぐる人情世態(せいたい)において描写している。一時は文三に気があった従妹のお勢の心も昇の方を向いていく。そして、お勢の母親のお政からも愛想を尽かされる中、お勢の心変わりが信じられない文三は、昇やお勢について自分勝手に様々な思いを巡らしながらも、結局何もできないままである。
この文三の性格は、作者自身のそれを一部分発展させたものだが、この境遇は直接的には、四迷の東京外国語学校および東京商業学校での親友で、芝浦製作所(現:東芝)専務等を務めた後に、各地で水力電気会社を設立した大田黒重五郎をモデルにしたといわれる。
『浮雲』に見られる文三や昇の辿った道は、当時の士族の子弟の多くが辿った道でもあったようだ。
明治維新は、幕末の頃におかれていた半開状態のわが国を、急激に文明国に進めようという国家的必要性を満たすことを使命として起されたクーデターによってなされたといって良い。従って、当時の知識階層(インテリ)が競って身につけたのは、西洋の学問であり、幕末から明治初年にかけ、日本の「新・知識階級」を名乗り得たのは、かつて武士身分の中でも「門閥制度は親の敵」とすら考えていた下層の武士出身者であり、福沢諭吉森有礼らが結成していた「明六社」の知識人や、外山正一らの西欧渡航経験者たちであった。
彼等の知識を必要としていた明治新政府は、かつての対立関係なども忘れて彼らに肩入れした。近代日本の第一次知識階級と呼ばれている彼らは、その知識によって、日本の国家、行くべき道を示唆し、その強烈な個性で舵取りをし、国も政府も、そして時代もそれに期待し尊敬の念を惜しまなかった。
そして、幕府が設立した蕃書調所が開成校になり、1877(明治10)年には東京帝国大学になっていった「大学」等の教育機関の道筋が開けていった。
そして、森鴎外(森 林太郎)が東大の医学部を卒業したのは、1881(明治14)年であり、坪内逍遙(坪内雄蔵)が文学部を出たのは2年後の1883(明治16)年であった。この時代には医学士、文学士などは、まだかなり世間から重んじられたのであり、逍遙もそんな文学士の一人であった。

上記画像(クリックで拡大)は坪内逍遙の『小説真髄』であるが、文学士坪内雄蔵とある。逍遙が『当世書生気質』(1885年~1886年)を発表したとき、そんな文学士が小説を書いた・・・ことが世間を驚かせたという。
この頃は、まだこのような知識階級の活躍出来る、幸福な環境が存在した時節であったが、その変革期でもあり、国家建設が進み、秩序化・支配体制が整うに連れて、知識階級の幸福な時節は明治20年までに、無惨なほど速やく崩れていった。
つまり、西南戦争からの10年のうちに、西洋の学藝や藝術に学んで偉くなろう、出世しようという希望を抱いて郷里を出てきた人たちが大都市に集中し、海外にまで学びに出た人は幾らでもいるようになった。そして、各分野での専門教育が進み、大学やそれに準じた学校も増えていたため、書生・学生が、維新の初期に比べ、比較にならぬほど増えていたのだ。
そうなると、当然、「知識・才能の希少価値」は相対的に下落し、逆に能力が求め迎えられるどころか、相応の「地位」を官途に獲得することにもこの当時は非常に苦労するようになっていた。
しかも迎えられ方が、明治初期とはまるで違い、国や政府は、専門の知識を持って唯々諾々(いいだくだく。少しも逆らわずに他人の言うままになる)と言うことを聞く、道具に等しい単に技術者としてしか彼等を用いなくなっていた。
それ以上に、なまじ意見や主張・理想のある知識階級などは、むしろ、うるさい無用の存在となっており、したがって、この当時の知識階級は、黙々と車を牽く車夫同然の存在に甘んじて、職を得て出世を狙うか、その路線から転落し、いたずらに零落(れいらく。落ちぶれる)するしかなかったのだ。
その最初の典型が、1887(明治20)年の今日(6月20日)、四迷が刊行した『浮雲』の主人公・内海文三であった。
彼等は禄をはなれて貧困の淵に沈んだ家を興し、苦労した母親に孝養をつくさねばならぬ義務を負って、学校を卒業し、社会に第一歩を踏み出すが、彼と社会とのあいだには、当時の知識階級が例外なく味わった間隙(かんげき。人間関係の隔たり)がすでに存在していたことは、『浮雲』第一編 ”第二回 風変りな恋の初峯入(はつみねいり) 上”にも書かれている。まず文三が勤務先で与えられた仕事は、「身の油に根気の心(しん)を浸し、眠い眼を睡(ね)ずして得た学力を、こんなはかない馬鹿気た事に使うのかと、思えば悲しく情なく・・・」なるようなものであり、文三が学校で考えていたような思想や条理は、実世間の行動の規準としてはまったく無価値になっていた。
彼は、上長の求めるままに従順な車夫に成りきれない存在として、落ちぶれて前途も見えない敗北者になってゆく。その一方で、如才ないあたかも上の自由になりきった道具のような本田昇は出世街道を軽やかに歩んでゆくのである。
文三の悲劇は、時代も変化した当時の資本主義社会の中で、封建道徳に固執する者のそれと言えるだろう。
『浮雲』は未完のまま終ったといわれるが、第三篇の末尾には「終」と明記されている。それでも未完とされるのは続編の構想と思われる四迷の書き残したプランが発見されたかららしい。それによると、文三はお勢を昇に奪われた上、老母の死、あるいはほかの災難にあい、発狂することになっていたそうだ。
四迷は『浮雲』を中絶した後、語学力を生かした仕事に20年近く従事し、1906(明治39)年10月から東京朝日新聞に『其面影』を連載して文壇に復帰、翌年の東京朝日新聞に『平凡』を連載したが、1909(明治42)年、ロシア赴任からの帰国途中、ベンガル湾上で客死した。
ところで、二葉亭四迷の筆名の由来は、「小説家になりたい」と言った時、文学に理解のなかった士族の父に「お前みたいな奴は くたばってしまえ」と激怒されたからこの名を思い付いたといわれているが、これは俗説のようであり、確証も無い。
彼は、『浮雲』が世間で好評であったに係らず、自分では作品に卑下を感じるくらい自信が無かったようであるが、お金欲しさに逍遥の名を借りて出版していたことに、自分自身で愛想の尽きた下らない人間だと自覚し、自ら放った声が、「くたばって仕舞(しめ)え(二葉亭四迷)!」だったことが、『予が半生の懺悔』の中で書かれている。
四迷の『浮雲』の解説などは以下参考の、※8、※9、※10が詳しく参照されるとよい。又、ネットで、『浮雲』を読むなら、※11が良いのではないか。
(冒頭の画像、二葉亭四迷『浮雲』。画像は国立国会図書館:「近代日本人の肖像」より借用)
参考:
※1:国立国会図書館:「近代日本人の肖像」・人名一覧
http://www.ndl.go.jp/portrait/contents/list.html
※2:蔵書印の世界:大野屋惣八(大惣)
http://www.ndl.go.jp/zoshoin/zousyo/09_ouno.html
※3:小説神髄- Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E7%A5%9E%E9%AB%84/
