1970(昭和45)年 07月31日、日本国有鉄道山手線に冷房車両が登場した。
1988(昭和63)年まで使用されていた山手線の103系電車(冒頭画像参照)は、元は、当時上野駅止まりだった日本鉄道(日本初の私鉄)東北線と新橋駅止まりだった官設鉄道の東海道線を連絡する貨物主体の路線で山の手に線路を敷設したもの(当時品川線と呼ばれていた)が、東京市街地の拡大に伴い、市街を巡る大都市の基幹交通路線に性格を変えていった。この電車が運行を開始したのは1909(明治42)年、現在のように環状運転が実施されるようになったのは1925(大正15)年のことである。
103系電車は、国鉄(旧日本国有鉄道の略。現JR.)が設計・製造した直流・通勤形電車であり、国鉄の通勤形電車としては前作に当たる101系を基に、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で、経済性を最重視して再設計され、1963(昭和38)年3月から1984(昭和59)年1月までの21年間に3,447両が製造されたという。
第二次世界大戦後の高度経済成長と都市部の過密化により、東京近郊路線(以下参考の※:1「東京近郊路線図」参照)の通勤時間帯における混雑は「通勤地獄」と称されるほど深刻なものになっていた。定員に対する乗車人員数で表される乗車率の最大値は、1960年(昭和35年)度には総武本線で312%、東北本線で307%、山手線で299%、中央線快速で279%、常磐線で247%に達していたという(通勤五方面作戦-Wikipedia)。いずれも車内は空調設備がなければ健康に悪影響を及ぼすほどの密集状態で、ドア開閉に支障をきたす事もしばしばであった。
私も、東京オリンピック開催前の1963(昭和38)年から5年ほど、東京の会社に勤めていたが、事業所が日本橋と新宿にあったので、東京駅や新宿駅へ普通でもラッシュ時の電車に乗るのが大変なのに、真夏に冷房の付いていないこのような混雑した電車に乗るのが以下に大変なことかは経験してきる。最初の頃、特に高円寺又、国分寺の寮にいたので、中央線の快速に乗ると、目的地である新宿では下りられず、四谷まで連れてゆかれ、そこから引き返したことなど何度もあった。まさに、電車に乗るのも押しやと呼ばれていた人に強引に尻や背中を押してぎゅうぎゅう詰めの電車の中へ強引に突っ込まれ、降りるのも電車の中の方に居ると出られないので喧嘩腰、夏の暑い時は、誰れもが気が立っているので、電車の乗りのも命がけといった感じであった。そてに比べ、今ではどこの電車に乗っても、夏などは冷房が効き過ぎて特に女性などには寒いくらいのときもあり、電車によっては弱冷房車も設置されているくらいだから、サラリーマンの通勤も私たちの若い頃に比べると非常に楽になったろう。
因みに、日本最初の冷房電車は、1936(昭和11)年の南海鉄道(現・南海電気鉄道)2001形で、この型の電車は、南海鉄道が大阪-和歌山間で並行して走る阪和電気鉄道(現・西日本旅客鉄道【JR西日本】阪和線)への競合対策用として1929(昭和4)年より製造を開始した大型鋼製電車で、当時日本最大級の20m級車体に、主電動機として150kW級モーター4基を搭載し、特急・急行用として長く愛用していたものを、1936(昭和11)年に冷房電車としたものであるが、これは冷房使用が2年間のみで、最多運用時でも8両(1年目は1両)という試験的な存在(日中戦争の激化により使用中止)であったようだ。又、この同年(1936【昭和11】年)8月には、国有鉄道の特急列車「燕」でも冷房装置初搭載の新製食堂車を連結している。
しかし、継続使用を前提とした量産車は1959(昭和34)年の名鉄5500系電車が最初と言えるようで、この名鉄5500系電車を皮切りに、私鉄において冷房を取付けた通勤型電車が登場したのに呼応し、国鉄も私鉄とのサービス格差を改善する目的で試作冷房装置を搭載して、山手線に10両編成1本が試験投入された。
鉄道車両の冷房装置としては、小型の冷房装置を6~8台搭載する方法(分散式)と、大型の冷房装置を1台だけ搭載する方法(集中式)があった。
名鉄の 名鉄の5500系電車の初期型などは分散式であったようだが、国鉄の103系電車の初期型は後者の集中式であったようだ。