※4:坪内逍遥著・小説神髄・ノート1(ノート4まであり)
http://y-kyorochann.at.webry.info/200808/article_10.html
※5:『小説神髄』-史料日本史(1083)「小説の原点」
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/siryo/1051_1100/1083.htm
※6:国立の達人:一橋大学:矢野二郎
http://www.hit-press.jp/kikaku/kunitachist/university_yj.html
※7:都の花- Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%83%BD%E3%81%AE%E8%8A%B1/
※8:中村光夫「知識階級」(日本ペンクラブ電子文藝館編輯室、2001年)
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/nakamuramitsuo.html
※9:電子版 秦恒平・湖の本 エッセイ25:私の私・知識人の言葉と責任 他
http://umi-no-hon.officeblue.jp/e_umi_essay25.htm
※10:二葉亭四迷論 目次
http://www2.odn.ne.jp/~cat45780/ftabateishimei.html
※11:二葉亭四迷『浮雲』 [第一篇] [第二篇] [第三篇]
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/futabatei/ukigumo.htm

青空文庫:総合インデックス
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/index_top.html

お父さんの日

2011-06-13 | 記念日
今日の記念日「お父さんの日」は、毎日働いて一家の大黒柱として頑張っているお父さんに、月に1回、感謝の気持ちを表す日をと株式会社ヤクルト本社が制定。「人も地球も健康に」をコーポレートスローガンに掲げる同社の、お父さんが健康にとの願いが込められている。日付は13で「お父(10)さん(3)」の語呂合わせから。
2011年(平成23)の「母の日」(5月の第2日曜日)は、5月8日に終わったが、父に感謝を表す日「父の日」(6月第3日曜日)が、6日後の6月19日にやって来るが、今日の「おとうさんの日」は、毎月「頑張ってるお父さんに感謝しょう」という日だそうだ。
子供が親しみと敬意を込めて自分の父親を呼ぶ語「おとうさん」(お父さん、御父さん)は「おかあさん」(お母さん、御母さん)とともに1874(明治37)年から使用した文部省『尋常小学読本』(国定教科書第1期)に採用されてから、全国的に広まった。それ以前は「おとっつぁん」などが多かった(武士の階級では「父上」)。
1871 (明治4 )年の「廃藩置県」後、文部省が設置されると、翌1872(明治5)年8月に洋学者が中心となって起草した「学制」が公布(明治5年太政官布告第214号)され、日本の近代学校教育(義務教育制度)が始まった頃は、文明開化・近代国家建設を急いでいたので自然科学が重視された内容だったのに対して道徳 教育の必要性も説かれて、1886(明治19)年に検定制になり、検定済教科書が用いられるようになったが、そのころは県がどの教科書を使うかを決めていて、しかも4年間は変えることができなかったこともあり、1902年(明治35年)の教科書疑獄事件の発生を受けて、国定教科書に改められた。
国定教科書として発行された『尋常小学読本』(冒頭の画像左)つまり、尋常小学校(国民学校初等科)の国語読本は6期に分けられるが、1874(明治37)年から使用された第1期のものは、標準語を目指して、混同しやすい訛音(かおん[訓]なまり)である「イ」と「エ」、「ス」と「シ」等を区別するために、これらの音が冒頭に置かれたことから俗に「イエスシ読本」と呼ばれた(※1、※2)参照。
この時、父親の呼称の階級差をなくすことを目的に、「おかあさん」等と同様に造語したもので、公家言葉の「おもうさま」と庶民言葉の「おとっつあん/とうちゃん」を足して造ったものとされているようだ(ウィクショナリー)。
以来、お父さん(おとうさん)は日本語で父親また、子供以外の者が、子供の居る男性などを呼ぶ(女房が旦那を、又、他人が呼ぶこともある)最も一般的な親族呼称法のひとつであったが、戦後の洋式かぶれからか、近年は、「パパ」(お母さん=ママ)を使用いている人が多くなった(※3:「Benesse教育情報サイト」の2009年10月に行なった調査では、約半数が「おとうさん(おかあさん)派」であるが、「パパ(ママ派」が約4割となっているそうだ。)。
それはさておき、アメリカでは、「母の日」「父の日」とも国民の祝日に制定されているが、日本においては、どちらも、5月5日の「こどもの日」のように祝日法による祝日ではない。「こどもの日」は「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことを趣旨としている。
何故か知らないが、祝日法の趣旨に「母に感謝する」とは書かれていても「父」の字はどこにも見当たらないが、これは、「こどもの日」が出来た当時「子どもが生まれ育つ上で、どれほど母親の役割が大きいかということを、考えてもらうためにもせめて子どもの日くらい、母に感謝するということを盛り込もうということになった」・・・らしい(Wikipedia)。
かって、「父」の最大の役割は外で働き家族を「foster」(食べさせる、育てる、 世話をする)し、一家を守ることであり、「母」は家庭の奥行きのこと一切を任され、家庭内のことを全て守ってきた。そして、子供たちもそんな働く父や家事にいそしんでいる母の背中を見て育っており、仕事を離れたときは少々だらしないが、そのくせ威張ってばかりいる父親も、それはそれなりにちゃんと評価してくれていたことは、前にこのブログ「父の日」で書いた。
ここ ⇒今日のことあれこれと・・・父の日参照)。
そんな、父=パパを歌った面白い歌がある。2009(平成21)年5月2日に死去した人気ロックミュージシャン・忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名:栗原清志(くりはら・きよし)の「パパの歌」である。
YouTube -パパの歌 / 忌野清志郎
http://www.youtube.com/embed/rRXsOtbuZBA
休みの日のパパは、家でごろごろして、人前で平気でプーなどもしているが、・・・昼間のパパはちょっと違う。昼間のパパは光ってる。昼間のパパは格好良いぜ。働くパパは男だぜ・・・パパの良いところを見てくれと訴えている。