冷房方式の比較・検討のため、異なるメーカーが製作した3種の試作冷房装置が取付けられ、冷房電源用の電動発電機(MG)は別途、編成両端のクハ103形(103系の制御車。画像ここ参照)に210kVA(以下参考の※2:「中部電力|・知ってる?電気のしくみ - ボルト・アンペア・ワット」参照)のものが各1台ずつ取付けられ、それぞれ5両給電としたようだ。 1963年(昭和38年)3月25日先行試作車1編成(低運転台の103型)が落成し、9か月にわたる試運転を繰り返した後、12月28日より営業運転に入り、1968(昭和43)年10月1日10両編成運転を開始 。そして、1970(昭和45)年の今日・7月31日に国電山手線で初の103系冷房車運行が開始されたという訳である。
国鉄の列車冷房は1960年代前半まで、特急列車や優等車両に限って装備されていたが、1966(昭和41)年頃からは急行列車の二等車(普通車)にも搭載対象が広げられたが、山手線は103系通勤電車が最初に投入された路線である。1974(昭和49)年以降に製造された先頭車からは踏切事故対策を踏まえて高運転台となった上に1981年からは自動列車制御装置(ATC)を装備するようになった。
ただ、首都圏における国鉄の通勤路線(国電)における輸送量増強を目指し、1964年(昭和39年)に国鉄の通常常務会で壮大なプロジェクト通勤五方面作戦が策定されたが、この年から国鉄は赤字になるがその原因に、この通勤五方面作戦や新幹線の建設に伴う支出、自動車の普及によるモータリゼーション、都市への人口集中による地方ローカル線の営業不振などがあげられるのが皮肉な問題でもある。
(画像は、1988年まで使用されていた103系有楽町駅にて、Wikipediaより)
参考:
山手線 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%89%8B%E7%B7%9A
鉄道の歴史 (日本) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
しらこばと車輌工場 > READYMADE > 国鉄山手線・103系
http://newtown.cool.ne.jp/models/ready/jnr103_shina-17/
※:1東京近郊路線図
http://japan-city.com/tokyo/map.html
※2:中部電力 |・知ってる?電気のしくみ - ボルト・アンペア・ワット
http://www.chuden.co.jp/manabu/shikumi/bort/index.html
1988(昭和63)年まで使用されていた山手線の103系電車(冒頭画像参照)は、元は、当時上野駅止まりだった日本鉄道(日本初の私鉄)東北線と新橋駅止まりだった官設鉄道の東海道線を連絡する貨物主体の路線で山の手に線路を敷設したもの(当時品川線と呼ばれていた)が、東京市街地の拡大に伴い、市街を巡る大都市の基幹交通路線に性格を変えていった。この電車が運行を開始したのは1909(明治42)年、現在のように環状運転が実施されるようになったのは1925(大正15)年のことである。
103系電車は、国鉄(旧日本国有鉄道の略。現JR.)が設計・製造した直流・通勤形電車であり、国鉄の通勤形電車としては前作に当たる101系を基に、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で、経済性を最重視して再設計され、1963(昭和38)年3月から1984(昭和59)年1月までの21年間に3,447両が製造されたという。
第二次世界大戦後の高度経済成長と都市部の過密化により、東京近郊路線(以下参考の※:1「東京近郊路線図」参照)の通勤時間帯における混雑は「通勤地獄」と称されるほど深刻なものになっていた。定員に対する乗車人員数で表される乗車率の最大値は、1960年(昭和35年)度には総武本線で312%、東北本線で307%、山手線で299%、中央線快速で279%、常磐線で247%に達していたという(通勤五方面作戦-Wikipedia)。いずれも車内は空調設備がなければ健康に悪影響を及ぼすほどの密集状態で、ドア開閉に支障をきたす事もしばしばであった。
私も、東京オリンピック開催前の1963(昭和38)年から5年ほど、東京の会社に勤めていたが、事業所が日本橋と新宿にあったので、東京駅や新宿駅へ普通でもラッシュ時の電車に乗るのが大変なのに、真夏に冷房の付いていないこのような混雑した電車に乗るのが以下に大変なことかは経験してきる。最初の頃、特に高円寺又、国分寺の寮にいたので、中央線の快速に乗ると、目的地である新宿では下りられず、四谷まで連れてゆかれ、そこから引き返したことなど何度もあった。まさに、電車に乗るのも押しやと呼ばれていた人に強引に尻や背中を押してぎゅうぎゅう詰めの電車の中へ強引に突っ込まれ、降りるのも電車の中の方に居ると出られないので喧嘩腰、夏の暑い時は、誰れもが気が立っているので、電車の乗りのも命がけといった感じであった。そてに比べ、今ではどこの電車に乗っても、夏などは冷房が効き過ぎて特に女性などには寒いくらいのときもあり、電車によっては弱冷房車も設置されているくらいだから、サラリーマンの通勤も私たちの若い頃に比べると非常に楽になったろう。