しかし、実際にはどうなのだろう・・・?本当に、今の子供たちが、忌野の「パパの歌」のように、家にいるときではなく、家の外で、頑張っているお父さんを素敵だと見てくれているだろうか・・・?そうであれば、「父の日」の行事でのお祝いなども、「母の日」同様に祝ってくれるだろうが・・・・。
インターネットリサーチのアイシェアが、「母の日‐2010年版‐に関する意識調査」と比較しながら、ネットユーザーの父の日に対する意識を探った父の日‐2010年版‐に関する意識調査をおこない、「お母さんより嫌われていた?2010年母の日、父の日、比較」という調査結果を発表している(※4参照)。
今年の父の日を祝う予定はあるのだろうかの質問に対して、「祝う」(28.0%)と「たぶん祝う」(20.5%)と答えた人の合計は、46,6%で、昨年「祝った」とする41.9%より6.7ポイント高いが、半数には至っていない。
今年の母の日を『祝う』とした人は63.2%(昨年の母の日を「祝った」人は49.6%)となっており、今年の父の日を「祝う」割合が14.6ポイント下回る結果になっており、昨年(・2010=平成22)年の「父の日」は「母の日」よりは祝う予定者が少ないことが浮き彫りとなっていたようだが、今年(2011年)の結果がどのようになるのか知らないが、恐らく、母の日以上に父の日を祝ってくれるなどといった結果は期待できるのだろうか・・。
平日は、ひたすら働いて当たり前、休日は家族と団欒するのが当たり前。仕事から帰った後や、休日などにリラックスして、ゆっくり休もうものならまるで「粗大ゴミ」扱い。金鳥のタンス用防虫剤「ゴン」のCMで使われた「亭主元気で留守がいい」のフレーズは流行語大賞(第3回〔1986(昭和61)年〕 新語部門)の銅賞を受賞しテいる(※5参照)。以下でそのCMが見られる。
YouTube - タンスにゴン 
http://www.youtube.com/watch?v=1Sk88hpvGGw
オバタリアンとも呼びたい元気はつらつな主婦たちの井戸端会議風の集会での解散場面で合言葉として締めくくられるこの言葉・・・、家庭内における夫の存在感の薄い姿は日本社会の“夫婦関係”の実情をうまく言い当てたものとして、これ以降すっかり「亭主元気で」が定着するようになるが、もう“亭主の沽券(こけん)”は丸つぶれもいいところで、戦前生まれの私たちの年代の者にはとても哀しく感じるのだが・・・。
この年の新語部門では、作家・林 郁(はやし いく)の小説『家庭内離婚』が”愛情は冷めてしまったのに、子供、老親、経済的自立の問題などで、離婚することができない夫婦(夫婦関係は崩壊しているにもかかわらず、家庭に 留まる夫と妻)の形態を的確に、かつ鋭く表現しており、伝統的な結婚観が音を立てて崩壊しているという現実を、明確に表す合成語である”として、表現賞を受賞している。
そして、会社での辛い仕事も、肩身の狭い家庭内での存在も、我慢に我慢をして、さあ、これからは、第二の人生をゆっくりと夫婦で過ごそうと・・・、定年退職を迎える頃になると、子供たちは皆独立しており、相手にもされず、定年を待ち構えていたかあちゃん(妻)から「もはや用済み」とばかりに三行半(離縁状=離婚届)を突きつけられ、年金も退職金もがっちりと半分持って行かれる時代となった。
ウイキペペディアによれば、1969 (昭和44年) 年の新聞記事には、“夫の退職を機に、それまで経済的な理由で離婚を控えていた妻が「いただくものはいただいてさっぱりし、老後を一人で送る」形で高年齢層の離婚が「じりじりと増えつつある”と報じられており(同年3月6日付朝日新聞「高年の離婚数増」)、この時代から中高年夫婦の離婚増加が話題になっていたことがうかがえるという。
そして、団塊の世代が一斉に迎える大定年時代、つまり、2007(平成19)年に起こりうる出来事だと予想される熟年離婚をテーマーに、2005(平成17)年につくられた、渡哲也松坂慶子が夫婦役のテレビドラマのタイトルにもなり(テレビ朝日系列「熟年離婚」。※8)高視聴率を獲得し流行語にもなった。
2007(平成19)年4月の年金制度改正で、離婚すれば、夫(妻)の厚生年金の一部(最大半分まで)が妻(夫)のものとすることができるようになった(※6、※7参照)ことから、定年を前にした世代の離婚・いわゆる「熟年離婚」が急増するかと思われたが、この年に急増した以降は実際には減少している(※8:「社会実情データー図録」の婚姻率と離婚率の長期推移参照)が、その背景には、「妻がもらえる年金額が予想以上に少ない」ということがあるらしい。とはいうものの、離婚予備軍と言われる定年を前にした世代の離婚を考えての弁護士などへの相談件数は年々増え続けていると聞く。世のお父さん方は今の時代では、家庭のことを気にせずに仕事一筋に頑張っていても・・定年になると、何時、家族から放り出されえるか分からないとの不安にでおびえていることだろう・・・。
この離婚の原因には色々とあるが、多くが「性格の不一致」を原因として挙げているが、一言で「性格の不一致」などと言っても、人それぞれに、その生い立ちも違うのだから、「性格」も「価値観」も人様々、違っていて当り前。それを一致させようと思う方がおかしいのであり、難しいことかは知らないが、ご互いに相手の性格なり価値観を認め合い、支え合うのが夫婦生活での一番大切なことなのだということを承知しておかなければいけないと私などは思うのだが、それが出来ず、許せないから離婚ということになるのだろう。
だから、熟年離婚者のあげる「性格の不一致」には、「長年の我慢の積み重ね」からの「我慢の限界」、つまり、長い年月の間に積もり積もったさまざまな事情、複雑な理由が絡み合っているということなのだろう。
テレビドラマ「熟年離婚」の主人公にも見られるような、実直・生真面目・堅物で、仕事一筋に生きてきて、家庭の柱として、家族を養っているという自負を持っているが、その反面で、家庭や子供の教育などは妻に任せきりで家庭を顧みない。しかも、妻が家事をするのは当然と思っており、「完璧にできて当たり前」で、できていないところには文句を言う。そして、たとえできていても、家事をしたことのない熟年世代の男性には、家事労働の大変さかがわからないため、家事をしてくれる妻やその労働を尊重する気持ちが薄いこともあり、感謝の言葉も述べようとしない。・・・結局、女房や子供たちの価値観や生き方と正面から向き合わなかった・・。これが、父親に対して子供が無関心となり、妻が熟年離婚を考えることに繋がる大きな要因になっているのだろう。
以下参考に記載の※9:「(財)シニアルネッサンス財団(主務官庁/内閣府)」のホームページに、夫用と妻用の 「熟年離婚危険度チェック」シートがある。「男は外で働き、女は家を守るものだ」など15項目で構成されていて、年齢別に“熟年・離婚危険度が出る。私の場合、テストすると33%であった。気になる人は、一度アクセスしてテストして見るのもよいだろう。私なども、古いタイプの人間なので、妻にとっても、子にとっても良き「おとうさん」・・とは言えなかっただろうが、最近は、出来るだけ、「ありがとう」の礼ぐらいを言うように心がけている。
「父の日」を国民的な社会行事に発展・定着させることを目的に、日本メンズファッション協会(※10)と日本ファーザーズ・デイ委員会(※11)の主催により、毎年、日本で最も素敵なお父さんとされる著名人に贈られる賞「ベスト・ファーザー イエローリボン賞」が選ばれているが、19日の「父の日」を前に、第30回(2011年)の授賞式が7日、東京都内のホテルで開かれ、今年の「最もすてきなお父さん」に選ばれた5人が発表された。
選ばれたのは、政治・経済部門:富山幹太郎、学術・文化部門:川口淳一郎、学術・文化部門:佐々木健介、芸能部門:中山秀征、杉浦太陽さんたちである.選考基準は、・明るく楽しい家庭づくりをしている父親 ・父親学の実践者・厳格なしつけをしている父親 ・子供たちの良き理解者、良き教育者・お母さんと子供から見た、素敵なお父さん・社会の福祉に貢献し素敵な父親像をアピールしている人・ユニークな子育てをしている父親などとなっている。詳細は、日本ファーザーズ・デイ委員会ホームページを見られると良い。
最後に、以下参考に記載の※12「-モノグラフ・中学生の世界- VOL.10 中学生の父親~新しい父親像の誕生~」によると、現代の父親を語るときに必ずというほど、「ダメ親父」とか「権威の失墜」、「揺らぐ父親の座」というような言葉がついて回るが、子供と言っても一番難しい年代の中学生と話をしていると、「尊敬ができ、頼りがいのある存在」として父親を見ている子供が少なくないという。それは、子供たちや父親へのアンケートの結果などから、昔の父親ほどではないが、昔気質の頑固さを残しながら、子供との接触など、人間的な温かみを増したのが、現代の父親像である。つまり、「父性も残しつつ母性ももった父親といたもの」になっているようである。
子供たちへの「両親のようになりたいか?」の質問に対して、7割以上の子供から、父親のようになりたいと慕われているという。ただ、調査した資料などを見て、父親みょうりに尽きると思う反面、子供の自立が遅れており、特に男の場合、父親の傘に依存しているため、精神的な逞しさが生まれにくくなっている。“子供が自分を超えたときに父親の役が終える”ものだとするならば、何時まで経っても父親の力を超えられないと子供たちが、これから先、どのような型で精神的な自立を図っていくのかが気がかりである。・・と結んでいることを付け加えておこう。
昔気質の頑固さを残しながら「父性も残しつつ母性をももった現代の父親像」・・・それはそれで立派なものである・・・と、関心はするのだが・・・。
私には、そんな父親が本当に父親と呼べるのだろうか? 父親の使命はなにか?・・・といった疑問を感じていたものが、先に述べた調査結果の結びにもある心配事と答えが同じような気がする。
向田 邦子(むこうだ くにこ)の自叙伝的エッセイに、『父の詫び状』(1978〔昭和53〕年発表)があるが、これは自身の子供時代の家族と日常的な話題を盛り込んだ作品であり、全24編。うち22編に父が登場する。
「優しい」が取柄の父が誉めそやされる昨今、ここには、昭和の時代の「厳しい」が憎めない「父」がありありと描かれている。唯一の稼ぎ手として家族に君臨し、威張り散らす・・・そんな父をたて、子供に愛を注ぐ母、実はそんな母の手の中で転がされている父・・。それは、けっして威厳に満ちた父の姿ではなく、父親としての威厳を保とうと必死になっている、素直になれない子どものような男の姿である。私の父や叔父などもそうであったが、見方によっては滑稽にさえも見える。この生き生きと描かれている暖かい向田家の家族の光景や家族は、昭和の時代にはごく普通に見られたものである(※13)。
表題作「父の詫び状」は、仙台の実家から東京の寄宿先に戻った娘を待っていた父からの封書に至る物語である。娘に直に労のねぎらいの言葉一つかけることができない父の手紙には一体何が書かれていたのか・・・。以下で、この作品の朗読が聞ける。愛情と反感をないまぜにしながらも、そこには確かな「父親の発見」があるだろうと思う。
[立読み版]向田邦子 父の詫び状(SkyDrive版): “えぷろんの朗読本棚
http://epuron-rodoku2008.seesaa.net/article/121356236.html
以下参考に記載の※12:「父親像の復興は可能か」にも書かれているように、敗戦によって破壊され、失われた物は数多くあるが、その中でいまだに復興されないものに日本人ひとりひとりの「父親像」がある。そこにもあるように、「父性」と「母性」とは子供にとって本来異なる特性を有するものである。そして清水久二(横浜国大名誉教授)は、言っている。父の役割は長期的な子の成長を考えることであり、子供もそんな父親を見ている。しかし、理想とする父はいない。品行方正な男、こまめに子の面倒を見る父がいるとすればそれはもはや父ではない。習慣的な存在としての父である。一敗地にまみれること、それが男の真の姿である。男女の役割分担の混乱はその協力関係をギクシャクさせる。21世紀の情報化、機械化社会にあって男女の違いが単に生物学的相違というのではなにか物足りないし、中性化は確かに国力の漸次的衰退を招くであろう。
実際自分が男として、女としてだれを理想的モデルとして生きるのか、を求めない人はいない。多様な要素をすべて包括し、普遍的な人間の像、その具体例としての父(母)親像を提示できるのはひたむきにこの世を生きた個人の仕事であり、科学界の仕事ではない。・・・と。この論調には色々、反論する人も多いだろうが、このような意見のある事も知っておく必要があるし、私もそのような意見に近い考え方を持っている。
“家族の絆”が年々弱まっているといわれる中、2011年5月、「父の日アンケート調査」がリユースショップを展開するサンセットコーポレイション(※15)によって実施された結果“大震災(東北地方太平洋沖地震)の影響”が大きく反映されたものとなり、家族とのコミュニケーションや絆への意識の高まりとともに“頼りになる父親像”が浮き彫りとなったという。
最大の特徴は、3人に1人が「震災後、父親への想いや行動に変化があった」と答え、その中で最も多かったのが「頼もしさが増した」など、ここぞという時に頼りになる“父親の存在感”についてのものとなっている。また若い年代ほど父親の“威厳復活”を感じる割合が高いという。そして、「震災があったことで、家族の絆が以前とは比べ物にならないほどに強まった」といえるのだそうだ(※16)。