因みに、日本最初の冷房電車は、1936(昭和11)年の南海鉄道(現・南海電気鉄道)2001形で、この型の電車は、南海鉄道が大阪-和歌山間で並行して走る阪和電気鉄道(現・西日本旅客鉄道【JR西日本】阪和線)への競合対策用として1929(昭和4)年より製造を開始した大型鋼製電車で、当時日本最大級の20m級車体に、主電動機として150kW級モーター4基を搭載し、特急・急行用として長く愛用していたものを、1936(昭和11)年に冷房電車としたものであるが、これは冷房使用が2年間のみで、最多運用時でも8両(1年目は1両)という試験的な存在(日中戦争の激化により使用中止)であったようだ。又、この同年(1936【昭和11】年)8月には、国有鉄道の特急列車「燕」でも冷房装置初搭載の新製食堂車を連結している。
しかし、継続使用を前提とした量産車は1959(昭和34)年の名鉄5500系電車が最初と言えるようで、この名鉄5500系電車を皮切りに、私鉄において冷房を取付けた通勤型電車が登場したのに呼応し、国鉄も私鉄とのサービス格差を改善する目的で試作冷房装置を搭載して、山手線に10両編成1本が試験投入された。
鉄道車両の冷房装置としては、小型の冷房装置を6~8台搭載する方法(分散式)と、大型の冷房装置を1台だけ搭載する方法(集中式)があった。
名鉄の 名鉄の5500系電車の初期型などは分散式であったようだが、国鉄の103系電車の初期型は後者の集中式であったようだ。
冷房方式の比較・検討のため、異なるメーカーが製作した3種の試作冷房装置が取付けられ、冷房電源用の電動発電機(MG)は別途、編成両端のクハ103形(103系の制御車。画像ここ参照)に210kVA(以下参考の※2:「中部電力|・知ってる?電気のしくみ - ボルト・アンペア・ワット」参照)のものが各1台ずつ取付けられ、それぞれ5両給電としたようだ。 1963年(昭和38年)3月25日先行試作車1編成(低運転台の103型)が落成し、9か月にわたる試運転を繰り返した後、12月28日より営業運転に入り、1968(昭和43)年10月1日10両編成運転を開始 。そして、1970(昭和45)年の今日・7月31日に国電山手線で初の103系冷房車運行が開始されたという訳である。
国鉄の列車冷房は1960年代前半まで、特急列車や優等車両に限って装備されていたが、1966(昭和41)年頃からは急行列車の二等車(普通車)にも搭載対象が広げられたが、山手線は103系通勤電車が最初に投入された路線である。1974(昭和49)年以降に製造された先頭車からは踏切事故対策を踏まえて高運転台となった上に1981年からは自動列車制御装置(ATC)を装備するようになった。
ただ、首都圏における国鉄の通勤路線(国電)における輸送量増強を目指し、1964年(昭和39年)に国鉄の通常常務会で壮大なプロジェクト通勤五方面作戦が策定されたが、この年から国鉄は赤字になるがその原因に、この通勤五方面作戦や新幹線の建設に伴う支出、自動車の普及によるモータリゼーション、都市への人口集中による地方ローカル線の営業不振などがあげられるのが皮肉な問題でもある。
(画像は、1988年まで使用されていた103系有楽町駅にて、Wikipediaより)
参考:
山手線 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%89%8B%E7%B7%9A
鉄道の歴史 (日本) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
しらこばと車輌工場 > READYMADE > 国鉄山手線・103系
http://newtown.cool.ne.jp/models/ready/jnr103_shina-17/
※:1東京近郊路線図
http://japan-city.com/tokyo/map.html
※2:中部電力 |・知ってる?電気のしくみ - ボルト・アンペア・ワット
http://www.chuden.co.jp/manabu/shikumi/bort/index.html