私が住んでいる神戸の町も、阪神・淡路大震災で町も産業家も崩壊し、多くの死者を出したが、震災後、地域との結びつきや家族の絆は強くなったといわれている。実際に町を歩いていても、それまで、核家族化で年老いた親と子供夫婦が別所帯で住んでいた家でも、震災後には同居るようになり、1軒の家に姓の異なる表札が2枚かかっている家を多く見るようになった。そこには、家を再建するための経済的理由も大きく影響しているのだろうが、困ったもの同士の助け合い、結束力は非常に強くなったのは事実であると同時に、そこに済む、父親への信頼感、期待感も強くなっている。3世代家族のように人が集団で一緒に生活をするようになると、おのずから、そこには、家族を引っ張っていくリーダーが必要となる。そのような中で、当然、父(母)の役割も、それまでとは違ったものとなってくるだろう。中でも、父への期待感は高まるだろう。だからと言って、昔のお父さんのように威張り散らす必要は無いが、家族を支えているリーダーとして、子育てには、母親とは違った形でどのように関わっていくかは考え直すことも良いのではないか。 
昭和の時代、私が仕事を始めた昭和30年代には、まだ、毎月の給与などは給与袋に現金を入れて貰って家に持ち帰った。会社では、総務の人から給与を受け取るときに「今月はご苦労桟でした」とねぎらわれ、給料日に家に帰ると、お母さんがお父さんの大好きなお酒と特別な夕食を用意してくれており、夕食時に、子供のいる前で、おかあさんに給与を手渡す。お母さんが袋からお金を出して、ニコニコしながら数えている姿を見て、サラリーマンの子供の場合など特に、自分のお父さんの働く姿は見ていなくても、月に一度まとめて会社から貰ってきた普段は見ない多くの金額に、「スゴイ!」と驚き、お父さんが、苦労して働き、お金を稼いできていることを再認識し、同時にお父さんの力を改めて見直していたものである。そして、お母さんの口から「今月も有り難う!」との感謝の言葉とともに、お父さんの盃にお酒を注いでもらい、その日の家族での楽しく夕食が始まる。
会社での厭なことも何かもこの日だけは忘れて、一家の主である事に誇りを感じていたものだ。最近は給与も振込みで、このような姿を見ることもなくなっただろうが、月に1度くらいは、家族全員でおとうさんに「ありがとう!」と感謝の意を述べてあげてほしいものですね。
(冒頭の画像左:第1期国定国語教科書「尋常小学読本」、右:向田邦子著『父の詫び状』文春文庫)
参考:
※1:国語教科書
http://libdspace.biwako.shiga-u.ac.jp/dspace/bitstream/10441/393/4/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%81%BF%E3%80%80%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf#search='イエスシ読本'
※2:変体仮名のはなし(その3)
http://blog.livedoor.jp/hnnk0/archives/51555256.html
※3:Benesse教育情報サイト-パパ・ママ派が約4割。5割はお父さん・お母さん
http://benesse.jp/blog/20100225/p1.html
※4:2010年「母の日」「父の日」比較!昔嫌われてたのは……?
http://news.livedoor.com/article/detail/4832528/
※5:亭主元気で留守がいい - 新語・流行語大賞
http://singo.jiyu.co.jp/nendo/1986.html
※6:社会保険庁:離婚時の厚生年金の分割制度について
http://www.sia.go.jp/topics/2006/n1003.html
※7離婚問題・熟年離婚 年金分割の基礎知識
http://dmst.info/
※8:社会実情データー図録
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/index.html
※9:(財)シニアルネッサンス財団
http://www.sla.or.jp/index.html
※10:一般社団法人日本メンズファッション協会 | MFU
http://www.mfu.or.jp/
※11:日本ファーザーズ・デイ委員会
http://www.fdc.gr.jp/
※12-モノグラフ・中学生の世界- VOL.10 中学生の父親~新しい父親像の誕生~
http://benesse.jp/berd/center/open/report/monograph/chu/vol_10/index.html
※13:向田邦子の「父の詫び状」 - 女性が輝くNHKオンデマンド! - navicon
http://navicon.jp/feature/nhk-josei/josei_2.htm
※14:父親像の復興は可能か(PDF) 清水久ニ
http://www.h6.dion.ne.jp/~shim-his/father.pdf#search='父親像'
※15:サンセットコーポレイション
http://www.sunset-co.jp/index.html
※16:震災後に変化した父親像、深まる家族の絆~父の日アンケート結果~
http://www.news-gate.jp/2011/0604/7/
厚生労働省:統計調査結果厚最近公表の統計資料>最近公表の統計資料
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/
ドラマ「熟年離婚」
http://www.tv-asahi.co.jp/rikon/02_outline/index.html
図書カード:太宰 治「 父」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card245.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
ヤクルトホームページ
http://www.yakult.co.jp/

日本初とされるバラバラ殺人事件「鈴弁殺し事件」が発覚した日

2011-06-06 | 歴史
1919年(大正8年)6月6日午前9時頃、新潟県大河津村(現・長岡市)を流れる信濃河岸に赤皮製トランクが漂着しているのを、通りがかりの牛乳販売業者が見つけた。村人数人を呼んで開けたところ、首も足も無い男の胴体と両腕が詰め込んであった。
死体は鋭利な刃物で頭部と大腿部を切断され、骨は鋸のようなもので引き切られていて、他に外傷は無い。栄養状態は良く、純毛織で英国製の長シャツ、絹紬長股引(ながももひき)をつけ、年令は50歳ぐらい。被害者は相当の暮らしぶりの人物と推測された。
捜査本部が長岡駅からトランクを運んだ2人の男の情報を得て、東京、大崎に住む農商務省技師に辿り着いた8日、警視庁の正力松太郎監察官に面会を求める男がいた。農商務省技師の山田憲(30)と名乗り、新聞で信濃川の事件を知ったが、犯人は自分方に同居する農学士渡邉惣蔵(65)だと語り、同行の渡邉を残して去った。
渡邉は自分が犯人だというが、つじつまの合わない点が多い。そこへ新潟県警から犯人は山田憲で2人の共犯者がいると急報が届き、山田と麻布に住むいとこの白米商山田庄平(39)が捕まった・・・・(アサヒクロニクル「週間20世紀」057)。
鈴弁殺し事件』(又、『山憲事件』とも)呼ばれるこの事件がバラバラ殺人事件の嚆矢(こうし=最初)とされているようだが、殺害した被害者の死体損壊事件に、初めて“バラバラ殺人”と表現したのは、この事件ではなく、その後の1932年(昭和7年)2月に名古屋市中村区で発件された「首なし娘事件」に次いで、同年3月に東京府南葛飾郡寺島町(現在の東京都墨田区)で発覚した猟奇的な殺人事件(「玉の井バラバラ殺人事件」)であり、この時「コマきれ殺人」「八つ切り殺人」など、さまざまな表現があったようだが、東京朝日新聞(現:朝日新聞)のつけた見出しが始まりだそうだ。その語感から状況が想像し易いことや、名称としてインパクトがあることから、この事件以降同様の事件報道において用いられるようになったようだ。
しかし、「鈴弁殺し事件」以前に、人間の体をバラバラに解体するような犯罪は全くなかったのか・・・と言うと、そうでもないようで、ネットで検索した以下参考に記載の本『20世紀にっぽん殺人事典』(福田 洋 著、※3参照)のタイトルなどを見ていると、1902(明治35)年「野口男三郎、臀肉切り少年殺し」、1905(明治38)年「生肝取り、四人殺し」、1910(明治43)年、「深川・首なし裸女事件」といったものが見られ、明治の中期には既にバラバラ殺人が発生していたようだが、これらが初となっていないのは公式な記録がないからだろうか・・・・。
そして、「バラバラ殺人」などという言葉が新語として定着するには、そのような事件が連続して起こり、新聞などマスコミ情報により、世間の人々の記憶に焼きつくようになったときなのだろう。
又、人体を解体(死体を損壊)するといったような行為が行われるようになったのは、明治以降の西洋化・近代化によって、人の身体も機械のように手・足・首などの複数の部品の組み合わせで成り立っているといったような醒めた見方(それが科学的なのかどうか知らない・・)をするようになったことからかも知れない・・・。
近年、殺人事件の数などは、年々減少しているにもかかわらず、バラバラ殺人のような凶悪犯罪や猟奇殺人が増えているのも、テレビゲームなどの普及により、子供の頃からの殺人ゲームを通じて人を簡単に殺すことに抵抗がなくなっているからだとも聞いているが・・・(日本国内の事件参照)。
本題の「鈴弁殺し事件」が当時社会問題となっていた『米』が、事件を引き起こしたわけであるが、事件の結論と言うか、核心部分に入る前に、当時の社会的な背景など簡単に振り返ってみよう。
当時件の内容やバラバラ殺人事件等のことについて早く知りたい人は、以下参考に記載の※1:「オワリナキアクム:事件録」や※2:「無限回廊:事件:戦後の主なバラバラ殺人事件」などに詳しく書いてあるので参照されるとよい。
米騒動とは、米の流通量の減少や価格高騰によって民衆が米を入手しづらくなることが要因となって起こる騒動であるが、米騒動の発生契機としては、凶作による米不足や米価格の暴騰が直接的な要因になる事が多い。単純な「米価格の暴騰に伴う民衆暴動」という定義の騒動は、江戸時代の享保の大飢饉の頃から幾度となく発生しているが、戦前には、1890(明治23)年、1897(明治30)年、1918年(大正7年)と3回起こり、特に1918(大正7)年の米騒動は大戦景気の最中とあって最大規模となり、狭義で言う「米騒動」はこの1918(大正7年)年の事件を指していることが多く、ここでもその時の事件について簡単に触れる。
1897(明治30)年の後の1910(明治43)年にも関東大水害により、同年から1913(大正)2年まで続いていた米価高騰期には、政府は、幾つかの米価抑制策を実施し、1912(明治45)年には、定期米(第二次大戦前の米穀取引所で、定期取引の目的物となった米)市場に於ける台朝米(台湾・朝鮮産米)の代用を認める一方で、正米(しょうまい)市場において、述べ取引(代金をすぐに支払わず、一定期間をおいて決済する取引)を禁止し、又、米及び籾(もみ)の輸入税(関税参照)低減、1913(大正2)年には朝鮮米移入税の廃止(※4の中の鮮米移入税問題 (上・下)参照)が実施され、米価は翌1914(大正3)年の第一次世界大戦開戦年の直後には、暴落したため、政府は逆に米価引き上げ策をとらなければならない情勢となり、同年には米価調整令を公布し、米価調整のため必要に応じて、政府が直接米を買入れて交換・売渡しが出来るようにした。
第一次世界大戦開戦下の日本資本主義は異常な好況(大戦景気)に恵まれ、鉄成金、船成金など「成金」が続出した反面、未曾有のインフレ進行は労働者の実質賃金を低下させ、かえって民衆の生活を悪化させた。
そして、大戦開始直後に暴落していた米価も、周りの物価が上昇していく中で、1917年(大正6)から1918(大正7)年にかけて上昇を始め、1918(大正7)年の中頃から急激に暴騰した。その結果、端境(はざかい)期には米を買わねばならない全農家の3分の1を含め、民衆をもっとも苦しめることとなった。
大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年(大正7年)の1月に1石15円だった米価は、6月には20円を超え、翌月7月17日には30円を超えるという異常事態になっていた(当時の一般社会人の月収が18円 - 25円)。7月末から8月初めにかけては各地の取引所で立会い中止が相次ぎ、地方からの米の出回りが減じ、8月7日には白米小売相場は1升50銭に暴騰した(※5参照)。
上図は、堂島米会所における当時の米相場(米一石あたりの値段(Wikipedia)。
(※1石とは、成人男子の年間消費量相当で、当時150kg。1俵は60kgだから、約2,5俵に相当)
この時の米の暴騰は、基本的には大戦景気による都市部の人口増加、工業労働者の増加など、非農業人口の急増をもたらしたほか、養蚕などによる収入の増加があった農家は、これまでのムギやヒエといった食生活から米を食べる生活に変化していった。それに対して、寄生地主制下の米の生産が停滞して供給不足に陥ったことが根本的原因であったが、その上に大米穀商や地主の投機的な買占め、売り惜しみが加わったことが事態を悪化させた。
1916(大正5)年10月、第2次大隈内閣の後を受けて山縣有朋の推挙によって擁立された寺内内閣(元帥陸軍大将・軍事参議官)の仲小路廉農商務大臣は、事態を重く見、1917(大正6)年9月、内地米不作の見通しを受け「暴利取締令」(農商務省令第20号)を発し、商人への取締りを強化し、米・鉄・石炭・綿・紙・染料・薬品の買い占めや売り惜しみを禁止などたが、効果はなかった。常軌を逸した商魂を表わす口語の動詞「ぼる」「ぼられる」「ぼったくる」(暴る、暴られる、暴ったくる)は、この「暴利取締令」の「暴利」に由来する(広辞苑による)。
続いて1918(大正7)年4月には、外米管理令(勅令第九十二号)の制定と、臨時外米管理部の設置及び外米管理規則(農商務省第十三号)によって、政府指定商人(三井物産や鈴木商店など指定七社)による外米及び植民地米の輸移入と政府補給金の支出によるその廉売を実施させ、米価の沈静化を図ろうとしたが米価引き下げには至らずなおも高騰した(※6参照)。
この米価に決定的影響を与えたのは第一次世界大戦の影響で輸入米が激減した事や1917年のロシア革命に端を発し、寺内内閣により1918(大正7)年7月12日にシベリア出兵宣言が出されると、需要拡大を見込んだ商人による大量の米の思惑買い、売惜しみが発生したことが事態を一層悪くしたのであった。(このことは前にこのブログ「米騒動の日」で詳しく書いた)。そのため国民の憤懣は煮えたぎっていたのである。
最初に立ち上がったのは、1918(大正8)年7月22日、富山県魚津町(現在の魚津市の中心となった町)の漁師の妻たちであり、彼女等の井戸端会議からであった。「米がこんなに値上がりするのは、富山で採れた米を、他県にばかり、大量に運び出しているからではないか・・・」といったことになり、翌23日朝、魚津町の漁家の主婦たち数十人が県外移出を差し止めるべく海岸に集合し、米の積み出しを行なっていた船に積み出しをやめるよう要求、このため米の搬送は中止された。
その夜、百数十人に膨れた主婦集団は、さらに町内の米穀商宅に押しかけ、移出中止を求めた。これが富山湾沿岸一帯に不穏な空気が高まり、8月3日には富山県中新川郡西水橋町で数百名の群集が米商人や資産家の家に押しかけ大声で米の安売りを要請するに至った。そのことが「富山の女一揆」と大阪や東京の大新聞をはじめ、各地の地方紙にも報道されたことが発端となり、京都、名古屋大阪の大都市に飛び火し、米問屋と住民の騒動は瞬く間に全国に広がり米問屋の打ち壊しや焼き討ちなどが2ヶ月間に渡り頻発し、全検挙者数万人にのぼる全国的食料暴動(=米騒動)が発生するに至った。
ただ、魚津では米の県外移出を阻止する動きはあったものの、暴動は一切起こっていない。米価の暴騰は一般市民の生活を苦しめ、新聞が連日、米の価格高騰を知らせ煽った事もあり、余計に社会不安を増大させたといえる。余計な話だが、マスコミと言うのは昔から戦争を煽ったり、今回の東北での震災による福島原発事故などでも自らは取材も満足にせずリーク(秘密の情報が漏らされること)情報などをそのまま、中途半端に報道し風評を広めたり、時には真実を正確に伝えずに、恣意的にある筋の思惑を流し、ある方向に持っていこうとすることがあるように感じている。何か、いつの世にも、結構困ったことをしてくれていることが多いような気がするね~。
この為、政府は警察力の増加をもって社会情勢の不安を抑え込む方針が取られ、巡査を増員するという措置が取られた。当時、労働者の米騒動は、8月11日から16日、特に13日がピークであった。
「神戸の鈴木商店に4万袋の米がある」との新聞報道を受け、12日夜、店の前に押し寄せた群衆の、投石、挙句に焼討ちにより、向かいの神戸新聞社もろとも全焼したが、この時兵庫県知事は、警官の抜剣を許可、更に軍隊の要請をした。神戸で4名大阪で2名の刺殺者を出したという(アサヒクロニクル「週間20世紀」057)。
労働者の団結権(労働三権の1つ)すらなかったこの時代、厳しい抑圧と、苦しい生活に喘ぐ一般庶民の怒りの矛先は、次第に高所得者、特に米問屋や商人に向けられるようになっていった。
マスコミのなかでは「大阪朝日新聞」が米騒動の報道に力を入れ、シベリア出兵に抵抗するなど、大正デモクラシーを先導する言論機関として活躍していたようだ。
8月17日以降には、米騒動は山口県や北九州の炭坑騒動へ飛び火し、沖の山炭坑(現在の宇部炭鉱の1つ)の騒動は付近住民を加えた数千人規模の騒動に発展し、米問屋、屋敷の打ちこわしや遊郭への放火などが起こり、出動した軍隊に対してもダイナマイトで対抗するなど、死者13名を数える惨事となった。
寺内内閣は、1918(大正8)年8月穀類収用令(勅令第三百二十四号。)を緊急勅令により制定し、強制収用も辞さずとの威嚇を背景に指定商人による内地米買い付けを行なわせ、同時に外米管理部を臨時米穀管理部に改組し、買い付け内地米をも含む米穀の管理を強化しようとしたが、解決せず、戦争による格差の拡大、新聞社に対する言論の弾圧などの問題を孕んだこの騒動は民間での倒閣運動の高揚に直面し、9月21日、寺内内閣の総辞職をもって、一応の収まりを見せ、「平民宰相」と呼ばれた原敬による日本で初めての本格的な政党内閣に米騒動後の米価対策は委ねられることとなった。原敬は米騒動の原因を、「米は地方に於いて不足せしにはあらず」、「騒動を醸せしは、畢竟法令の力を過信し、法令の力に因りて米価を低下せんと試みたる秕政の致す所なり」と寺内内閣の強権的な米国管理政策が、地方に残存する米の自由で円滑な出回りを疎外した結果、諸都市に於ける米価の引き下げに失敗し、高米価を不満とする騒動が惹起されたと見ていたようだ。それ故、原は寺内内閣の強権的な米価政策の失敗に学びつつ、自らは内閣成立早々、「人為を以て極端なる政策を採るは却(かえっ)て経済上に混乱を与ふるのみならず、法律を以て自然を動かすが如きは深く慎むべし」と言明し、こうした基本姿勢に立った上で、食料政策を進めたという(※6参照)。米騒動は明治期以後の日本の民衆運動の転機となる事件ともなった。
「国内初」と言われるバラバラ殺人「鈴弁殺し事件」(又、「山憲事件」)が、当時社会問題となっていた『米』問題が背景にあったことを述べたが、以下で、事件の顛末を述べよう。
事件を引き起こした「山憲(やまけん)」こと山田憲は、新潟県の医師の子の生まれであり、裕福な家庭に育ち、東大農学部の前身である駒場農科大学卒業後、農商務省に入り、1918(大正7)年4月より設置された外米管理部設置と同時に抜擢され、同年夏、外米調査のためインドに派遣され帰国後、省内一の外米通として重用されていた当時のエリート官僚であったことが、この事件の特徴でもある。
外米管理部とは、前年の米騒動を受けて設置された米価調整機関であった。
当時、米が高騰している中で米を買い占めて価格をつり上げる悪徳業者が跋扈(ばっこ=はびこる)していたことから、外米の輸入を政府が管理することで米価の調整を図ろうとしたのだ。
その政策では、外米は同部が指定した業者しか販売できないこととし、資力と信用の備わる商店を指定して、公定価格で外米を販売させることにした。そして、商店には100斤(60kg)につき30銭の手数料を与え損失が出れば補償することにも・・・。
こんな商売をして損失を補填してくれるほどうまい儲け話はないだろう。当然、指定されるべく名乗りを上げる商店も多かっただろうが、政府が指定したのは東京の三井物産と湯浅商店、大阪の岩井商店、神戸の鈴木商店の4店、それに次いで、間もなく神戸の大黒商店と内外貿易、名古屋の加藤商店の3店が仲間入りし計7店となった。
当然損をせずに誰でも必ず儲かる商売をしたいだろうから、外米管理部の役人と外米商との間では、全国的に贈収賄が横行していただろうことは、誰でも分かることだと思うのだが・・・・。
本件の被害者・鈴弁こと鈴木弁蔵は、神奈川県の農民の子で、18歳で米穀商に住み込み、やがて横浜一の外米輸入商となり資産百数十万円と称されるほどになっていたという。だから、南京米(インド・タイ・インドシナ・中国などから輸入した米の通称)であくどい儲けをしたとか大正7年の米騒動では機敏に立ち働いて50万円もの利をせしめたと噂され、別名を「ズル弁」と呼ばれていたらしいことも分かる。
1918(大正7)年4月、山田憲は静岡県の元代議士の次女と結婚をしたが、元代議士の住む隣村に鈴木の別荘があり、旧知の間柄であったことが、自然と山田に鈴木が近づいたようだ。それなのに、山田が鈴木を殺害した理由は、金銭のトラブルからだったらしい。
外米輸入商と高利貸しを兼ねており、米の買い占めで財をなしていた鈴木だが、更なる利益を求めて農商務省外米管理部の技師となった山田に接触し、山田からリークされた情報を基に利益を得て、その一部をリベートとして渡していたようだ。しかし、山田には投機癖があり、米取引所株を買ったり、相場に手を出したりして借金を抱え、債権者に追い立てられるようになっていたようだ。その返済と生活維持のためたまたま鈴木から「外米取扱い商の許可が下りる様運動してほしい、外米相場を真っ先に自分に知らせて欲しい」などとの要望を利用し、鈴木から金を引き出すことに成功したようだが、山田は鈴木の要望通りに行動せず、度々鈴木から詰問される様になった。
山田は、最初のうちは鈴木を無視する態度でいたが、業を煮やした鈴木が関係を暴露する旨を言い出すに至り、追い詰められた山田は大学時代の同卿学生の泊まる寄宿所に止宿していたときに親交のあった渡邉と共謀して鈴木を山田の家へ招き酒を飲ませた上で、渡邉が背後からバットで背中を打ち、手拭で首を絞めたあと、山田憲がとどめに右手で喉を締め窒息させ、翌朝、いとこの山田庄平と共に死体を切断して2つのトランクに詰め、渡邉と庄平に長岡へ運ばせたのだという。
山田は大正10年3月死刑に処されたが、弁護を担当した弁護士竹内金太郎(※9)は、事件の背後には外米指定商問題をめぐる大きな汚職があり、主犯は農商務省の有力な人物だったという疑惑を捨て切れなかった・・・と言っているようだ(アサヒクロニクル「週間20世紀」057)。
この事件で興味が引かれたのは、警視庁が、山田を逮捕したときの取り調べの担当者の上官が正力松太郎であったということだ。・・・私たちにとって、なんと興味ある人物だろう・・・。戦中・戦後の日本を影で操ってきた影の実力者だと聞かされている。
当時 経営危機に陥っていた讀賣新聞を買い取り社長に就任し、「読売中興の祖」として知られている正力は、ウィキペディアの略年譜を見ただけでその凄い経歴がわかる。
参考に記載の※6:「松岡正剛の千夜千冊『巨怪伝』佐野眞一」によると、佐野真一著『巨怪伝』の副題は「正力松太郎と影武者たちの一世紀」となっているだけあって、あの清張にして、「結局ぼくも新聞社についてだけは書けなかった」と言われる中で、実態を掴むことが難しい情報メディアの総合的発信体であるマスメディアのなかでも図抜けて手ごわい人物正力松太郎についてかなり詳しく捕らえられているようだ。
正力は、東京帝国大学法学部卒。内閣統計局に入り、高等文官試験に合格後、28歳で警視庁入庁。当時は帝大出が警視庁に入るということ自体珍しく、「学士様」として庁内の注目を浴び、翌年日本橋堀留署長。1917(大正6)年、牛込神楽坂署署長、警視庁第一方面監察官となる。1919(大正8)年、警視庁刑事課長になったときが34歳。当時の正力は剛腕コワモテの警察官僚として有名人だったらしい。「警視庁に正力あり、との声価を一挙に高めたのは、第一方面監察官時代に遭遇した早稲田騒動(1917年)と、米騒動(1918年)の水際立った鎮圧ぶりだったという。日本の戦前の警察機構のなかでは、米騒動で発揮した正力の「蛮勇」ぶりこそが、まさに「勲章もの」であったらしく、米騒動の鎮圧活動で「功績抜群」と評価された正力は、天皇の名において勲六等の叙勲を受け、瑞宝章を授けられている。
今話題となっている原子力委員会の初代委員長にも就任していた。今日は詳しく書けないので、興味ある人は※7、※8なども見るとよい。。
(冒頭の画像は、大阪朝日新聞大正7年8月11日付。週間朝日百貨「日本の歴史」111より)

日本初とされるバラバラ殺人事件「鈴弁殺し事件」が発覚した日 参考へ



日本初とされるバラバラ殺人事件「鈴弁殺し事件」が発覚した日:参考

2011-06-06 | 記念日
日本初とされるバラバラ殺人事件「鈴弁殺し事件」が発覚した日冒頭へ戻る

参考:
※1:オワリナキアクム:事件録
http://yabusaka.moo.jp/c.html
※2:無限回廊:事件:戦後の主なバラバラ殺人事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/barabara.htm
※3:『20世紀にっぽん殺人事典』(福田 洋 著)
http://www.geocities.jp/shakaishisou/cat/ISBN4-390-50212-3.htm
※4:神戸大学付属図書館:デジタルアーカイブ -新聞記事文庫
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html
※5:食料自立・日本どうする! 2.価格高騰と米騒動を繰り返した日本の主食、米市場
http://www.financial-j.net/blog/2009/09/001021.html
※6:一九二〇年代農政指導の検討[PDF]
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN0021395X/HLJ_17-1_181.pdf
※6:松岡正剛の千夜千冊『巨怪伝』佐野眞一
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0769.html
※7:正力松太郎の履歴について。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20100130/1264819209
※8:475 現代マスコミ論
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mascomiron.htm
※9:竹内金太郎
http://www.jmixnet.co.jp/map/furusato/data/data231.html
バラバラ殺人 - Wikipedia
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